きのう東京高裁が小泉首相の靖国参拝を「私的参拝」とする判断を下し、きょう大阪高裁が「公的参拝」とした上で「違憲」の判断を示した。夕刊に小泉首相の靖国参拝に関するこれまでの判決をまとめたものが出ている。

  裁判所 憲法判断 公的か否か 賠償請求
2004年2月 大阪地裁 公的 棄却
3月 松山地裁 棄却
4月 福岡地裁 違憲 公的 棄却
5月 大阪地裁 公的でない 棄却
11月 千葉地裁 公的 棄却
2005年1月 那覇地裁 棄却
4月 東京地裁 棄却
7月 大阪高裁 棄却
9月 東京高裁 公的でない 棄却
9月 大阪高裁 違憲 公的 棄却

 各地の裁判所の判断はバラバラだというようなコメントが流されているが、必ずしもそうは思わない。よく見れば誰でもすぐに気がつくはずだが「合憲」だとしている判決はひとつもない。一番多い判決は公的だとも指摘だとも判断せず門前払いをしているものだが、それは「公的か私的かを取り上げれば公的」と判断せざるを得ず、「公的とすれば違憲」と断ぜざるを得ないからこそ、裁判官の良心と保身の折り合いをつけるために逃げ回っている印象がある。ようするに「違憲」であるから、黙秘しているだけのことだ。(9/30/2005)

 立花隆の「メディアソシオポリティクス」が小泉首相の進退についての二つの見方を書いている。「首相は再三繰り返しているようにあと一年で辞める」という観測、そして「権力の絶頂で辞める権力者はいない」という観測。

 立花はおとといの朝日の社説「『五月病』でしょうか」から書き始めている。たしかにあのタイトル「五月病」という指摘はじつに秀逸だった。「これを読んで、頭にパッとよみがえったのは、出たばかりの『フライデー』(10月7日号)に出ていた、『結局、《郵政》の後は何もない 小泉独裁者《心身の異変》で任期延長なんてそもそもムリ情報』という記事と、それにそえられた写真である」。駅前の本屋で「フライデー」掲載の件の写真を見た。大勝利の開票中の表情としてはたしかに異常だ。身体的な問題があるかどうかは別にして、「五月病」という指摘の裏付けにはなりそうな写真だった。

 来年すっぱり辞めるという小泉の言葉に立花はどちらかというと懐疑的だ。しかし、この健康不安説以外にも立花はこんな話を聞いているという。「小泉首相は本当のところ、任期を延ばしてまで、どうしてもやりたいと思っていることが何もないはずだ」、「だいたいあの人は、真剣に政策の話をすることがほとんどない人なんです」、「もちろん、郵政民営化だけは別で、それは熱心に語ります。だけど、郵政以外の政策の話を、小泉首相の口から直接に、オレはこれをどうしてもしたいんだという形で聞いた人は誰もいないんじゃないかな」。ソースは霞ケ関の高級官僚の由。

 小泉首相がこれほど強い政権をつくることができたのも、小泉首相がこれまで一貫して、経世会(田中派→竹下派→橋本派)支配の自民党の中にあって、反経世会の政治姿勢を保ち、経世会にすりつぶされそうになりつつ、それに抗しつづけなければ生き抜いていけないという状況が、いつも自分をとりまいていたからだろう。
 小泉政権の5年間は、一言で要約するなら、徹底的な経世会つぶしの5年間だった。いまや経世会は、焼け跡に焼け杭が5、6本といった程度の残骸を残すのみという程度の存在になってしまった。
 そして、経世会勢力が消えたいま、新しく出現した超巨大勢力が小泉党である。
 その超巨大勢力を用いて、小泉首相は何をやろうとしているのか。
 私はたぶん、小泉首相自身にもそれがよくわかっていないだろうと思う。
 小泉首相は、これまで一心不乱にほとんどそれ一筋という感じで追求してきた政治目標(郵政民営化)がいまや事実上実現された状況の中で、「目標の喪失」という、活動的な人間にとってはもっと恐ろしい精神状況に立たされている。
 「目標の喪失」だけでなく、「敵の喪失」というもっとも恐ろしい状況変化にもみまわれている。これまで小泉首相は目の前の強い敵に対峙して、それに対する敵愾心を持つことによって自分の戦闘エネルギーをかきたててきた。「敵の喪失」は、そのような戦闘エネルギーの喪失を意味する。
 このところ、小泉首相にあらわれている五月病症状、虚脱状態とは、このような「目標の喪失」と「敵の喪失」によってもたらされた「脱力症状」「エネルギー喪失状況」と分析することができるだろう。
 小泉首相がこれから、失っていた目標と敵を見つけることができるかどうか、そしてそれをどこに見つけるかで、これからの政局展開はまったくちがったものになるだろう。

 他の分野同様、この国では、政治もいちばん基礎になるシステム・アーキテクチャー・デザイナーが不在なのだ。(9/29/2005)

 この時代の空気を記録しておくことにしよう。朝刊に載った「国際情報誌 SAPIO」の10月12日号の広告から見出しを書き写す。

SIMULATION REPORT 世界「エネルギー・ナショナリズム戦争」に備えよ
石油を飲み干し天然ガスを吸い尽くす「資源パラノイア」中国の暴走を許すな 田坂勝
米ロ中印が激突! ボーダレス資源争奪戦の現場 大薗友和
海賊とテロリスの連携で高まる「一触即発シーレーン」 恵谷治
エネルギー派遣を求める中国には日米同盟で対峙するしかない ジョセフ・ファーガスン
「市況商品」となった石油を「戦略資源」に逆戻りさせないことが日本の国益になる 藤和彦
エコ・ディーゼルと新燃料開発で始まる欧州自動車メーカーの「逆襲」 清水和夫

落合信彦×佐藤優 日本の"ピンボケ外交"を斬る
「憲法改正」を発議する―十七条憲法、五箇条の御誓文、明治憲法の原点に返れ― 櫻井よしこ
「尖閣は日本の領土」決定的歴史文書掴んだ 山本皓一
「軽水炉が先」などといってられない北朝鮮「体制の危機」
小泉圧勝株相場はこう読め 大前研一
参議院は「戦後民主主義の盲腸」に成り果てた 伊沢元彦

 いささかクラクラしそうな見出しで広告はモノクロにもかかわらず、場末のピンク映画館の看板を思い出させる。おおむねジャーナリストという肩書きだが、ジョセフ・ファーガスンは「米ユーラシア東欧研究所副所長」、藤和彦は「内閣参事官」となっている。それぞれの真贋はいずれ知れることだろう。(9/28/2005)

 あの杉村太蔵が「謝罪」の記者会見を開いた。曰く、「国会議員としての自覚がなかった」、曰く、「この週末、本を読みながらじっくりと考えてみた」、曰く、「幼稚で無責任な発言だった」、曰く、「ご迷惑をかけた皆様にお詫びをします」、・・・、いったい、誰に、何を、詫びているんだろう。こちらは、あのキャラを通すことがせめても「罪」ほろぼしだと思っていたのに。

 一問一答になるや、こんな質問が出た「本を何冊くらい読まれたのですが?」、答えはすぐに出なかった、かなり考えてから「一冊です」、思わず洩れた失笑が(一冊かよ)という気持ちだったのか、それとも(一冊ならすぐに答えられるだろう)という気持ちだったのかは分からない。「なんという本ですか」、これに対する答えは早かった、「プライベートのことなのでコメントは差し控えさせていただきます」。(「コメント」?)。この答えでゆく作戦だったなら、太蔵君、一冊と答えたのは失敗だったよ、数冊とでも答えておいてもウソとはばれなかったさ。

 この国で政治家になるのは簡単だ。数時間の「マスコミ対応」レクチャーを受ければ、すぐに悪達者にはなれるのだから。(9/27/2005)

 秋場所は朝青龍の優勝で終った。6場所連続の優勝は66年春場所から67年初場所までの大鵬以来、38年ぶりのこととか。来場所にはいくつかの記録がかかっているのだそうだ。まず、連続7場所優勝、そして、通年優勝、さらには北の湖の持つ年間82勝。

 北の湖も朝青龍も顔で損をしているような気がする。面構えが憎々しげだというのだ。**(家内)は朝青龍の勝ったときの「どうだ」という表情が嫌いだという。闘争心丸出しを嫌うのは相撲ファンの心得なのかもしれぬ。モンゴル育ちの青年には簡単には分からないだろう、可哀想に。もっともこういう神経、最近はネイティブ・ジャパニーズにも分かっていないように思うが。

 ラジオで聴いた川柳、笑えた。「土俵上 日本人は 行司だけ」。

 きょうの天声人語が指摘したデータは貴重かもしれない。書き写しておく。

 まさか。そう思って、2度、3度と検算してみた。やはり正しい。うーむ。考え込んでしまう。先日あった総選挙での300小選挙区の票数のことである▼自民、公明両党の候補者の得票数を合計すると、ざっと3350万票だった。一方の民主、共産、社民、複数の新党や無所属を全部合わせると3450万票を超えている。なんと、100万票も与党より多いではないか▼小泉首相は断言していた。「郵政民営化の是非を問う選挙だ」。そして、法案に反対した自民党議員の選挙区に「刺客」を送った。「民営化反対だけの候補者になったら有権者も困る。賛成の自民、公明どちらかの候補者を出さないと選択できない」という理屈だった▼まるで、小選挙区で民営化への白黒をつける国民投票を仕掛けたように見えた。ならば、この票数では民営化は否決されたことになりはしないか。反論はあろう。無所属の中には民営化賛成もいたとか、比例区の得票数なら与党の方が多いとか

 単一課題を争点にする選挙など国民投票ではないかと思ったが、あれは国民投票ですらなかったということか。

 どうだったのだろう、郵政民営化に関する国民投票であったならば、「民営化」の一語に幻惑されて「イエス」はちゃんと過半数をとれたのだろうか。それとも共産党アレルギーなどのバイアスがとれて逆にさらに「ノー」の数が増えただろうか。それは誰にもわからない。(9/26/2005)

 あさ録画しておいた「時事放談」を見た。本来はきょうオンエア分はきのう収録をする予定で、後藤田と野中が予定されていた由。その後藤田の代役には御厨貴が出て、過去十七回の後藤田出演の対談からその発言を編集、野中と御厨が合間にその想い出を語った。

 「人間、死んでみるものだ」というのはこの手の追悼企画にはありがちな印象だが、後藤田の発言内容はそういう皮肉な見方を吹き飛ばすものだった。三回ほど繰り返してみた。

 後藤田正晴はこの総選挙結果をどのように評していたのか、心からそれを知りたいと思った。(9/25/2005)

 雨音の中で目が覚めた。床の中で耳をすませてみる。さして大きな雨音ではない。けぶる街の姿が目に浮かんだ。どういうわけかそれは下高井戸の風景だった。

 選挙の日、何年ぶりかで下高井戸の駅に降りた。変わっているとも言えたし、変わっていないとも言えた。日大通りの左側にあった交番は五叉路の小学校角に移っていた。投票日ということで校門は開いていて中にはいることができた。こんなに狭い校庭だったろうかと見回した。脳裏にあるのはもっと広い校庭だった。ただ体育館近くのクスノキだけは記憶とほぼ同じく思えた。

 転校していった時、朝礼に並ぶ生徒(正確には児童)の列を見ながら、この中のどの列にはいるのだろうかと胸をドキドキさせながら立っていたのがそのクスノキの下だった。

 校歌にはクスノキが歌われていたはずだ。ところが歌詞が出てこない。小声で歌ってみた。「正しく踏んで行く道は、広い世界に続く道、明るい空を仰ぐ時、富士が見えるよ薄霞、春は桜の咲く上に」、そうだ、滑り台の上からは富士山が見えたんだ。「初夏風は爽やかに、楠の若葉が翻る、互いに強く励みあい、いつも親しく交われば、秋の紅葉も陽に光る」、一番から歌ってやっと二番にクスノキを探しあてた。

 外の雨音は台風のもたらした雨の音ではなく秋霖のもたらした雨の音のようだった。きょうもまた小学校の横を通ることにしようと思いながら、床を離れた。(9/24/2005)

 朝刊一面に巨大な台風の写真。よく見ると重ね合わされているのはアメリカ大陸。ハリケーン「リタ」の写真だった。このハリケーンは5段階評価の「5」。920ヘクトパスカル以下、風速毎秒70メートル以上、これがカテゴリー5の由。

 三面にはこんな記事が載っている。

 ハリケーンは中心気圧や風速などで五つの勢力に分類されるが、米ジョージア工科大のピーター・ウェブスター教授らは16日発行の米科学誌サイエンスで「カテゴリー4〜5の最強レベルに発達する割合は、過去30年間に1.5倍以上に高まった」と報告した。北大西洋で発生するハリケーンが最強レベルに発達する割合は、75〜89年は20%だったのが、90〜04年は25%に上昇。西太平洋の台風は顕著で、この間、最強レベルの割合は25%から41%に高まった。
 米マサチューセッツ工科大のケリー・エマニュエル教授も先月、「過去30年間で、ハリケーンと台風が1年間に放出するパワーは倍増した。今後、ハリケーンなどによる被害が増えるだろう」と英科学誌ネイチャーに発表していた。
 日本では昨年、史上最多の10個の台風が上陸し、集中豪雨も含めて死者と行方不明者は計200人を超えた。今年も今月上旬の台風14号で29人の死者・行方不明者が出るなど、被害が目立っている。
 「強暴化」の大きな要因は海面水温の上昇だ。ウェブスター教授らによると、北大西洋の夏の平均海面水温は過去35年間で約0.5度上昇した。NOAAも先月初め、ハリケーン発生海域の7月末の水温が例年より0.5〜2度ほど高いことなどから、カテゴリー3以上のハリケーンが例年の2〜3倍発生するとして「ハリケーンに弱い地域の住民と政府関係者は、準備が不可欠だ」と警告していた。
 海面水温の上昇が、地球温暖化の影響かどうかについては、見方が分かれている。ウェブスター教授らは「判断するには、さらに長期的な観測が必要だ」と慎重だ。

 学問的な厳密さという点からはウェブスターのコメントは正しい。しかし海水の温暖化に原因があることがたしかである以上、CO2排出に関して慎重にするのが人間の叡智というものだ。因果関係が証明されるまでは規制を加えないのではなく、因果関係がないことが証明されるまではとりあえず規制するというのが、神ならぬ人間がとるべき姿勢であることは自明のことだ。(9/23/2005)

 後藤田の死に似たような感想を抱いた人は多かったようだ。一方の軽さと他方の重さにこれほどのコントラストがあるとコラムニストも楽だったに違いない。「天声人語」、「余録」、「編集手帳」、「春秋」、「筆洗」、「サンケイ抄」、すべてが初登院議員と後藤田正晴をとりあげた。

 きのう、「幼稚園児のような議員」と書いたのは、自民党の比例南関東ブロックで当選した杉村太蔵のこと。偶然眼にした自民党の公募要項に従い小一時間で「応募論文」をものし、面接を受けて名簿記載されたという幸運児。小一時間で書き上げた論文が書類選考を通るくらいに自民党のハードルが低いと言うべきか、小一時間で論文を書ける程度にふだんから彼がものごとをしっかりと見ていたか、これは件の論文がどのようなものか知らぬからなんともいえない。

 当選してから舞い上がった杉村は「給料がいい、住むところもきれい、汽車はただでグリーン、料亭通いが楽しみ、BMW買いました」としゃべりまくった。どこかかつての森田賢作のような声音なのが気になるものの、これくらいにあっけらかんとしているなら、そのキャラで国会レポートでもしてくれれば「まあ、いっか」とこちらも思っていた。ところが武部幹事長から一喝されてからというもの、もう何を訊かれても牡蠣。数日ともたずに期待はシャボン玉の如くに弾けてしまった。

 杉村を念頭に「歳費がこれだけもらえてよかったとか、宿舎が立派でよかったとか、こんな愚かな国会議員がいっぱいいる」と言った森前首相の発言を、天声人語は「批判は自由だ。しかし、その議員を候補に選んだのはどの党かと問いたくもなる」と書いた。まったくその通り。いや、かくも杜撰な人選をする党に「改革」を委ねたのはどこのおバカさんかと問いたくもなるというのがもっと正しい。(9/22/2005)

 後藤田正晴が亡くなった。近親者による密葬をすませてからの公表ということで、亡くなったのはおととい、中内功と同じ日だったことになる。戦後を形作った大正生まれが続々と世を去ってゆく。そんな気がする。

 元号を時代とリンクさせることが妥当か疑問がないわけではないが、明治と昭和にはさまれた大正の15年にある特性を見たくなることも事実。この世代は人生のいちばんいい時期に否も応もなく戦争に駆り出され、それが彼らの残りの人生を「掣肘」してしまった。たまたま半月ほど前に**(息子)の本棚に保阪正康が書いた「後藤田正晴」を見つけて立ち読みをした。そのときは中内と並べて考えたわけではなかったが、後藤田もまた戦争中の体験と見聞がその後の彼の生き方にある枠組みを与えたのだなと思った。「戦争については話したくない。言わないけど、君、そりゃ無茶苦茶なもんだ」という言葉は随所に出てくるから、そういう箇所を引く方がたやすいのだが、ここでは後藤田正晴という人物をよく現わした部分を書き写しておく。

 後藤田は長官時代に周囲が驚きの声をあげるような配慮を行なった。それは私の取材でも誰もが一様に指摘したことであったが、たとえば他県の機動隊を東京に出動させるときは、食糧をどう調達するか、下着を何枚もたせるか、どこに泊めるか、どのようにして休憩を与えるか、そういう細かいことを指示するというのであった。
 細かい計画もなしに、「それ行けっ」というようなこと――こういうやり方を好んだ者もいたようだが――はしなかった。そういう計画は無責任といってむしろ軽蔑した。
 この事実は後藤田がこれほど細かいことに気をくばる長官であった、というエピソードとしてしばしば語られた。だが私は、そういうエピソードを聞きながら、いやそうではあるまいとつぶやいていたのだ。はっきりいえば、後藤田は「人間の営み」ということをもっともよく知っているのだ。食に飢えたり、風呂にもはいれずにいたり、雑魚寝のような生活をすれば、人間の精神状態が日ごろの状態を維持できるわけがない、これでは人間としての感性や知性を低下させるだけだ。
 後藤田のそういう信念は、陸軍の将校として主計を担当した経験からつくられたものともいえるだろう。だが、幼少期からの生活の中で、自分が経済的にいかに恵まれていたかを知ったときから、「恒産がなければ恒心なし」との信念が固まったようだった。加えて、共同体の古老の智恵が若い世代に適切な助言を与えるように、自らの役割もそこに置いていくようになったのだ。
「第4章 治安の総帥としての素顔」から

 保阪の見方に賛成する。賛成するが、後藤田にその配慮を忘れさせなかったのは、やはり、兵站を徹底的に軽視した旧陸軍の残した教訓だったと思う。それはまた中内にも共通していた、彼の場合は「一兵卒」としての反感だったとしても。

 それにしても、ここに見える保守主義の原点はいったいどうなってしまうのかと思う。特別国会がきょう召集された。少なからぬ幼稚園児のような議員が赤絨毯を踏んだ。91歳の老人の死を大げさに悼んでも仕方のないことと思いつつ、この時期だけによけいに惜しい人を失ったと心から思う。(9/21/2005)

 きのう亡くなった中内功は詮ずるところ前戦指揮官までだった。この国は前戦指揮官を活かすはずの人材を育てないか評価しない国だ。見渡してみれば大から小までの組織のトップのほとんどはせいぜいがところ前戦指揮官ばかり。そういえばあの戦争でさえ前戦指揮官ばかりで戦った、いた場所は必ずしも前戦ではなく本営だったとしても。

 7時半からの「クローズアップ現代」は「歴史教科書採択騒動」を取り上げていた。焦点は例の扶桑社「新しい歴史教科書」。そもそも、この「新しい」という語を冠した「教科書」のどこにも「新しさ」はない。だいたいカビの生えたような大東亜共栄圏なる「いいわけ」を看板にし、前戦指揮官が頑張ったにも関わらず力及ばなかった、・・・などという「物語」のどこが新しく、どこが誇らしいというのだ。バカバカしい。こんなものが育てられるのはせいぜいサンケイ新聞風のちんけな現実主義か、オンナコドモのフジテレビ様のトリビアルな雑学で固めた、独りよがり程度のものだ。それが「国民のプライド」と聞いてはヘソが茶を沸かす。

 中川一徳の「メディアの支配者」を電車の中で読んでいて、思わず声を出して嗤った一節がある。

 ところが、今日までのグループ全体の活動経過を検証しようとしても、基礎資料の欠如にまず直面する。
 グループの歴史をたどるとき、その発祥をニッポン放送に求めれば五十年、産経新聞にまで遡れば七十年あまりが経つ。それほどの年輪を重ねたメディアであれば、社史のひとつやふたつは最低あるものだが、このグループに限っては驚くほど貧弱である。
 唯一、存在しているのは、三十年以上も前にフジテレビが開局十周年で編纂した『フジテレビ十年史稿』だけである。「史稿」と控えめなのは、続けて本格的な社史を出すはずが実現しなかったからだ。産経新聞、ニッポン放送をはじめ百社以上に上る子会社群を含めて社史がない。産経にはようやく社史編纂室ができたものの、作業は頓挫している。
 七〇年代以降、強固なメディアグループを志向し世界有数の規模を誇るようになってからも、社史がない状況に変わりはない。あたかも過去を顧みることは、無用であると宣言しているかのような徹底ぶりで、そのこと自体がこのグループの特異性を物語っているのかもしれない。
・・・(中略)・・・
 ところが、日本の歴史認識の再構築といったテーマでは、このグループは一転して雄弁に語りだす。ことに産経新聞は、これまでの歴史教科書を「自虐史観」として否定する「新しい歴史教科書」運動のナショナルセンターのような役割を担ってきたし、グループの出版社である扶桑社が、その歴史教科書を文部省(当時)の反対を押し切って市販したこともあった。
「第4章 梟雄」から

 社史を作らないのはよほど自らの企業としての歩みが恥ずかしいものであるからなのだろう。また縮刷版を出さないのはいつでも好き勝手に「事実」を解釈して作る「物語」を「歴史」と呼ぶためには過去の記録たる「縮刷版」などは都合が悪いからだろう。

 前戦指揮官には何故いまの自分にかくなる命令が下されたかの大所高所の知見は必ずしも必要としない。目前の戦いだけがすべてなのだから。高度成長の後をこの国が切り開けないのは不思議なことではない。このような「歴史教科書」を「新しい」などと思い、あるいは「まともな選択の対象」と考えることができるという精神風土が局地戦が終わった後の茫然自失を招いているのだ。(9/20/2005)

 「敬老の日」でお休み。ハッピーマンデーという発想法に現在のこの国の「性根」が顕われている。

 ダイエーの創業者中内功が亡くなった。脳梗塞、83歳。佐野眞一の「カリスマ」は中内を通して日本の「戦後」、ふつうには高度経済成長に象徴されるこの半世紀を考えさせてくれる好著。その本にこんな風に書いた部分がある。(引用部冒頭の「皮肉な話」というのは阪神大震災におけるダイエーグループの水際だった対応と後手後手を踏んだ国の対応を中内自身の戦争体験を絡めて比較してのこと)

 この事実は考えてみれば、ひどく皮肉な話である。この事実には、国というものが戦後、国民に対して何をしてきたか、戦後という時空間が何をもたらしてきたかについてのにがい皮肉がこめられている。
 中内は地震からまもなく、次のようなことを述べている。
「国には絶望した。なんでこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった」
 中内のその談話を聞いたとき、溜飲がさがる思いだった。
 私が長年あたためてきた中内ダイエー論≠いよいよ書こうと思つたのは、実はこの時だったかもしれない。
 いまにして思えば、阪神大震災下のみごとな救援作戦は、中内ダイエーがみせた最後の光芒だった。私はこのとき、往時の中内ダイエーの復活をみる思いさえした。
・・・(中略)・・・
 七千人以上の死者を出した阪神大震災は、流通業界にも大きな打撃を与えた。
 流通業界のなかで、店舗の被害状況を最も早くつかんだのは、通信衛星による専用回線をもつジャスコだった。だが、最も鮮やかな対応をみせたのは、ジャスコではなく、神戸を創業の地とするダイエーだった。
 各地のスーパーと提携する合従連衡型経営で業績を伸ばしてきた岡田卓也のジャスコに対し、ダイエーは中内功の強烈なカリスマ性とリーダーシップで規模拡大を図ってきた。その二人の個性の差が、今回の対応の差にも表れた。
 ダイエーは阪神大震災からまもなく、膨大な負債を理由に、パートタイマー全員の退職勧告を要請したことが判明し、中内はいまだ個人商店経営の域を脱していないと、一部から強い批判を浴びた。だが、総帥の中内自ら頻繁に現地入りして救援活動の陣頭指揮をとったことは、それ以上にカリスマ中内の健在ぶりを周囲に印象づけた。
「第17章 裸のラストエンペラー」から

 これは中内功という矛盾した性格を持つ、分裂的でなにより「強烈な」人物のすべてをよく現わした部分だと思う。中内功は強いられた現実とその状況を看取し、これに力を込めて反撃することには素晴らしい能力を発揮したが、彼の視野はその現実を強いている背後にまでは及ばなかった。

 佐野がインタビューしたマラソンの中山の言葉を書いておく。「しかし、大きな会社をつくったというだけで人生を終わるというのは、考えてみれば寂しいもんですね」。

 もうひとつのニュース。13日から再開された六ヵ国協議で共同声明が採択された由。(9/19/2005)

 「サンデーモーニング」で金子勝が今度の選挙を「バブル選挙」だと言っていた。あたっていると思う。熱病に浮かされたようにたったひとつの方向に何の不審も抱かずに爆走し、何も生まないどころか巨大なブラックホールにそれまで営々と積み上げてきた貴重な財産を投げ棄ててしまったという点で、あの「バブル経済」にじつによく似ている。金子は時をおかずしてバブルは弾けると考えているようだが、この「バブル」が始まったばかりだと考えるとどうなるだろうか。

 これだけの大勝利を前にすると人間はふたつのタイプに別れる。「もう一度同じ手法を用いれば、また勝てる」と考えるタイプと、「たまたまうまくいっただけ、同じことを続けても勝てない」と考えるタイプだ。我々が知っている犯罪者はすべて前者だ。同じ手口を繰り返して何度目かには捕まってしまう。後者のように考える犯罪者はいないと我々は考えている。だが「二番煎じはダメ」と考える犯罪者は捕まることがないためにその存在が知られていないだけのことかもしれない。(そういえば三億円事件というのがあったなぁ、あの「彼」はいまいずこ)

 バブル経済の時はどうだったか。前者のようにふるまった人たちは借金をしてまで土地と株に入れ込んだ。評論家の中には「NTT株は大化けする」とか、「投機をやらない輩は世捨て人だ」とかいう者まで現われた。煽られて利益は天井知らずにあがるから借金など何ほどのものでもないと考えた者もいた。まさに「オンリー・イエスタデー」の話だ。

 自民党、あるいはコイズミはどちらのタイプだろうか。前者だとする。そのとき「郵政改革」に代わる新しい「改革」テーマは何にするのだろうか。「特定郵便局長会」に代わる圧力団体と標的抵抗勢力たる族議員は誰にするのだろうか。「民営化」に相当するお呪いは何にするのだろうか。「財界」や「医師会」などをターゲットにできない自民党は次の改革・粛清対象・ワンフレーズ・お呪いを何にするのだろうか。新しく眼を奪うような趣向が必要になろう。

 一方、民主党も同じ轍は踏まないとばかりにコイズミ・ポピュリズムを模倣し、その洗練をはかろうとするだろう。「ポピュリズムにのらない政治家は世捨て人」に見えてしまうのだから。

 民主党といえば、きのう民主党の落選議員が覚醒剤を使っていたとして逮捕された。コイズミが今回用いた手法は覚醒剤に似ている。はじめて使うときには感覚がとぎすまされ効果は抜群とのことだが、やがて服用量を増やさなくてはならなくなり、最後には使用する者の人格を崩壊させるという点で。(9/18/2005)

 総選挙に惨敗した民主党、岡田代表が辞任した後任を前原誠司がやることになった。菅直人と選挙で争い2票差でこれを制しての代表就任。久しく由緒正しい宰相をいただかぬ状態が続いているから京大卒というのは悪くないという気もするが松下政経塾出身というのが難点。松下政経塾の世評は高いのだろうが、ここの出の政治屋さんで「ほお」と思う人物を知らない。名経営者と呼ばれた人が政治に乗り出す時の「燃焼性の悪さ」により発生するススのようなものがそのまま塾生の顔に張り付いている。

 この前原という男、安全保障と防衛問題についてはなかなかの論客とか。どこで読んだか忘れたが自民党の石破茂は前原をもっとも手強い論敵と評した由。石破あたりに評価されるということは、ひょっとすると机上の防衛論議が鋭いだけの軍事オタク系の「専門家」なのか。

 若い、43歳。なかなかハンサムだ。ただどこか蒸留水のような感じがぬぐえない。もっともこれはオレを含めて「戦争を知らない世代」共通の「人殺し」をしたことがない男の顔だから仕方がない。そういう現実感のなさに対する「畏れ」を持つか持たぬか、そういう自分に「コンプレックス」を抱いているかいないか、それが問題なのだが、この世代に「根拠なき自信」を持っている者が多いことは日々会社で経験する通り。(9/17/2005)

 きのうの在外投票権訴訟に対する最高裁判決について。判決は、@98年改正前の公選法が在外邦人の投票権を認めていなかったことは違憲、A改正後も比例区だけの投票を認め、選挙区選挙の投票を認めていないことは違憲、B立法府の不作為による投票不能に対して国は賠償責任があるというもの。

 当然の判決。大法廷は内閣法制局で立法に関わった津野修を除く14人で審理、少数意見は上田豊三、横尾和子が在外邦人に公平性を確保できるかどうかは国会の裁量権の範囲として合憲、泉徳治が賠償責任なしと述べた由。

 最高裁が単純に法体系の論理的整合性だけをチェックするのでは職務怠慢だろう。たしかに国家賠償責任の有無を判ずるとなると見解は分かれるかもしれないが、行政技術的にできない理由を列挙して現状を追認するのでは「憲法の番人」としての役割を最初から投げ出したのと同じ。このインターネット時代におけるインフラ状況などにまったく想像力を欠いているとなれば陋巷の乞丐にも劣る。

 上田と横尾は最高裁判事として放置しがたい無能力者、いや、比例区投票は集められるが、選挙区投票は集められないなどというのはそもそも論理的に破綻していることを考え合わせれば、この両名は無能というよりは怠慢な立法の悪意ある共犯者ですらある。(9/15/2005)

 「そら、見たことか」、「エッ、なんで」。昨夜のニュースを聞くか、けさの新聞を読むかして、どちらの声を上げた者が多かったか? いや、もともとニュースに関心を払うほどならば、「あーあ、だから言わんこっちゃない」と呟いたに相違ない。選挙が終るやいなや「減税措置撤廃」の話だ。朝刊から引く。

 所得税・住民税の定率減税が、07年にも全廃される可能性が強まった。99年に景気対策で導入され06年からの減税額半減は決まっていたが、谷垣財務相は13日の記者会見で「(定率減税は)異例の措置で、整理する必要がある」と述べ、今年末に決める06年度税制改正での全廃に意欲を示した。
    ・・・(中略)・・・
 自民党幹部は13日、「『サラリーマン増税』と定率減税の廃止とは全く別物。一時的な減税を元に戻すことは増税とは言わない」と述べ、定率減税を全廃しても政権公約には反しないとの考え方を強調した。

 郵政民営化に関しては単に実施時期の見直しをするていどのことしか語られないのに、早々と税制見直しの話が聞こえてくる。セットで語られるべき行財政改革の話はない。郵政民営化以外のことについては白紙委任されたのだから楽なものだ。政府与党はいざとなれば「この紋所が目に入らぬか」と「民意印籠」をかざせば、たいがいのことは蹴散らせる。「そんなつもりじゃなかった」などと選挙民が泣き言を言ったなら「そうはイカンザキ」と言えばそれでよい。本当に嗤える国になったことだよ。(9/14/2005)

 中曽根弘文が郵政民営化法案が再び特別国会に上程されれば賛成すると述べた由。選挙前には鴻池某なる議員が青木幹雄に「選挙で与党が過半数をとった場合には賛成に回る」と宣言して「機敏」なところをみせていた。鴻池某はいかに自分が目端の利く人間かをアピールしているつもりなのだろう。自分が人間のクズであることを見せていると気付かないところが嗤える。

 さて、中曽根の陳弁。「総選挙で明らかになった国民の意思を重く受け止め尊重したい」。なるほど「国民に問う」として実施された選挙においてあれほどの「圧勝」を見せられれば、「重く受け止め尊重」したくもなろう。しかし国民に振り回されるのが政治家というわけではあるまい。まして中曽根は参議院議員ではないか。

 参議院議員の選挙を「総」選挙とは呼ばない。一回の選挙で議員総員が選ばれないからだ。憲法が総理の解散権の対象とせず任期6年を保証し3年ごとに半数ずつの改選と定めていることの意味は、熱病に浮かされた付和雷同形の選挙が行われてもこれをチェックしバランスする機能を期待してのことだ。最近はドッグイヤーなどと称して何事も早くしなければならぬという強迫観念に囚われた精神病者がことのほか増えているが、世の中、すべてが早くしなければならないことばかりではない。拙速こそ忌避しなければならない、そういうことがらもある。ついでに書けば、人間には人間の一年が必要で、無理に犬の一年にあわせるならば、その知恵も顔つきも犬並みになるだろう。小泉自民に知性を感じさせぬ犬面が多いのは故ないことではない。

 中曽根よ、先月の参議院本会議採決において、もし然るべき反対理由があって反対票を投じたのならば、その元が取り除かれない限り反対を貫くことが、参議院議員たる者の貫くべき態度ではないのか。それとも親譲りの風見鶏根性が胸の内でむくむくと頭をもたげてきたのか、呵々。(9/13/2005)

 第44回総選挙の結果、下表の如く。投票率は67.5%。

  解散時 小選挙区 比例区
小計 小計 復活
自民 249 296 174 9 36 219 23 7 47 77 48
民主 175 113 50 0 2 52 46 4 11 61 59
公明 34 31 8 0 0 8 21 0 2 23 0
共産 9 9 0 0 0 0 8 0 0 9 4
社民 6 7 1 0 0 1 1 5 0 6 4
国民新党 - 4 2 0 0 2 1 0 1 2 1
新党日本 - 1 0 0 0 0 1 0 0 1 1
自由連合 1 - - - - - - - - - -
諸派 0 1 0 0 0 0 0 1 0 1 -
無所属 3 18 14 3 1 18 - - - - -
477 480 249 12 39 300 101 17 62 180 117

 まさに記録的な自民党圧勝。圧勝も圧勝、比例ブロックの東京では重複立候補者が小選挙区で当選し、どんどん比例名簿下位の者まで当選したためについに名簿登録者を使い尽くし余った「当選権」が譲られるという「喜劇」まで起きた。これでなんとも言いがたい議席をもらったのは社民党の保坂展人。

 夕刊には自民圧勝の「記録」として、「議席占有率:61.7%:戦後二番目」、「小選挙区獲得議席:219:新記録」、「比例区獲得票:2589万票:新記録」、「政令指定都市での自民対民主:37対12:前回16対33」などがあげられている。

 世の中の平均的レベルはカラス以下だったということか。せめて記憶力だけは人間並みに持って、次の選挙までには「二者択一の分かりやすさだけを主張する奴は下心を隠したウソつきだ」という知恵くらいは獲得して欲しいものだが望むべくもなかろう、我々は日比谷騒擾事件の裔だ。仕方がない、テロリストも隣人、二択という柵で囲われるとその外も見えぬめしいも隣人。共に同じ天を戴き、同じ空気を吸うより他はないコンテンポレイツなのだから。(9/12/2005)

 **さんからのメールでこのあいだの月曜、5日が日比谷騒擾事件からちょうど百年の記念日と教わっていた。「失敗は成功のもと」というが「成功は失敗のもと」でもある。日露戦争の成功は十五年戦争の失敗のもとだった。そして日比谷騒擾事件は日本の支配者のトラウマとなって陰からこの国の「失敗」を演出した。いわゆる「司馬史観」なるものは評価しないが、司馬遼太郎が「この国のかたち」に書いた「調子狂いはここに始まった」という部分には同意する。

 この国の国民のバカさ加減は百年経ってもいささかも変わらないようだ。いや、百年前の彼らは、国がどのていど際どい状況にあるかということについてなにも知り得なかったし、洞察するための基礎的情報すら十分ではなかったのだから、まだしもという気がする。しかし、いまはちょっとその気になれば、かなりのことを茶の間にいて知ることができる。百年前の国民がおかれていた状況とは雲泥の差がある。そう考えると、このバカさ加減には絶句せざるを得ない。

 今回自民党か公明党に投票した連中よ、見届けろよ。民営化されたが故に、すべての「郵政事業」からは赤字の二文字は確実になくなり、郵便貯金と簡易保険の預かり金は間違いなく保全され、旧国鉄から道路公団、本四架橋公団、中小企業金融公庫などなどへの貸付金が耳をそろえて返還されるのを。もし「独立行政法人郵便貯金・簡易生命保健管理機構」がわけの分からないごまかし説明で損金を計上したら、今回与党に投票した奴は自分の郵便貯金を放棄しろ。詐欺師を支持したお前たちのバカさ加減につきあわされた人々の貯金をお前たちが償え。

 一部の評論家と新聞社説子はコイズミをこれぞ新時代の理念政治手法といい利権政治に終焉をもたらすものと手放しの評価をした。たしかに利権政治が消えてなくなったか、お前たちにはそれを検証し、証明し、報告する義務がある。もし利権政治がこの後もまだ隠然と根を張っていたら、そのときはお前たちは死んで詫びろ。売文屋には売文屋の道義と矜恃があるはずだ。命をかけて償え。死ねないのなら、二度と語るな、ペンを持つな。

 単純極まる権力者の扇動に、これほどたやすく、これほど多くの人々が、じつにあっさりと、のってしまった。このことはなにを意味しているか。時代は新しい形のファシズムへハンドルを切ったということだ。外は雨が降っている。日本の911は2005年におとずれた、そう記録しておく。(9/11/2005)

 先週、持ってこようと思いながら忘れたものがいくつかあるとかで、**(母)さんの外出許可をもらって新座へ。いろいろ捜し物をしている間の退屈しのぎにリスニングの書棚を眺めていた。何冊かは既に持ってきているからすきまの多い本棚。ランジュバンの「科学教育論」を見つけた。教員免許を取るために受けた補講のテキストだったか、あるいはレポートを書くために買った本だ。

 ランジュバン関数やランジュバン振動子などの用語は耳にしていても、その人について関心のなかった理工学徒が、その頃、彼の教育論と生涯に鮮烈な印象を受けたことを思い出した。懐かしさにパラパラとページをめくった。いろいろなところに傍線が引いてあるのだが、傍線はなく◎をつけてカギ括弧で括った箇所に行き当たった。

 人類進化の一歩ごとに、獲得された成果の価値を誇大に考え、ついに《世界の鍵》を握ったと信ずる傾向がくりかえし見出されます。
 人間はいくらかの成果を獲得するとすぐに、無理もないことながら、「物質」を支配するために、既知の事柄を一般化し、これを「科学」のあらゆる領域に適用しようと試みました。このようにして、人間はつぎつぎに一連の神秘説をつくりあげたのです。
 こうして、人類の草創期に、相互の意志伝達のために、言葉または芸術による表現が力をもっていることを確認したとき、そして、言葉や記号や形象によって同類の心に働きかけることができたとき、人間はこれを一般化することができると思いました。すなわち、〔言語と〕類似した手段によって、あらゆる存在や事象に威力を及ぼしうると思ったのであります。これが言葉や形象によって、呪文や呪阻によっておこなわれる「魔術」の起源であります。

「科学史の教育的価値」から

 太古の「火の活用」から最近の「IT」まで、人類は繰り返し繰り返し「これが万能」と思い続けてきたわけだ。

 そう、まさにこのいま、一歩外に出れば、「民営化」という「呪文」ですべてこの世はうまくゆくと叫ぶ者がおり、信じられないほど多くの人がそれに賛同しようとしている。独り嗤いながら数十年前のその本を書棚に戻した。(9/10/2005)

 民主党が2日付日経朝刊に「今後10年間100%政府出資の会社であり新たな国有株式会社を作り出すことになる」と広告したことに対し、自民党がけさの朝刊に「民主党広告の虚偽に抗議します」との反論広告を出した。自民党はその広告で「郵便貯金銀行と郵便保険会社の株式は10年内に段階的に全部処分することが義務づけられている」と主張した由。これに対する民主党の再反論は「株式の売却は『努力義務』的な規定しかない」。

 関係条文を探してみた。郵政民営化法案にはこのように書いてある。

第七条 政府が保有する日本郵政株式会社の株式がその発行済株式の総数に占める割合は、できる限り早期に減ずるものとする。ただし、その割合は、常時、三分の一を超えているものとする。

2 日本郵政株式会社が保有する郵便貯金銀行及び郵便保険会社の株式は、移行期間(平成十九年四月一日から平成二十九年三月三十一日までの期間をいう。以下同じ。)中に、その全部を処分するものとする。

 民主党が言っているのは「日本郵政株式会社」のこと(第7条1項)であり、自民党は「郵便貯金銀行」と「郵便保険会社」のこと(同条2項)のことだ。当該の広告そのものを見ていないので分からないが、もし民主党が主語を明示しないで書いたとすると悪質な宣伝という自民党の主張は正しい。

 では自民党が100%フェアかというとそうではない。郵政株式会社が保有する会社は自民党が主張する郵便貯金銀行と郵便保険会社だけではない。「郵便事業株式会社」と「郵便局株式会社」がある。この2社の株の扱いはどうなっているか。それは日本郵便株式会社法案に書かれている。

第五条 会社は、常時、郵便事業株式会社及び郵便局株式会社の発行済株式の総数を保有していなければならない。

 自民党もまた伝えるべきことの中で都合が悪いことは伝えないという点では悪質であることに変わりはない。なにより、「赤字を税金に跳ね返らせないための改革」のように言いながら、そのじつ赤字を生む可能性の高い会社の「国営化」を維持することを隠しているのだから、その罪は重いといわざるを得ない。ここまでに書いたくらいのことは誰でもちょっと調べれば分かるはずのことだが、どれくらいの国民が知っていることだろうか。(9/9/2005)

注) なぜ、「政府が保有する日本郵政株式会社の株式が・・・(略)・・・常時、三分の一を超えているものとする」としてあるかについては、ホリエモン−ニッポン放送騒動の時に、参考資料とした、これ、を読むと分かります。

 武蔵野線のトンネル、窓ガラスに映る自分の渋面と視線があった。そのむかし**部長の気難しげな表情を見て秘かに笑っていたものだった。「部長、あなた、眉根をよせるほど、いろいろ考えて仕事してないじゃないですか」と。なんのことはない、いま、目の前の自分の表情はまさにそれ。と、急にもうひとつのことに思い当たってハッとした。**部長の香水のことだ。「男のくせに香水」とまでは思わなかったが、なんとなく軟弱な感じというか違和感があった。しかしあれは加齢臭を隠すための身だしなみだったのかもしれない。「その国の魂がその国の臭気なり」という秋成の言葉を知ってから、「己が体臭に鈍感なのが人間というもの」とさんざん書きながら、自分の老人臭には気を遣わずにきたわけだ。(9/8/2005)

 郵政改革が軽微な問題だとは思わない。もし包み隠さずに現実をさらけ出すなら、おそらく暗澹たる気持ちにとらわれる惨状が見えてきそうなことは十分に想像される。日経メールにこんな記事があった。「2004年度決算で、国民生活金融公庫は5期連続の債務超過であり、中小企業金融公庫や住宅金融公庫もそれぞれ約3000億円、同4300億円の最終赤字。政府系9金融機関の不良債権残高は同年度で計8兆円、中小企業金融公庫の不良債権比率は14%に達している」。郵貯のカネは道路公団、本四架橋公団、旧国鉄、債務超過で焦げ付きそうなところにはすべて入っている。

 自民党議員の中には「国鉄も民営化してよくなった」などと得意げにしゃべる者がいるが、清算事業団の醜態(25.5兆円の借金を引き継いでおきながら27.6兆円に借金を膨らませて日本鉄道建設公団に引き渡した。なおこの鉄建公団はいまは「独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構」という名に変わっている。きのう書いた「独立行政法人郵便貯金・簡易生命保健管理機構」という組織とじつによく似た名前で嗤える)を知らないバカ者か、忘れたふりをしている詐欺師なのだ。借金のほとんどを「清算事業団」に任せ、不採算路線を片っ端から切り棄てて、「健全経営」、できてあたりまえの話だろう。

 たしかに「怖くてとてもお話しできない」ということは分からないでもない。しかし、このような懸念のある台所事情をすべてオープンにした上で、どのように処理するかを論議し的確な手を打つのでなければ「郵政改革」は「改革」にはならない。そういう意味では民主党の岡田の「こんな郵政民営化案など改革の名に値しない」という言葉はまったく正しい。日経メールはこんな風に書いていた。

 この限りにおいては、「自民も民主党も同様で、目指す方向は同じ」(内藤啓介みずほ総合研究所主任研究員)。決定的に違うのは、自民は最初から民営化を打ち出し、民主はなお公社の維持を前提としたうえでの縮小を唱えている点だ。
 だが、それにしても内閣支持率は急上昇し、総選挙序盤は、自民有利に見える展開、と差は大きい。確かに参議院で法案否決後すぐに解散・総選挙に打って出た小泉首相の「蛮勇」が、桟敷席の国民をうならせた、という面はある。元が非効率なカネの流れを民営化で正す、というものだから訴えたとも言える。
 しかし、民営化はイコール「効率化」「善」という日本人好みのイメージをいち早く自分のモノにし、年金改革を強く訴えようとした民主に「改革力」で差があると見せた――。そうはいえないか。

 民主党も「怖くて考えたくない」というところは同じ。しかし、これに取り組むことこそが「郵政改革」であって、「民営化」の呪文を唱えたら万事うまくゆくというコイズミの話は妄説、妄言、虚偽、偽り以外の何物でもない。それに騙されて一票を入れる被害者がどれほどいるか、今度の日曜日が楽しみだ。(9/7/2005)

 郵政改革によって新しく作られる会社に「郵便貯金銀行」と「郵便保険会社」がある以上、これまでの郵便貯金と簡易保険はそれぞれこの会社に引き継がれるものと誰しも思う。しかしそうではない。これまでの郵便貯金と簡易保険は「独立行政法人郵便貯金・簡易生命保健管理機構」なる組織に引き渡されることになっている。そのうえでこの「機構」から郵便貯金銀行や郵便保険会社にあらためて運用が委託されるということになっている。あれほどコイズミが「ミン」「ミン」とセミのように泣き続けておきながら、この「機構」の職員は「官」らしい。「らしい」などと書くのは要綱に「役員及び職員は、刑法その他の罰則の適用については、法令により公務に従事する職員とみなすものとする」というなにが言いたいのかよく分からない表現が出てくるからだ。

 おそらくこれは身分保障を念頭に作られた条文ではないのだろう。「刑法その他の罰則の適用」と書いているのは公務員の守秘義務を機構職員にも準用することが目的ではないのか。現在の郵便貯金と簡易保険の資金運用状況が「本当のことなど、とても怖くて明らかにできない」状況にあることは容易に推測される。郵便貯金資産や簡易保険資産をストレートに民営会社に継承させるならば、その状況がそのまま見えてしまう。それを隠すのがなんのために設けられる組織かよく分からない「独立行政法人郵便貯金・簡易生命保健管理機構」であり、そういう組織であるからこそわざわざ「刑法その他の罰則の適用については法令により公務に従事する職員とみなす」などと書いてある(具体的には第12条)のだろう。

 コイズミが威勢よく言っていることはドブ川に浮かぶうたかたに過ぎない。うたかたはドブの発酵によって生ずるものだが、どれくらい腐っているかについて、いったいどれほどの人が意識していることだろうか。コイズミの郵政改革はこれまでのフリフリ改革から一歩も踏み出していない。(9/6/2005)

 ひとくちに郵政民営化法案と呼んでいるものは

  1. 郵政民営化法
  2. 日本郵政株式会社法
  3. 郵便事業株式会社法
  4. 郵便局株式会社法
  5. 独立行政法人郵便貯金・簡易生命保健管理機構法
  6. 郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律

からなっている。官邸ホームページに掲載されているそれぞれの法案の「要綱」を読んでみた。

 読む前に気がつくのは「郵便貯金銀行」と「郵便保険会社」については「郵政民営化法」に規定されているだけで他の事業会社のように名前を冠した法案がないということ。いずれ持ち株会社である「日本郵政株式会社」の支配下から出て「普通の」銀行、生保になるのだから格別の独立法案など必要としないということか。このことは逆に郵便事業会社と窓口事業会社(郵便局株式会社というらしい)が普通の意味の「民間会社」ではないことを意味している。

 要綱を読む限り、このふたつの会社はかなり「特殊な」会社だ。結論から書けば、郵便事業会社はその赤字を埋めてもらうために「社会貢献資金」を持ち株会社からもらうことになっているし、窓口事業会社は同様に「地域貢献資金」をもらうことになっている。最初から赤字は当然と考えられているらしい。持ち株会社である日本郵政株式会社はこれらの赤字補填資金を得るために1兆円(これは衆議院決議に際して2兆円に修正された)の「社会・地域貢献基金」を積み立てるとしている。要綱はこの積立金がどこから来るのかについて明記していない。素直に想像するならば、持ち株会社である以上、配下の四社の株式配当ということになるはずだが、そのうち二社は赤字補填を必要とするくらいだから無配だろう。とすると、残り二社、新しく作られる「郵貯銀行」と「郵保会社」が上納する株式配当以外はない。なんのことはない、現在の郵政公社が行っていることをちょっとばかりスマートにしてみせただけのことで「丼勘定」という本質は放置されたままだ。觚不觚、觚哉、觚哉。

 もっと嗤える話についてはあした書く。(9/5/2005)

 よる9時からのNHK「衆院選特集」を見た。光っていたのは新党日本の荒井広幸だった。期待通りのペケぶりを再確認させてくれたのは安倍晋三で、公明党の冬柴に至ってはハマコー並みの政治ゴロに過ぎないことを露呈してしまった。

 もし荒井と安倍を一対一で対決させたら、安倍は途中でベソをかいて逃げ出しただろう。安倍は社民党や共産党を相手にすることはできる。理屈で追いつめられてしまっても、「バカだなぁ」という表情をすることで貧弱な主張をいかにもそれなりのもののように見せかければしのげると思っているし、実際、視聴者もその演技に引っかかるだろう。しかし相手が元自民党員ということになるとその手は使えない。反論できない頭の悪さはそのまま満天下にさらされてしまう。その意味では非常に残念だった。

 ひと言で評すれば、安倍はこう答えるという言葉しか持っていないのに対し、荒井はこう考えるという言葉を持っているということになる。少なくとも郵政に関しては、安倍は「こう聞かれたら、こう答える」というレクチャーを受けてきただけという印象なのに対し、荒井は「こういう考え方だ、その根拠はこれで、その反証はこれだ」と話すことができる。

 それにしても、自民党は、何故、幹事長代理などを出したのだろう。そうか、幹事長代理はパープリンだが、幹事長はもっとバカだからとても出せないということだったのか。(9/4/2005)

 外出許可をもらって**(母)さんを新座の家に連れ帰った。張り替えた襖と障子やら清掃委託した居間と仏間の状態を確認してもらう。**(父)さんの位牌と繰出し位牌を仏壇に戻して、写真をその上の長押に立てかけ、三人でお参り。**(家内)と入れ替えに**(息子)が来て他愛もない話で時間を過ごす。結局、4時間くらいの滞在時間で病院に戻った。

 ハリケーン「カトリーナ」の惨禍が明らかにしたのは世界第二位の貧困率を「誇る」アメリカ合衆国という国の実像だった。週末のいくつかの週間ニュースではいくつもの象徴的な映像が流されていた。

 まず「逃げ遅れた」被災民の映像。圧倒的に「カラード」。彼らの多くは逃げ遅れたのでなく、避難するための車とカネがなかったという話。ならば「避難命令」を出すに際して何故その手段を提供しなかったのか。きっと彼の国でも秘かに語られているのだろう、「自己責任だ」とか、「避難するためのカネがないような貧乏人はこの際死んでくれた方が社会的負担が少なくなってグッド!!」というような2チャネラー的な言葉が。

 そして空っぽになった街での略奪の映像。貧困率というのは国民の平均年収の半分に及ばない者の比率をいう。ということは貧困率は常に社会に対して不公平感を抱いている人々がどれくらいいるかを表わしている数字。そういう不公平を一気に解消できるいちばんお手軽な方法は「犯罪」だ。つまり貧困率の高い社会というのは本質的に犯罪誘発型社会なのだ。充満している犯罪への欲望は通常は警察力におさえられているが、街がカラになればお手軽な「犯罪」に走ることは当然のこと。アメリカの社会の醜さは、隙あらば犯罪を犯そうという手合いの存在より、所得格差を当然のものとして放置すべきだと主張する富裕層のミーイズムにあるという方がよい。

 それらの中で一番嗤わせたのがエイプ・ブッシュの映像だった。ニューオーリンズを視察するため訪れながら、被災民からの批判の言葉が怖かったせいだろう、市街地に向うこともせず空港のまわりを散歩しただけで逃げ帰ろうとした弱虫大統領に向けて記者団から「イラク戦費のために十分なことができないということか?」という辛辣な質問が飛んだ。サポートをする副官もいつぞや利用した無線機もない状態ではサル男には気の利いた答えなどできるはずもなく、彼は「アイ、・・・、アイ、・・・、I、not、think、so」と失語症患者のように答えた。合衆国民には心から同情した。もっともそのサル男を大統領に選んだのは他ならぬ彼らの中の多数者だったのだから、自業自得といえば自業自得だったのだが。

 もっとも似たような事情はこの国にもこれから起きる。半数以上を占める「カラス国民」がサル男の手下になっている忠犬ジュンイチローとその一派を信任しようとしている。いずれ世界のどこかの国の人々に同情されるようになるのかと思うといささか憂鬱な気分に囚われるが仕方がない。これが衆愚政治形態に堕した民主主義というものだ。(9/3/2005)

 品質管理学会シンポジウム。会場は早稲田の理工キャンパス。

 テーマは「企業の社会的責任を考える」。ちっとも新しくないテーマながら、「ネガティブ指向とポジティブ指向、両面のとらえ方が必要」で、「取締対象項目だけを考えるところから自主的取り組みの構築への流れの中でどのように自己定義をするかという発想へ」というあたりに新味を感じた。つまり、業種、業態ごとに自社の社会的責任項目を構想、構築することが重要ということ。

 生協で昼食。シュレジンガーの写真入り業績紹介がメニュー立てに入れられテーブルにおいてあった。再下段に波動方程式。そうだ、かつてはこんなものと毎日おつきあいしていた日々があったのだ。もう逆行列を求めることさえできるかどうか。「・・・思えば遠くへ来たもんだ、あの頃恋しく思い出す、思えば遠くへ来たもんだ、この先どこまでゆくのやら・・・」。

 いったい、いつ、こんな生き方を選択してしまったのか。「思い出してる、夢見るように、人生が二度あれば、人生が二度あれば・・・」、しかし、若い頃のことを話しあえる相手はいない。(9/2/2005)

 ちょうど一週間ほど前の朝刊にこんな記事が載っていた。

見出し:「ベネズエラ大統領 暗殺を」米の宗教右派指導者が発言
ブッシュ政権を支える宗教右派(福音派)の指導者パット・ロバートソン師が、反米的な言動で知られるベネズエラのチャベス大統領の暗殺を主張し、波紋が広がっている。
同師は22日、自分の持つ宗教テレビ番組でチャベス氏について「共産主義とイスラム過激主義の発射台になろうとしている」と述べ、「我々は彼を取り除く能力を持っている。その能力を行使する時が来たと思う」と述べた。

 宗教者が他国の元首殺しを指嗾する。思い上がった宗教指導者ほど、度し難く神から遠い存在もないものだと思いつつ、「神の沈黙」をなじりたくなった。

 さすがにエホバもこの「驕慢」には罰を与えねばならぬと思し召したのかもしれない。そう思わせるほどに狂暴なハリケーン「カトリーナ」がミシシッピ州、ルイジアナ州を襲った

 まだ確実なことはほとんど分かっていないらしいが、死者は数千人を上回るのではないかと言われている。出動したアメリカ軍は未だにまともな救援活動ができていない。アメリカ軍は無辜の他国民を殺すことにかけてはすばらしく有能だが、自国民を救助することとなるとまるきり無能らしい。まあこのあたりの能力的バランスは指揮官に依存する。アメリカ軍の最高指揮官がサル面の男であるうちは期待などできるわけはない。(9/1/2005)

 和歌山一区に民主党候補として立候補した岸本周平が経歴紹介の中に「内閣府参与就任」とともに「竹中郵政民営化担当相のブレーンに」と記していることに対し「岸本氏は竹中の相談相手として専門的助言を与えるブレーンだった事実はない」と記載の削除を求めているという。ともに政府案をまとめる仕事をしながら「ブレーン」だったかどうかを争うのは滑稽を通り越して異常な気がする。

 月曜日、夜のニュースでインタビューを受けた岸本は民主党から立候補した理由を問われて、「郵政民営化が妥協に妥協を重ねてこれほどに変なものにならなければ、わたしは与党のフレームワークの中に留まった」と話していた。その説明が自分の政治的野心を隠すための方便なのかどうかは分からない。しかしこの主張はある論理的な可能性に伴う疑問を抱かせる。

 ひとつは、なぜコイズミはオリジナルの郵政法案を「妥協に妥協を重ねて変なものにする」まで、拱手傍観していたのかということ。これほど強引な手法を用いる覚悟があったのなら、いくらでも先に手を打つことはできたわけだ。衆議院で否決してもらえば、参議院で否決されて衆議院を解散するなどという論理的整合性のない手法をとるまでもなく、正々堂々、解散に訴えることができたはずではないか。

 もうひとつは、きのうのコイズミの回答。昨夜のNHKで与党が総選挙に勝利した場合の対応を問われた首相は「修正は若干。時期的に2、3カ月遅れてますから。07年4月という時期はどうかな」と述べ、日本郵政公社を民営会社に移行させる時期が当初案より遅れる可能性があると答え、その上で「中身は基本的に修正する必要はない」と強調していた。

 竹中のブレーンであったかどうかはどうでもいい。だが岸本の言う「もともとの郵政改革法案は立派なものだったが、衆議院を通すために妥協に妥協を重ね、我慢のならないものになってしまった」というのが事実だとすれば、コイズミよ、選挙に勝利したらと問われて、なぜオリジナルの「立派な改革法案」を上程すると言わないのか。妥協案でもいいような改革がお前の郵政改革なのか。そんなものか。

 竹中が岸本の口に対して異常に神経をとがらせているのは、こういった事情が露わになることを恐れているからだろう。(8/31/2005)

 絶句するようなニュースを聴いたのは昨夜のことだった。朝日新聞長野支局の記者が架空の取材メモをでっち上げ、これをもとに東京編集局で記事が執筆されたというもの。捏造された取材メモの内容は新党結成関係で亀井静香と田中康夫が長野県内某所で会談したこと、その際の両者のやり取りだったという。件の記者は長野総局西山卓、年齢は28歳、朝日は昨日付で懲戒解雇、東京本社の編集局長、長野総局長ら5名を減給から戒告処分した由。28歳と言えば入社数年、第一線で飛び回る年齢。そのクラスの記者が弁明の余地のない不祥事を何の背景もなく引き起こしたとは到底思えず、そういうことをしても許容されるという雰囲気が現場にあったことを窺わせる。

 朝日の報道不祥事といえば「サンゴ」事件というのがあった。89年のこと。それは「一粒で二度苦い」事件だった。夕刊の一面に「サンゴ礁にイニシャルが彫り込まれた」写真付きで、心ないダイバーが数十年の自然の営みを傷つけたというダイバー弾劾記事が載った。いかにも当節風の風景、苦い内容で朝日読者ならずとも憤激するていのものだった。ところがすぐに続報が入った。それは一度目よりも衝撃的でもっと苦いものだった。なんとサンゴ礁にイニシャルを彫り込んだのは、その記事を書いた朝日新聞の記者だったから。(もっともすべての人にとって「二度苦かった」わけではない。最初はさしたる感情を持たずに読み過ごしながら二度目に至って「おいしさ」を感じ「そういえば一度目は苦かったなぁ」と記憶を「捏造した」人たちもいたようだった)

 このふたつの事件はいずれも「やらせ」を基本にしたバリエーションだ。通常「やらせ」はふたつのフェーズから成り立っている。まず現実解釈が先にある。そしてその現実解釈に沿った現実の捏造がこれに続く。その解釈された「現実」が「真実」かどうかは問題にはされない。この手の「やらせ」は報道現場では日常茶飯になされている。今回の事件は「やらせ」の入口フェーズでなされ、サンゴ事件は出口フェーズでなされた。

 ただ「取材の事実がかけらもない」とか「そもそもなかった事件を創り出す」というのは通常の「やらせ」とはまったく次元が異なる。それがひとつの新聞社で繰り返されし発生したことは、朝日の中にそういうものを惹起する体質が濃厚にあることに他ならない。

 権力と反権力の中間に立ったのではほんとうの意味でのジャーナリズムの公正さが保てないという考え方は支持するが、真ん中よりも反権力側に寄った三分の二の位置に立つためにはそれなりの覚悟と自律が必要とされる。それができないのならば権力の提供するものをそのまま受け売りすれば大過はない。緊張感なしに漫然と立ち位置を決めるようなことは許されない。いまの朝日にはその緊張感が微塵もない。(8/30/2005)

 八代英太は東京十二区に無所属で立候補することにした。立候補の意思表明と同時に自民党に離党届を出した。「密約」が反故にされたとあらば、万やむをえぬ仕儀となったものらしい。

 八代に限らず今回郵政法案に反対した議員のうちのかなりの者はたったひとつ郵政問題についての意見が時の党首と異なっただけのことでなぜここまで来てしまったのだと思っているのではないか。郵政が根本課題だというなら分かるが、所詮、枝葉末節の問題に過ぎない。そんな些末な問題についてオレと意見が違う奴は出て行けといわれた議員はほんとうの意味での大局観のある者ほど当惑したに違いない。

 問題の本質を考えることをしないマスコミ論評は表面をとらえて「彼らは時代が変わったことを知らないのだ、そういう時代ではないのだ」というようなことを書いている。ほんとうに「時代は変わった」のだろうか。いまは単に「お天気が変わった」、「季節が変わった」に過ぎないと思っている。しかし小泉が大勝したら「時代は不可逆的に変わる」、少なくともディケイドの単位で変わってしまうだろう。答えが常に自明であるような二択問題(自明に見える以上、それはほんとうの意味で「設問」ではない)を権力者が出し、大衆が感情論で権力者を支持するという悪夢のような社会に向って。

 日本郵政公社のトップページには「日本郵政公社」というタイトルに並んで「郵便局」、「郵便」、「郵便貯金」、「簡易保険」という四つのボタンが配置されている。これはおそらく「郵政改革」なるものが「窓口事業会社」、「郵便事業会社」、「貯金事業会社」、「保険事業会社」に分割されることにむりやりあわせたものだろう。「窓口事業」なるものがどんな意味を持っているのか未だに理解できないが、基本となる残りの三事業で「民営化」することに意味がありそうなのは「貯金」と「保険」のだけだ。「郵便事業会社」は万国郵便条約によって政府が負っている義務を引き受けなければならない以上、通常の民間会社などにはなれないし、「窓口事業会社」は「過疎地の郵便局をつぶすものではない」といういいわけのためだけに構想された「泡沫会社」だろう。それとも「清算事業団」か、呵々。

 小泉・竹中の説明とそれをヨイショするマスコミは郵貯・簡保の巨額資金がムダな公共投資に流れることを止め、有効な民間事業に流れ込めば不景気は終るなどと言っているが、ムダな公共投資を止めたいなら最初から財投に流れることを禁止すればいいだけのこと、金が集まらないようにしなければ止められないなどと言う変な理屈は論理的には成り立たない。そもそもここ十数年の経済状況はふつうには金余り状況と説明されているくらいで、郵貯・簡保資金が公共投資に流れなくなったからといって、急に借り手が雨後の竹の子のように現われるわけはない。銀行にしろ保険会社にしろ低利率の中でどのように利益を上げるか四苦八苦している状況だ。これまで借り手は政府系法人あるいは国債、担保査定など政府保証だからろくにやりもしなかった郵貯・簡保のスタッフが銀行・保険会社のプロと競り合うだけのノウハウがあるのか、常識的に考えれば疑わしい。「武士の商法」で元手をすってしまうのが関の山ではないのか。どこぞの年金組合のようにアルゼンチン債などを買うか、欧米系の投資会社に振り回されて元本割れを多発して破産するか・・・、そういう心配を回避するシナリオ説明はついぞ聞かされたことがない。

 誰でも思い出すのは中曽根民活のリゾート倒産の山だ。「リゾート廃墟」は、全国各地、どこに行っても見ることができる。「民間にできることは民間に」というその内容が「民間ならできる倒産」だとしたら目も当てられぬ。(8/29/2005)

 八代英太が公明党の圧力を受けた自民党幹部の脅迫に屈して立候補を断念させられたのは先々週のことだった。郵政法案に反対した以上比例区名簿に記載されるわけもなく、このまま引退を余儀なくされるものと思われていたが、どうやら「密約」があったらしい。きのうからの報道によると比例区名簿の上位に登録される方向とのこと。

 インタビューでこの件を問われたコイズミの表情が見ものだった。街頭演説で「民営化こそ改革を推進する道」と獅子吼しているときの表情はどこへやら、借りてきたネコより情けない顔で眼をウロウロさせながら、かろうじて「党の方で調整中です」と答えた。原理原則などくそっくらえの旧自民党から、共産党も真っ青の理念型恐怖支配政党になったのだ思っていたら、なんのことはない権力に従順で、時には尻尾を振ってくる背骨のない軟体動物となると「許しちゃう」といういい加減な性根はそのままらしい。

 朝の「サンデーモーニング」で田中秀征が「今回の選挙は公示までが長い、だから選挙戦はダブルヘッダーみたいなもの。第一試合は自民党が勝った。第二試合は分からない」と言っていた。

 公明党の神崎は「民主党は年金だとかなんだとか言いますが、今度の選挙で重要なのは郵政民営化です」と繰り返している。8日から既に20日が過ぎた。いくら一般選挙民がコイズミがみなしたようにカラス以下の知能しか持たないとしても、第二試合になっても「郵政民営化だけが重要です」と言い続けていてはいずれ自民党の足を引っ張ることになるだろう。カラスだって半月以上も同じことを聞かされれば飽きるだろうさ。

 そこに郵政反対派の八代英太が特例の比例候補になり、それが公明党との闇取引の報償であることが満天下に晒されたら、なんだコイズミ改革も結局はそんなものかということなる。

 郵政は手品のタネだ。郵政がミスディレクションを誘うタネだとばれれば、タネを知った観客は郵政なぞには見向きもしなくなるだろう。そのとき観客の目にはいるのは手をつけただけで放り投げたフリフリ改革、火をつけただけの拉致問題、いっときは夢見た常任理事国、ぜんぶが見るも無惨な残骸ばかり。賢い観客は知るだろう。「郵政解散だ」といったのは、それ以外、なにひとつ見られたものではないからだということを。どの程度の観客が手品のタネを見破ることができるだろうかと、いまは興味津々。

§

 きょう最後のニュース。自民党は八代の比例名簿登録を見送ることに決定。これを聞いて八代は反発、一転して東京十二区へ無所属で出馬する方向とのこと。公明党がおとなしくしているはずはなく、もともと解散を押し切られた恨みが噴出することは確実。第二試合のプレイボールがかかる直前になって、にわかに面白くなってきた。いっそう興味津々。(8/28/2005)

 朝刊にきのう「新しい日本を作る国民会議」が開催した「マニフェスト検証緊急大会」において発表されたおととしの総選挙における自民党と公明党のマニフェスト評価が載っていた。

 評価をしたのは、経済同友会、構想日本、日本総研、PHP総研、言論NPO、全国知事会の6組織。それがそれぞれに総合評価と政策別評価を数値化、100点満点で評価している。評価点のみを書き写しておく。

  達成度の総合評価 政策別評価
自民党 公明党 自民党 公明党
経済同友会 65 65 金融再生 税制改革 イラク問題 政治改革
100 30 80 20
構想日本 31 52 道路公団 年金改革 公明党への評価なし
82 49
日本総研 70 70 経済活性化 社会保障 経済雇用再生 社会保障
85 60 85 60
PHP総研 32 24 外交・安保 環境 教育 外交・安保
36 20 36 18
言論NPO 43.8 28.8 郵政民営化 教育 郵政民営化 財政健全化
80 10 75
全国知事会 60 60  「地方分権改革」
のみを評価

 各団体間の評価方法はバラバラなのだから、相互の点数比較に意味はない。良い点数に見えようが辛い点数に見えようが今回初めてのことだからなんともいいようがない。ある程度評価方法にレベリングでできるようになれば、スポーツの採点競技のようにベストの点数とワーストの点数をつけたものを捨てて残った採点を参考にするということも将来的にはできるようになるかもしれない。

 ただこのデータだけではっきり言えそうなことがたったひとつある。

 経済同友会は、政策別評価・自民党・金融再生の項に満点の100点をつけている。株価はつい最近12,000円台にのせた。そのときの報道によれば4年前の7月以来のこととのことだった。つまりコイズミ政権はやっとスタート時点の株価に戻したばかりということだ。たしかにこのマニフェストの評価期間はおととしからことしまでのこと、つまり2年前の水準からは経済は良くなったといえばそれはその通り。また株価が金融再生と一対一でリンクしているのでないこともまたその通り。しかし株価は通常経済状況のトレンドを見る指標とされている。また自分が悪化させたものをやっと悪化させたその場所に戻した程度のことが評価されるのなら、誰でも自作自演でやったフリができるというものだ。経済同友会の関係者はこんな程度のことで満足できるのか。ちなみに物理学的にいえば出発点に戻れば、仕事量はゼロだ。

 ずいぶん志の低い経営者ばかりが集まっているのが経済同友会らしい。それともよほどコイズミ自民党にヨイショしたい事情でもあるのか。はっきりしたこと、それは経済同友会には公正なマニフェスト評価能力はないということだ。経済同友会の評価は0点。審査員の資格はない。

 駒大苫小牧に対する高野連の処分が決まった。件の野球部部長に謹慎、野球部に対して警告。優勝は変わらず、秋季大会への出場も問題なしとなった。明徳義塾との処分の違いについては「ベンチ入りメンバーが暴力行為に関与していたという点でまったく異なる」との説明がされた由。(8/27/2005)

 ****メーリングリストに**さんがこんなポストをしていた。

表題:地獄まで付き合って貰うさ

って台詞が「ヒトラー最後の12日」にあるとかと言う話ですが…。
映画とか小説に目を通す程のヒマが昨今ないもんで、確認も出来ず、困ったもんです。
で、この台詞、
俺たち(ナチス)を合法的に選挙で選んだのはドイツ人だから
と言うコトバに続いているんだとかって。
もうすぐ総選挙ですね…。

 サンケイ新聞のような常に権力に尻尾を振る新聞だけではなく、きょうは毎日新聞までが論説委員・高畑昭男の署名入りで「解散・総選挙 非情コイズミ流を政界の体質改善に」という社説を掲げている。

 ヒトラーも圧倒的な「新時代」感覚、「ドイツを主張するナチス流、右か左か分かりやすいのがナチス流、多少強引でも成果を出せるナチス流に期待する」という、後にして思えばずいぶんたわけた考えに支えられてのし上がった。

 大局観のない者ほど、小場だけを精緻に考えて下手を打つ。毎日社説の浅慮、嗤うべし。(8/26/2005)

 自民党内で起きていることはかなり凄まじいことらしい。郵政法案に反対しないまでも棄権・欠席をした議員は公認をもらうために「釈明書」と「忠誠誓約書」を書かされたという。これはもう「踏み絵」そのものだ。査問会だとか忠誠誓約書だとかというのは鉄の規律を誇る秘密結社や全体主義政党の専有物だった。ニュース23に出た武部幹事長は筑紫哲也にそれを問われて眼を宙に泳がせていたっけ。

 おととい郵政法案反対で小選挙区に立候補する候補者への最後の「刺客」が決まった。佐賀三区、保利耕輔に対する自民党公認候補は広津素子という名の公認会計士。またまた女性候補だった。

 マスコミ報道は恣意的なものだから、「マドンナ」というとよけい過剰に報ずるせいもあるのだろうが、小林の対抗馬の小池から始まって、城内には片山、滝には高市、自見には西川など、かなりの豪華版から賞味期限ギリギリ版まで、まるで女性候補にすれば勝算ありとでも言いたげなくらい、思い切り女性にこだわった感じ。いまや牝鶏に晨させることに眉をひそめる者はいないようだ。

 ではどれくらいのマドンナが当選するのだろうか。本家のマドンナのように落馬して複雑骨折などせぬよう、フェミニストとしては心から祈っておこう。呵々。(8/25/2005)

 武部幹事長が面白いことを言った。「(郵政民営化法案に反対し非公認となった人は)離党勧告などの話も出ているがその余裕はないから自発的に離党して立候補して欲しい」。ここまでは分かる。面白いというのはその後の言葉だ。「その場合は将来復党を認める可能性があるということを各県連に伝えている」。離党して当選したら復党を認めるんだそうだ。なんのために離党するのかさっぱり分からない。どうなのだろう、郵政反対を貫いたからこそ、公認なしに選挙を戦おうという者が、当選したら郵政賛成に変わるのだろうか。武部勤、さすが狂牛病大臣だけのことはある。頭の中は異常プリオンでトロトロなのだろう。

 いや、とここで考え直した。当選後の「追加公認」という茶番は自民党の伝統であった。これほどの現実主義はない。恥も外聞もない現実追従は対抗する政党には見られないものだった。社会党、共産党、・・・と頭の中に思い描き始めて、あらためて気がついたことがある。そう、党の中の異分子を許容しないというのは左翼政党(パルタイ)にのみ見られた特性だった。左翼政党は常に自壊してゆく。思想の同一性にこだわるためにわずかな違いも互いに許容しあうことができない。その究極的な姿が連合赤軍の酸鼻を極める殺人劇だ。対するに右翼政党は利権の争奪戦で自壊することはあっても、思想の違いなどで自壊することはない。利権さえ確保できるならばいつでも「小異を捨てて大同につく」といういいわけで平然と現実を追認しそこに安住できる。それが自民党の強みだった。

 そういう常識から見ると、コイズミ自民党はもうとっくにぶっ壊れているのかもしれない。だから、昔ながらの自民党員と自民党支持者はきょうの武部の発言に久しぶりにホッとしていることだろう。「まだ、自民党は完全に壊れちゃいない」と。

 駒大苫小牧の野球部長がこの6月と8月に部員に対して暴力をふるっていたこと、その事実を大会前に知りながら高野連に報告しなかったことの二点が発覚。同様の不祥事(部員の喫煙行為、上級生による暴力行為などがあったわけではない、厳密には内容が違う)が大会直前に発覚し、出場を辞退した明徳義塾との関係で優勝そのものが取り消される可能性も、との報道。なんだかケチがついたような話。(8/23/2005)

 8月1日夕刊「思潮21」の橘木俊詔「深刻さ増す日本の貧困」にこんな話。その国の全国民の平均所得の50%に満たない者を貧困者と定義し、その国民に占める割合を貧困率とした場合、OECDの最近の発表によれば、日本はワースト5位にはいるのだという。貧困率はメキシコの20.3%をトップに、アメリカ、トルコ、アイルランド、日本の順である由。日本の貧困率は15.3%(アメリカは17%)と発表されているが、「10年ほど前では8%台だったので、2倍前後も増加している深刻さ」だと橘木は書いている。かつて日本は北欧諸国並みに貧困率が低く貧富の格差のない国であった。(発表データ中、最も低い貧困率は4.3%でデンマーク)。これを小泉構造改革の「成果」だと決めつける気はない。こういう状態が構造改革の目的地なのだろうなとは思っているが。

 それにしてもよくも短期間に貧富の格差が発生したことか。その原因を4つほど橘木はあげている。その中にフリーターやパートタイマー、派遣社員といった非正規社員の激増と、高齢者層と若年齢層における世代内の貧困率の高さの指摘がある。高齢者の貧困率はリタイヤまでの職歴による受給年金格差によって生ずるものであり、若年齢層のそれはフリーターやニートの存在によって生じている。

 「ニート」(Not in Employment, Education or Training)についての論議を聞きながら不思議に思うのは、それが彼らのやる気のなさを指摘するものばかりだということだ。彼らはニートを「選択」したわけではない。ここが勝負と思った競争に敗北し、そのときの意識のままに目前の現実に相対して、正規/非正規社員のギャップの大きさに絶望し、ただ立ち尽くしているというのがニートの実態だ。

 非正規社員は労働コストを下げるために創案されたものだが、いまや労働三法に対する規制緩和策の段階から労働条件全般に対する切り下げを実現する道具になっている。まさに「構造改革」の一翼を担っているのだ。竹中平蔵はかつて「額に汗して働く人が報われるような仕組み」と言っていた。バカな肉体労働者は、ニートを横目に見て、「額に汗して働く人」を自分のことだと思って喜ぶのかもしれない。しかし竹中はほくそ笑んでいることだろう、まさにそういう素朴なおバカさんたちをたぶらかして進めるのが「構造改革」なのだから。

 郵政民営化のワンフレーズで信認されたコイズミ・ユーゲントたちは彼らの言う「構造改革」に邁進するだろう。結果として日本の貧困率はアメリカ化をめざす「改革」によってアメリカ以上の貧困率へ進むに違いない。「刺客」の名を冠せられた候補者の職歴を見るがいい。財務官僚(「官から民」へのスローガン選挙に官僚出身が出てくる可笑しさよ)、クレディスイス某なる外資系証券会社のチーフ・エコノミスト、セレブ・カリスマ主婦、百%、「額に汗」ではなく「頭に汗」をかく(それとも「厚顔に汗」か?)連中ばかりだ。(8/22/2005)

 選挙の公示に向けて政治屋たちの右往左往ぶりがニュースをにぎわしている。あのホリエモンが立候補することになった。最初は自民党公認で福岡一区という話が、広島六区で亀井静香にぶつける話に変わり、おとといには無所属で立候補することに。ところがその発表を武部幹事長とならんでやるというこの不可思議。

 ニッポン放送のM&A騒動の時、自民党は口をきわめてホリエモン批判をしていた。いったいどの面下げて「公認」できるものかと嗤った。さすがに「無所属」だそうだ。きのうの朝刊にこの顛末が報ぜられていた。山崎拓が「やりすぎや。彼はM&Aの男やから、自民党がM&Aされる」と難色を示し、コイズミは亀井を負かせば最良、仮に負けてもメディアが騒げば比例区は有利と判断したからとか。ポピュリスト・コイズミらしい判断だ。

 既に八代英太と熊代昭彦、能勢和子、村井仁が不出馬を決めた。熊代以外はすべて比例代表。当然の結果という気がするが、逆にそれを承知で反対票を投じたということだけは頭にとめておかねばならぬ。熊代は党が対抗馬に立てた岡山市長の萩原誠司の後を襲うというのだから、なんと評したらよいか。

 上まで書いた後に、小林興起と新井広幸に田中康夫が加わって新党日本を立ち上げるというニュースが入ってきた。あしたの四十九日に向けて帰ってきた**(息子)が田中康夫をクソミソに言った。たしかに小林興起とどこまでベクトルがあうものかという気はする。しかし二択の単純化政治で衆愚政治の極点に向おうとするコイズミを放置できないという判断には共感する。**(息子)は「だって来年で辞めるといっているよ、小泉は」と言う。かりに今度の選挙でコイズミが大勝利をおさめたとしたら、来年、彼は辞めないだろう。もしそうなったら誰も止められなくなるという懸念をまったく抱かないとしたら、お前はずいぶんおめでたい「政治学」を学んでいることになる。(8/21/2005)

 高校野球決勝戦。5−3で駒大苫小牧が京都外大西を降し、2年連続で夏を制した。夏の連覇は47、48年の小倉中学(48年に新制高校)以来57年ぶりとのこと。

 あの初優勝の時の涙が止まらないほどの感激はない。去年は9回2つめのアウトがとれるまで、優勝の可能性すら信じていなかった。だから興奮もひとかたならず、感激も大変なものだった。それに比べればことしは8回を守りきったところで「連覇を成し遂げるかもしれない」と思うほどになった。もう北海道のチームが夏の大会に優勝できることは証明済み。それくらいに去年の優勝は大きかった。

 表彰式も終ってから朝刊に「優勝の翌年に決勝戦まで駒を進めた学校の一覧」が載っているのを見つけた。古くは和歌山中学が21、22年連覇を果たし、23年三連覇に挑んで準優勝にとどまっている。そして29、30年に広島商業が連覇、31、32、33年と中京商業が三連覇を果たし、39、40年の海草中学(和歌山)、47、48年の小倉中学となる。そのあとは唯一83、84年にあの清原・桑田のPL学園が連覇にチャレンジし敗れ去っただけ。

 あらためて夏の連覇はそれほど簡単なことではないと知った。それを北海道のチームが成し遂げたのかと思ったとき、ふと悪い冗談が浮かんだ。「これもまたコイズミ構造改革の成果だろうか」と・・・。

 その冗談は別の連想を生んだ。あるいはこれは既にナンバーワンスポーツが野球に決まったものではなくサッカーやもっと多彩な種目に分散しつつあることの現れなのかもしれない。ここでも時代は変わりつつある。その相貌が確実にとらえられるようになるには少なくとも十年を経なければなるまい。(8/20/2005)

 朝の「スタンバイ」の電話世論調査、けさのテーマは「今度の選挙であなたはなにを重視しますか?」。回答の一位を占めたのは「郵政民営化」で22%、次が「年金」で16%だった。いまのところコイズミの狙いどおりということ。

 可笑しかったのは「郵政民営化は日本の構造改革の中心課題、この程度の改革ができないようでは構造改革などはできません」というコメントをよせてきた主婦。コイズミのオウム返しだったから笑ったのではない。いまのこの国で「構造改革」という言葉における「構造」がなにを指していて「改革」がなにを改めることなのか誤りなく説明できる人はいったい何人いるだろうと思ったからだ。たしかに世の中には埋もれた人材というのはあちらこちらにいる。この主婦が端倪すべからざる能力を持ち、コイズミとまったく同じ言葉を使いながら、彼をはるかに越える「構造」理解に立った上で、こう語った確率をゼロとはいわない。ただそうだとしたら「郵政民営化」のプライオリティを高く評価するわけはない。

 きのうの太平楽なブロガーもけさのオウム返しの主婦もきっとコイズミを誤解している。ちょうどいま自民党からはじき出されつつある郵政反対派代議士と同様に。代議士たちは選挙によって自民党が惨敗したら元も子もないのだから解散はコイズミのブラフだと思っていた。だが結果的に見ると、コイズミは「否決、ウェルカムだ」と考えていたらしい。件のブロガーも主婦もコイズミが政治家である以上、ぶっ壊したあとには新しい枠組みが作られる、それで「構造改革」は完結すると思っているのだろう。しかしコイズミは「生ぬるい社会的保護の仕組みを壊し尽くしたらそれでいい」と考えているだけのことだろう。4年かけても「構造改革」の着地点に関する展望が一切語られないのはそんなものはコイズミの頭の中にはないからに他ならない。

 「官から民」などというスローガンが確実に言っていることは、単に「国はなにもしないことになりました」ということだけ、「民がそれをやるかやらないかは市場原理に従います。儲かればやるでしょうし、儲からなければやりません」ということ。

 「小さな政府」という言葉に「税金の安い、効率のよい政府」を夢見ているとしたら、おそらくその期待は外れる。コイズミ政権になってから急に使われるようになった言葉は「自己責任」という言葉だ。「国はあなたたちの生活の最低保障なんかはしません。それはみなさんの自己責任です」ということがいいたいのだ。

 それでも税金の負担はトータルにいえば重くなるだろう。既に所得税は減免処置を廃止することによって「増税」する方針が出ている。「小さい政府」という際の「小さい」のは国民に対するサービスのことなのだ。国家機能を小さくする気などない。自衛隊の海外派兵、国連常任理事国就任のための事前運動、アメリカの下請け業務、つまらぬ大国意識がもたらす出費は決して削減されることはないだろう。

 かたちばかりの公共サービスと社会保証とはいえ、ばっさり切るわけにはゆかない。サービスはグレードダウンされるのにそのための負担は増え続けるだろう。まず「自己責任」の原則が強調された後に「破綻してもいいのか」という脅しが入り「受益者負担」論のPRがあって消費税増税やむなしの空気が醸成され続けるに違いない。なんのことはない痛みは消えないままに保証水準の切り下げだけは着々と推進されるだろう。

 ここで自民党からはじき出された連中の顔を思い浮かべてみる。郵政族に代表される諸々の利権屋たちだ。奴らは利権という砂糖の山のてっぺんで偉そうな顔をしてきた連中だ。瞬時、胸がスッとすることは間違いない。件のブロガーも主婦も単純にそういうカタルシスを覚え、社会正義が実現されるような錯覚に陥っているのだろう。だからコイズミのポピュリズム手法は支持される。

 件のブロガーや主婦の年収が2,000〜3,000万以上あるならなにも言わない。しかし、せいぜい1,000万前後、あるいはそれにも充たないというのなら、心から「バカな連中だなぁ」と思う。コイズミ「構造改革」に拍手を送る人たちのうちその恩恵に浴するのは数パーセントくらいだろうか。残りの人々に恩恵はおとずれない。自分の首を絞めながら拍手を送り快哉を叫ぶさまはなかなかシュールなものだ。(8/19/2005)

 万国郵便条約では郵便料金負担はどのようになっているのかと思って検索をかけていて、面白い記事を見かけた。

 郵政民営化しても郵便事業に限っていえば、全国一律のサービスを維持しなくてはならないのです。国会でどうにでもなる国内法(郵便法)と違って、条約(万国郵便条約)は日本だけの力ではどうにもなりません。条約に違反するようであれば、万国郵便連合から脱退しなければならないと思います。ですから、郵政民営化反対派の言っていることは詭弁ということができるでしょう。

 万国郵便条約による対外的な約束がある以上、全国一律のサービスを維持しなければならない、と、ここまでは分かる。しかし「だから郵政民営化反対派の主張はまちがっている」という結論を出すためにはそれなりの論理的な説明が必要だろう。一気に結果だけを書かれても「そうですね」とは答えられない。ところがこの人は大まじめにユニバーサルサービスは維持されなければならない以上、民営化反対派が主張する地方の切り捨てはないと結論している。腹を抱えて笑ったのは上の文章の続きだ。

 私は関東とはいえ、都市部とも過疎地とも言い難いようなところに住んでいます。家から一番近い金融機関は郵便局ですし、町内に銀行の支店も出張所もありません。私自身のメインバンクも郵便局ですし、はっきり言ってなくなっては困ります。ユニバーサルサービスの義務づけは郵便事業だけとはいえ、郵貯事業も可能な限りユニバーサルサービスが維持されるでしょう。そこに郵便局が存在しているのに、郵貯は扱っておりません、ということは考えにくいですし。

 コイズミ・ポピュリズムの支持者にはこういう人たちがいるものらしい。可哀想な人。

 彼は赤字になりそうなユニバーサルサービスを独立の民間会社がどのようにして続けられるのか、気にならないのだろうか。万国郵便条約の義務を日本として果たさなければならないために赤字を強いているのだとすれば、それを補うためのインセンティブを与えるか赤字の国費補填をせねばなるまい。そうした場合、その会社は通常の意味の「民間会社」なのだろうか。それは「郵政公社」とどう違うのだろうか。

 コイズミ流のトートロジー論理に従えば、「民営化したんだから民間会社だ」とでも言うのかもしれない。ではそれは「改革」になるのだろうか。赤字は「民営化!」という呪文を唱えれば、消えてなくなるものなのだろうか。

 郵政事業は「郵便事業」と「郵貯・簡保事業」から成り立っている。少なくとも「郵便」事業の民営化論はこれらについて疑問の余地がないほどに検討された答えが用意されていない限り「反対」も「賛成」も意味をなさない。「改革の本丸は郵政だ」というのはウソだ。「改革の本丸は郵貯・簡保事業なのだ」。とするとユニバーサルサービスを根拠に「民営化郵便局」の郵貯存続を信じている彼はいったいなにに「反対」し、なにに「賛成」しているつもりなのだろう。そんなことも分からない人に「民営化を問う選挙」なのか?

 「民間にできることは民間に」と小泉は力を込めていう。ならばイラクでの復興事業はまさに「民間にできることは民間に」の好例ではなかったのか。「安全なサマワに」(それほど安全なら民間でよかろう)わざわざ「国営自衛隊道路補修班」や「国営自衛隊水道施設復旧班」を派遣したのはなぜだったのだろう。小泉は統合失調症患者なのかしら。(8/18/2005)

 「アメリカの牛肉は安全なのだから、グズグズしていないで早く買え」、これがアメリカ政府の要求だった。「世界的に認められてもいない、かつ、なんの科学的根拠もない全頭検査などという日本ローカルな検査を要求することは認められない。我々はやるべきことはやっているのだから、早く買え」、これがアメリカ政府の主張だった。

 しかし昨日来の報道によれば、昨年の1月からことしの5月までの間に異常プリオンの蓄積場所となる特定危険部位の除去やその処置方法に1,036件もの違反があったとのこと。腹の立つのはこのことだけでない。アメリカ農務省はメディアがこれを報ずるや、「食肉としては流通しておらず、消費者への影響はない」、「義務違反は検査全体の1%以下だ」とのコメントを出したこと。

 アメリカ政府を含めてアメリカ社会が広範に「うそつき病」に罹っており、かつそのことをほとんどなんとも思っていないということは既にかなり知られるようになっている。デービッド・カラハンの「『うそつき病』がはびこるアメリカ」という本のどのページを開いても、どれくらいアメリカ社会が「ズルをして成功すること」、「ウソをつくことによって競争に勝つこと」を当然としているかという実例を見ることができる。どのページを開いても同じだから、ランダムに開いたページを書き写しておく。

 たとえば、マーサ・ステュアートの信奉者たちは、彼女の伝記を読んで幻滅を味わった。そこには、おそろしい行為に関するショッキングな話が書き連ねてあった。彼女がビジネスで成功するまでに、長年にわたって裏切りを重ねてきたこと。ウエストポートをはじめ、彼女の住まいがある各地で、隣人たちと悪意に満ちたいさかいがあったこと。そして現在、偽証罪で連邦当局から訴えられていることなどである。あるいは、強打者マーク・マグワイアが、若い選手たちにどんな手本を示したかを考えてみよう。彼はロジャー・マリスのホームラン記録を破った年にステロイドを服用していたことを認めたのだ。あるいは、貯金を増やそうともくろむアマチュア投資家は、ヘンリー・ブロジェットの真実を知ってどんな思いがしただろうか。CNBCの人気者だったブロジェットは、自分が推奨していた株を、裏では口汚なく罵っていた。アマチュア投資家たちは今、どんな思いでいるだろう。こつこつ貯めた金はなくなってしまったのに、ブロジェットはいまだに莫大な財産の上にあぐらをかいている。
 勝ち組の人びとの行為は、不安階層の人びとにあるメッセージを送った。世の中は不公平で金持ちは殺人を犯しても許されるというだけではない。ズルをする人が成功するというメッセージだ。アメリカ人のほとんどは、大掛かりな不正を働くチャンスには恵まれない。テレビで数百万人の視聴者に嘘をついて年に一二〇〇万ドルを稼いだり、インサイダー取引で大儲けするチャンスは、わたしたちにはめぐってこない。だが、少しばかり余分に稼ぐささやかなチャンスはいくらでもある。

 こういう国の食肉業者がどの程度本気でルールを守ろうとするか。彼の国では「懲罰的な損害賠償」という制度が、通常の場合、ルールを破ってコスト競争で勝とうという誘惑の抑止力になっているという。もしもばれたら単なるルール違反の罰金や発生損害の補償だけではすまない、とんでもない額を支払わなくてはならなくなるからやめておこうという心理的ブレーキがかかるというわけだ。しかし彼らに「懲罰的損害賠償」で訴えられる可能性が著しく低い販売ルートが与えられたらどうなるだろう。ズルをしてもウソをついても競争に勝てばいいというマインドの業者たちに羊のようにおとなしい極東のコンシューマーたち向けの販売チャンネルが開かれたなら・・・。

 アメリカ農務省は「違反は1%以下だ」と嘯いた。それはこの涎の出そうなチャンネルが閉じられているときの数字だ。なにをしても損害賠償が自らに及ばないことが半ば保証されたあかつきには、この数字は一気に何十倍にでもなるだろう。それが「ズルをしなきゃ損」、「ウソをつかなきゃ馬鹿」というモラル破綻社会アメリカの新しい「コモンセンス」だ。大統領が平然とウソの口実を用いて戦争を仕掛ける国なのだから、その国民のふるまいなど推して知るべし。(8/17/2005)

 地震、雷、火事、親父。昨夜は雷、そしてきょうは地震。お昼前の地震。

 はじめにズンと腹に響くような縦揺れが来て、そのあと経験したことがないような長周期の横揺れがユサユサと来た。西2号館はたかだか8階建て、固有振動をどうこういうような建屋ではない。しかしまるで共振でも起こしたように揺れ続けた。ひどく長く感じた。軽い恐怖感を覚えたのは最近にない経験だった。

 ニュースによると発生時刻は11時46分。震源地は宮城県沖。最大震度は宮城県南部で6弱。こちらで震度4。マグニチュードは6.8。震度6でも「強」と「弱」ではかなり違いがあるものとみえて死者はなし。豊里も利府も塩竃も格別のことはなかったが、石材店に奨められた墓の目地の補修と補強、早めにした方がよいかもしれぬ。

 仙台市内のスポーツ施設で、温水プールの天井が落下。可笑しいのは、先月、完成したばかりということ。よくあるパターンか。いや、PFIによる施設だというから、役所側、意識的にか無意識的にかは分からぬが手抜き工事を見逃していたのかもしれない。カネを払うあるいはカネをもらうから責任意識が生まれる。もともと責任意識の希薄なこの国でPFIという制度が根付くためにはよほどの「意識」が必要とされるような気がする。

 「平和」と「反省」が大嫌いな「サンケイ抄」がきのうの首相談話に噛みついている。社説たる「主張」がいちおうこの談話を受け止め注文をつけるかたちで恨みを述べたのとは対照的だ。まあ「きちがいじゃが、しょうがない」とでも評しておこう、呵々。(8/16/2005)

 戦没者追悼式の中継。黙祷。いつもの夏のようにセミの声だけが黙祷の友。

 追悼式での「君が代」の斉唱はいったいいつから始まったのだろう。「君が代」の「君」は天皇のことだ。戦没者は昭和天皇の名前で始められた戦争で落とさなくともよい命を落とした。その「君」の「代」が永く続くことを祈る歌をこの日に歌う。これはかなり「自虐的な行為」ではないのか。日ごろさかんにこの言葉を口にする人ほど嬉々としてこの歌を歌っている。言葉の意味を知らぬ者の愚かさが際立ってじつに哀れに見えてならない。

 君が代斉唱時の中継映像、今上も皇后も口を結んだままであった。それは「君」が自分であるから歌わないのか、それとも森達也が書いていたような事情があるのか、あるいはこの敗戦の日にこれを斉唱するそのねじれた関係に不健康なものを感じてのことなのか、もっと他に理由があるのか、どうなんだろうと思ううちに短い歌は終ってしまった。(8/15/2005)

 9時からのNHKスペシャル「靖国問題を考える」を見る。前段の敗戦からA級戦犯の合祀まで、「ファクト」の提示としてはよくまとめられていたと思う。欲を言えば、A級戦犯の合祀を見送り続けた筑波藤麿宮司の判断が番組の説明の「靖国神社国家護持法案」に対する配慮以外に、昭和天皇の意思を仄聞(ではなく筑波は旧宮家出身であったから直接聞いていたのかもしれないが)してのものだった可能性と、そしてそれまでは数年ごとに参拝していた昭和天皇がA級戦犯合祀以降は完全に参拝を取りやめてしまった事実にもふれて欲しかった気がした。もっとも混乱しがちな靖国議論のためにはあれでよかったような気もしないでもないが。

 後段のディスカッションも悪くはなかった。出席は首相公式参拝賛成派として、上坂冬子、所功、反対派として子安宣邦、姜尚中が出ていた。全体の印象でいうと上坂と所の頭の悪さが際立つ内容で少しばかりお気の毒な気がした。秦郁彦ぐらいの人選はできなかったものかと思うと少し残念だった。

 所功はもう少し学者としての矜恃がある人と思っていたが、戦犯合祀についてはもっぱら厚生省に責任があるというウソをついて逃げ回るばかりでがっかりさせられた。学者はウソをつくようになったらおしまいだ。(少なくともA級戦犯の合祀は厚生省に押しつけられて行ったことではない。それは、筑波藤麿と松平永芳、ふたりの宮司がこの問題をどう扱ったかを見れば、誰の眼にも明らかなことだ)

 上坂冬子については論外。上坂のご託のようなしゃべりを聞きながら思い出したことがある。警察官にとって容疑者の取り調べは絶対に男の方がやりやすいらしい。男の場合は論理的に問いつめ、いくつかの証拠を見せ、引き出した供述内容の矛盾を指摘し、徐々に追いつめてゆくと自縄自縛に陥り、「恐れ入りました」ということになるが、女の場合はそうはゆかないという。同じようにして追い込んで、もうこれでおしまいというところで、「でも、わたし、やってないんです」と恬然たる態度で一気にふりだしに戻してしまう、それが女という動物だというのだ。今晩の上坂はまさにそれだった。こういう犯罪者のような人とはディスカッションしても疲れるだけだ。論理もなければ、知性に対する責任も、そして当然のことながら人間としての誠実さもないのだから。番組は上坂のブタ面のアップで終った。それは日本の醜い一面を象徴する画像だった。

 ひとつだけ書いておくとすれば、上坂と所はしきりに「戦犯のレッテル貼りは不要」と言っていたが、A級戦犯とB級C級戦犯は明らかに異なる。まずB・C級戦犯を裁いた裁判は「東京裁判」とは呼ばない。そしてB・C級戦犯はいわば「現場」にいた人が罪を問われたものであるのに対して、A級戦犯には戦場で干戈を交えた者など一人もいない。彼らは中央の日当たりのよい執務室の中で現場を指揮し大小の命令を出すことに専念していた連中だ。番組前段に出ていた飯田進に言わせれば現場で餓死した「戦死者」たちの怨念の対象たるべき連中だ。B級(通例の戦争犯罪)とC級(人道に対する犯罪)の戦犯たちとは「質」が違う。だからこそA級戦犯の合祀だけは嫌でもクローズアップされ、目立ち、象徴的な意味を持っているのだ。板垣征四郎の息子も認めていたではないか、「父は国民に対して責任を負っている」と。

 上坂よ、所よ、ごまかしてはいけない。A級戦犯はりっぱな「ブランド品」だったのだ。(8/14/2005)

 きのうは日航123便事故から20年目ということで特番が組まれていたが、道路公団のおかげでTBSの番組は見られず、NHK第一放送のラジオ特番を聴くことになった。番組は大半の時間を被害遺族にスポットをあてたいかにもNHKらしい番組だった。

 この事故にはいくつもの不思議がある。まずどのようにして垂直尾翼が吹っ飛んだのかということ。そして次に墜落現場の発見に不自然なほど時間がかかったということ。そしてなにより不思議なのは賠償責任の発生しそうな自社の修理ミスを、通常、よほどの証拠を突きつけない限り認めないはずのアメリカの会社がいともあっさりと認めてしまったことと、そのボーイング社に対し日本航空は賠償金の請求をしていないことだ。

 事故調査委員会がまとめた「事故報告書」はほとんど嘲笑の的になっている。なぜか。それは基本的な疑問に対してほとんど答えることなく、生存者(アシスタントパーサー:落合由美)の証言を「証言は証拠より信用度が低い」(事故調査委員長:武田峻)と切り捨てて、圧力隔壁の金属疲労による破壊が原因だという結論にあうものだけを寄せ集めた(そのくせ個々の事実同士が相互に矛盾しているというバカバカしさよ)没論理の見本のようなものだからだ。航空各社の機長・副操縦士・機関士が作る日乗連(日本乗員組合連合会)が94年に出した報告書は事故を「隔壁破壊から起きた」のではなく「垂直尾翼から始まった」と結論している由。

 墜落現場の「発見」には10時間以上もの時間を要した。ところが95年にとんでもない事実が明らかになった。なんと嘉手納から横田に向っていた在日米軍輸送機が墜落直後の19時20分に123便を確認し、その90分後には座間基地所属の救助ヘリが現場に到着し乗員をウィンチで降ろす寸前までいっていたのを、司令部からの「日本側から救助部隊が向っているから引き返せ」という命令で帰還したというのだ。(事故から10年を経て、この事実を明らかにしたアントヌッチ中尉はさらにもっと不思議なことを語っている。横田基地に帰投した我々に対し、司令官のシルズ大佐は「ご苦労だった。今回のことについてはマスコミには一切言わないこと」と釘を刺し、さらに彼らは翌日すぐに沖縄に一週間の任務を命じられたという。彼はこう書いている、「そんなことは通常ないことであった」と)

 これに対して松永貞昭空将と増岡鼎陸将は文藝春秋などに反論を寄せたがその内容は「バカ」の一語で要約できる程度のものだった。あきらかに自衛隊・警察関係者はひどいノロマであったか、あるいは別の大きな事実を隠すためにノロマであるように装わねばならなかったのだ。生存者の証言によれば、このとき米軍の救助ヘリが活動を展開し、自衛隊がノロマないしはノロマを装わなかったならば、助かった人はかなりいただろうといわれている。

 これらの不思議をすべて一気に説明可能な仮説がある。「123便は相模湾上空で在日米軍の訓練用標的機と衝突し垂直尾翼を壊された」という仮説だ。以下はもしこの仮説が真実であったとしたらの話。

 日本政府が周章狼狽したことは想像に難くない。雫石上空で航空自衛隊訓練機が定期航路を横切って全日空機と衝突事故を起こしたときでさえ自衛隊はそうとうの批判をあびた。ましてとかくの論議のある米軍が事故原因となれば日米安保体制にまで影響が出かねない。日米両国の最高位レベルはまず米軍の影を隠すこと、そして事故原因の捏造のためにボーイングに因果を含めたのだろう。これらのシナリオが確定するまで事故現場の「発見」は遅らせられたのかもしれない。その間に何人の人が手遅れで死のうが、そんなことは両国政府にとっては大事の前の小事。国家体制・防衛体制の維持の方がつまらない民間人の命などよりはるかに大切であることは自明だったのだろう。(8/13/2005)

注)

 この日の記述は、最近刊行された

    米田憲司  「御巣鷹の謎を追う―日航123便事故20年―」 宝島社

によっています。この本はここに書いた「仮説」を「自衛隊による撃墜説」もろともに否定していますが、抑制をきかせつつ、可能な限り正確なデータを提供しようとしている印象で好感の持てる本です。(ボイスレコーダーおよび地上との交信の音声を収録したDVDがついています)

 豊里を出発したのは2時半。国見SAに入ったところで**(息子)から連絡があり、高速をおりて福島駅でピックアップしてまた高速にのった。那須高原SAで往きに未練を残したヤマメの塩焼きを食べてから、本線を走り始め那須ICを通過してほどなく大渋滞に見舞われた。ハイウェイラジオはあいにく区間外らしく入らない。ただただノロノロと進む車列の中でやっとNHKラジオの道路情報で原因が分かった。西那須野塩原ICと矢板ICの間で道路冠水があり6時半から通行不能になっているという。那須高原SAを出発したのは7時前後だったからSAでその旨の放送でもあれば直近の那須ICで降りることができたのだ。

 矢板ICから再び高速にのったが凄まじい降りと稲光。帰着したのは日付が変わった零時半だった。

 まず、短時間豪雨程度で排水が間に合わなくなったか、あるいは排水施設の保守が悪く機能しなかったとすれば、それは100%道路公団の責任だ。さらに多少情報伝達が遅れたにしても「通行不能」ならば那須ICで通行車輌を減速させ、その情報を伝達する義務が道路公団にはあるはずだ。信じられないことに既に発生から3時間以上も経ちながら西那須野塩原ICでも本線通行止めの処置はとられていなかった。積極的に情報をとることをしなかった何台かの車は冠水による通行不能箇所まで何も知らされずに突っこんで行った。

 高速料金はある種の信頼原則に支えられた契約にしたがって支払っているのだ。その信頼原則を守ろうとしなかった以上、通行料金を支払う義務は利用者にはない。提供するべきサービスを暗黙の信頼に支えられた期待のレベルまで提供していないのだから。百歩譲るとしても責任を果たさなかった割合に応じて通行料金は減額されて然るべきだ。

 西那須野塩原の料金所の係員に住所・氏名と連絡先を書いた紙を渡し、その場での支払いをしないこと、連絡をもらって公団としての説明を聞いた後に然るべき料金を支払うことを話して料金所を通過した。料金所の係員にはお気の毒なことだったと思う。他のほとんどの車輌は唯々諾々と料金を支払う中で、いかにも権利を主張するイヤな奴と思ったに違いない。しかしサービスの対価としてカネをとるということに対する自覚がほとんどない組織にはこういう躾はしなければならない躾だ。未収の料金を徴収する権利があると判断するなら、住所も氏名も電話番号も通知してある、道路公団よ、その主張を持ってこい。是々非々で理のたつカネは払う。よい機会だから公団の横着と怠慢によって失われた時間に対する損害賠償の主張をとくと訊いてもらおう。(8/12/2005)

 きょうはこれから豊里へ。

 書き写しておきたい記事がある。きのうの夕刊から。コラム「記者席」。科学医療部、田沢健次郎。見出しは「ノーベル賞逸した孤高の学者」。

 10月のノーベル賞シーズンが近づくと、3年前に96歳で亡くなったエルウイン・シャルガフ氏を思い出す。構造が未解明だったDNAでアデニン(A)とチミン(T)、グアニン(G)とシトシン(C)の量が等しいという規則を50年代初めに発見した米国の生化学者である。
 この規則などをもとに、年若いジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック氏らがDNAの2垂らせん構造を見つけ、62年のノーベル医学・生理学賞に輝いた。核酸研究の権威だったシャルガフ氏は基礎的な発見をしながらもノーベル賞を逃した人と評された。
 シャルガフ氏を取材したのは米コロンビア大名誉数授だった77年。「ノーベル賞を逸したことをどう思うか」と無遠慮に聞くと、当惑したように「おお」と言いながら、「研究とは織物のようなもので、さまざまな構成から成り立つ。どれを評価するかは大変むずかしいが、ノーベル賞は一部を評価するだけで見当違いのこともある。賞のための競争を生むのでよくない」と語ってくれた。
 その頃の米国は遺伝子組み換え研究の論争が活発で、ワトソン氏は推進派だったのに、シャルガフ氏は反対派の旗頭だった。「ノーベル賞をとれなかつた腹いせだろう」と言われもしたが、分子生物学の急激な進展には批判的だつた。文学や哲学にも博学で、その教養あふれる話しぶりが今も印象に残っている。

 学問研究の高度化にともない学者の世界ですら、最近は広い裾野をもつ見識の豊かな人が少なくなりつつあるということ。本来ならばある種の抑制のもとになされねばならない研究も、専門分野にのみ突出した才能がひたすら「投資効果」と「投資効率」だけを追求するマンモスの牙のような「定向進化」を続けているのかもしれない。(8/10/2005)

 長崎原爆の日。昨夜ドタバタと衆院解散をやってのけた小泉首相、靖国参拝の手前、平和式典をサボるわけにはゆかず出席したが、被爆者団体との懇談会は広島同様にパス。首相は就任した年こそ、広島・長崎ともに懇談したものの、以降はこれで4年連続で懇談会を欠席している。地味な仕事はやらないというのがポピュリストの要件だから、さもありなん。

 たしかにきょうの状勢なら分からないでもない。しかし先週の広島など平和式典が終るやいなや福山市へ向い中川美術館で「美術鑑賞」を行い、懇談会の開かれる広島市に戻りながら空港に直行して3時過ぎには公邸に戻ってくつろいでいたというから、なかなかどうしていい根性をしている。

 その原爆について。かつてNHKの「地球法廷」が核兵器使用に関する視聴者の書き込みを募った際、次のような書き込みをした。

 わたしは、広島・長崎以後の核兵器開発には批判的であり、かつ、核の均衡論にも賛成しない立場です。しかし、最初の原爆の使用に関しては、上にあげた二つの理由により、間違った選択であったとは言えないと考えます。(注:「上にあげた理由」の内容がはっきりしないが、「原爆投下はやむを得なかった」、「日本の降伏を早めることができた」という程度の内容だったと思う)
 このような問題について、「根拠」というのはなかなか提示できませんが、昭和天皇の敗戦の言葉に「敵はあらたに残虐なる爆弾を使用し」というフレーズがあったことが、「戦争の早期終結に役立った」ことの傍証になると考えます。
 原爆の引き起こす惨状に対する配慮が当時の米国政府にあったかどうかについては否定的です。たしかに米国政府に戦後の世界の主導権を握る野心がなかったとは言えないでしょう。だとしても、いまこの時点からさかのぼってその政治判断を云々する場合に、実際に広島・長崎で起きた結果すべてを勘定に入れることは、「歴史における後知恵」というべきものを割り引いて考えなければ、フェアな態度とは言えないと思います。
 もちろん、スミソニアン博物館における原爆展示があのようになったことは、現在の米国の閉鎖性を物語る残念なことではありますが・・・。

 字数の制限から意を尽くしているとは言い難いが、書きたかったことはふたつある。ひとつは原爆が市民の頭の上で炸裂した際にどのようなことが起きるかについて、少なくとも当時のアメリカ政府・軍高官には想像力がはたらかなかったのではないか、そしてそれははじめてのことならば仕方のないことといえなくはないということ。もうひとつは広島と長崎に投下された「残虐なる特殊爆弾」が尋常ならぬものであるという事実がグズグズと降伏への意思決定を遅らせていた日本政府と軍、なかんずく昭和天皇に引導を渡したということ。

 この書き込みは他の書き込みに比べて異質のものだったようで、数日後、NHKから電話がかかってきた。前者については「後知恵」という言葉を使っているから読み取ってもらえているものと考え、そのときは後者を中心に補足したいことがらを語った。

 裕仁という人は自分が危険にさらされる場合にならない限りは動くことのなかった人だということと、おそらく産業奨励館(原爆ドームのこと)の惨状が御文庫に立てこもる彼の安心感を揺るがしたことが「御聖断」の引き金となったのではないかという推測の二点だ。NHK担当者がどのような目的で電話をかけてきたのかは分からない。あのとき電話口の担当者は途中からあきらかに身の入らない聴き方に変わり、可笑しくなるほどそそくさと電話を切った。昭和天皇へのそのような言及はNHKとしては歓迎したくないものだったからだろう。(8/9/2005)

 参議院は郵政関連六法案を否決した。賛成108、反対125というから、予想以上の大差がついたわけだ。小泉首相は臨時閣議を招集、衆議院解散を諮った。麻生太郎総務相、島村宜伸農水相、中川昭一経産相、村上誠一郎行政改革担当相が反対、あらかじめ辞表を準備して閣議に臨んだ島村だけが署名を拒否したため、小泉はこれを罷免、自ら農水相を兼務して全閣僚の署名をとりまとめた由。

 よる8時半からの首相の記者会見はポピュリスト小泉の面目躍如たるものだった。まず単純な二者択一論を突きつける。「郵政民営化か?否か?」、「改革が必要か?否か?」。次に誰でも知っている歴史挿話をあげてみせ、知恵のない者ほど誇りたがる「後知恵」の優越感で答えは自明と思わせる。「地動説を発表して裁判にかけられたガリレオ(ガリレオは名、姓をいうならガリレイ。ジュンイチロウの教養レベルはこの程度のもの、嗤うべし)は、それでも地球は回っていると言った。国会は郵政民営化の必要無しとしたが、わたしは国民の皆さんに民営化が必要かどうかを直接問いたい」。まことにみごとな畳かけだ。

 カラスは三つまで勘定できるという。瀬島龍三は三点主義の権化だったそうだが、それは人々の平均的知力をカラス並みに想定したからだろう。小泉純一郎はもっとススんでいる、ただの一問、しかも二択だ。国民の知力をカラス以下と断じているらしい。

 しかし、世の中たったひとつのことだけ気にすればよいなどというのは夢のような絵空事だ。「バカの一つ覚え」という言葉があるではないか、「コケの一念」という言葉もあるが、呵々。

 たとえば衆院選の公示日とされた8月30日の前後にはなにがあるか。休会を宣言された六ヵ国協議の再開はその週に予定されている。いまや宙ぶらりんの状態にあるG4国連改革案をどのように扱い、捲土重来を期すのかあるいは断念をするのか、国連総会への上程をまたまた来月に先送りするのかどうかも問題になろう。これは一例。年金論議、先送りした消費税の見直し、これらはすべて今度の選挙で選ばれた議員に託されるはずの仕事だ。まさか郵政民営化論議だけを片づけたら、また解散し、次なる一問を争点に総選挙をやるわけではあるまい。

 カラス以下と見くびられた国民が果たしてその通りであるのかどうかは、コイズミ・ポピュリズムにどの程度の人々が引っかかるかで分かる。選挙結果の出るのを見て、この時代のこの国の民度として記録しておこう。ポピュリズムに盲従するか、踏みとどまるか、楽しみなことだ。(8/8/2005)

 広島の平和式典のテレビ中継を見た。先週右翼団体構成員が必死に「過ち」の文字を削り取ろうとしていた慰霊碑にはことし5,375人の名簿が新たに収められた。これまでの死没者数とあわせると242,437人。ふと「合祀」という言葉が浮かんだ。どうなのだろう、原爆慰霊碑に収められた名簿に記載された人々の無言の祈りと靖国神社に戦死者として祀られた圧倒的多数の兵士たちの無言の祈りは異なるのだろうか、それとも同じなのだろうか。彼らの中に喜んで死んだ者はいったいどれくらいいたのだろうか。

 おそらく原爆慰霊碑に眠る人々の中で欣然と死におもむいた者はいないに違いない。この世にまだやりたいことを残して死んだ者がほとんどすべてであろう。そしてその気持ちは靖国に眠る兵士たちにとっても本音では変わることはなかったのではないか。この世でこうもしたい、ああもしたい、本来ならそのように生きたかったであろう。たとえ特攻任務で逝いた者でもそれは同じだったと思う。

 いったい、靖国に眠る者の多くは、戦死ではなく、戦争が終ったあとに「公務死」と名づけられた妙な死に方をした連中が後から加わったことをどう受け止めているのだろうか。自分たちを死地に赴かせる決定をしながら、中には「生きて虜囚の辱めを受けず」と語りながら自らはその言葉を裏切って敵の辱めを受け、あげくに縊り殺された不様な大将などが座の中に入ってきたことをどう受け止めているのだろうか。そしてその「不自然な」死者が座に加わってからというもの、天皇陛下のお参りはなくなり、まわりはいつもザワザワと落ち着かぬものになってしまったことをどう受け止めているのだろうか。

 広島の原爆慰霊碑に眠る人々は曲がりなりにも自分たちが平和を祈る人々に囲まれている実感が持てるだろう。いくらそれが無力なほど微かなものだとしてもその意思に紛れはないのだから。しかし靖国に眠る人々はおそらくそういう安心の中にはいないと思う。できるならば子供・孫・ひ孫・・・には自分と同じ境遇を味わわせたくないと念じていたのに、その再現をもたらしかねない連中ばかりが境内を跳梁跋扈しているのだから。

 靖国神社関係者の多くは「平和を祈ること」よりは「かつての戦争を称えること」に熱心だ。だからこそ毀誉褒貶を承知の上で、靖国に眠る圧倒的多数の人々とは異質な死に方をしたごく一握りの者を強引に合祀したのだ。松平永芳なり彼をたきつけた連中、そしてその流れを汲む靖国神社関係者は英霊の安らかな眠りを願うことよりは、英霊を人質に取ったうえで、自分たちの小賢しい歴史観を押しつけることに熱心な連中だ。なんのことはない最近流行のテロリストの一変種、「平和に対するテロリスト」なのだ。彼らのような国家神道原理主義に立つテロリスト一派を靖国神社から放逐すべきだ。それが靖国の英霊が真に安らいだ眠りを取り戻す唯一の手段だ。(8/6/2005)

 なんのかんのいっても最終的には参議院も郵政法案を可決するのだろうと思っていたが、参議院亀井派会長(なんのことだ)の中曽根弘文が反対表明し、これに柏村武昭、大野つや子、狩野安などが同調表明したことで、一気に否決の可能性にふれるようになった。否決の場合、小泉首相は衆議院を解散すると言っており、夜のニュースは一気にヒートアップしたらしい。

 その他、町村外相が「合意できた」と「発表」してしまったG4とAU間の共同決議案提出がもののみごとに吹き飛んでG4案は採択にさえかけられない可能性が出てきたとか、六ヵ国協議の合意文書に北朝鮮が同意せず、暫時休会になるのではないかというニュース。これを見る限り、たかが「郵政」などにわいわいがやがやしているときなのかと嗤いたくなる。おかげさまで国際常識を知らぬムチムラのピエロぶりが目立たずにすんだのは不幸中の幸いだったか。(8/5/2005)

 出勤前にNHKニュースで野口聡一とスティーブン・ロビンソンが行うディスカバリーの補修作業の映像を見た。野口の乗船故に、先週の打ち上げからこちら、トーンがあがりっぱなしの各局キャスターのキンキン声が聞きづらい。いったいいつからテレビのニュース番組はかくも情緒過剰形の感情移入スタイル一色になってしまったのだろう。

 それにしてもまるでトランプのカードのようにお手軽・簡単に引き抜くことができるセラミック製の接合材の心細さよ。アポロの月面着陸を準備された地上のセットで演じて見せた壮大な詐欺映像だと主張する話があったが、けさほどのシーンもあらかじめ設定されたトラブルをお手並み鮮やかに解決してみせるシナリオつきのドラマのような感じ。

 もうひとつ。あさって開幕する高校野球の高知代表校、明徳義塾高校で上級生による下級生の暴行事件と部員の喫煙事件が曝露されて、出場辞退するというニュース。対戦相手を決める抽選会後の出場辞退ははじめてとか。(8/4/2005)

 日曜日の朝の時事放談、今週は森喜朗と塩川正十郎だった。番組での森の話を聴くうちに、この男、見識ゼロ、センス悪く、宰相としては最低・最悪の部類だったが、政治屋の棲息する永田ムラではそれなりの気遣いをする「常識人」でもあり、その常識に従った先読みもできる能力ぐらいはあったのだという印象を持った。なればこそ、派閥の長でもあるわけか、と。

 その森が「郵政が参院で否決され解散になったら、派閥の会長を辞任する」と言っているというニュースが伝わった。要は「解散、総選挙になれば、自民党は負ける。そういう意味で、解散も辞さないという首相の姿勢は軽率な判断であり、そんな首相を出身派閥の会長として盛り立てることはできない」といういかにも世の中派閥を中心にまわっていると言わんばかりの理屈。

 おそらく小泉には痛くも痒くもないに違いない。彼が「自民党をぶっ壊す」と言ったそのターゲットはそういう永田ムラの「常識」のことだったのだろうから。(8/3/2005)

 品質管理学会の講演会を千駄ヶ谷で聴く。テーマは「事故・不祥事から組織を守る」。前段に飯塚会長、後段を松下電器顧問の上野治男が話した。上野は警察庁を振り出しに内閣官房、防衛庁と官僚を勤め上げてから松下に行ったというキャリアの持ち主。かなり実務的な例も折り込まれていて、なかなか面白い話だった。

 朝刊によると、NHK番組改変問題に関する「現代」掲載記事に関係して、自民党の武部幹事長、きのうの記者会見で「朝日取材資料の流出の事実関係が明らかになるまで党役員は朝日の取材対応を拒否する」と宣言した由。自民党の調査プロジェクトチームは流出について「あたかも取材のやり取りを記録した取材資料があるということを世間に強調したかっただけの『やらせ』ではないのか」、「貴社自身が資料流出に深く関与しているのではないか」と、朝日に対する「通知書」に書いたとも。

 自民党の指摘と腹立ちについてはもっともだと思うが、公党である以上、同時に党員である安倍晋三と中川昭一にふりかかった嫌疑についても明確に発表するべきではないのか。もういい加減時間が経っているのだから。それなくしては「調査プロジェクト」の看板が泣くというものだ。そして放送法違反の嫌疑がこれほど濃厚になった以上、両氏に対してなにがしかの処分があって然るべきだろう。身内を厳しく律する精神なくして他人の道議を云々しても誰も嗤うばかりのことだ。(8/2/2005)

 もう「月刊現代」9月号が出ていたので、さっそく買ってきた。NHK番組番組改変問題について、魚住昭が「『政治介入』の決定的証拠」という記事を書いている。結論を書けば、なにも新しいことは書かれていない。たしかに微細な部分のやりとりが詳細に明らかにされているから、なかなか面白いし、いろいろな意味で興味深い事実もある。だがもともと平均的な知力があれば、なにがどのように起きたのかということは誰にでもわかる。朝日新聞を攻撃する右翼にしても口ではどのように主張しようが、知能指数が極端に低いか、よほどの世間知らずでない限りは、安倍と中川が未だオンエアされていない番組に圧力をかけるという放送法違反行為を行ったことが分かっていないわけではない。だからこそ番組内容がいかに不当なものであったかという主張が必ず添えられているのだ。

 あえていえば白々しい記事まで書いて取材資料を「洩らした」朝日新聞のやり方こそ、新しい「問題」かもしれない。だが一方に明確な違法行為があり、その内容が本来の法治国家の精神を維持するために看過できない問題だとしたら、ジャーナリズムのモラルだけを厳しく問うことは「失当」であろう。かつて自民党が行った数々の不正に際して、この国の似非保守論客が擁護のために好んで使った諺を借りれば、「角を矯めて牛を殺す勿れ」ということだ。(8/1/2005)

 人はどんな浅瀬でも溺れることができるようだ。高橋和巳の小説には相応のキャリアを積んだ主人公たちがいとも簡単にたやすく立つことができる浅瀬で溺れ死ぬようなところがあり、それがどこか「観念的」な感じを抱かせて不満だった。しかし、どんな浅瀬でも人は溺れ死ぬことができる、ここ数日、それがはっきり分かった。疲れているのだと思う。だが頭で理解して自分に言い聞かせようとすることに心と体が納得しない。

 まあいいだろう。しばらくはもてあまし気味の心を思う存分暴れさせてみよう。たぶんそうしてもいまのおれはかつてのようになにもかもを一気に棄ててしまうようなことはしないだろうから。(7/31/2005)

 夕刊に変な記事が載っていた。見出しは「NHK問題『月刊現代』の記事:本社資料流出の疑い:社内調査へ」、こんな内容。
 NHKの番組改変問題をめぐり、朝日新聞が取材したNHK元幹部らの「証言記録」を入手したとする記事が「月刊現代」(講談社)9月号に掲載されることがわかり、本社は29日、「社内資料の一部が流出した疑いがある」として社内で調査を進めることを決めた。同日夜、記者会見し、本紙7月25日付朝刊の報告記事に掲載された一問一答とかなり似ているため、などと理由を説明した。
 この記事は、ジャーナリストの魚住昭氏が取材・執筆。松尾武・元NHK放送総局長、中川昭一、安倍晋三両衆院議員の「証言記録」として、朝日新聞記者とのやりとりの形で記述がある。

 月曜日の朝刊に朝日新聞はこの1月の「NHK番組改変問題」に関する検証報告と称する記事を見開き2頁を使って掲載した。内容的によく整理されてはいるものの事新しいデータはなく、なぜこの程度のものを半年も経ってから出すのか、良識のあるところを見せたいとただそういうことかと思った。

 この記事に対しては、毎日と読売が翌日の社説に取り上げ、サンケイはサンケイ抄にこれを取り上げた。社説で取り上げるほどのものとはとても思えなかったから、サンケイがコラム扱いとしたのは相応だったと思う。(もっとも、サンケイ抄のことだから、例によって内容の切れ味は悪い。朝日の検証不足を指摘するのが半分、番組内容を詰るだけで半分、番組内容がいかなるものであっても事前の番組内容への介入は免罪の理由にはならない。逆に、気取ったつもりの「同業者として自戒しなければ」という末尾が、二カ月ほど前の「フィリピン未帰還兵スクープ」を思い出させて嗤いを誘った。さて「自戒」というなら、件の「幻の日本兵」について検証報告をするかどうか。扶桑社のルール違反には頬被りしたサンケイのことだから空しい期待に終りそうだが)

 夕刊の記事に「?」となったのは、「洩れたのか?」、「洩らしたのか?」、どっちだと思ったから。

 朝日の記事を捏造というのだから、本来、NHKは朝日新聞を告訴すべきなのだ。安倍晋三は、後援会機関誌の如きサンケイ新聞によれば、「公開討論」を呼びかけているというが、そんな生ぬるいことではなく朝日新聞を告訴すべきだろう。なぜ告訴しない? できないのか?

 44分の番組が40分に改変されている以上、「姦淫」があったことは明白だ。「和姦」か「強姦」か。強姦罪が親告罪である以上、被害者であることが推測されるNHKが「強姦」を推測させるデータをすべて開示しながら、必死に「わたし、やられて、いません」と言っていては進展はない。何事が起きたのかが分からない人はいないのに。

 朝日の記者が録音をとっていたことはほぼ間違いない。問題は同意を得ないでとった取材録音であるため「緊急避難措置」でもなければ、それが公にできないということにある。夕刊のへんてこな記事は、告訴されれば組織防衛上やむなく公にできるものが、告訴がされないために公にできないことに苛立った朝日の故意のリークではないか、と、そんなことを疑わせた。

 「月刊現代」9月号、発売が楽しみだ。(7/30/2005)

 きのうは寄ることのできなかった精美堂に行き、**(母)さんの時計の電池交換を頼む。ずいぶん久しぶり。主人は昔のまま。小さな店なのによくもっていると思う。**(母)さんが「あんたのこと言うのよ、うちの店でクォーツを買ってくれた第一号だったって」などというから多少期待を込めて訪れたのだが、格別の反応はなかった。そういえば**(母)さんの話、いったいいつのことだったのか聞いていなかったっけと思い直して小さく苦笑。どうも最近は主観的な思いばかりが頭の中を占めていて、なんだか過剰な期待を他人にかけているのかもしれない。もう少し普通に考えなくては。

 主人の深く皺の刻まれた横顔を見ながら***(小学校の同級生)のことを思い出していた。それを遮るように「電池は切れていないですね」と主人。「エッ、じゃ、水をかぶったとか?」、「錆がきているわけじゃないから、電子回路の方かもしれない」。・・・。結局、主人はカネをとらなかった。そういうところは昔と少しも変わっていない。ほんとうにこれでよくもつものだ。

 あしたのつもりだったが買えるくらいのカネをかけても修理するかどうか、そういう愛着があるのかどうか、**(母)さんに訊いておこうと思って病院に行った。

 エレベータに駆け込んだ。4階のボタンを押し、扉が閉まるのと同時にため息が出た。そのとき向かい側に立っていた女性もため息をもらした。目が合うと向こうも少し目顔で笑っていた。見舞う先は家族なのだろうか。ふとラジオの人生相談コーナー冒頭のアナウンスを思い出した。「ため息をひとつつくと幸せがひとつ逃げてゆく」。4階の扉が開いた。完璧に屈託のない笑顔を作って**(母)さんの病室に向う。次の階で降りて彼女はどんな顔を作るのかなと想像してみた。ちょっとばかり面差しのきれいな女性だった。やはり、今晩、寄ってみてよかった。(7/29/2005)

 家を出たときの感じは湿度が低く、さわやかにも感じた。きのうの方がよほどモンヤリした感じだったが、そういう印象とは逆にけさは富士山は見えなかった。秩父の稜線もけぶっていて、きのうのくっきりした輪郭とは違っていた。工場の門を入って西2号館まで歩きながら見上げる空には下弦の月がうっすらと見えていた。

 朝刊と夕刊、ともにその二面に載ったふたつの新聞記事を読んで、絶句、嘆息。

 町村外相がロンドンにおけるG4とAUの外相会談で国連改革提案の統合合意がまとまったと記者会見で発表したのはおとといのニュースだった。しかし朝刊の記事によると「AUとの合意はあやふやだ。・・・(中略)・・・町村氏が明言した根拠は、ナイジェリアのアデニジ外相のまとめの発言に出席者らが拍手したことだという。しかし、合意文書もなく、AU内からは異論が続出。G4とAUの会合に出た一人は『アデニジ外相は会合で採決を1〜2週間遅らせてほしいとG4に要請した』とも指摘」している由。シャンシャン株主総会ならばともかく、かなり困難な利害調整を含んでいるはずの外交的「合意」を出席者の拍手で「判断」し、合意文書も作成していないのにオフィシャルな場でチャラチャラと「合意ができました」としゃべるようなオッチョコチョイがこの国の外務大臣を務めているとは、ね。

 夕刊の記事はそれに比べればまだ赤っ恥度は低いかもしれない。国連本部で記者会見したわが外相、「日本が国連安保理の常任理事国入りを果たせなかった場合、現在約20%を拠出している国連への分担金を減らすべきだとの意見が日本国内に広がるおそれがある」と述べ、「日本政府としての方針ではない」と付け加えたという。記事にもあるようにこれは「G4・AUの決議案一本化が迷走する中で反対する国々を牽制する狙いでの発言」であることは素人にも分かる。

 素人にも分かることはもうひとつある。ものには言い様があるということだ。どうしても同じことを言いたいのなら、「国連の分担金制度は現在各国の国民総所得の額から計算しているが、国連における責任の度合に応じて負担するように改革すべきだという考え方もある。負担責任の軽重と負担金の軽重はある程度比例させないと一種のモラルハザードを起こしかねないし、そうでなくては各国はそれぞれの国民に説明がつかない」とでも言うべきだったろう。まるで常任理事国にならなくては日本国民が納得しないかのような話しぶりは恫喝としてもスマートではないし、なによりも、とうの日本国民である我々が町村が言うほどに常任理事国になることを渇望しているわけではないのだから。

 しかし、それにしても、こんなバカしか外相候補がいないのかい。それともバカな宰相と釣り合いをとるためにムチムラ(無知村?、それとも無恥村?)が外務大臣なのかい。(7/28/2005)

 原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という文言の「過ち」という言葉が気に入らないからと、ハンマーとのみで「過ち」を削り取ろうと「格闘」した男が捕まった。

 名前は「嶋津丈夫」というから日本人なのだろう。報道によれば、「右翼団体構成員」である由。「構成員」などいうのは暴力団員をさすものと思っていたが、右翼団体も暴力団と同じ扱いらしい。まあ、カネを巻き上げる口実に「愛国」を使うか使わぬかが両者の違いとあらば、違いなどもともとないに等しいわけではあるが。

 それにしても「過ちという文言が気に入らない」というのはどういうことかと思ってニュースサイトを検索してみた。主要紙では朝日新聞だけが「『過ち』の文字が気に入らない。日本人がつくったのになぜこんな文字があるのか」と伝えている。他に、地元中国新聞が「『過ち』というのは原爆を投下した米国ではないか」と伝えていて、はじめて犯人のおおよその理屈が分かった。

 慰霊碑の言葉に主語がないことには以前からいろいろな議論があった。しかし主語を明示しなくともよい日本語の特性を十二分に活かした言葉であるといえば、そうも言えないこともない。ある意味で達意の文章だとも思う。原爆のような非人道的な兵器を使用したアメリカの「過ちを」、アメリカ人に成り代わって、「繰り返しませぬから」とも読めるし、「戦争だからなにをやっても許される」と考えがちな我々の「過ちを」、いま生きている我々、あるいは人類は「繰り返しませぬから」とも読める。もっとも、右翼精神に凝り固まった人には「日本人」は見えても、「人類」などというより高度な抽象概念は見えないのかもしれない。「心の狭さ」と「頭の悪さ」こそ右翼精神の神髄とあらば詮ないことだ。

 とくに、最近、「過ち」という言葉は分が悪い。自分の「過ち」を認めることは「自虐的」でよくないことだというおかしな理屈が蔓延している。だから電車などでうっかりひとの足を踏んでも、「ごめんなさい」のひと言も出ない手合いがはびこっている。「ごめんなさい」と謝るのは「自虐的」でよくない、おれに足を踏ませるようなお前が悪いんだと「毅然とした」態度をとることこそ、誇りのある日本人のなすべきことであるという理屈らしい。なかなか頼もしい日本人たちが街を闊歩しているものだ。

 ちょっと考えれば、「過ち」をおかすのが人間というものであり、人間の作る組織だというくらいのことは分かるはずだが、「おれは間違いを犯さない」、「わが組織は間違いを犯さない」、とかく人間はそういう神話を作りたがるものだ。共産党という政党は「党は過たない」と主張してきた。「無謬性こそわが党の光輝ある伝統」だと。この共産党をもっとも激しく攻撃する人や組織ほど「同じ穴の狢」であるという事実は多いに嗤えるけれど、それもまた動かし難い事実だ。(「批判する」という言葉を使わなかったのは、批判するほどの理性があれば、たやすく同じ穴には入らぬものと心得るからだ)(7/27/2005)

 北京で六ヵ国協議が始まった。この国の外交は「拙劣」の一語。六ヵ国協議のテーマはたった一つしかない。「北朝鮮の核」だ。「拉致問題」をテーマに取り上げようとする国は日本以外にはない。このことはそもそも「六ヵ国協議」が始まったのっけから素人にも簡単に想像できることだった。

 しかし、まさか初日に、韓国から「会議の焦点を分散させる行動は決して望ましいものではない」とか、ロシアからまで「日本は拉致問題を取り上げて、朝鮮半島の非核化という主要問題の解決を困難にするべきではない」などと公式表明される事態を招くとは思わなかった。

 拉致問題が未解決であること、解決すべき課題であることははっきりしている。しかし成り行き任せでは、絶対にこの問題が多国間協議のテーブルに載らないこともまたはっきりしていた。これほど明らかなことなのだから、いくら、首相が見かけ倒しのフリフリ・コイズミで、外務大臣がパープリンマン・マチムラ(ムチムラというあだ名もあるとか)で、拉致問題担当がボンクラボンボン・アベでも、何らかの手は打っているものと思っていたが、所詮そんな期待は幻想だった。

 拉致問題をどう取り上げ、どう進展させるのか、日本の立場はどのように主張し、それぞれの国の利害の網の中で明確に認識させ、各国にそれに対するアクションを強いるためにどうするのか。それは政府・外務省の宿題だったはずだ。いちばん最後のマイルストーンである前回協議の終了から指を折れば、13ヶ月間、政府・外務省、それに強硬一点張りだった拉致問題担当の安倍晋三はいったいなにをしていたのだろう。どこぞの「遊星」ででも遊んでいたのだろうか。

 長い夏休みを空費した小学生でも、9月1日には、宿題帳は埋め、作文は原稿用紙のマス目をつぶし、工作はなんとか形にするものだよ。ところが彼らときたら、真っ白な宿題帳と、去年書いたものをそのままの作文、工作に至っては一緒に作るはずの「金君」が話し合ってくれなかったんだもん、「宿題なんかやってません、なにが悪いんだ」というその態度。

 北朝鮮はニンマリしていることだろう。「日本政府を相手とせず」、それはかつてこの国が蒋介石政権に対して浴びせた言い方だが、いまの北朝鮮政府はそんな気持ちでいるに違いない。(7/26/2005)

 道路公団副総裁の内田道雄が官製談合容疑で東京地検特捜部に逮捕された。談合摘発がここまで進むとは思わなかった。珍しく「本気モード」だなと驚く反面、どこか違和感がある。ここまで「官」を追求するその姿勢の「異常さ」に不自然な感じがつきまとっているのだ。夜のニュースによれば件の副総裁は技術畑出身とか。あの藤井治芳に近かったという。本来なら業界がらみガードしてけっして「官」には手をつけようとしないはずが、あえて壁を越えたのはおそらく公団自身の手による談合が完成の域にあり、政治家の容喙を許さないことが政府、自民党のハイエナ議員の気にくわなかったのではないか。

 容疑事実は「入札妨害」の他に「背任」。業者からの要求に従う形で本来単独の工事を数件に分割させたため公団に5,000万円の余分な支出を強いることになったからだという。このような摘発がなされたということは少なくともこのような例はこれからは後を絶ち、道路公団の発注は効率化され、公正な入札が確保されることにより工事価格は劇的に下がるようになるとすれば、遠からず高速道路の利用料金は値下げされて然るべきだが、そのようなことは絶対にないだろう。

 まず「民営化」が発注に関わるメカニズムをより見にくいものにするはずだ。「自然は真空を嫌う」。利権の「真空」は必ずハイエナ政治屋がこれを埋めようとする。「コイズミ改革」は字義通りの「改革」などではない。「利権構造」の「改革」ではなく「再調整」だ。たとえば首相官邸の見学に便宜を図り、詐欺師の共犯すれすれの行為をするような意地汚い男がいる。安倍晋三という名前の男だ。なにゆえ彼がコイズミにすり寄っているのか。利権の再調整にヨダレを垂らしているからに他ならない。(7/25/2005)

 あしたの朝刊に載るはずの記事。

 首都圏で23日にあった地震で、東京都の震度情報を気象庁に送るシステムの情報処理が遅れ、都内の震度の一部が、気象庁に届くのが発生から約30分かかったことが分かった。この地震で最大だった足立区の震度5強も、気象庁に送るまで22分かかった。都総合防災部は「8年前に導入したシステムで、データの処理能力に限界が出た。抜本的な見直しが必要だ」としている。

 しかしこのご時世に8年前のシステムに手も入れないで足りるとしているのは相当の心臓か、頭がパープリンなのだろう。8年前ということは97年ということ。石原慎太郎が都知事になったのは99年だから、石原は青島時代のシステムがまだ使えると考えてたんだね。さすがベタな文科系だけのことはある。

 それとも銀座通りに装甲車を繰り出してご満悦だった「ビッグレスキュー東京」などというパフォーマンスにはカネを使うが、自分にスポットライトのあたらないものにはびた一文かけないのが慎太郎流ということか。いやいや、このあたりの予算の使い方は、やっと一昨日、副知事を馘首になった浜渦某あたりが一枚噛んでのことと想像すれば理解できない話ではない。防災などという地味なところに配慮できる「武闘派」などいるはずがないのだから。

 その浜渦、交通会館を管理運営する三セク会社の副社長に天下りする由。「副知事の退職金が3,800万、天下り先でも退職金がもらえる殿様待遇」と書いた新聞もあった。石原はよほどの弱みを浜渦に握られているのだろう。浜渦が受け取った退職金程度のカネをかければ、いまどきデータ処理が追いつかないなどという不様なシステムなどきれいに改修できただろうに。まあ都民の安全などより身内の甘い汁の方が大事に決まっているさね。

§

 よる9時からのNHK特集「アフリカゼロ年・子ども兵を生んだのは誰か」を見る。モザンビークの内戦では白人国家ローデシアと南アフリカがポルトガルから独立したモザンビーク社会主義政権をつぶすために反政府ゲリラRENAMOを組織した。このRENAMOが行ったのが誘拐した子どもを兵士に仕立てるという作戦だった。番組は、内戦末期に子ども兵の存在が国際的に明らかになった頃、NHKが取材したフラニスという当時8歳の子ども兵のその後にスポットを当てる形で、ポルトガル植民地だった頃から独立、内戦、ローデシアと南アフリカの白人政権の崩壊、内戦の終結まで歴史を辿る。

 アメリカは終始南アフリカの白人政権を擁護するために国連におけるアパルトヘイト政策に関する非難決議を拒否権で封じてきた。つまり間接的にアメリカは子ども兵によるアフリカ人同士の戦いを側面から煽ってきたのだ。偽善者、アメリカ人よ、自分の姿を性格に映す鏡があれば、注視するがよい。自分たちの国がどれほどに恥ずかしい犯罪国家であるか、それを知ったなら裸足で逃げ出したくなるだろうよ。テロリスト以上に、悪質なテロリストが自分たちの真の姿であること、それゆえに自分たちがテロリストの標的となっていることを知れ。(7/24/2005)

 シナイ半島突端近くのリゾート地、シャルムエルシェイクで現地時間の深夜、日本時間の7時頃に連続爆破テロ。死者は80人を越える由。「テロとの戦い」についてはっきりと分かったことがある。ブッシュ式のやり方ではこの戦いには「勝てない」ということ。そして、かえって「戦い」を救いがたい方向に向わせ、ますます激しいものにしてしまうということ。

 ブッシュ政権、ペンタゴン、戦争請負会社などの戦争をメシのタネにしている連中にとって、それはベストの政策なのだろうが、それ以外のあらゆる人々、恒常的な好戦国家アメリカ合衆国以外のあらゆる国々とって、また、皮肉な言い方をすればまだテロリストになっていないがこれからテロリストになる可能性のある潜在的テロリストたちにとっても、それは望ましいことではない。ハッピーなのは「テロとの戦い」で金儲けができる連中だけなのだ。

 今週のワイドショーのメインテーマは、怪しげな効能をうたう詐欺まがいの健康食品で、小児糖尿病の女の子が亡くなってしまった事件だった。健康食品の名前は「真光元」。中心人物は「堀洋八郎」。堀の説明によると、これを食べると体内で「光合堀菌」なる菌が生成され、この菌が体中の毒素を体外に排出するため、ガンはもちろん万病すべてに効果があるのだそうだ。こういう話をいったいどれくらい訊いたことだろう。それが詐欺でなかったことがあるかと嗤いたくなるが、引っ掛かる人は引っ掛かるのだ。

 ブッシュやブレアが行っている「テロとの戦い」はまさにこの「真光元」に他ならない。効果など期待できない戦い方をいくらやったところで問題は解決しない。不公正なグローバリズムにはらわたをよじるほどの怒りを覚えている人々を武力で蹴散らしても、ほんとうの病に対する処方でない限りは、病状は悪くなる一方なのだ。「テロとの戦い」と称して、己が国の人々まで監視カメラの対象にし、自由な報道までもコントロールするに至っては論外だ。それはちょうど効きすぎる抗ガン剤が正常な細胞までも弱らせて、ガンで死んだのか、抗ガン剤の副作用で死んだのか、分からなくすることにも似ている。911以降、アメリカ社会が「テロとの戦い」のためにしなやかな市民社会をどれほど硬直したものにしたか、そして同じ論理がいつしかアメリカだけではなく、我が国を含む国々をどれだけかつての「収容所列島」国に近づけたか、詐欺師の口上に血迷っているのはけっして件の小児糖尿病患者の母親だけではない。もういい加減に気がついていい頃だが、分からない人は分からないのだ。(7/23/2005)

 **(長男)からもらったチケットで**(家内)とオールスター観戦。**(長男)が言うには「西武ドームでオールスター戦をやるのはこれが最後になるかもしれない」。そうかもしれないのだ。ライオンズが西武球団になったのは78年秋。**(長男)はその年の暮れに生まれた。彼は西武ライオンズとは同い年。

 最初の頃のライオンズはよく負けた。ほんとうによく負けた。後にピッチングコーチになる森繁和はじつにいいピッチャーだったが気の毒なほど勝てなかった。ライオンズは**(次男)が生まれた年にイースタンリーグで初優勝した。その年の暮れに広岡達朗が監督に就任し、翌年82年、プレーオフを制してリーグ制覇、日本シリーズではドラゴンズを撃破して日本一になった。続く83年は一シーズン制に戻りリーグ優勝、日本シリーズの相手がジャイアンツだった。この年の日本シリーズはおそらくシリーズ史上一、二を争う名勝負だった。ジャイアンツを降した祝勝会での広岡の発声は忘れられない、「ことしは全国区のジャイアンツを降した。みんな胸を張って乾杯」。

 一家で「友の会」や「後援会」に入り、新座の**(父)さんから**(母)さんまでまさに一家総出でこの球場に通った、メガホンやら小旗やらの小道具を持って。ライオンズは強かったし、そのプレイは素晴らしかった。ライト線を破る当たりで三塁を狙うランナーを平野、辻、石毛の中継ラインでアウトに仕留めるプレイなどは、球場に足を運ばなければ絶対に見られないもので、快感そのものだった。思えば、我が家はライオンズとともに生まれ、育ってここまできたのだ。近年ふるわなかったライオンズは去年久しぶりに日本一になってくれた。そろそろ、うちも代替わりをする。**(長男)や**(次男)の家庭が同じようなコンテンポレイツを持てるようになればいいなと思う。

 きょうの試合は5−6でパリーグの負け。それなりには面白い試合だったが、カクテル光線のあたるグランドに見えていたものは想い出ばかりだった。(7/22/2005)

 夜になってからあしたの朝刊のトップを争いそうなニュースがふたつ飛び込んできた。ひとつはちょうど2週間経つロンドンで再び同時爆破テロを疑わせる爆発事件が発生したこと。もうひとつは中国中央銀行が人民元の為替レートを1ドル8.28元から8.11元に切り上げると発表したというもの。

 「ニュース23」に出演した榊原英資は「このニュースの重要性は元の切り上げにあるのではない。レートを決定する根拠として通貨バスケット制を採用するとしたところにある」と言っていた。既にロシアをはじめとしていくつかの国が近年ドルを単独の基軸通貨とせずにバスケット制に移行していることを考え合わせると確実にドルの終焉は始まりつつあるのだろう。

 それにしても、日本という、ちょっとばかり先見性には欠けるが、現実対応にはほどほどの能力を発揮する、そういうお手本があったとは言え、発表のタイミング、その内容、ある種のカムフラージュ、・・・。中国のお手並みはみごとなものだと、きょうのところは、書いておこう。この先、中国がお手本のないフロントランナーになったとき、日本と同じような無能性を発揮するのか、それともそれ以上に「出世」するのか、楽しみに成り行きを見てゆこう。(7/21/2005)

 「週刊朝日」を買った。いつ以来だろう、週刊誌など買うのは。新聞と電車の中吊り広告を見るだけで用が足りてしまうのが週刊誌だ。用が足りているかどうかは床屋や診療所にでも行ったときにチェックをしてみればよい。これまでのところ広告で見る見出しから想像したバカさ加減と大きく乖離したことはない。わざわざ金を出すまでのことはなかったというのが実感。

 それでも買ったのは、たまたま昨夜の「プロジェクトX」の再放送にYS11の開発を指揮した東條輝雄が取り上げられていたことと、中吊り広告に「東條英機(次男)輝雄氏が語る靖国」という見出しを見たため。300円の価値があったかとなると微妙。新たに知ったデータはただ一つ。靖国にA級戦犯を合祀して昭和天皇の不興を買った松平永芳が今月10日に肺炎で死んでいたこと。その他の記事はほとんど既に知っていたことだった。東條輝雄のインタビュー発言が記録としては意味があったか。以下、彼の発言の部分を中心に抜き書きしておく。

(記事のマクラ部分:松平永芳の死を記者が訊いて)
「え、亡くなったの? 知らなかった」と驚いた様子だった。そして、「あの方とは、親しくしていただきました」

(A級戦犯の処刑日に靖国神社が行っている命日祭について)
「7人のため、というわけではなくて、靖国神社は、12月23日に亡くなった人たちのためにおまつりをしているのです。毎年20〜30人が集まりますが、7人の遺族は2、3人です」

(78年秋に行われた合祀について)
「われわれが申請して、祀っていただいたわけではございません。全部、靖国神社がお決めになられたことなのです。合祀されるという情報を、私はどこからも受けないうちに合祀されたわけです。聞いた瞬間、非常にありがたいことだと思いました。靖国神社に合祀されている現在の状況に感謝しています」

(85年に当時参議院議員だった板垣正が合祀の取り下げを打診してきたときのことなど)
「説得ではなく、意見を聞きに来られたことはありました。まだ現役のころで、会社に訪ねてこられました。私が『遺族が発音すべき筋合いの話ではないでしょう』と申し上げたら、板垣さんは『よくわかった』と言って、帰っていかれました。それだけのことです」と説明した。さらに、「合祀にしろ、分祀にしろ、遺族が希望を申し出るような話ではなくて、靖国神社自身が判断されることだと思っています。もし、分祀をすると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれど、連族は『それはいけない』と言う立場にはないと考えています」と語った。東条英機氏の孫で、輝雄氏の姪にあたる東条由布子さんが分祀に反対する趣旨の発言をしでいることについては、「遺族が、そういう口出しをするのは筋違いだと、私は思っているのですがね」とも述べた。

 ただひとこと、東條輝雄に「敵国の裁判で刑死したお父上と、お父上の命令で戦場で戦死した人々が同じお社に祀られることをどのようにお考えなのでしょうか」と尋ねてみたい気がする。

 欄外に東郷神社の松橋宮司が「靖国神社に祀られているA級戦犯14人を東郷神社に分祀する」と提案しているという「週刊ポスト」の記事についての顛末というか解説のようなものが書かれている。いかにも、無論理を唯一の教義とするような神道らしい論理で嗤わせる。夜郎自大は神道家の癒し難い病なのだろう。いや宗教関係者というものは基本的に夜郎自大の「原理主義者」だという方が正しいのかもしれない。(7/20/2005)

 フレックスを使って30分ほど早く工場を出た。例によって、中央線は遅れている。理由が嗤わせる、神田駅構内で京浜東北線が人身事故を起こしたからだそうだ。ダイヤ通り運行する気などさらからないのだったら時刻表など掲げておくな。なにより腹ただしいのは特急の通過待ちで延々と待たせること。特急料金の払い戻しがかかっているから、そちらだけはダイヤを死守しようとしているのだ。

 どうだろう、遅延時間を定期券に記録しておいて、定期期間内の累積遅延時間が一定時間を超えた場合は、その累積時間の長さに応じて定期券料金から一定比率の額を割り戻す制度でも取り入れたら。JR東日本、就中、中央線関係者にはその程度のペナルティを課さない限り、ルーズ極まりない彼らの仕事意識は直らないだろう。

 **(母)さんのステントの装着はうまくいったとのこと。これで肝臓の左ブロックからの胆汁の分泌は確保されるらしい。***(一部省略)***、これでも黄疸の改善にはかなり役立つはずという。あくまで対症療法であることは変わらないが仕方がない。(7/19/2005)

 朝刊コラム、「時の墓碑銘」は「海ゆかば」。この曲に対する三人の言葉が紹介されている。小説家というよりは「さっちゃん」や「おなかのへるうた」や「大きな栗の木の下で」などの作詞で知られる阪田寛夫は「私の耳には賛美歌のようにひびいた。」と書き、鶴見俊輔は「私は『海ゆかば』という歌がとても好きなんです。それに対して脱帽するんだけど、同時に、対峙するのもそれなんだ」と書いている由。

 旧制川越中学の同窓会誌には、この曲の合唱にタクトを振った音楽教師が「このタクトが前途ある若い生命を奪ってしまったのではないか、と時に悪夢にうなされた。戦後、校庭の焼却場でこっそりタクトを焼いた。一筋のぼる煙に、戦死した教え子たちの顔を思い浮かべながら合掌した」という一文を寄せていたともある。

 この曲について團伊玖磨は「好きな曲・嫌いな曲」の中でこのように紹介している。

(前段にいくつかの軍歌・軍国歌謡・軍国的童謡などをあげた上で)その中で、一際色の異なる歌がある。信時潔作曲、古歌「海ゆかば」がそれだ。
 この歌は、昭和十三年にNHKの依嘱に依って作られた。信時先生に直接伺ったところによると、だんだんに戦時色が放送にも反映し始めた頃――昭和十三年は日華事変勃発後一年目である――総理大臣や、重臣のような人達が放送で講演するような場合、その開始に先立って演奏するテーマのような音楽があった方が良いと言う事になって、この曲はその目的のために作られたという事である。
「海ゆかば」は、その雄渾でナイーヴな旋律と、荘重な和声が人の心を動かし、戦争中には、「君が代」に次ぐ準国歌としての役割を果たした。どれだけ多くの場所で、どれだけ多くの人にこの歌は歌われただろうか。

 どうして「君が代」に取って代わってしまわなかったのか、それが残念だ。この曲は「君が代」など足元にも及ばない名曲だと思う。試みに「君が代」のメロディーを復習ってみればいい。誰にでも得心がゆくだろう、辿々しく音の階段を上り下りするだけ。まるで小学校一年生向けの練習曲だ。聴き比べれば曲としての巧拙は明らかだ。なにを好んで「階段練習曲」を国歌として居座らせたのかと嘆じたくなる。

 あえていえば、歌詞が不人気であったのかもしれない。

海ゆかば 水漬く屍           海をゆくならば 水に洗われた死体に
山ゆかば 草むす屍 山をゆくならば 草陰に隠された死体に
大君の 辺にこそ死なめ 天皇陛下に お仕えする下の者として死のう
かえりみはせじ 後悔などするものか

 これではまるでタナトス賛歌だ。まるで死ななくては世の中の役に立てないとでも言いたげで、それほど先を争って死んでもらっては国を守ることも作ることも適わない。(どうせ命ずるだけの上つ方の連中は生き残ってなんぼの生き方を選び、口うるさく囃し立てる右翼人士どもははなから命をかける気などない、したがってそんな心配などするまでもないのだが)

 この信時の名曲を活かし万葉集にある国見の歌をもう少し全国バージョンにしたようなよい詩をつけて、完成度の高い国歌にすることはできないものだろうか。もっとも、そのとき、「うみゆかば」という曲名も消えてしまうとすれば、それも惜しい気がするけれど。(7/18/2005)

 死者55人を出した十日前のロンドン同時テロは自爆テロによるものと分かった。イギリス社会に衝撃を与えたのは犯人4人がすべてパキスタン系とはいえイギリス国内で生まれ育った若者であったということだった由。マスコミはすべてアルカイダ、イスラム、原理主義、過激派、・・・という枠組みから事件を説明しようとしている。そしてお決まりの「テロとの戦い」だ。

 ほんとうに「テロとの戦い」などというものがあるのだろうか。ほんとうに「イスラムとキリスト文化圏との戦い」などというものがあるのだろうか。あるのは単純な貧富の格差に根ざした、所属する社会に対する抗議活動のバリエーションに過ぎないのではないか。そんな気がしてならない。

 新しい自由競争の波の中で、下品な富裕層ができつつある。彼らはかつての富裕層が持っていたような社会的責任感を持ち合わせていない。新しい自由競争はまずコミュニティを破壊し、個人を徹底的にアトム化しながら、一握りの新しい富裕層と大多数の失敗者を生む。かつての失敗者には受け皿としてのコミュニティにおける相互扶助があったが、アメリカ発の「グローバルな」「自由主義」にはそのようなものは用意されていない。持てるユダヤ人と持たざるパレスチナ人のような関係はいまや世界中に形を変えて生まれつつある。その持てるユダヤ人に対する無差別「攻撃」が最近のテロなのではないか。(7/17/2005)

 軍隊が国民の生活と財産を守る存在だなどと信じている人々がいる。虚妄だ。軍隊は国民など守らない。軍隊が守るのは権力機構だ。時にはその権力機構さえも守らずに自らの中の統制機構しか守らないこともある。しかし平時においては軍隊はそんなことをおくびにも出さない。だから表に見せられていることによってたやすく騙される人々は戦時において軍隊が自分の生活と財産を守るものと信じ込んでいる。いずれにしても権力機構というものは必要悪であるから、ものが見える人々もあえてそのようなことをあかしてみせることはないと考えて黙している。ただ統制機構にのみ義務感を抱くような徴候には警戒する必要があるし、時にはその芽を摘むための努力はしなくてはならない。

 似て非なるものに軍事同盟がある。この国には日米安保条約を軍隊のように誤解している人々がたんといる。先日の国連総会におけるアメリカの演説を聴けば、それが希望的な誤解に過ぎないことがよく分かったものと思う。平時においてすら自国の独占的な特権の維持のために同盟国を見捨てるのみならず踏みつけにする国が戦時に自らの血を同盟国のために流すなどと信じるのはただ愚か者だけであろうから。もっとも、きのうのサンケイ抄のレベル、あのお粗末な現実認識が国民の平均値だとすれば、まだまだ多くの人が無明の眠りの中にいるのかもしれない。(7/16/2005)

 けさのサンケイ抄は痛快だ。胸のすくような書きぶりだから、全文を書き写しておく。

世界は六十年前と何も変わっちゃいない、と言ったら悲観的過ぎるだろうか。米国は国連安全保障理事会の常任理事国入りをめざす日独など四カ国グループ(G4)の決議案に反対するよう各国に呼びかけた。
▼政府は「米国は日本の常任理事国入りは支持してくれている」と強がっているが、敗色濃厚になりつつある。既得権益を持つ米国が簡単に賛成してくれるとでも思ったのか、甘いと言われても仕方がない。日本の常任理事国入り阻止に躍起になっている中国の妨害工作も執拗(しつよう)で、米中が手を握ったG4包囲網は強力だ。
▼こうなれば仕方がない。戦前の松岡洋右外相なら席を蹴(け)って退席しただろうが、日本には「分相応」という言葉がある。G4案が否決となれば「日本は国連で責任ある立場につくな」ということと同然なわけだから、「日本はこれから国連分担金を常任理事国の中国やロシア以上には払わない」と宣言してはどうか。
▼国連は、各国の経済力に応じて分担金納入を求めており、日本の分担率は米国(22%)に次ぐ19・5%にのぼる。今年の通常経費分は約三百八十五億円。このほか、国連平和維持活動(PKO)経費などに、昨年は約八百五十億円を国連に供出している。
▼年間の負担は都合千二百億円を軽く超える。ちなみに中国の分担率は2%、ロシアに至っては1・1%に過ぎない。日本も中露並みにしてもらえば、年間千億円以上も国民の負担が減る。
▼常任理事国どころか、日本、ドイツを対象とした国連憲章の旧敵国条項は、戦後六十年たっても削除されていない。戦勝五カ国でこれからも好きにやりたければどうぞ、ご自由に。その代わりおカネは出さないよ、と小泉さん、一度、たんかを切ってはどうですか。

 社説ではなくコラムなのだから、これはこれで読ませる内容にはなっている。金を出しているのだからオレにもやらせろというのは、いかにも成金が言いそうなことで説得力がある。そういう物言いが好きな輩はそのように呼ばわるものだが、器量と見識と人望が備わっていなければ眉をひそめられるだけのこと。得てして器量も見識も人望もない成金に限って大風にふるまうものだ。この国がサンケイがあるべき姿と主張するような国になったとき、そのような器量と見識と人気を備えているかどうかは書かぬが花だろう。

 そうはいってもなくてはならぬカネを拠出していることは事実。サンケイ抄子は日本の分担率はアメリカに次ぐと書いているが、実際に払っているカネとなると日本は国連の最大のスポンサーなのだ。第二位はドイツ。アメリカは滞納額が大きいので実際に払っているカネは第三位となっている。本来、負担金は各国の国民総所得(GNI)に基づいて算出することになっている。アメリカは上限を主張して例外的に22%というシーリング値の適用を受けていながら、自分が主張したその優遇額さえ払っていない。つまり、サンケイ抄子が正確を期すならば、いまだGNIが低いために自動的に分担率が低くなっている国を云々するよりは、手前勝手に決めた優遇措置さえ守らず日本やドイツ以下の負担金しか払っていないアメリカこそいの一番に批判すべきなのだ。

 まあ、そんなことはよいとしよう。そもそもサンケイ抄子の怒りの発端はアメリカがG4案に反対するように各国に呼びかけたことにある。とすれば、国連負担金などに当たり散らすよりも前に矛先を向けるべき相手があるだろう。我が国政府は日米同盟を重視するが故にイラクのサマワに自衛隊を送っているではないか。このイラク派兵について、サンケイ新聞は読売新聞と並んで対米重視を主要な論拠として積極的にこれを支持したのではなかったか。それほどにアメリカを信頼したサンケイ新聞ならば、ここはまずこの深刻な矛盾について一言なくしては国連のことなど語れない。肝心要のところがサンケイ抄子の頭からすっぽり抜けているのはどうしたわけか。サンケイ抄子の鳥目はとっくに承知している。ものがよく見えぬコラムでは滋味に欠ける。一刻もはやくビタミンAを摂取されたい。呵々。(7/16/2005)

 けさ未明に野口聡一を含むメンバーを乗せて打ち上げられるはずだったスペースシャトル「ディスカバリー」の打ち上げは延期になった。原因は燃料センサ。ことし春、不具合が見つかりながら原因を特定できず、「アトランティス」のものとタンクごと交換することで「対策」としていた由。こういうやり方が「対策」となりうる組織は、既に衰退の入り口に立っているのではないか。

 昨夜のTBSニュースではコロンビア事故調査に関わった人物が、スケジュールを優先するNASAでは上司は部下からのよいニュースにしか耳を傾けなくなっていると証言していた。毎日新聞のサイトには、その事故調査委員会が指摘した改善項目の達成度について、外部の評価専門チームは「完全ではないが、著しく改善した」とまとめたのみで、ゴーサインはグリフィン長官が行わねばならなかったとある。

 それでも、まだ、ギリギリのところで踏みとどまることができただけ、NASAには「理性」があったということだ。(7/14/2005)

 国連安保理の枠組み拡大に関する審議が国連総会で行われている。上程されている案は三つ。ひとつめが我が国を含む「G4(日本・ドイツ・インド・ブラジル)案」、ふたつめがこれに反対することのみを主眼にまとめられた韓国、イタリア、パキスタン、アルゼンチンなどがまとめた「コンセンサス連合案」、みっつめがアフリカ連合の主張する「AU案」。G4にとって共同提案国の多寡は、現在の数では、ほとんど有効な意味を持たない。G4がアフリカ連合諸国を味方につけ得なかった時点で「国連の現状を変える」という目標からすれば負けているからだ。「天下三分の計」が政治力学の初歩であるのは、「鼎立」はある種の安定、現状の固定化を意味するからだ。

 G4、四ヵ国にはそれぞれ役割の分担があったはずだ。おそらくアメリカへの働きかけは我が国の役割であったろう。そのアメリカの総会における演説には、外務省と政府関係者、与党と民主党までの野党関係者、のみならず大方の国民も絶句したに違いない。「アメリカはG4案に反対する」というに留まらず、他の加盟国に対して「G4案の決議に際して反対するように」という呼びかけまで行ったからだ。大島賢三国連大使(北岡伸一が国連大使だったのではないのか、いったい何人、国連に「大使」を送り込んでいるんだろう?)は「がっかりした」とコメントしたそうだが、この話しぶり、どこか偏差値10で東大の理Vを「記念お受験」した受験生のようなトーンがあって二重に「がっかり」させられる。これが我が国の外交か。これが国連に優先する外交基本軸である「日米同盟」の実相か。

 そういえば、今月末にも開催されるらしい六ヵ国協議、「拉致問題」の扱いにおいて、北朝鮮は当然としても、韓国までが釘を刺す姿勢を明確にしている由。客観的に考えて拉致問題を六ヵ国協議の場で共通課題として取り上げることが難しいことは誰が考えても想像できるし、過去三回のの協議がそのように推移したことは事実として誰もが知っていることだ。では、それをどのように取り上げさせるのか、あるいは個別二国間問題として事前にどのようにこなし全体会議に持ち上げるのか、または、六カ国協議の名前で北朝鮮に枠を嵌める文言を盛り込ませるのか、この一年間、政府はそのために韓国に働きかけをしたか、ロシアに働きかけをしたか、議長国である中国に我が国の意向を伝えてきたか、いったいなにをしてきたのだろう。右翼マインドの人たちは「中国や韓国が反日的である以上、仕方がない」などと考えているのかもしれないが、わざわざ敵を作る愚を犯してきたことに気付かないほどに彼らはバカなのだろうか。

 きのう小泉首相と町村外相はそれぞれに来日したライス国務長官と会談し、ライスは席上「拉致問題の解決を強く支持している」と言ったと伝えられる。ここに見る限り、「解決」の根回しとしてなにを仕掛けているのかはもちろんのこと、具体策についての話はほとんどできなかったのだろう。だとすれば「支持する」はするだろうよ、そのために自ら動かないですむのだから、リップサービスなどお安いものだ。ひとりではなにもできないし、しない、そのくせ、靖国参拝のようなことは意地でもやる、そんな子供のような政府には「外交」などというものは存在しないのかもしれない。雑誌「論座」の最新号広告に「小泉首相のジコチュー外交」なる見出しが踊っていたが、あまりに的確な指摘で涙すら出てこない。(7/13/2005)

 初七日。全龍寺にお参り。決定した納骨の日程を伝え、新盆の相談。16日、新盆供養の会を案内される。

 その足で**病院にまわる。**(家内)を****(整体)に送って帰宅。

 あいかわらず三井住友VISAのカード記載電話番号は話し中の連続。業を煮やして、ホームページで別の電話番号を調べてやっとつながる。カート記載の番号が話し中の旨言うと、「回線数が少ない」ようなことを言う。5分おきに数回、10分おきに数回、30分おきに数回、これをきのうときょう半日ずつトライしてすべて話し中。問題はそういう役に立たない番号をカード記載しているということにあるのが分からないのか。カードには拾得した場合にはこの番号にかけてくれと印刷してある。カードを拾った者が、これほど話し中の電話に根気よく連絡するわけはあるまい。三井住友VISAカードのサービスレベルはいちばんベーシックなところで破綻している。信頼できるサービス体制ではないようだ。うちの三井住友VISAも利用状況が確認できたら廃止しよう。(7/12/2005)

 朝、**(母)さんの病院に行く。**先生の話では・・・(省略)・・・。

 暗澹たる気持ちで新座の家に行く。雨戸を開け放って空気を入れ換え、とり散らかった居間の片づけをする。半年前、**(父)さんはこのうちから救急車で出て行き、ついに帰ることはなかった。幾度も幾度も「帰りたい、家に帰りたい」と繰り返していたのに。十日ほど前、**(母)さんは早ければ一泊二日、かかっても十日ほどくらいの気持ちでこのうちから身の回りのものをバッグに詰めて出ていった。もしかすると**(母)さんもついにこのうちに戻ることはないのかもしれない。そう思ったとたんに涙が出てきた。あとからあとから涙が出てきて止まらなかった。出てくる涙を**(家内)に見られたくなくてリスニングルームに行き、「カミュの手帳」を本棚から取り出した。

 やみくもに開いた頁にこんなフレーズがあった、「一人の下士官を殺した一兵卒が、刑を執行される。・・・彼はこう叫んだ。《さらば北よ、さらば南よ、・・・東、そして西よ。》」。いまこうして日記に書く段になると、もちろん、カミュの意思とは別に、皮肉な意味を嗤いたくなるが、昼間、これを読んだときにはこんな風に読めてしまった、「さらば弟よ、さらば父よ、そして母よ」と。

 **(父)さんのカードの廃止連絡。6種類。セゾンカードなどはVISA、マスター、アメックスと勢揃いだ。たぶん、奨められればすぐに加入したか、買い物の時にでも次々と作ったのだろう。三井住友VISAカードのみ、表記の電話番号がずっと話し中のため連絡がつかず。夕方、携帯電話の廃止のために所沢のドコモショップへ。いまどき、現物と事情を証明する文書を持参して窓口に来いというのだから、たいしたものだ、さすがに旧電電公社の流れを汲むだけのことはある。(7/11/2005)

注) ここに書いたフレーズは、「手帳2」に収録されています。なお、公刊時の書名は「***** カミュの手帖*」となっています。

 葬儀屋が「諸手続きのチェックリスト」というパンフレットを置いていった。頭が痛くなりそうなほどいろいろのことが書いてある。こちらはその他に**(母)さんのことがある。できることからあせらずに順に片づけてゆくほかはなさそうだ。一段落するには早いのだろうが、きょうは**(母)さんのところへの報告以外はなにもせずに、ボンヤリを決め込むことにして一日を過ごす。

 夜、**寺(仙台にある菩提寺)に連絡。納骨を来月11日10時にする。法名は一週間内に連絡いただくことに。

 通夜だ、告別式だと追い立てられているとき、ロンドンでは地下鉄とバスを狙った同時多発テロが発生していた。死者は確認されただけで49名にも及ぶ由。(7/10/2005)

 通夜、告別式、火葬、初七日法要まで終了。火葬場に着くまでは曇りながらも、なんとか天気は持ってくれた。多磨霊園内の火葬場に着くころに雨が降り出し夜にかけて雨が強くなった。

 **(弟)に比べるとがっちりした骨だった。大腿骨も、上腕骨も、骨盤も、すべてしっかりと厚みのある充実した骨。焼き場の担当者は「いちばん大きな骨壺を用意させていただきました」と言っていた。

 **(母)さんは通夜には参列できたものの、きょうは無理だった。朝、**病院の**先生から「状況を説明したうえで本人にきょうは無理だと伝えたいので来て欲しい」という電話。血圧が半分にまで下がり血中酸素も低い。酸素マスクをあて、栄養点滴と昇圧剤を点滴。かすれる声で「体がどうなっても出る」と言い張るのをなんとか説得。

 以下は告別式の挨拶として読み上げたもの。

・・・(略)・・・

 紋切り型の挨拶が無難かと思ったが、やはり**(父)さんのことを語りたかった。しかし読み上げる途中で涙声になってしまった。いったん躓いたプレゼンのリカバリーは難しい。裏返ってしまった声は元に戻らなかった。涙で原稿も見えなくなってしまった。ずいぶん格好が悪かったが、仕方がない、あれがオレの限界だ。(7/9/2005)

 きのう、あさ7時前、**病院から電話、一彦、5時頃から痙攣の発作につき、至急来て欲しいとのこと。休暇メールを入れてから、**(家内)と病院へ。ほどなく出勤した**院長の説明は「何らかのアクシデントが脳の中で起きている、脳出血がいちばん疑われるが、ここ半年の経過から見て、CT検査などの意味はもうあまりないと思う」とのこと。「脳死一歩手前と思うので、必要な人には連絡を」ということで、**(長男)、**(次男)、町田、小平に連絡。**病院に行き、**先生に事情を説明、**(母)さんの外出許可をもらい連れてくると、ほどなく**(長男)も来た。

 午前中は数分ごとだった痙攣が午後には二、三十分おきになり、少し安定。ロスコスト低減依頼の件があり、一晩越せない時のことを考え会社に出て最小限の段取りをし、じりじりする思いで病院にとって返す。かなり安定したとのこと。

 院長、当直医とも「何かあれば連絡するから」と休むことを奨めてくれたので8時過ぎに帰宅。

 けさは**(家内)が先に病院に行き、夜中1時過ぎに着いた**(次男)と、昨夜いったん会社に出て4時過ぎに帰った**(長男)の起きるのを待ってから病院へ。院長が安定しているからCTを取ってみましょうかといってきたのでお願いした。脳出血ではなかった。新しい部位の梗塞のようだ。快方に向って階段を上ってくることは考えられないが、下り階段の踊り場にいるのかもしれない。ほとんど終日、ベッドサイドについて、夕方5時にいったん帰宅、タオルケットなど足りないものを用意して再度病院を往復してきた。

 左手は麻痺しているようでほとんど動かないが、右手は動く。手の表情も豊かだ。手をあわせると時折強く握り返してくる。豊里の**(義父)さんとは比べものにならぬ軟弱な手、皮膚はすべすべし女性的な感じさえする。ベッドに横たわる**(父)さんを見下ろす。見えているのだろうか、うっすらとあいたまぶたの奥の眼は焦点が定まっている風ではない。この手に引かれてお出かけをした幼児の記憶が浮かび、思わず涙が出てくる。涙は**(父)さんの顔には落ちない。眼鏡をかけていてよかった。涙は凹レンズが貯めてくれる。近眼でよかった。

 長期戦になるのかもしれない。反応がない分だけ、先週までよりは張り合いがないやり取りを覚悟しなければなるまい。(7/5/2005)

 きょうの**(父)さんは少し前に持ち込んだハーモニカを吹いてご機嫌だった由。調性の違うふたつのハーモニカを二段重ねに持ち、一人合奏するのは**(父)さんの特技。知床旅情を吹いたところ、何人かの患者さんが集まってきて拍手してくれたという。

 **(家内)からそんなことを訊きながらテレビをザッピングしていると長嶋「天皇」が映った。ジャイアンツ−カープ戦を観戦するためドームに来たらしい。右半身が麻痺しているのだろう、右手はポケットに突っこんだままだが、左手で観衆の歓呼に応えていた。相当にきびしいリハビリに耐え抜いてのこととか。

 コント55号の坂上二郎も脳梗塞で倒れてからリハビリに取り組んでそれなりに回復し、ラジオ出演などをしていた。「舞台」に復帰するとか人々が注目しているという意識は、こういう訓練には強烈な励みになるのだろう。**(父)さんもハーモニカ芸があれば、新座園に移ってからも目標を持てるかもしれない。(7/3/2005)

 主に一人暮らしの老人を狙って、無料点検などを口実に上がり込み、無用のリフォームを奨める悪質な手口の会社の営業マン4人がおととい詐欺容疑で逮捕され、そのニュースで持ちきりの状態。

 件の会社の元営業マンの話によると、まず電力会社を装って電話をかけ電力使用量の傾向を調べるアンケートと称して、家族構成などを確認するなどしてターゲットを絞る由。その上で「無料」を看板に誘いをかけ無知に乗じ不安を煽り契約に持ち込むのだという。報道内容に見る限り、問題は「売っているものがダメ」、つまり工事内容がいい加減であることと、請求金額が法外であることにしかないようだ。

 ターゲットを絞り込む調査をする時にウソをつくことも、「タダ」や「格安」を看板に誘いをかけることも、顧客の無知に乗ずることも、不安を煽り立てることも、優秀な営業マンならば誰でもやっていることではないか。必要のないものを、あたかもそれがないと不便極まりないとか、損をしますなどと称して売りつけるのは、この時代にあってはもはやあたりまえのことになっているではないか。

 世の中に氾濫している「ビジネス」のほとんどが既にそういうもので占められており、それをカウントしてGDPを算出し、「成長」したのしないのと大騒ぎしているのはどこのどなたか。事件報道を見ながら、限りなく詐欺師に近いビジネスマンによって、この国のテンプラのような繁栄が演出されていると思えば、なにやらうら悲しい気分になってくる。(7/2/2005)

  宮城県の浅野知事が今年度の警察捜査報償費2,300万のうち既に支出された700万の残り1,600万の執行停止を決めたことが波紋を呼んでいる由。知事側は99年度の捜査報償費に関する会計文書の提出とその支出に関与した捜査員に知事自身が面接することを条件にしているのに対し、県警側は保護すべき協力者の氏名が書かれた会計文書は提出できない、捜査員への聴取も捜査に支障が出ると拒否している。

 全国各地で明るみに出た捜査報償費支出の乱脈ぶりに照らせば、県警側が拒否をしている理由は、件の会計文書などおよそ警察部外者にとっては公文書たり得ない代物であること、そして末端の捜査員は報償費の裏金化に協力するだけで県警が言うところの「保護すべき協力者」などに現金を渡したことなどついぞないのが実態だからではないか。

 一連のやり取りに関係して、きのう、警察庁の漆間長官は「今年度の報償費の執行に問題があったのだろうか。問題なしに執行を止めるというのは権利の乱用だ」と発言したという。おかしな言葉遣いをするものだ。この場合、カネを使う「権利」を有しているのは県警であって知事ではない。知事が有しているのは一次的予算執行の「権限」であり、それが適正であるかどうかについての納税者に対する責任は知事が負っている以上、その内容について適正な説明を求めるのは当然のことだ。

 漆間某がなすべきことは報償費を裏金化したうえで幹部の私費に転用するが如き浅ましい事態をいかにしてなくするかに心を砕くことで、むやみに「カネを使う権利」を主張することではない。警察庁長官としては一方にまったくブラックボックス化している公安警察の報償費がある以上、バランス上、それに見合うものを刑事警察のメンバーにも与えたい事情があるのかもしれないけれど。(7/1/2005)

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