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2015.04.16. 掲載
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目次
1.はじめに
2.今回のクラス会のあらまし
3.これまでのクラス会で先生が話されたことなど
4.クラス会の抄録(1946年〜2015年)
5.写真一覧(1946年〜2015年)
6.クラス会が長く続いた理由
7.私にとっての庄野学級
8.まとめ
戦後最初の新学期を、1946年(昭和21年)4月に、私たち48名は神戸市立高羽小学校4年庄野学級の生徒として迎えた。担任は旧姓庄野、現姓奥村千鶴子先生だった。今から69年前のことである。
その奥村先生が昨年(2014年)3月10日に91歳で亡くなられたことを喪中はがきで知り、クラスメートは驚き悲しんだ。その前年の9月28日に、ご在住の東京で、先生の卆壽のお祝いをした際のお元気なご様子が記憶にあり、今年もまた東京でクラス会を開くことに決めていたからである。
桜咲く4月9日、阪急六甲駅近くの六甲苑で、奥村先生を偲ぶクラス会が開かれた。
今回はこれまでに行われた13回の庄野学級クラス会の記録をまとめ、奥村先生への追悼文としたい。
今回の奥村先生を偲ぶクラス会には、女性7名男性4名の11名が参加した。黙祷ののち、一つの円卓を囲んで、先生の思い出を語り合い、当時の庄野学級の楽しかったこと、素晴らしかったことを途切れることなく話した。
私たちは今年79歳になる。これまでにいろいろの苦労や悲しみ体験してきた人、今も同じ状態にいる人も少なくはないと思うが、誰の顔にも笑みが絶えず、爆笑が起きる。先生がきっとお喜びになる楽しい情景が3時間続き、予約時間を過ぎてからは喫茶店に席を移して、1時間ばかり喋って散会した。「こどもたち、いつものように仲良くしているね」と、先生は微笑んでいらっしゃることだろう。
2002年、66歳の時にに第1回のクラス会が開かれ、今年2015年までの間に13回のクラス会を持ったことになる。その他にもミニクラス会を何度か持った。このようなクラス会は他にはあまり見られないのではなかろうか?
毎回クラス会のお世話をしてくれている磯部君から、先生のエピソードを聞かせてもらった。国民学校3年で岡山へ学童疎開した時も彼の担任は庄野先生だった。
1945年11月、疎開地を離れる際に、お世話になった地元の方々とのお別れ会で、先生はお礼を述べられたあと、「25年後の私たちを見て下さい」と話されたそうだ。
先生はその時22歳、辛い疎開生活の中で、母親のように9歳の男の子たちの面倒をみながら、教育者としての使命感をお持ちだったのだ。素晴らしい。感動する。
これまでのクラス会で、庄野先生が話されたことばを中心にまとめてみた。青色太文字をクリックすると該当するクラス会にジャンプする。
第1回のクラス会は塩屋の高台にある庄野先生のご自宅で開かれた。阪神淡路大震災で灘区のお家が全壊し、以来この塩屋でお住まいだが、ご主人が亡くなられたあとも、雌の愛犬「夏ちゃん」と暮らしておられた。79歳まで、神戸の元町でドレスメーキングを教えて来られたそうだ。(第1回)
先生のお宅へお邪魔する前に、クラス会のお土産に何が良いかとお尋ねしたら、「歌が良い」と言われたので、下記の「庄野学級唱歌集」を作って持参し、皆で歌った。ABCDの歌を英語で教わったのはよく覚えているが、ウエルナーの「野ばら」について、「この歌をドイツ語であなたたちに教えたと思う」と先生が言われた。そう言えば、そのような気もする。(第1回)
庄野学級唱歌集
1.ABCDEFG(きらきら星)----------フランス民謡
2.オウマ-----------------------------------文部省唱歌
3.ウミ-------------------------------------文部省唱歌
4.海----------------------------------------文部省唱歌
5.夏は来ぬ---------------------------------小山作之助
6.花嫁人形---------------------------------杉山長谷夫
7.赤とんぼ---------------------------------山田 耕筰
8.浜千鳥-----------------------------------弘田龍太郎
9.ふるさと---------------------------------岡野 貞一
10.荒城の月--------------------------------瀧 廉太郎
11.からたちの花----------------------------山田 耕筰
12.野ばら----------------------------------シューベルト、ウエルナー
13.モーツアルトの子守唄------------------フリース
14.シューベルトの子守唄------------------シューベルト
15.サンタ・ルチア-------------------------ナポリ民謡
16.蛍の光----------------------------------スコットランド民謡
17.仰げば尊し-----------------------------不詳
18.高羽小学校校歌(昭和13年制定)
庄野先生のお宅に上がったところで、「記念撮影をしておこう」と言われたのには、ちょっと面食らったが、あとでそれが正解であることが分かった。机の上に並んだ品物は多くはなく、ちらかっていない。後で撮影となると、忘れてしまうこともあり得る。実際、第2回目は写真を撮り忘れている。(第1回)
「あなたたちは、どこからお寿司を取ったら良いか分からないだろうから、私が取っておきます」と仰り
かかって来た電話には「いま、こどもたちが集まっているの。だから、そんな難しいお話には答えられない」と返事をされていた。(第1回)
IKさんが、ご主人の介護で時間的に無理となり、欠席されたとお伝えしたら、「それは大変ね、帰ったらすぐに、私から電話をしておきます」と答えられたが、覚えておられたかどうか?(第4回)
「夏ちゃんが9歳で死んで、悲しくて涙が止まらない」「今日、皆とこうやって会えたので、これからは元気が出てくると思う」と言われた。(第3回)
「夏ちゃんが死んで悲嘆にくれたけれど、新しく秋ちゃんを飼って、元気になった」と話される。柴犬で、秋にもらってきたから「秋」と名付けたとは単純明快だ。「オスですかメスですか?」とお尋ねすると「メスよ、メスは優しくて良い」と仰る。山下君が「やっぱり女の子は良いですよ」と横から口を出と、先生も「ほんとうにそう、嫁も娘もよく気をつけてくれる」と仰る。(第4回)
私たちの来訪に対して、「教師冥利に尽きる」と何度か言われた。(第1回)
昔のクラスメートが嬉々として集い、語り、唄うこのような会を、何度も開いてくれたことへの感謝と幸せを、くり返し口にされ、「教師冥利に尽きる」と仰った。(第4回)
私のサイトの旧友との再会という記事に載っている1957年の写真をご覧になって、「この人だれ? 私はこんなに若かったの?」と話され、「私はあの頃から、自分の服を全部自分で作っていたのよ、自分で裁断し、ウエストをキュッとしめ、、、」そのあと服飾用語を連発された。(第4回)
1946年というのは敗戦の翌年、それまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」だったのが、「男女共学」に教育方針が変更され、そのテストケースとして「庄野学級」が作られた。「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだからと言って、3年生の担任だった先生方が、良い子を回してくれた」と話された。(第3回)
「あなた達は選ばれた良い子だった」(第4回)
男女共学のモデルケースとして、他校の先生方が庄野学級の授業を見学に来られた時、磯部君は、見学の先生方を感動させる発言をしたらしい。「あんなに小さなこどもの口から、とっさに、これほど優しいことばが出るとは、よほど、このクラスの教育は行き届いているに違いないと、後でほめられた」そうだ。そのことを少なくとも3回は話されたので、先生にとって、大切な思い出であることが良く分かった。(第1回)
「あなたたちはほんとに良いコンビだったね」と言われた。私たち二人はやんちゃで、絶えず悪いことをするので、「赤鬼と青鬼のあだ名をつけていた」そうだ。「その赤鬼と青鬼は、鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動していた」と、ニコニコ笑って話された。
どんな悪いことをしていたのかというと、横山学級という男子だけのクラスを相手に、よく喧嘩をしていたらしい。私のことを「悪いことをするくせに、叱られるとポロポロ涙を流す鬼さんだった」と、笑われるのだ。(第1回)
先生は「赤ノッポ青ノッポ」という絵本がお好きだったそうだが、「その中に出てくる赤ノッポ青ノッポという小学生の鬼たちに、あなたたちがとても良く似ていた。そこで、赤ノッポ青ノッポから、赤鬼青鬼というあだ名をつけた」ということだった。また、赤鬼は私、青鬼は哲ちゃんだということも教わった。
赤鬼青鬼と言われて、やっぱり昔から悪餓鬼だったのかと苦笑していたのだが、それが先生お気に入りの絵本のキャラクターだと知って、なんだか出世した気分になった。(第3回)
「あなた達は、ほんとに仲が良かったね、二人で悪いことばかりするので、青鬼赤鬼とあだ名を付けていたのよ。知らなかったでしょう。この鬼は「青ノッポ赤ノッポ」という絵本に出てくるの」と、これまで、毎回お聞きしたことを話される。二人を見ると、条件反射的に連想されるのだろう。ただ、ちょっと良いことも言って下さった。「あなた達は、いたずらはするけど、正義感があって、弱いものいじめはしなかったね」(第4回)
「野村君がお医者さんになるとは、あの頃はだれも思わなかったでしょう」と言われた。そこで、高2の春に、病身の両親に懇願されるまでは、工学部へ行くつもりだったと申上げたら、納得して下さった。あの悪餓鬼が医者になるなんて、思えという方が無理なのだろう。(第4回)
「あのやんちゃだった馬場君も、ずいぶんおとなしくなったのね」と言われた。(第1回)
「石田君、ほんとに良い顔になったね。あの頃はずいぶん、やんちゃだったけれど、学校時代やんちゃだった子どもの方が、社会に出てから成功するみたいね」と話された。(第2回)
以上は、これまでに載せた第1回から第4回のクラス会の記録記事の中で見つけたものだが、そのほとんどが男性に関係している。面白いことに、第1回目からその傾向があった。
クラス会に参加した女性の人数は、男性の2倍ある。しかし、先生が話題にされたのは、その逆で、男性に関するものの方が女性の2倍近くあった。それは、男の子の方が先生を煩わせたり、印象に残ることをする場合が多かったということだろうか? (第1回)
それなのに、犬も人も女が良いと仰られるのが可笑しい。 (第4回)
当時の私たちは、高羽小学校の校区ばかりか、それから遠く外れたところにまで遠征して、そこで遊んでから家に帰ることが多かった。そんなある日、同僚の先生二人と一緒に帰宅途上の庄野先生を、遊び先で発見した。先生はその時23歳、知的で美しく、叱られると恐いが、私たち男子生徒にとって憧れの人だった。
先生の姿を発見して、私は先生のお家が何処なのかを猛烈に知りたくなった。そこで、少年探偵団よろしく、先生に気付かれぬように、門の影に隠れたり、路地にもぐり込んだりしながら、先生がお家に入られるのを見届けた。これはもう大発見である。私と一緒に探偵ごっこをした者は誰だったのだろうかと思って来たが、その一人はやっぱり山下哲ちゃんだった。ところが、優等生の磯部君も、その仲間の一人だったと知って驚いた。
この探偵ごっこのことは、今度のクラス会で初めて皆に明かしたのだが、先生はやはり気付いておられなかったようで苦笑されていた。今、振り返ってみて、先生は少年たちにとって、憧れの美しい年上の女性だったのだと思う。(第1回)
先生から見れば、いつまでもこどものようで、「私が赤鬼、青鬼とあだ名をつけたのはこの子たちよ」とお嬢様に紹介されたり、「この子はやんちゃだった」とか「この子は、、、、」と、にこにこしながら何度も口にされる。(第9回)
「主人が盃1杯で真っ赤になるのに、私は3杯でも大丈夫だったのよ」と楽しそうに仰る。(第9回)
先生が磯部君と二人で、何度も大粒の涙を流して会話をされたと聞く。磯部君は小学1年、3年、4年と3回も先生に受け持っていただいたそうだ。集団疎開先で彼は肋膜炎となり、先生の必死の看病で恢復したという。お二人には、二人だけの非常に大きな思い出がおありなのだろう。(第9回)
先生の独演会に近かったが、その間ずっと笑いが続いた。庄野学級のクラス会は12回ほど続いているが、これほど楽しく笑い続けた経験を思い出せない。
笑い続けたのは、先生のお話が面白かったこともあるが、新しい記憶の残存時間が短く、同じことをくり返し話されることが大きかった。普通なら、同じことの反復にうんざりするのだろうが、かって敬愛し思慕した先生が、担任して下さった67年前のことを、正確に話され、会話の応答が迅速かつ的確であるのだから、そちらの方に感心し、感激したのだと思う。 (第11回)
年月日 | 会場 | 写真 | 出席 | サイト掲載記事名 | |
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第 1回 | 2002.12.14. | 庄野先生宅 | あり | 13名 | 小学4年庄野学級 |
第 2回 | 2003.11.16. | シーパル須磨 | なし | ? | 仔牛の恋のクラス会 |
2004.02.21. | 北新地 | なし | 3名 | ||
第 3回 | 2004.10.23. | シーパル須磨 | あり | 15名 | 現役最後のクラス会 |
2006.02.24. | 野村宅 | なし | 3名 | ||
2006.04.02. | 六甲苑 | あり | 4名 | 旧友との再会 | |
第 4回 | 2006.05.19. | シーパル須磨 | あり | 17名 | 庄野学級古希のクラス会 |
第 5回 | 2007.04.13. | シーパル須磨 | あり | 13名 | |
第 6回 | 2008.04.03. | シーパル須磨 | あり | 14名 | |
第 7回 | 2009.04.10. | シーパル須磨 | あり | 11名 | |
第 8回 | 2010.05.19. | シーパル須磨 | あり | 12名 | 8回目の庄野学級クラス会 |
第 9回 | 2010.10.12. | Hモリノ新百合ヶ丘 | あり | 13名 | 庄野先生米寿お祝いの会 |
2011.03.13. | 六甲苑 | あり | 6名 | ||
第10回 | 2011.10.24. | 松廼家 | あり | 10名 | |
2012.02.28. | 六甲苑 | あり | 6名 | ||
第11回 | 2012.09.28. | Hモリノ新百合ヶ丘 | あり | 8名 | 庄野先生卆寿お祝いの会 |
2013.01.09. | なし | 2名 | 10歳のころの遊び | ||
第12回 | 2013.11.12. | 六甲苑 | なし | 10名 | 庄野学級喜寿のクラス会 |
2014.03.10. | 奥村千鶴子先生逝去 享年91歳 | ||||
第13回 | 2015.04.09 | 六甲苑 | あり | 11名 | 奥村先生を偲ぶクラス会 |
69年前の1年間をともに過ごしただけで、その後は同じクラスではなかった者が大半であるにも関わらず、66歳の第1回からほぼ毎年、13回もクラス会が続き、毎回多くの参加者を得ている理由について、8項目に分けて分析してみた。
一番大きな理由は、担任の庄野千鶴子先生の素晴らしさにあると思う。 知的でハイカラで美しく、情熱を込めて教育に取り組まれていることが、こども心にもよく分かった。生徒は誰も先生が大好きだった。音楽がお好きで、昼休みには皆によく歌を唄わせ、それを本当に喜んで聴いて下さるのだった。
「二十四の瞳の大石先生」のようだったと言う教え子がいたり、それ以上だと反論する者もいた。他の先生と違って、えこひいきをされない先生だったというひとりの級友のことばが、強く心に残っている。
「暗算ができなくて立たされた」という者がいて、厳しいところは厳しい先生だったことを思い出した。また、「1字だけ、漢字が間違っていた。あれができてていれば満点だった」と励ましてくださったのが、ずいぶん自信につながったと話すことばに同感した。
どの生徒に対しても、良いところを認め、それを伸ばそうとしてくださったことは、私たち教え子の誰もが認めることだと思う。
次の、クラスメートのところで書くが、男女共学のテストケースであるクラスの担任に選ばれたというのは、当時の校長から高く評価されていたことを表している。先生はそれに対して十二分に応えられた。
第2の理由は、クラスメートが素晴らしかったことである。1946年というのは敗戦の翌年、それまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」だったのが、「男女共学」に教育方針が変更され、そのテストケースとして「庄野学級」が作られた。「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだから」と言って、3年の担任だった先生方が、良い子を回してくれたそうだ。
4年生は、私たちの男女共学クラスと、男子だけのクラス、女子だけのクラスの3クラスに分かれていた。男子だけのクラスの者から私たちクラスはやっかまれ、いろいろ挑発されるので、この男子クラスとよく喧嘩をしたことを覚えている。
第3の理由は、私たちが10歳という年齢であったことだと思う。異性を意識しない低学年ではないが、と言って、強く異性を意識し始める高学年でもない、その中間の時期だったから、男女がこだわりなく思う存分遊ぶことができた。
第4の理由は、1946年という時代が大きく関係していると思う。私たちの小学4年は、敗戦からわずか8ヶ月後に始まった。周囲は焼け跡だらけ、食べるもの、着るものに乏しく、今の人には想像もできない貧しい生活だった。その時の集合写真(図1)を見ると、小学校屋上の最前列に座っている12名の内8名が裸足である。足元が見えないほかの級友もその割合は同じだろうから、3分の2が7月の熱い屋上を裸足で歩いていたことになる。
しかし、戦争のない平和な世界をはじめて知って、子どもたちの心は晴れやかに弾んでいた。そして、男女共学が進められ、私たちはその第一期生となったのである。受験勉強も、お稽古ごとにも無縁で、日が暮れるまで、ひたすら外で遊ぶことが許されていた時代だった。
第5の理由は、過ごした環境にあると思う。高羽小学校は当時創立8年目で、鉄筋コンクリート3階建ての美しい学校だった。戦災に遭わず、阪神間で一番美しい学校と言われ、他校からの見学者が多かった。その校区には、高級住宅地、サラリーマンの多い地区、焼け跡の多い下町が適度に分布していて、いろいろな家庭の子どもが混在する良い集団だった。均質でなく、個性豊かなこどもたちが、自由に思いっきり遊べたということの意味は大きいと思う。
第6の理由は、クラス会をはじめた年齢が66歳だったことだろう。ほぼ毎年、13回もクラス会が続き、消息の分かっている者の5割以上、時には7割近くが出席し、これまで8割の者が一度は出席したというのは、この年齢が関係しているはずだ。現役生活の最中では、そのような時間も、心のゆとりもなかったに違いない。66歳頃になると、古き良き日、良き思い出が懐かしくなるが、学校時代の良き日、良き思い出は庄野学級がダントツであるということなのだろう。
第7の理由は幸運である。庄野学級クラス会を持つきっかけとなったのは、中学の同窓会で、庄野学級のクラスメートがたまたま顔を合わせた際に、庄野先生にお会いしたいという話が出て、お会いすることを決めたことで、これがなければ、これほど長く続くクラス会は生まれなかった可能性が大きい。
運命の女神は前髪しかなく、後ろ髪がない。だから、一瞬にして前髪を掴まなければ、めぐり合わせに含まれた幸運を逃がしてしまうと言うことわざがある。私たちはあの時、その前髪をしっかり掴んだのだと今にして思う。
最後の理由は、クラス会の世話役として、磯部君が毎回献身的に活動してくれたことを挙げるのに、誰も異存はあるまい。彼は気配りの利いた細やかな配慮をずっと続けてくださった。ただただ、感謝あるのみである。その磯部君を、女性クラスメートとして、支えて来られたN.S.さんにも感謝申し上げる。
持って生まれた運命が平凡であっても、人生の途上でなぜか幸運に恵まれる人がいる。私も、生きていく過程で、幸運に恵まれてきた。その最初の幸運は、小学4年生を庄野学級で過ごせたことで、ここが全ての幸運の出発点だったような気がする。
今回の偲ぶ会で、私と全く同じ気持を持つクラスメートがいることを知った。その人は他所からの転校生で、1年間私の隣の席だったと言う。私は彼女の本やノートに落書きをしたり、いたずらをしたようだ。そのことを詫びながら、頬はゆるむ。
庄野学級の1年間は、学校にいる時間だけでなく、家に帰っても、食事と寝る時間以外は、山下哲男君と二人で、ひたすら遊び続けた期間だった。担任の庄野先生に二人は赤鬼青鬼とあだ名を付けられていたとは知らなかったが、常に一緒に行動をし、喧嘩をしたことは一度もなかった。
これは私の79年間の人生で、だだ一度限りの大切な経験である。その友は大病に何度も見舞われながら、笑顔で生き抜いている。彼らしい。
私だけでなく、多くのクラスメイトに、幸せの記憶として残っている小学4年庄野学級について、これまでのクラス会の記録を通してまとめた。
幸せの記憶として残っている理由は、6.クラス会が長く続いた理由とほとんど同じではないかと思う。
先生、ありがとうございました。どうか、安らかにお眠りください
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