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仔牛の恋のクラス会

2003.11.22. 掲載
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人は、幼い頃から、異性に対して憧れの感情を持つように宿命づけられているのだろう。「恋心」と呼ぶにはほど遠いが、「好き」というよりは強い、微妙な感情を知ったのは、1946年、小学校4年生の時だった。この感情を、英語では「Calf love 仔牛の恋」と呼ぶらしい。

その小学4年のクラス会が、昨年末に恩師のお宅で行われた。そのことを「小学4年庄野学級」という小文にまとめ、このサイトに掲載した。最後のクラス会が1955年だから、47年ぶりの再会である。優しく厳しく育んで下さった恩師庄野千鶴子先生や、一日の大半を共に過ごした竹馬の友に会えたことが一番の喜びであったが、「仔牛の恋」を感じてきた女の子たちに会えたことも、また嬉しかった。66歳の彼女たちには、幼い日の淡い憧れの面影が、どこか残っていた。

年を取るにつれ時間は早く過ぎていく。ついこの間と思っていた再会から、1年近くが過ぎ、今年も神戸でクラス会が開かれた。気配り一杯で熱心に世話をしてくれた磯部君のお陰である。2003年11月16日の午後、神戸の須磨にある、国民宿舎「シーパル須磨」の、5階の会場から眺める須磨海浜は素晴らしかった。小学5年と6年の夏、六甲から蒸気機関車に乗って、この浜で開かれた臨海学校に通ったものだ。馬場君が持って来た当時の写真を懐かしく眺めながら、アイスキャンディーの早食い競争をしたことを思い出した。

今から3年ばかり前、「歌と思い出」という、歌で綴る自分史を書き、このサイトに掲載したが、その中で、私の「仔牛の恋」を書いた。今年のクラス会では、彼女たちにそのことを話し、胸のつかえがとれた気分になった。このようなできごとを記録に残すだけでなく、他の人にも知って欲しく思い、対象となった人にも伝えたいと思う心理は、少し異常なのかも分からない。

その頃、庄野先生は昼休みに、クラスの者によく歌を唄わせて、それを楽しんで居られた。そんなある日、Aさんは手ぬぐいをねじり鉢巻きで頭に巻き、振りを付け、「可愛い魚屋さん」を唄った。それがとても可愛かった。そのあとの5年6年は、彼女とクラスは違ったが、卒業する少し前に、庄野先生のお家へ二人で卒業の挨拶にお伺いした。私の始めてのデートである。

今から思うと、強心臓もいいところだが、彼女の家まで迎えに行った。お母様がどのようなご様子だったかは記憶にない。しかし、家を出ると中学生くらいの男の子がたくさん遊んでいて、盛んに冷やかされたのを覚えている。それでも、わざと平気な顔をして、少しばかり得意そうに、歩いて行ったような気がする。二人の来訪に、庄野先生も驚かれたことと思うが、とがめられることもなく、卒業を祝い、励まして下さった。

小学校の同窓生は、ほぼ全員が新制中学に進むことになっていた。しかし、彼女は松蔭女子中学校に進むので、卒業と同時に離ればなれなる。そう思うと、たまらなくなり、共通の恩師である庄野先生を一緒に訪問するという、もっともらしい方法を考えついたのではないかという気がする。とにかく、のぞみが叶えられ幸せだった。世の中がバラ色に見えていた。そして、これが彼女との最初で最後のデートになった。

5年6年が同じクラスでないのに、どんな風にして連絡をとりあったのかを、二人とも覚えていなかった。また、私達二人が訪問したことについて、庄野先生はあまり気にされなかったのか、覚えておられないとのことだった。

中学の頃、彼女は一度会いたいと思って友人に私の動静を尋ねたら、「野村君は、昔と違って恐くなっている」と言われたそうだ。中学2年から高校2年くらいの間は、教師に反抗し、心理的に不安定な時期だったので、その頃のことだと思う。

もう一人の「仔牛の恋」の彼女は、5年生でも同じクラスだったBさんである。私が学級委員長で、彼女が副委員長だった。生まれてはじめて、ラブレターを書いたが、どうしても渡すことができず、思い悩み、逡巡をくり返したことを覚えている。そのことを彼女に話すと、「それは魔が差したのでしょう!」とケラケラ笑った。そして、「もらって置けば良かった、良い記念になったのに」という。そう言われてみると、今その手紙があれば、楽しい話題になったことだろう。

その彼女から、意外なことを聞いた。私と私の親友の山下哲夫君(皆は哲ちゃんと呼んだ)とCさんの3人が、一緒に学校から家へ帰って行く姿を、いつも羨ましく眺めていたというのだ。彼女にも、「仔牛の恋」はあったのだと思うと愉快だった。

クラス会の終わりに、カラオケルームへ移動した。女性たちの中で歌うのが一番好きなのが彼女だったのは、ちょっと意外だった。その上、尾崎豊の「 I LOVE YOU 」を情感込めて歌うのには驚いた。「娘の好きな歌と違うか?」とからかうと、この歌が好きなのだという。彼女が歌好きだと知って、「銀座の恋の物語」と「浪速恋しぐれ」を、デュエットしたが、うまく合ったように思う。

もう一人の「仔牛の恋」の女性は、Cさんという。5年生の学芸会で、男女それぞれ一人が独唱したが、それが彼女と私だった。愛くるしい顔で、上がりながら唄った彼女を思い出す。少しばかり甘えん坊で、杉 葉子に似た、面長の可愛い女の子だった。

そして、何時しか私は杉葉子のファンになっていた。「杉葉子が好きだ」という時は、何時も彼女をイメージしていたように思う。小、中、高を通じて彼女と同じ学校だった。その間、淡い憧れを持っていた。しかし、彼女と哲ちゃんと私の3人が、下校時、いつも一緒に帰っていたと言われても、そのことについてはまったく覚えていない。

ただ、家が近くだったので、帰宅途中、よく遊んだことは覚えている。また、彼女はお兄さんお姉さんのいる末っ子で、お母さんが少しお年を召しておられたせいか、何か恐かった記憶がある。そう話したら、「主人も母が恐いと言っていた」と彼女は笑っていた。

今年はじめて参加した石田君は、「新制中学を卒業して直ぐ石屋に丁稚奉公し、石を彫ってきた。今は御影で老人会の会長をしている」と自己紹介をした。庄野先生は、「石田君、ほんとに良い顔になったね。あの頃はずいぶんやんちゃだったけれど、学校時代やんちゃだった子どもの方が、社会に出てから成功するみたいね」と、彼の出席をことのほか喜ばれた。

それに対して、「先生にお会いできて、とても嬉しい! ボクは庄野先生が大好きやった、大きくなったらお嫁さんにしたいと思ってたんや」と彼は答えたので大爆笑。と同時に、男性たちは、堰を切ったように「先生が憧れだった、美しかった、気品があった、さっそうとしていた、、、」と口々に話し始めた。先生は、少しはにかまれながら、「亡くなった主人に聞かせてやりたい」と、笑っておられた。

庄野先生は、私も憧れの女性だった。知的でノーブルで、美しく、活発で、生き生きしておられた。先生への憧れの気持は30歳近くまで続いていたような気がする。この文を書くにあたって「仔牛の恋」ということばを調べていたら、これには、「少年と少女の淡い恋」という意味のほかに、「年上の異性に抱く幼な恋」を意味する場合があることを知った。そうだとしたら、庄野学級のクラス会は、どちらの意味でも「仔牛の恋」のクラス会だと言える。

「仔牛の恋」は、私だけでなく、多くのクラスメートが経験したようだった。ただ、それを記録に残したり、インターネットで世界に公表したり、「仔牛の恋」の相手に、そのことを話したりするような厚顔破廉恥な人間は、私のほかにはいないだけで、誰にも憧れの思い出があることがよく分かった。そのことを磯部君は、「それぞれの存在が、あの時のクラスメートの思い出の中に生きている。誰もが他人の思い出作りに役立っている」とうまくまとめてくれた。「仔牛の恋」は、しみじみとした幸せの思い出である。

小、中、高、大学と学校生活は長かったが、その中で、この庄野学級ほど懐かしい思い出の詰まったクラスはない。それはクラス会に出席した誰もが同じ気持だったようだ。そこで、なぜ庄野学級にこれほど思い出が多いのだろうか、その訳をを考えてみた。

その第1の理由は、庄野先生が素晴らしかったことで、これは出席した誰もが話していたことだ。石田君は「二十四の瞳の大石先生」のようだったと言ったが、もっと、ハイカラで知的な先生だったと私は思う。そして、若き教育者として、私たちに精一杯の情熱を注ぎ込んで下さった 。

第2の理由は、クラスメートが素晴らしかったことである。今回のクラス会で、クラスメートが良かったことに関して、知らなかった情報を庄野先生から教えて頂いた。1946年というのは敗戦の翌年、それまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」だったのが、「男女共学」に教育方針が変更され、そのテストケースとして「庄野学級」が作られた。「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだから」と言って、3年の担任だった先生方が、良い子を回してくれたそうだ。それを聞いて、「私たちは選ばれた子なんだ」と喜んだら、「野村君のような例外も居たけどね」と言われた。やぶ蛇である。

第3の理由は、私たちが10歳という年齢であったことだと思う。異性を意識しない低学年ではないが、と言って、強く異性を意識し始める高学年でもない、その中間の時期だったから、男女がこだわりなく思う存分遊ぶことができた。

第4の理由は1946年という時代が大きく関係していると思う。私たちの小学4年は、敗戦からわずか8ヶ月後に始まった。周囲は焼け跡だらけ、食べるもの、着るものに乏しく、今の人には想像もできない貧しい生活だった。しかし、戦争のない平和な世界をはじめて知って、子どもたちの心は晴れやかに弾んでいた。そして、男女共学が進められ、私たちはその第一期生となったのである。受験勉強も、お稽古ごとにも無縁で、日が暮れるまでひたすら外で遊ぶことが許されていた時代だった。

最後の理由に、高羽小学校の生徒であったこと挙げたい。高羽小学校は当時創立8年目で、鉄筋コンクリート3階建ての美しい学校だった。戦災に遭わず、阪神間で一番美しい学校と言われ、他校からの見学者が多かったのを覚えている。その校区には、高級住宅地、サラリーマンの多い地区、焼け跡の多い下町が適度に分布していて、いろいろな家庭の子どもが、混在する良い集団だった。均質でなく、個性豊かなこどもたちが、自由に思いっきり遊べたということの意味は大きいと思う。

先生、クラスメート、10歳という年齢、1946年という時代、高羽小学校という環境、そのいずれが違っても、これほど多くの心に残る思い出を持つことはできなかっただろう。偶然ではあるが、今から57年前に、私たちはこれらの幸運に遭遇することができた。そのことを今、心から感謝している。


<2003.11.22.>

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