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庄野先生米寿お祝いの会

神戸市立高羽小学校庄野学級65周年

2010.10.14. 掲載
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2010年10月12日に、ホテルモリノ新百合ヶ丘で、庄野千鶴子先生の米寿を祝う会が開かれた。先生は昨年東京に転居され、今年の庄野学級クラス会は先生ご不在で行ったが、その際、東京で先生の米寿をお祝いすることが決まり、65年前の教え子12名が参加した次第である。

他にも、参加予定だったクラス会常連は多くいるが、坐骨神経痛で歩行困難、母の法事、会長をしている老人会の行事や所属クラブの行事と重なる、体調不良、家事都合、在米中などで、残念ながら参加できなかったのは、 この年齢となれば致し方ないことだ。

会場は、先生のお宅から約1kmほど離れたところにあり、小田急新百合ヶ丘駅のすぐ北側で、交通の便が良い。ホテルは、シンプルでスマート、この場所を選ばれたのは先生のお嬢様である。先生は、お嬢様のお車でお越しになった。

ロビーでお目にかっかた先生は、以前よりふっくらとされ、お元気そうで、教え子たちを大喜びで迎えてくださった。来年は後期高齢者になる私たちも、先生から見れば、いつまでもこどものようで、「私が赤鬼、青鬼とあだ名をつけたのはこの子たちよ」とお嬢様に紹介されたり、「この子はやんちゃだった」とか「この子は、、、、」と、にこにこしながら何度も口にされる。それをおかしく思うが、なぜか心地よい。遠い昔に戻った気分になるからかもしれない。

会場は和食懐石の「梅の花」というお店だった。掘りごたつ形式になっていて、脚や膝が弱くなって来た者にとって都合が良い。テーブルは二つで、平行に並んでいる。

磯部君による乾杯に続いて、馬場君からの花束贈呈があり、宴は始まった。先生は、男性にビールや酒を注いでくださり、亡くなられたご主人がアルコールの飲めない体質で、「主人が盃1杯で真っ赤になるのに、私は3杯でも大丈夫だったのよ」と楽しそうに仰る。皆が話すことを楽しそうにお聞きになり、いろいろお尋ねになる。また、当時のことをいろいろ思い出されては、話してくださる。

私がミュージカルに出演したことのお手紙を差し上げ、「ミュージカル物語」の印刷物と「らくだのダンスDVD」をお送りしたことを大変喜んでくださり、その歌をここで歌うように命じられた。私が人前で歌ったのは、65年前の昼休みに、先生に命じられて歌ったのが最初だ。その時のことを思い出しながら、「美しき国・美しき人」の一番だけを歌った。

先生は、全員がよく見える場所として選ばれた最初のテーブルで、会話を楽しまれたあと、今度はもう一つのテーブルに移動され、そこで、また楽しい会話を続けられた。クラス会の世話役を献身的に続けてくださっている磯部君と先生のお二人が、何度も大粒の涙を流して会話をされたと聞く。磯部君は小学1年3年4年と3回も先生に受け持っていただいたそうだ。集団疎開先で彼は肋膜炎となり、先生の必死の看病で恢復したという。お二人には、お二人だけの非常に大きな思い出がおありなのだろう。

来年、神戸で庄野学級のクラス会を開くときには、お越しくださいと申し上げると、お嬢様ご夫妻が付き添って行くと言ってくださったが、体力的に難しいかもしれない気がする。今回、米寿のお祝いで、私たちが集まったことを先生は本当に喜んでくださった。このことが、少しでも先生の生活にプラスに働いてくれることを心から願っている。

参加した12名のうち8名が、行きも帰りも一緒だった。私たちの学年は戦後間もない時期だったせいか、小学校の修学旅行はなかった。新幹線の中で、弁当を食べ、駄弁り、おやつを食べ、すっかり修学旅行気分。帰りは箱根にも立ち寄った。元気な73歳〜74歳の老男老女の楽しい旅ができたのも、庄野先生のお陰である。私たちは、このような素晴らしい先生の許で、素晴らしいクラスメートと一緒に、小学4年生を過ごせた幸運を誇りに思い、心から感謝している。

最後に、庄野先生の米寿のお祝いの写真を掲示する。



図1.全員で記念撮影 先生はやや緊張されている。先生のこの服の製図は今まで通り先生が書かれた。



図2.女性たちと一緒で撮影すると、先生の表情は少し柔らかくなった。



図3.やんちゃだった男の子と一緒だと、ご覧の通り、先生も喜色満面。両脇は先生ご命名の青鬼と赤鬼。

<2010.10.14.>

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