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庄野学級古希のクラス会

2006.05.21. 掲載
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人生70古来稀なり

敗戦の翌年の昭和21年(1946年)、私たちは10歳だった。「人生70古来稀なり」の年を迎え、今から60年前に、ともに遊び、ともに学んだ庄野学級を、これまでの人生で一番懐かしく大切に思う。私と同じ気持のクラスメートも多いことだろう。

そのクラス会が、2006年5月19日に、神戸の須磨にある国民宿舎「シーパル須磨」の3階「コスモの間」で開かれた。出席者は先生を合わせて17名。この会場はこれで3回目だが、今回が一番広々としていて爽やかで、古希の集いにふさわしかった。毎回、磯部浩君が献身的にお世話下さるので、楽しいクラス会を続けることができる。ありがたい。

庄野先生は、数えで85歳になられたとのことだが、歩行が少しご不自由のほかは、クラスメートと変わりがなく、お元気で、ほんとうに素晴らしい。

今回からの参加は、THさんと高橋昭夫君で、旧友との再会に書いた久山勝之君はやはり帰国できず、ホームページの記事を印刷して参加者に差し上げ、彼の近況を知っていただいた。THさんは、少し憂いを帯びた優しい面影が残っていて、すぐに彼女だと分かった。会うのは、中学卒業以来だから53年振りとなる。彼女が庄野先生のところへ挨拶に来て、先生と何か話しているのは分かっていたが、「野村君といえば、椰子の実を思い出すと、THさんが言っているよ」と先生に言われ、「野村=椰子の実」は、かなりのクラスメートの記憶に残っていることを知った。

もう一人の高橋昭夫君も、面影が残っていてすぐに分かった。会うのは高校卒業以来だから、50年振りとなる。彼は2年前にハート・バイパス手術を受けたとのことで、健康そうに見えるけれど、一病息災なのだと思った。


記念撮影を最初にしておこう

前々回は、写真を1枚も撮らなかったので記録がない。今回は第1回目のクラス会に倣って、最初に記念撮影をしておこうということになった。こういう時は可笑しなもので、写真はどんどん増えてしまう。自然な表情のスナップが、私のデジカメにもたくさん入っている。

私は10年前からデジカメを使ってきたが、その進化と普及のすさまじさには、もう唖然となる。クラス会では、今回はじめてデジカメを持参したが、世話役の磯部君もデジカメがメインで、銀塩カメラはサブだった。デジタルカメラが良いのは、即座に撮影像を見ることができることで、フィルム枚数を気にすることもない。難点は注意しないとバッテリーが上がってしまうことで、彼も最後はそれで泣いていた。

シーパル須磨3階コスモの間にて
庄野先生を囲んで集合写真


庄野先生との会話

今回、私は庄野先生の隣の席に座ったので、いろいろお話を伺うことができた。それを思い出しながら、書いておくことにする。

先生は、昔のクラスメートが嬉々として集い、語り、唄うこのような会を、何度も開いてくれたことへの感謝と幸せを、くり返し口にされた。それに対して、それは先生が60年前にして下さった教育が、素晴らしかったからだと、誰もが思っていると申上げた。

すると、あなた達は選ばれた良い子だったのだと、以前お聞きしたことを話されるのだった。敗戦直後の新学期から、男女共学制度が導入されることになり、そのテストケースとして、男女共学組が1クラス作られることになった。それに対して、「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだから」と言って、3年の担任だった島田千鶴子先生、小西雅子先生などが、良い子を回してくれたそうだ。

それに対して、「そのような難しい担任を任された先生は、その時の高羽小学校で一番優れていらっしゃったということではないですか」とお尋ねすると、「佐賀校長が決められたことです」と答えられた。ということは、2代校長、佐賀常治先生の眼力は正しかったことになる。また、同僚の先生がそれだけ助けて下さったのは、先生の人徳だろう。先生は、私たちが6年生になる春に退職されたので、卒業写真にお姿はない。

出席予定だったIKさんが、ご主人の介護で時間的に無理となり、欠席されたとお伝えしたら、「それは大変ね、帰ったらすぐに、私から電話をしておきます」と答えられたが、覚えていらっしゃるかどうか?(笑)

これまで消息不明だった久山君が、アメリカから一時帰国したので、4月はじめに、哲ちゃんと磯部君と私の3人で会ってきたことを申上げ、その記録のホームページを印刷したものや、彼からのメールをお見せした。先生は写真をご覧になって、久山君を懐かしく思われ、彼の昔のことをいろいろ話して下さった。

ホームページの写真をご覧になりながら、この人だれ? 私はこんなに若かったの?と話されるので、

「先生は皆の憧れの的でした。私は30歳近くまで、先生が憧れの女性でした」と申上げると、それには答えられず、「私はあの頃から、自分の服を全部自分で作っていたのよ、自分で裁断し、ウエストをキュッとしめ、、、」あとは良く分からない服飾用語だった。79歳まで、神戸の元町で、ドレスメイキングを教えてこられたのだから、当時からオシャレだったことは分かる。しかし、私の告白には、何も答えて下さらなかった。(笑)

先生とお話しているところへ山下哲ちゃんが来た。そうしたら、「あなた達は、ほんとに仲が良かったね、二人で悪いことばかりするので、青鬼赤鬼とあだ名を付けていたのよ。知らなかったでしょう。この鬼は「青ノッポ赤ノッポ」という絵本に出てくるの。」と、これまで、毎回お聞きしたことを話される。二人を見ると、条件反射的に連想されるのだろう。ただ、ちょっと良いことも言って下さった。「あなた達は、いたずらはするけど、正義感があって、弱いものいじめはしなかったね」

そこで、二人は口を揃えて、「そうです、弱いものいじめをしたことはありません。家に帰っても上級生とばかり喧嘩をしていました」と得意になって答えたものだ。おまけに、「横山学級全部を相手によく喧嘩をしたけれど、あれは男女共学で仲良くしている私たちを嫉んで、いろいろチョッカイを出して来たのだと思います」とまで付け足した。そうしたら、先生は素直にそれを認められ、私もそう思う、と話されるのだ。ここが庄野先生の素晴らしいところ、60年前も常に自分の生徒を信じて下さるので、私たち悪餓鬼は、くすぐったい思いを何度か経験したことを思い出した。

愛犬の「夏ちゃん」が死んで悲嘆にくれたけれど、新しく「秋ちゃん」を飼って、元気になったと話される。柴犬で、秋にもらってきたから「秋」と名付けたとは単純明快だ。「オスですかメスですか?」とお尋ねすると「メスよ、メスは優しくて良い」と仰る。哲ちゃんが「ノムは女の子がいないから、言ったら怒るけど、やっぱり女の子は良いですよ」と横から口を出す。先生も「ほんとうにそう、嫁も娘もよく気をつけてくれる」と仰る。

そりゃ〜、私だって女の子が欲しかった。けれど、ないものをねだっても仕方がない。だから、もしも女の子を授かっていたら、猫かわいがりをしてその子をスポイルしてしてしまっていたに違いない。その点、男の子は放っておいても気にならないから、男の子で良かったと思うことにしている。酸っぱいブドウは私の生きる知恵だ。(笑)

話代わって、先生は、「野村君がお医者さんになるとは、あの頃はだれも思わなかったでしょう」と言われた。そこで、高2の春に、病身の両親に懇願されるまでは、工学部へ行くつもりだったと申上げたら、納得して下さった。あの悪餓鬼が医者になるなんて、思えという方が無理なのだろう。しかし、結果的には、工学部志向だった医師の方が時代に適っていたことも分かっていただけたように思う。


酒は飲み放題

幹事の磯部君が酒豪で、哲ちゃんも私もそれに合わせることができるので、いつも飲み放題のセットを頼んでくれているようだ。今回帰国できなかった久山君も、私たちと同類項だった。だれもが酒の雰囲気を愛し、悲しい酒、やけ酒、憂さ晴らしの酒を好まない。泣き酒、怒り酒、からみ酒などもってのほかだ。同じタイプの酒豪が4人もこの庄野学級のクラスメートいることに嬉しくなってしまった。

そこで「庄野学級のクラスメートやその配偶者には、このタイプの愛飲家が多い」との仮説を立てて、何人かに質問してみた。その結果は残念ながら否と出た。庄野先生はお飲みになるが、ご主人はまったく駄目だったと伺ったし、夫君が飲めない体質の女性もかなりいた。自分たちに都合よいように考える酒飲みの性癖は困ったものだ。(笑)


歌好きは多いようだ

今回は、一次会の会場にもカラオケ装置があり、早々に歌が始まった。哲ちゃんや磯部君が曲目選定などの操作をしてくれている。昔の唱歌や歌謡曲などが、次々に唄われていく。その途中で、THさんがリクエストしてくれた「椰子の実」を私が唄うことになったが、カラオケがない。そこで、アカペラで唄わせてもらった。前回も確かこの曲を、同じくアカペラで歌った記憶がある。私はカラオケのようにリズムを規制されるのが嫌いだといっているが、本当のところは、相当のリズム音痴であることを自覚しているからだ。

それにしても、「私=椰子の実」オンリーではサビシイなと思っていたら、馬場君が「オオ・ソレ・ミオ」も歌っていたと言ってくれたのでホッとした。母の唄う歌が好きで、この曲もその一つだった。馬場君と言えば、アメリカンポップスの魅力を私に最初に教えてくれたことを思い出す。彼が唄うサム・サンデー・モーニングによって私はポピュラーソングに引き込まれて行った。

庄野先生も、女性グループと一緒に、浜辺の歌など数曲を唄われた。先生がカラオケで唄われたのは、確かこれが初めてだと思う。写真で見ても喜んでいらっしゃるのがよく分かり、嬉しくなる。

庄野先生を囲んでカラオケ熱唱?


カラオケ好きも多いようだ

一次会の3時間は瞬く間に過ぎて、先生に花束を贈呈し、先生と握手を交わして、名残りを惜しみながら、先生をはじめ何人かのクラスメートと別れた。ほんとうに楽しい良いクラス会だった。過去3回のクラス会と比べても最高だったと思う。

庄野先生に花束贈呈

その後は、予約していたカラオケルームに移動したが、カラオケ好きでカラオケ慣れしているのは男性の方で、山下哲ちゃん、磯部君、山本君など非常に上手い。それに比べて、女性はMJさんだけのようだった。一次会でMJさんに、後でデュエットしようと申し込んでおいたのだが、果たせなかったのは残念だった。


仔牛の恋の女性たち

この小学4年庄野学級のクラスメートには、私の「仔牛の恋」の対象が70歳の生涯でいちばんたくさんいる。中学高校時代に進むと対象は下級生となり、大学では「もう恋なんかしたくない」という経験をしたが、今でも懐かしく思うのは、この小学4年のクラスメートである。

それを自分のホームぺージに書いて、顰蹙を買われて来たが、気にしなかった。書かれた本人は迷惑だとは思うが、60年も前のことなので時効と考えていただきたいと願った。これまでの3回のクラス会でも、恥を知らず、本人に直接話したので、もう周知の事実かもしれない。しかし、誰もそんなに怒ってはいないようなので、気持は楽になっている。

私にとって、今回が最後のクラス会となる可能性が高いので「仔牛の恋のクラス会」に書き込んだことのおさらいをしておこうと思う。

MJさんは5年生の時に、はじめてラブレターを書いた人だ。書くには書いたけれど、迷いに迷って、結局渡せなかった。そのことを話したら「もらっとけば良かった、いい記念になったのに」と豪快に笑い飛ばされてしまった。

STさんは、中学から別々になることがつらくて、庄野先生のお宅へ卒業の報告に行くという名目でデートし、それが最初で最後のデートとなった人である。二次会のカラオケルームで、石田君が、○っ子ちゃんが好きだったと連発するのを聞いて、「○っ子ちゃんもてもてやけど、最初にデートしたのは僕やったな」と念を押したのは、ちょっと大人げなかったかもしれない。(笑)

MNさんは、5年生の学芸会で男女それぞれ一人が独唱したが、それが彼女と私だった。家が近くだったので一緒によく帰ったようだが覚えていない。杉葉子に似ていて、杉葉子が好きだと言うときには、いつも彼女を意識していたのを覚えている。

SKさんは、私よりも私の母のお気に入りで、中学のころ、よく家の縁側で楽しそうに母と話しをしていた。将来私の嫁になってくれたら良いのにと母は彼女に言ったらしい。彼女は病身の母の相手をやさしくしてくれた。今でもそのことをありがたく思っている。

IKさんは今回も欠席だったが、最近になって昔の母に似て来て、一瞬母かと思ってドキッとしたことがあった。

そして、庄野先生は最初に書いたように長く憧れの女性だった。このように小学4年庄野学級には「仔牛の恋」の女性がたくさんいる。このようなクラスは他には全くない。


トゥー・ヤングを唄った

MNさんの夫君が、高校の記念誌に書かれた彼女との出会いと結婚の話を読んで感激した。彼は大学4年の秋に、阪急六甲駅で偶然彼女に会い、映画を観た。それがきっかけとなり、結婚したという内容だった。そこには妻への愛情が淡々と書き込まれていた。これを読んだ瞬間、私の好きなNKコールのトゥーヤングが頭に閃いた。「人は若すぎるというけれど、いつかは私たちが若すぎたのではないということを分かってくれるだろう」という歌詞だが、それは私の理想の結婚でもあった。

私にはそれは適わなかったが、昔の「仔牛の恋」の一人が、それを果たしたことがたまらなく嬉しかった。そこで、お二人のために、精一杯の思いを込めてこの歌を唄った。

同じトゥー・ヤングの結婚をしたクラスメートがもう一人いる。それは毎回気配り一杯の幹事役をしてくれる磯部君で、最初に彼と山下哲ちゃんと私の3人で飲んだ時に聞き出した。彼は大学のオーケストラで地方に公演した際に、知り合った女子大生と結婚したと知って感激してしまった。私のクラスメートには、こんなにもたくさん、ロマンチストがいることが嬉しい。


酒と女と歌を愛さぬものは、一生涯の馬鹿者だ

これは、宗教改革を行なったマルチン・ルーテルのことばである。クラス会の記録を、このルーテルのことばに倣ってまとめてみた。酒と歌を愛することに注釈はいらないが、女を愛することには説明がいる。結婚して以来、私が変わることなく愛して来た女は妻だけである。しかし、それまでに心をときめかした女性は何人かいた。その中で、まだこころがピュアだった少年の日に、「仔牛の恋」をした女性がこのクラスにはたくさんいる。その60年前の恋人たちと、笑いながら当時のことを語り、楽しく過ごせたこのクラス会がとても嬉しかった。

「秘すれば花」を知らないわけではないが、「明かしても花」も、ありうるのではないか、いや、別に「花」である必要はない。人生の一時期を、このような素晴らしい先生と、クラスメートと共に、過ごすことができた幸せを書き残しておきたいだけである。


おまけの人生

今回のクラス会で、庄野先生をはじめ、多くの人に、自分は来年の誕生日までに死ぬつもりで生きてきたと話した。そして、それ以上の命があれば、それからはおまけの人生、おまけの人生では何も考えず、好きなように生きようと思っていることも話した。

帰宅したら、「次回おまけの人生で会えますように」とのメールを早速いただき、人とは違う私の妙な生き方を分かって下さった方も居られることを知った。もしも、おまけの人生がないとしたら、これが私の最後の庄野学級クラス会の記録となる。それを思って、好きなことを書かせていただいた。ご寛恕くだされば幸甚である。


<2006.5.21.>

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