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8回目の庄野学級クラス会

小学4年から65年目

2010.05.24. 掲載
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目次
庄野学級とは
クラス会の経過
写真で見る庄野学級の65年
今回のクラス会のあらまし
クラス会が長く続いている理由
クラス会で庄野先生が話されたこと
私にとっての庄野学級


2010年5月19日に、8回目の庄野学級クラス会が開かれた。恩師の庄野先生が、昨年東京に転居されたので、今回は初めて先生ご不在の中、14名が会場「シーパル須磨」集まり、4時間近く歓談を楽しんだ。

第1回から4回までは、その記録をこのサイトに掲載してきた。それ以来、あまり大きな変化はなかったが、今回からは、恩師不在のクラス会となるため、今回までのクラス会のまとめの記録としたい。


庄野学級とは

庄野学級というのは、敗戦の翌年1946年4月から1年間、神戸の六甲山のふもとにある高羽小学校で、4年生時代をともに過ごしたクラスで、担任が庄野千鶴子先生だった。その9年後の1955年8月に、高校を卒業して新しい道へ進むことになった姿を、先生にご覧いただこうと、一度クラス会を持ったことがあり、その時の写真は残っている。しかし、その時のことは、残念ながらまったく覚えていない。


クラス会の経過

1955年のクラス会は、写真以外思い出すことがないので、2002年以降に開かれた8回のクラス会の経過をまとめておく。

第1回 2002.12.14. 会場:庄野先生宅   写真:あり 当サイトの記事:小学4年庄野学級
第2回 2003.11.16. 会場:シーパル須磨  写真:なし 当サイトの記事:仔牛の恋のクラス会
第3回 2004.10.23. 会場:シーパル須磨  写真:あり 当サイトの記事:現役最後のクラス会
第4回 2006.05.19. 会場:シーパル須磨  写真:あり 当サイトの記事:庄野学級古希のクラス会
第5回 2007.04.13. 会場:シーパル須磨  写真:あり 
第6回 2008.04.03. 会場:シーパル須磨  写真:あり 
第7回 2009.04.10. 会場:シーパル須磨  写真:あり 
第8回 2010.05.19. 会場:シーパル須磨  写真:あり 当サイトの記事:8回目の庄野学級クラス会

第1回目のクラス会を持つことになったきっかけは、その1ヶ月ばかり前に、中学卒業50周年の同窓会の会場で、小学4年の同級生が顔を合わせると、異口同音に「小学校の思い出は4年の庄野学級が一番」と言う。「先生にお会いしたいなあ」と誰からともなく声が出て、クラス会をしようということになった。

最初の世話は私がさせてもらったが、2回目以降は磯部君が献身的にお世話くださっている。5〜60年前のクラスであり、49名のクラスメートの中で、消息の分かっている者は25名しかいない。そのような状況で、ほぼ毎年クラス会は開かれ、毎回12〜17名が集まる。女性は大部分が阪神間に住んでいるが、男性は米国、東京、神奈川、三重、滋賀からの参加がある。これまでに、このクラス会に出席した者は20名で、消息の分かっている者の80%という数字に改めて驚いている。

今回は恩師がご不在だったが、12名が参加した。その中には、東京、三重からも駆けつけてくださった級友もいる。今後の相談という意味もあったのかも知れないが、それ以上に、この庄野学級のクラスメートに会いたいという気持ちが大きいのだろうと思う。

今月末には、庄野学級クラス会のきっかけとなった中学の学年同窓会がある。しかし、このクラス会のメンバーの中には、これに出席しない者もいるようだ。


写真で見る庄野学級の65年


図1.1946年7月 高羽小学校屋上 先生24歳、級友10歳(2/3が裸足?)



図2.1955年8月 阪急六甲駅南にある八幡神社 先生33歳、級友19歳(高校卒業の夏)



図3.2002年12月14日 神戸 塩屋の庄野先生宅 先生80歳、級友66歳(第1回クラス会)



図4.2006年5月19日 国民宿舎シーパル須磨 先生84歳、級友70歳(神奈川、三重、滋賀からも参加)



図5.2006年5月19日 国民宿舎シーパル須磨(庄野先生に花束贈呈)



図6.2008年4月3日 シーパル須磨 先生86歳、級友72歳(米国、東京からも参加)



図7.2010年5月19日 シーパル須磨 先生88歳、級友74歳(今年米寿の恩師は不在)


今回のクラス会のあらまし

庄野先生は、昨年秋に、お嬢様のいらっしゃる東京へ転居された。そのため、今回のクラス会は、庄野先生ご不在の初めての集いとなった。ほとんど毎年、8回も続いているので、和気あいあいの雰囲気はいつもと変わらない。

しかし、先生がいらっしゃらない分、席の近いもの同士の話が弾み、全体の話は少なくなったのは、致し方なかったと思う。私は、両隣の席のクラスメートと、これまで以上に話を交わすことができて、嬉しかった。このクラス会は、これからも続きそうな雰囲気だが、出席者全体で話合うこともできれば、それ以上は言うことのない素晴らしいクラス会だと思う。

今年は、庄野学級でともに小学4年生を過ごしたときから数えて、65年目に当たる。数えで65周年になるため、庄野学級65周年記念として、恩師に花束を贈呈した。先生は、非常に喜んでくださり、私たちへのお礼のことばを電話で丁重に話されたとの報告があった。

今年、庄野先生は88歳の米寿を迎えられる。3月の飲み会で、磯部、山下、野村の3名は、10月に上京し、先生の米寿のお祝いをしようと決めたことが、世話役の磯部君から報告された。先生にそのことをお伝えすると、喜んでくださり、お家の近くのホテルでお祝いをすることになっているとのことだ。賛同のクラスメートも幾人かおられるようなので、東京でミニクラス会が持てるかもしれない。それまでに、磯部君から、クラスメートに案内が届くことになっている。

クラス会の後半は、いつもの通りカラオケルームに移動したが、今回はいつもより唄う時間が少なく、庄野先生の思い出を話し合う時間が、唄う時間より長かったような気がする。5年6年の担任の先生には嫌いな先生もいたが、庄野先生は大好きで、良い先生だったと感謝しているのが、クラスメートの大半の気持のようだ。消息不明の級友のことも話題となったが、情報はまったく得られなかった。


クラス会が長く続いている理由

65年前の1年間をともに過ごしただけで、その後は同じクラスではなかった者が大半であるにも関わらず、ほぼ毎年、8回もクラス会が続き、毎回多くの参加者を得ている理由について、7項目に分けて、まとめてみた。

庄野先生

一番大きな理由は、担任の庄野千鶴子先生の素晴らしさにあると思う。 知的でハイカラで美しく、情熱一杯で教育に取り組まれていることが、こども心にもよく分かった。生徒は誰も先生が大好きだった。音楽がお好きで、昼休みには皆によく歌を唄わせ、それを本当に喜んで聴いて下さるのだった。

「二十四の瞳の大石先生」のようだったと言う教え子がいたり、それ以上だと反論する者もいた。他の先生と違って、えこひいきをされない先生だったというひとりの級友のことばが、強く心に残っている。私はえこひいきをする先生が担任だった経験がないので、自分の幸運に感謝した。

「暗算ができなくて立たされた」という者がいて、厳しいところは厳しい先生だったことを思い出した。また、「1字だけ、漢字が間違っていた。あれができてていれば満点だった」と励ましてくださったのが、ずいぶん自信につながったと話すことばに同感した。

どの生徒に対しても、良いところを認め、それを伸ばそうとしてくださったことは、私たち教え子の誰もが認めることだと思う。

次の、クラスメートのところで書くが、男女共学のテストケースであるクラスの、担任に選ばれたというのは、当時の校長から高く評価されていたことを表している。先生はそれに対し、十二分に応えられた。

クラスメート

第2の理由は、クラスメートが素晴らしかったことである。1946年というのは敗戦の翌年、それまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」だったのが、「男女共学」に教育方針が変更され、そのテストケースとして「庄野学級」が作られた。「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだから」と言って、3年の担任だった先生方が、良い子を回してくれたそうだ。

4年生は、私たちの男女共学クラスと、男子だけのクラス、女子だけのクラスの3クラスに分かれていた。男子だけのクラスの者から私たちクラスはやっかまれ、いろいろ挑発されるので、この男子クラスとよく喧嘩をしたことを覚えている。

過ごした頃の年齢

第3の理由は、私たちが10歳という年齢であったことだと思う。異性を意識しない低学年ではないが、と言って、強く異性を意識し始める高学年でもない、その中間の時期だったから、男女がこだわりなく思う存分遊ぶことができた。

過ごした時代

第4の理由は、1946年という時代が大きく関係していると思う。私たちの小学4年は、敗戦からわずか8ヶ月後に始まった。周囲は焼け跡だらけ、食べるもの、着るものに乏しく、今の人には想像もできない貧しい生活だった。その時の集合写真(図1)を見ると、小学校屋上の最前列に座っている12名の内8名が裸足である。足元が見えないほかの級友もその割合は同じだろうから、3分の2が7月の熱い屋上を裸足で歩いていたことになる。

しかし、戦争のない平和な世界をはじめて知って、子どもたちの心は晴れやかに弾んでいた。そして、男女共学が進められ、私たちはその第一期生となったのである。受験勉強も、お稽古ごとにも無縁で、日が暮れるまで、ひたすら外で遊ぶことが許されていた時代だった。

過ごした環境

第5の理由は、過ごした環境にあると思う。高羽小学校は当時創立8年目で、鉄筋コンクリート3階建ての美しい学校だった。戦災に遭わず、阪神間で一番美しい学校と言われ、他校からの見学者が多かったのを覚えている。その校区には、高級住宅地、サラリーマンの多い地区、焼け跡の多い下町が適度に分布していて、いろいろな家庭の子どもが混在する良い集団だった。均質でなく、個性豊かなこどもたちが、自由に思いっきり遊べたということの意味は大きいと思う。

クラス会をはじめた年齢

第6の理由は、クラス会をはじめた年齢が66歳だったことだろう。8回も毎年クラス会が続き、消息の分かっている者の5割以上、時には7割近くが出席し、これまで8割の者が一度は出席したというのは、この年齢が関係しているはずだ。現役生活の最中では、そのような時間も、心のゆとりもなかったに違いない。今は、古き良き日、良き思い出が、懐かしくなる年齢である。学校時代の良き日、良き思い出は、庄野学級がダントツであるということなのだろう。

世話役磯部君の存在

最後の理由は、クラス会の世話役として、磯部君が毎回献身的に活動してくれたことを挙げるのに、誰も異存はないだろう。最初だけは、行きがかり上、私が世話役をさせていただいたが、2回目以降は、彼が気配りの利いた細やかな配慮を続けてくださった。ただただ、感謝あるのみである。申し訳ないが、これからもお世話くださるよう、お願い申し上げる。その磯部君を、女性クラスメートとして、支えて来られたN.S.さんにも感謝申し上げる。


クラス会で庄野先生が話されたこと

第1回のクラス会

第1回のクラス会は塩屋の高台にある庄野先生のご自宅で開かれた。阪神大震災で灘区のお家が全壊し、以来この塩屋でお住まいだが、ご主人が亡くなられたあとも、雌の愛犬「夏ちゃん」と暮らしておられた。79歳まで、神戸の元町で洋裁を教えて来られたそうだ。

クラス会のお土産

クラス会のお土産に何が良いかとお尋ねしたら、「歌が良い」と言われたので、庄野学級唱歌集を作って持参し、皆で歌った。ABCDの歌を英語で教わったのはよく覚えているが、ウエルナーの「野ばら」について、「この歌をドイツ語であなたたちに教えたと思う」と先生が言われた。そう言えば、そのような気もする。(第1回)

まずは記念撮影

庄野先生のお宅に上がったところで、「記念撮影をしておこう」と言われたのには、ちょっと面食らったが、あとでそれが正解であることが分かった。机の上に並んだ品物は多くはなく、ちらかっていない。後で撮影となると、忘れてしまうこともあり得る。実際、第2回目は写真を撮り忘れている。(第1回)

66歳の教え子も、こども扱い

あなたたちは、どこからお寿司を取ったら良いか分からないだろうから、私が取っておきます
電話に「いま、こどもたちが集まっているの。だから、そんな難しいお話には答えられない」(第1回)

IKさんが、ご主人の介護で時間的に無理となり、欠席されたとお伝えしたら、「それは大変ね、帰ったらすぐに、私から電話をしておきます」と答えられたが、覚えておられたかどうか?(第4回)

愛犬について

夏ちゃんが9歳で死んで、悲しくて涙が止まらない」「今日、皆とこうやって会えたので、これからは元気が出てくると思う」と言われた。(第3回)

夏ちゃんが死んで悲嘆にくれたけれど、新しく秋ちゃんを飼って、元気になった」と話される。柴犬で、秋にもらってきたから「秋」と名付けたとは単純明快だ。「オスですかメスですか?」とお尋ねすると「メスよ、メスは優しくて良い」と仰る。山下君が「やっぱり女の子は良いですよ」と横から口を出と、先生も「ほんとうにそう、嫁も娘もよく気をつけてくれる」と仰る。 (第4回)

教師冥利に尽きる

私たちの来訪に対して、「教師冥利に尽きる」と何度か言われた。(第1回)

昔のクラスメートが嬉々として集い、語り、唄うこのような会を、何度も開いてくれたことへの感謝と幸せを、くり返し口にされ、「教師冥利に尽きる」と仰った。(第4回)

私はこんなに若かったの?

私のサイトの旧友との再会という記事に載っている1957年の写真をご覧になって、「この人だれ? 私はこんなに若かったの?」と話され、「私はあの頃から、自分の服を全部自分で作っていたのよ、自分で裁断し、ウエストをキュッとしめ、、、」そのあと服飾用語を連発された。(第4回)

私たちのクラスは男女共学のテストケースだった

1946年というのは敗戦の翌年、それまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」だったのが、「男女共学」に教育方針が変更され、そのテストケースとして「庄野学級」が作られた。「初めての男女共学に、難しい子を入れると庄野さんが苦労して可哀そうだからと言って、3年の担任だった先生方が、良い子を回してくれた」と話された。(第3回)

あなた達は選ばれた良い子だった」(第4回)

磯部君は優等生だった

男女共学のモデルケースとして、他校の先生方が庄野学級の授業を見学に来られた時、磯部君は、見学の先生方を感動させる発言をしたらしい。「あんなに小さなこどもの口から、とっさに、これほど優しいことばが出るとは、よほど、このクラスの教育は行き届いているに違いないと、後でほめられた」そうだ。そのことを少なくとも3回は話されたので、先生にとって、大切な思い出であることが良く分かった。(第1回)

山下君と私は、赤鬼青鬼

あなたたちはほんとに良いコンビだったね」と言われた。私たち二人はやんちゃで、絶えず悪いことをするので、「赤鬼と青鬼のあだ名をつけていた」そうだ。「その赤鬼と青鬼は、鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動していた」と、ニコニコ笑って話された。

どんな悪いことをしていたのかというと、横山学級という男子だけのクラスを相手に、よく喧嘩をしていたらしい。私のことを「悪いことをするくせに、叱られるとポロポロ涙を流す鬼さんだった」と、笑われるのだ。 (第1回)

先生は「赤ノッポ青ノッポ」という絵本がお好きだったそうだが、「その中に出てくる赤ノッポ青ノッポという小学生の鬼たちに、あなたたちがとても良く似ていた。そこで、赤ノッポ青ノッポから、赤鬼青鬼というあだ名をつけた」ということだった。また、赤鬼は私、青鬼は哲ちゃんだということも教わった。

赤鬼青鬼と言われて、やっぱり昔から悪餓鬼だったのかと苦笑していたのだが、それが先生お気に入りの絵本のキャラクターだと知って、なんだか出世した気分になった。 (第3回)

あなた達は、ほんとに仲が良かったね、二人で悪いことばかりするので、青鬼赤鬼とあだ名を付けていたのよ。知らなかったでしょう。この鬼は「青ノッポ赤ノッポ」という絵本に出てくるの」と、これまで、毎回お聞きしたことを話される。二人を見ると、条件反射的に連想されるのだろう。ただ、ちょっと良いことも言って下さった。「あなた達は、いたずらはするけど、正義感があって、弱いものいじめはしなかったね」(第4回)

庄野先生がお好きだったと言われる「赤ノッポ青ノッポ」という絵本の表紙と第1ページを、第3回クラス会の記事の中に載せて置いた。

野村君がお医者さんになるとは

野村君がお医者さんになるとは、あの頃はだれも思わなかったでしょう」と言われた。そこで、高2の春に、病身の両親に懇願されるまでは、工学部へ行くつもりだったと申上げたら、納得して下さった。あの悪餓鬼が医者になるなんて、思えという方が無理なのだろう。

やんちゃの馬場君

あのやんちゃだった馬場君も、ずいぶんおとなしくなったのね」と言われた。

良い顔になった石田君

石田君、ほんとに良い顔になったね。あの頃はずいぶん、やんちゃだったけれど、学校時代やんちゃだった子どもの方が、社会に出てから成功するみたいね」と話された。

以上は、これまでに載せた第1回から第4回のクラス会の記録記事の中で見つけたものだが、そのほとんどが男性に関係している。面白いことに、第1回目からその傾向があり、

今度のクラス会に参加した女性の人数は、男性の2倍ある。しかし、先生が話題にされたのは、その逆で、男性に関するものの方が女性の2倍近くあった。それは、男の子の方が先生を煩わせたり、印象に残ることをする場合が多かったということだろうか? (第1回目)

と書いているのだ。それなのに、犬も人も女が良いと仰られる(第4回)のが可笑しい。


私にとっての庄野学級

持って生まれた運命が平凡であっても、人生の途上でなぜか幸運に恵まれる人がいる。私も、生きていく過程で、幸運に恵まれてきた。その中でも最初の大きい幸運は、小学校4年を庄野学級で過ごせたことで、ここが全ての幸運の出発点だったような気がする。

庄野学級クラス会を持つきっかけとなったのは、中学の同窓会で庄野学級のクラスメートが、たまたま顔を合わせた際に、庄野先生にお会いしたいという話が出て、お会いすることを決めたことで、これがなければ、8回も続くことになったクラス会は生まれなかった可能性が大きい。

運命の女神は前髪しかなく、後ろ髪がない。だから、一瞬にして前髪を掴まなければ、めぐり合わせに含まれた幸運を逃がしてしまうと言うことわざがある。私たちはあの時、その前髪をしっかり掴んだのだと、今にして思う。


<2010.5.24.>

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