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健康一口ことば

2004.09.17. 掲載
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目次
はじめに
ストレス 笑い  食事  結婚 無駄 病気の仕組 健康情報 生きがい 生き方
追加
体質 規則正しい生活 予防接種
健康一口ことば再掲


はじめに

格言やことわざ、名句など私が気に入ったことばのほか、自分で作ったキー・フレーズをまとめ、「心に生きることば」として、02年4月から7ヶ月の間このサイトに連載してきた。

その「心に生きることば」は442篇という膨大な量な上に、クソまじめな話も多く、とても多くの人に読んでいただけるとは思えない。しかし、その中には健康に関することばも少しは含まれている。こちらは、あるいは読んでいただけるかもしれないと思い、それらを抜粋してみた。これがきっかけとなって、元の「心に生きることば」も読んでやろうかと思われる方が一人でもいらっしゃれば望外の喜びである(笑)。

私は健康に良いといわれていることをほとんどせずに生きてきた人間だが、31年間の開業生活で一度も病気による休診をしたことがなかったのは事実である。また、31年間、私も家族も職員の誰にも、インフルエンザのワクチン接種を行わなかったにも関わらず、誰一人インフルエンザで休んだ者はいなかったという事実もある。抜粋集を作ったもう一つの理由は、その秘密がこの「心に生きることば」の中に隠れているかもしれないと思ったからだ。

「心に生きることば」「人間、欲求、教育、行動、情報、思考、創造、運命、価値」の9つのテーマに分けて書いたが、そこには「健康」というテーマは入っていない。「健康」は私にとって手段であっても目的ではなく、9つのテーマと肩を並べるほどの価値はないと思っている。「心に生きることば」442篇の中で「健康」に関係することばは40編以上あり、これは全体の約10%に当たる。

説明不足と思われる箇所には、原文の後に<補足説明>を付けた。また、原文にある出典は煩わしいので省略したが、そのほかは原文通りである。また、ハイパーテキストの利点を生かして、できるだけリンクを張るようにした。青色太文字の部分をクリックすれば、該当する個所にジャンプできる。


ストレス

1. ストレスは万病のもと
私は1962年春に医師となった。今年で臨床医として40年間生きてきたことになる。その間に得た一番大きな仮説は「ストレスは病気の大きな原因となる」である。つまり、すべての病気の発病、病状経過に対してストレスは多かれ少なかれ関与しているということだ。昔から「病は気から」ということわざがあった。この気をストレスと置き換えてみると、このことわざはある意味で正しいと思う。

ストレスとは何かとか、病気にどのように関係しているのかということを書くのはこの文の趣旨から外れるので、いずれ機会をみてまとめておこうと思う。ここでは、ストレスが原因として大きな比重を占める病気があること、病気の経過に対するストレスの影響が非常に大きい場合もあること、ストレスに対する個体差も大きいことなどを挙げるに留めておく。

最近になって、医学的にもストレスの影響が研究され始めているが、医学の主流から遠く離れていて、その成果が医療の現場で取り入れられていることはほとんどない。

<補足説明>
私の臨床経験から、病気に関係するストレスを、「イライラ腹立ち型」ストレスと「不安心配型」ストレスに大きく分けている。「イライラ腹立ち型」の代表的な病気は「過敏性腸症候群」で、ストレス病としては一番多くみられる。他に「慢性のじんま疹」がある。「狭心症」「心筋梗塞」などの虚血性心疾患もこちらに属すると考えて良いだろう。

「不安心配型」の代表的な病気は「十二指腸潰瘍」「胃潰瘍」などの消化性潰瘍や、「気管支喘息」「過換気症候群」「パニックシンドローム」「期外収縮」などが代表的だが、「ガン」についても「不安心配型」ストレスが大いに関係している症例を多く経験してきた。

ストレスと病気についてまとめるため、現在入手できる図書文献を集めているが、ある程度の学問的成果は上がってきているようだ。後日それらをこのサイトでご紹介する予定である。


2. 話を聞いてもらうのもストレス対策
同じストレスであってもその影響の受け方には個体差があり、それは素質、経験などが関係している。ストレスへの対処法についてもそれぞれ個人別に違いもあるが、ほとんど誰にも共通して有効なのは、誰かに悩み、不満、不安を話し相談することである。

3. 休息もストレス対策
これも、ほとんど誰にも有効なストレス対処法で、そのためには軽い抗不安薬(安定剤)の助けを借りることも悪くはない。考え詰めることは悪循環の基になる。思い切って充分な睡眠をとり、気晴らしになること楽しくなることをしてみることだ。

4. プラス思考もストレス対策
ものごとを良い方に考え、逃げることをせず、積極的に立ち向かおうとすることは有効であるが、これはその人の性格が大いに関係していて、必ずしも誰にでもできることではない。しかし、悪い方に考え、現実から逃避することは、ストレスへの対処法としては逆効果になりやすい。


笑い

1. 心が痛む時にもほほえみを
笑いはストレス対処法として、ほとんど誰にとっても有効である。人間には嬉しいから、楽しいから笑うだけでなく、笑うから嬉しくなったり楽しくなったりする不思議な作用がある。たとえ嬉しくなくても自分で笑顔を作ってみると自然と心が和んでくる。

この「心が痛む時にもほほえみを Smile though your heart is aching」心に生きることば 第1章:人間の 10<会話>の 11. 笑顔を作ろう でも書いたが、これはチャップリンが映画「モダン・タイムズ」のテーマ曲として自作した歌で、初めて聴いたのは高校3年の受験勉強中だった。曲も良いが歌詞がすばらしく、それ以来の愛唱歌となっている。

私は野村医院の職員に「言葉にも微笑み」を求めてきたが、その時よくこの歌のことを話した。微笑みはものごとを良い方に向かわせる不思議な力を持っている。このことは科学的にも証明され始めている。

2. 笑いは百薬の長
笑いが免疫機能を高め、痛みを和らげる物質を血液中に放出することなどが最近の研究で明らかになってきている。「酒は百薬の長」ということわざ以上に「笑いは百薬の長」と言えるだろう。

3. かすかな微笑み心のやすらぎ
しみじみとした幸せ、心のやすらぎを感じているとき、人は自然と「かすかな微笑み」を顔に浮かべているものだという経験則である。

4. 笑う門には福来る
いつも和やかで笑いを絶やさない家や、いつも明るく笑顔を絶やさない人には、自然と幸福が訪れるものだ、ということわざであるが、あてはまる場合が多い。楽しい状態は良循環して、楽しい状態を呼びやすい。

5. 笑顔の良い老人
このフレーズから瞬時に二人の老人男性の顔が浮かぶ。どちらも4〜5年前まで患者として10年近く通院されていた。一人はもと熟練工、もう一人はもと法律事務所の事務員で年齢もほぼ一緒だった。この方たちはどちらも寡黙だったが、いつも何とも言えない素晴らしい笑顔を見せてくれた。

カルテからこの方が来られていることが分かった途端自然と笑みが浮かんできて幸せな気分になるのだった。この老人男性に劣らぬほど笑顔の良い老人女性にお目にかかかったことはない。この老人男性に匹敵できるのは、乳幼児だけで、こちらは数え切れないほど沢山いる。

この笑顔の良い老人の一人は心臓病で最近亡くなられ、もう一人の方は息子さんのいる東京へ引っ越された。たとえ他人に与えるものが何もなく、できることが何もないとしても、優しい笑顔を見せるだけで十分に他人に幸せを与えることができるのだということをこの二人から学んだ。


1. 歌は鼻歌
私は歌が好きだが、それは絶えず鼻歌を唄っているということとほぼ同じ意味である。1年で鼻歌が出ない日は10日もないだろう。診察室でも知らずに鼻歌が出ていることもあるらしい、患者さんに「誰が鼻歌かと思ったら先生だった」と言われたことがあり、時には気付かず口笛を吹いていると当院の職員から聞いたこともある。

何か思わぬことで時間を潰さなければならなくなったが、そのための用意ができていない時など、鼻歌を唄っていればすぐに時間は過ぎるので待ち時間がまったく苦にならない。もちろん、このような効用があるから鼻歌を唄うのではなく、それは自然と出て来る性質のものだが、意識的に鼻歌を唄うのはこのような場合だ。

2. 唄えば腹筋強くなる
大声を張り上げて唄う場合はもちろんのこと、鼻歌を唄っている時も腹筋に力が入っているのが分かる。この鼻歌が習い性になっているせいか、普通の場合でも絶えず腹筋に力が入っていることに以前から気付いていた。古来重要視されてきた「臍下丹田」と言われた部分に絶えず力が入っているのを知って、歌を唄う効用がここにも及んでいることに驚いている。呼吸法も、短く息を吸って臍下丹田に向かって、ゆっくり静かに吐く腹式呼吸、いわゆる臍下丹田呼吸法が自然と身についているのだ。

腹筋が強くなると、食事の際に早く満腹感が得られるので、腹十二分目に食べてもそれほど大食いにならずに済む。私は、いくら身体に良いと言われても腹八分目で済ませたことはほとんどなく、物理的にこれ以上入れられないというところ(腹十二分目)まで食べてきたが、体重の変動は少なく、結婚当初の服をいつでも着ることができる。これなどは腹筋が強いせいで、腹十二分目と思うほど実際に食べる量は多くないのだろうと思っている。


食事

1. 夕食時は至福の時
息子が一人暮らしを始めたのは10年ばかり前のことだった。その頃から、私にとって夜の診療を終えてから始まる夕食時が、一日のうちで一番大切な時間となった。朝も昼も食事は簡単な間に合わせ、それを時間を気にしながら食べる。だから、ビールと一緒に、新聞を読みながら、TVを見ながら、妻ととりとめもない話を交わしながら、好きな物を美味い美味いと言いながら、ゆっくり食べる夕食のひとときが私にとって何よりも嬉しい。しみじみとした幸せとはこういう状態を言うのだろうと思う。

2. 腹十二分目
貝原益軒の養生訓を持ち出すまでもなく、腹八分目が健康に良いと盛んにいわれている。ところが、私は少なくとも10年以上、腹十二分目の夕食を取ってきた。食べ物のなかった戦争中や戦後間もない時期はもちろん、それから後も自分の食欲を抑え、腹八分目にして夕食を我慢したという記憶がない。いつも物理的にこれ以上食べ物が入らないという状態で食事を止めてきた。

「腹十二分目でも健康」だという報告を4年前に書いてこのWebに掲載しているので、もし興味がおありなら、お読みいただければ幸甚である。


1. 酒飲みではない、食いしん坊
数年前、夕食をはじめたところで妻は私のことを「あなたは酒飲みではない、食いしん坊や」と決めつけてきた。そのわけは、私がまず料理をガツガツ食べて、一息ついたところでおもむろにビールに移るからだという。そう言われて見ると妻はまず一口ビールを飲み、それから食事を始める。アルコールをほとんど飲めない体質であるのにアルコールが先、私は人並み以上にアルコールは飲める体質だが、まず食べてしまう。

この妻の指摘を聞いてものすごく嬉しくなった。アルキメデスが風呂の中で浮力の原理を発見した時に、喜んで、はだかのまま風呂を飛び出した時の気持はこんなのではなかったかと思った。だから、このことを発見し、私に教えてくれた妻に感謝している。たしかに私は食いしん坊だ。

2. 酒が肴
酒飲みではない、食いしん坊だと言われてなるほどと感心し、それから私にとって酒は何なのかを考えてみた。その結論として「酒が肴」つまり、私の場合はアルコールが楽しい雰囲気を作る肴であるというところに落ち着いた。もちろんアルコールがなくても楽しい雰囲気を楽しむことはできる。しかし、そこにアルコールが加わると、その楽しさはより高まることが多いのも確かである。

3. 酒は涙かためいきか
「酒は涙か、ためいきか、こころのうさのすてどころ」高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲のこの歌は、酒を歌った歌謡曲の代表である。ところが、私にとって、酒は楽しい雰囲気を作り高めるものであり、自分自身は悲しい酒、苦しい酒、怒りの酒、からみ酒、やけ酒は嫌いだ。そのような酒を飲まないし、そのような時に酒を飲まない。

<補足説明>
歌謡曲、演歌に「楽しい酒」は皆目出てこないように思う。それが私には理解できない。楽しくない酒を飲まなければならない状況に置かれることがあれば、私ならその場を離れると思うが、幸いにして、そのような経験をした記憶はない。


4. ビール ガブ飲み大好き
私はアルコールを飲める体質で、過去にはブランディーやウイスキーなどを飲んでいたが、スーパー・ドライの発売以来ビール党に変わり、家では専らスーパー・ドライを愛飲している。

90年に大阪で開かれた花博のレーベン・ブロイの館で、ミュンヘンから来ている楽団が、大ジョッキを片手にビールをグイグイと飲んでは上機嫌で演奏していた。それを見てすっかり惚れ込み、こう言う酒の飲み方が気に入って、ドイツのビヤホールに憧れるようになったのである。スーパー・ドライで強まった私のビール嗜好はこれで以って確定してしまった。

97年にドイツ・オーストリアへ旅行したが、ドイツはあまりにも清潔で、統一されている感じがしてあまり好きにはなれなかった。しかし、ミュンヘンのホフブロイハウスという巨大ビヤホールで楽しく飲んだビールは私の期待を裏切らず、素晴らしかった。

私は粗野で大雑把な性格のためか、がぶがぶ飲むアルコールが好きで、ビールというのはそれに合っている。とにかく、これまでビールで失敗したことはない。ところが冷酒やワインの場合これらを同じようにビール飲みしてしまうので、酩酊して失敗をすることがある。もっとも、日本酒は超熱燗や、ひれ酒なら失敗することはないのだが、、、

5. フレンチ・パラドックスは赤ワイン?
動物性の脂肪をたくさん摂るフランス人に心筋梗塞などの虚血性心疾患で死ぬ人が少ないという謎を「フレンチ・パラドックス」と呼び、その原因としてフランス人が大量に飲む赤ワインの中のポリフェノールが動脈硬化を防ぐのだという説が最近ひろく認められている。

確かにそれも一つの原因だろうが、赤ワインを好む国はフランス、イタリア、スペインなどラテン系であり、ウイスキーやビールを好む国はアングロサクソンやゲルマン系であることも大いに関係しているのではないかと私は思う。ラテン系民族の楽天的享楽的性格や生活態度がストレスを貯めず、虚血性心疾患の発症や死亡を少なくさせていると考えるのだ。

私は日本人の中ではラテン系の要素が強いのではないかと思っているが、アルコールについて言えばビールの方が性に合っているのだから面白い。


結婚

1. 幸福な結婚というものは退屈しない長い会話のようなもの
35年も結婚生活が続くとこのことばの意味がよく分かる。30年近く開業医をしているので一日中妻と話をしているが、それでも決して退屈しないのだから不思議だ。

2. 人生で良かったことは一に結婚、二に開業、三、四が無くて、五に子供
自分の人生で一番良かったことは何だろうと振り返ってみて、それは結婚だと思うようになって久しい。おそらく息子が大学に入った頃からだと思う。大学に入学したこと、医師になったこと、開業をしたこと、子供を授かり育てたこと、そのどれよりも比較にならぬほど結婚生活が良かったし、今も、将来も変わらないのではないかと思える。それはおだやかな、しみじみとした幸せと言ってもよいのかもしれない。

<補足説明>
「五に子供」と言われた息子は不服そうだったが、「六から後は思いつかないのだから、五で辛抱しろ」と言ってやったら、納得したようだった。

息子夫婦の結婚披露宴で、新郎の父として

これから、時が過ぎ、自分の人生で、一番良かったことは何か、と振り返ったとき、ためらうことなく、それは結婚だったと思うことができる家庭を、これから二人で作り上げて行って下さい。それが私たちの願いであり、千佳さんのご両親もまた同じ気持でいらっしゃることと思います。 と挨拶したが、正直な気持だった。


無駄

1. 緊張と弛緩はどちらも必要
今まではアクティブな行動に関係することばかりを述べてきた。ここまで読まれた方は、私が絶えず忙しく行動している人間であると思われたかもしれない。確かに私は何かに熱中していることが多いし、診療中などは患者さんを待たせないようにと大忙しである。これは「しなければならないこと」をしている時か、第2章:趣味 のところで「能動的な欲求」に分類した種類の「したいこと」をしている時に相当する。

しかし、私はのんびり、ゆったりと楽しむ時間もまた大切に思っている。その一つは毎日の夕食の時間であり、そのうちの週1回の夕食は梅田で摂っている。日曜、祝日は何もなければ、一日ゆっくりと時間を過ごす。こちらは「基本的な欲求」に分類した種類の「したいこと」をしている場合が多いが、妻ととりとめもない会話をしたり、庭を眺めたり、何も考えずぼんやりしていたりという無目的に近い状態で過ごす時間もかなりある。そして、そのようなときにしみじみとした幸せを感じる。

筋肉(骨格筋)の働きが緊張と弛緩の反復で成り立っているように、人間の活動には能動的な活動と受動的な活動(あるいは休息)のいずれもが必要で、それぞれが互いの活動を高めるように作用する。しかし、緊張のために弛緩があるのではない。弛緩が緊張に従属するのではなく、対等の価値を持っている。

「リクリエイト」「リフレッシュ」ということばには活動に役立つための充電というニュアンスが強く感じられる。そのために、「のんびり、ゆったりと楽しむ時間」を持とうとする人が多いのかもしれない。しかし、私の場合はそうではなく、「忙しく行動している時間」「のんびり、ゆったりと楽しむ時間」は対等の価値があり、決して活動を高めるための休息ではない。しみじみとした平和、幸せを感じるのはむしろ後者である。

何もしないこと「無為」が、忙しく活動することと同じだけ価値があるという思いは、年を経るごとに強くなってきている。私はよく「英気を養う」「命の洗濯」というが、本当のところは「無為」を楽しんでいるのだ。

2. 無駄や遊びに効用がある
無駄や遊びのない効率優先の世界は味気なく面白くない。人間は無駄や遊びが必要な動物である。家を建てたときにそのことが良く分かった。最初に医院と併設の居宅を建てたときには、効率本位で無駄のない設計をした。医院の方はそれで良く、建ててから30年近くになるがほとんど変更をしていない。

しかし、居宅はまるで事務所の感じで、味もそっけもなく、心やすまるものでなかった。そこで、その後増築をしたときにはこちらも改装し、無駄と遊びを充分に取り入れた設計にした。今はその遊びの部分があることで居宅が非常に住みやすく憩いの場となっていることを実感している。

行動についてもそれは同じことで、無駄があり遊びがあるから生きている喜びがある。人間はホモ・サピエンス(知性人)であり、ホモ・フアーベル(工作人)であるが、ホモ・ルーデンス(遊戯人)でもある。無駄なことをして遊ぶことは動物にはできない。遊ぶことができるのは人間の人間たる大切な特質の一つである。

3. 週に1回、命の洗濯
私は妻と週に1回は梅田に出かける。4年前に義母が脳梗塞で倒れるまでは、週2回の方が多かった。車で梅田に着くと妻と別れてそれぞれが自分の行きたい所へ行く。そして夕食を一緒に摂り、それから帰宅するのだ。妻と別れてからの私の行く先は、本屋、パソコンショップ、映像関連の店、レコード店など。妻はウィンドウ・ショッピングをしているようだ。

夕食はビアレストランか居酒屋で摂るが、最近はほとんど3店に偏ってきている。ここで生ビールを飲み、肴をつまみ、お客の観察をしながら妻ととりとめのない話をする。この夕食は家で食べるのとは違って騒々しいが、その分活気があり、これもまた楽しい。この梅田行きを私は「命の洗濯」と呼んでいる。これがなければ私は拘禁ノイローゼになるに違いなく、仕事を継続するために必要な息抜きだと思っている。


病気の仕組

1. 悪循環を断つ
悪循環を日常生活でも医療上でも経験することが多い。その場合、悪循環を断つということが問題解決に有用な場合がよくある。それが対症療法であったとしても、それにより悪循環が断たれることで快方に向うことをよく経験する。

対症療法を軽蔑して行わない者がいるが愚かだと思う。火事になってしばらく時間が経ち、火元は治まって周りに広がっている時に、火元を断てと言っているようなもので、バカの一つ覚えの根本療法である。同じようなことは、すぐにEBM(Evidence Baced Medicine)だ、インフォームドコンセントだと唱える輩にも感じてしまう。

対症療法が有効な例を思いつくままに書いて行くと、「痛いから余計に痛くなる」「咳をするから余計に咳が出る」「痒くて掻くから余計に痒くなる」「不安だから余計不安になる」などに対しては、色々な方法で痛みを取り、咳を抑え、痒みを軽くし、不安を少なくすることで、改善したり治癒すること多い。

もちろん、対症療法に偏り、根本治療をないがしろにすることは絶対にあってはならないことであるが、根本療法が行えない病態があり、また対症療法で治癒する病態があることも理解しておかなければならない。悪循環というのは医療面よりも日常生活でより多く経験すると言えよう。例えば、人間関係の「嫌いな感情」「誹謗」「争い」など、経済関係の「借金」、教育関係の「落ちこぼれ」などいくらでも悪循環は存在し、それを断つことで問題解決に役立つことが多い。

2. 廃用性萎縮を防ぐ
「廃用性萎縮」ということばがある。使わなかったことが原因で臓器や組織の内容が減少した状態を指す病理学の用語(disuse atrophy)で、骨折などのために長期間動かさなかった脚の筋肉が痩せる(萎縮する)のはその代表例である。その他、脳卒中で寝たきりとか、激しい神経痛などで四肢を動かせない場合などにも動かさない四肢などの筋肉の萎縮が起こる。この「廃用性萎縮」を防ぐために、早期から運動療法や理学療法を行い、また激しい痛みに対しては鎮痛療法行うなうことは非常に有用である。

「廃用性萎縮」は四肢に限らず他の臓器でも起こり得ると考えておかしくはない。脳については痴呆の90パーセントが「廃用性萎縮」によるというデータが示されている。それが信頼できるとしたら頭を使うことの重要性がよく分かる。もっと一般化して、身も心も頭もよく働かせることが、人間が生きて行く上で大切なことなのだと思える。

自然界には、使えば消費によって減少するものは多いが、使っても減少しない空気のようなもの、使わないと枯渇する井戸のようなものもある。一方人間については、筋肉を使えばそれだけ筋肉の量が増えるように、一般には使うほど増加する場合が多く、また逆に使わないと減少する場合も多い。

人間の身体の構成物は絶えず新陳代謝が行われ、破壊と生産が恒常的に行われている。ある機能をよく使うということは、それに関係したものの生産を高める方向に働き、それをあまり使わないということはその生産を低めるように働くと考えて良いだろう。ある機能をよく使うことが、破壊に対しては生産ほどに影響しないとしたら、良く使うことはプラス効果があり、あまり使わないことはマイナス効果があることになる。

しかし、ここでも「過ぎたるは及ばざるが如し」が真理であることに変わりはない。

<補足説明>
ここで取り上げた「悪循環」「廃用性萎縮」は病気の仕組のごく一部に過ぎないが、気付かれなかったり、評価されず、無視されることの多いメカニズムである。


健康情報

1. 健康に良いと言うことをしていない
「なにか健康に良いことをしていますか?」は飽きるほど聞かされるキーフレーズだ。ところが私は健康に良いといわれていることを積極的には何もしていない。昔ヘビー・スモーカーだったが、30年以上前にタバコを止めた。スポーツも歩くことも、食養生も、アルコール制限も、健康食品やサプリメントの摂取も「健康に良いと言われることを何一つしていない」のである。

それでも、開業して29年目になるが、病気で休診をしたことはなく、ほとんど毎日午前7時45分には診察机の前に座り、2〜3日に1度は8時15分から胃の透視などの検査を行い、9時からは毎日診療をしている。

医者だから検査を受けて早い目に治療をしているのではないかと思われるかもしれないが、決してそのようなことはない。未だかって胃の検査、糞便検査、CTやMRI、エコー検査を受けたことがない。血圧は待合室に置いてある自動血圧計のペーパー切れの交換をする時にテストで調べるくらい。胸部のレントゲン写真もフイルムや撮影条件、現像条件のチェックで撮るのがほとんどである。血液検査は年に1回くらい、何かで心配になった妻に無理やり採血されるくらいのものだ。

<補足説明>
昨年猛烈な下痢腹痛に襲われ、それが数日続いた深夜に救急で近くの病院を受診し、腹部CTと腹部エコー検査を受けた。腹痛の原因は尿管結石によって急激に腎盂内圧が上昇し、腎盂・尿管壁に亀裂を生じて、尿が内腔外に溢流したためだったようだ。その一部始終をこのサイトに「猛烈な下痢腹痛の体験記」というタイトルで掲載している。


2. 健康は生きる手段であって生きる目的ではない
「健康志向」に水を注すようなことを書いた真意は、「健康志向」ブームに乗せられて、それに振り回されるのは、時間の無駄ではないか、時間と金銭の損失ではないかと思うからである。日替わりメニューのような健康情報をテレビから、週刊誌から、新聞から、薬局の店頭から仕入れてきて、それにとらわれて、時間と金銭を消費しているのをもったいないと思う。

もちろん、健康に良いと言われていることを試すのが楽しみで生きがいであるという人はそれを楽しまれたら良い。しかし、そのような人がそれほど居るとは思われない。

一回かぎりの人生を、思いっきり充実して生きて行くために健康を願うのではないのだろうか? まさか健康が目的、健康を続けることが生きがい、というわけではないだろう? ところが、いつの間にか手段が目的に変わってしまい、それに気がつかず、手段を目的として懸命に追い求めているのではないだろうか?もしそうだとしたら、いろいろと健康法を試すのを止め、くよくよせずに今を楽しむようにしてはどうか、というのが私の提案であり、アドバイスである。

もし、タバコを吸っている人であれば、健康に良いことをいろいろ試みるよりも、タバコを止めることの方が比較にならぬほど効果がある。そのことは医学的に証明されている。ところが世の中に流布している健康情報は、これほど明らかなタバコの害について強調することをせず、ほかの怪しげな健康法を勧め、人々を惑わせている。

また、早期発見早期治療の効用を強調して、絶えず検査を受けなければならない気持に駆り立てるのも間違っていると私は思う。受けた検査データのわずかな変動に一喜一憂し、検査を受けなければ知らずに済んだ軽い病気までも見つけてもらうことが良いことなのかは疑問である。

中年を過ぎればどこかに調子の悪い部分が出てきて当然であり、重大な病気でなければそれにとらわれることはないと思う。詳しく細かく検査をすればするほど健康は減り、病気が増えるのも当たり前のこと、その上どんなに努力をしてみても人は必ず死ぬものである。何のための健康か、何のために生きるのか、いまいちど考えてみるのも悪いことではないだろう。

私はこどもの頃からよく風邪をひき、中年からは喘息持ちで、短命の家系に生まれた。その私は検査をほとんど受けず、健康に良いことを何もせず、むしろ健康に悪いことをしてきた。それでも、少なくとも今日までは、病気で休むことなく仕事を続け、私なりに人生を楽しむことできた。このような場合もありうるのだから、健康情報に振り回されず、その時間を限りある命の充実に向けなければ口惜しいのではないかと思うのだが、余計なお世話と言われるのだろうか?

3. 正常値のひとり歩き
いろいろな検査で正常値とか正常範囲とかということばが使われる。これらはほとんどの場合、健康な人間の集団に属する95%の人間のデータが占める範囲を指している。つまり、正常な人間の5%はこの範囲から外れていることになる。

ところが一旦正常値、あるいは正常範囲というレッテルを貼られると、そのよう条件は取り除かれ、この範囲を外れたものは全て異常であるという風に正常値がひとり歩きしてしまいやすい。難儀なことには検査の結果を説明をする側の者まで、正常値や正常範囲というものが、健常者の95%の者について当てはまるデータであることを知らないか忘れていることが多いのだ。

4. 95%の真実
実験とか統計で結論を出す場合、統計処理を行い、その結論が間違っている危険率が5%または1%以下の場合に真実であると判定する。通常は危険率5%をとるが、危険率1%以下の場合はより真実に近いと判断する。だから実験や統計で得られた結論というものは95%の真実、99%の真実と言うことができる。それを100%の真実のように誤解するところから間違いが生じる。危険率は有意水準とも呼ばれ、最近はp値ということばが使われることも多い。

5. 新聞を信じるのか!
息子が小学生のころだった。どこかへ出掛ける車の中で、得意そうに何かを話すのに私が疑問を挟んだところ、「だって、新聞に載っていたから」と口をとがらせた。その途端「お前は新聞を信じるんか!」と怒鳴りつけてしまった。息子はもうビックリ仰天、口をつぐんで不服そうだった。

小学生に対してまったく大人げないことを言ってしまったが、これで新聞とか権威があるとされているものに対しても疑問を持って良いのだということを分からせたのではないかと思う。

私が新聞記事に不信感を持つようになった最初は、60年安保の学生運動に対する新聞報道だった。高校で1年後輩だった樺美智子さんが殺されたころの新聞報道には、私もデモにも参加していたので、間違いが多いことを何度も経験した。

その後、身近に事件が起きたときの新聞報道も決して正しいものではなく、また、新聞社によって内容が大きく違っていた。それ以降も新聞報道がいかに多くの虚偽の報道をしてきたかを見てきたので、新聞報道といえども盲信すべきではないことを息子に教えておきたかったのだと思う。

開業以来、朝日、読売の2大新聞を購読してきた。大新聞といえども、自分に都合の悪い記事は書かないのは商業新聞であるから当然であるし、政府や業界からのキャンペーンに乗った記事を載せて来たことも多々あったが、これも致し方ないのだろう。しかし、そのことを割引して、あるいは批判的に読まなければ、真実を誤ることがある。

6. ちょっと待て! おかしいぞ!
新聞の記事が必ずしも正しいと限らないことを息子に教えたが、より一般化して、権威あるとされているすべてのものについて、盲目的にそれを信じることをせず、もし疑問が湧けば「ちょっと待てよ! おかしいんと違うか?」と立ち止まって考えてみることの大切さを教えたかったのかも知れない。

私は9歳で敗戦に遭い、価値の180度変換とそれに対する大人たちの対応を経験し、世の権威とされるものに対して盲信することの危険と愚かさを身にしみて感じて来た世代の人間である。そのせいか既成観念をまず疑うという傾向があるようだ。


生きがい

1. 生命の発揮
生きる価値の基準となるものは何かと考えていたある時に、閃いたことばが「生命の発揮」である。周囲を見渡すと、草も木も花も、生命あるものは、その命を精一杯発揮し、充実して生きようとしているように見える。生き物が、与えられた命を精一杯発揮して生きることを、生きる価値の基準と考えると、これまで漠然と自分の頭にあった生きる価値を、体系的に説明することができる気がした。

人の「生命の発揮」とは、単に生きているだけでなく、その生きていることを喜び楽しむことで、具体的には、自分のしたいことを目一杯するということとほぼ同じになる。したいことは人それぞれに異なるが、例えば、何かを鑑賞する、他人の喜びに役立つ、何かを創作するなどがそれに当たるだろう。

個々の生き物が精一杯生きて死ぬことだけでも価値はある。しかし、それを次に続くもの(子孫)につなげるとか、一緒に生きるものの生命を充実させるのに役立つなら、より一層価値があることになる。

もちろん、それでは「何のため生きるのか?」、「なぜ精一杯生きるのか?」という問題は残る。しかし、それはいくら考えても分からないことで、考えても分からないことを考えるのは無駄なことである。とにかく、この価値の基準を見つけて私は満足した。そしてそれ以上深く考えることをして来なかった。

第8章:運命●01<無常>のところで、生命あるものが、その生きている間に、自分の持って生まれた素質を、環境の変化に対応させ、その命を精一杯発揮して生きようとする性質を「生命の法則」と名付けたが、個々の生物についての価値の基準が「生命の発揮」である。

2. いかに長く生きたかではなく、いかによく生きたかが問題である
このことばは、古代ローマのストア学者であるセネカの著書「人生の短さについて」の中に書かれている。まことにその通りだと思う。

「よく生きる」とはなにかについて、私は先に述べたように「生命の発揮」と考えた。くり返すと、生きていることを喜び楽しむこと、具体的には自分のしたいことを目一杯するということになる。充実感のある人生を送るというのも同じ意味だ。そうすることによって死ぬ時に後悔をすることはないだろう。

3. 悔いなき人生
悔いなき人生、正しくは悔い少なき人生である。私は80点主義で生きてきたので、目標の80%が達成されれば大満足で悔いはない。それが60%でも何とか満足できる人間である。一回限りの人生だから、自分の人生は思うように生き、したいことをして、死ぬときに悔いることのないように生きたい。これが私の生きる目的であり、20代後半から変わらずに思ってきた私の生きがいである。何をしたいかについては、この章の01<価値の基準>のところで簡単に述べたが、第2章:欲求第7章:創造の二つの章に私のしたいことのすべてを書いたつもりだ。

4. アングルのバイオリン
「アングルのバイオリン」という言葉がある。高校か大学教養の頃に読んだ書物にあったと思い、手持ちの書物をかなり調べてみたが見つからなかった。だから、あるいは私が自分で作ったことばかも分からないが、私の心の中で生き続けて成長し、自分の生き方の理想となっている。それは、フランスの新古典派と云われたアングルが、職業である画家としての評価よりも、趣味であるバイオリンで評価されることにより重きを置いていたという話である。

私も職業である医師として評価されるのは当然のことであり、いい加減な評価ではむしろ不快になるかも分からない。しかし、余技の上での評価(これはほとんど自己満足と同じ意味)を大切に思って来た。

この「アングルのバイオリン」を次のように言い替えることもできる。「しなければならないこと」は生きて行く上での義務、あるいは当然支払わなければならない代価として精一杯これに努めるが、生きる目標は「したいこと」をすることにあり、この自己満足こそが生きがいである。

こちらは、人に役立つとか立たないとかは関係なく、自分が「したいこと」をすることが大切だと思う生き方である。あまり有害では困るが、無益で結構、もし少しでも有益であればそれに越したことはないという生き方である。

5. 人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるゆえなり
私は「徒然草」からいくつかの人生訓を学んだが、その一つがこの「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるゆえなり」である。これは「死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るるなり」と続く。「徒然草」第93段である。死を人間の運命として自覚した人は、一日一日を喜びをもって、自分のしたいことをして送るはずだ、ということばに同感した。

私は早くから妹、母と死別したこともあり、30代から死を意識してきた。また、生きる価値の基本を「生命の発揮」つまり「充実した人生」と考えてきたので、この兼好のことばの意味するところがよく分かり、「徒然草」の中でも一番好きな段である。


生き方

1. 80点で満足する
私は時に完全主義者と誤解されることがあるが、実際は逆で、不完全主義者である。小学生の頃からケアレス・ミステークをして100点を取れないことが多く、開き直って、99点で良いと思うようになった。その代わり、他のことでも99点を目指すことにし、これを99点主義と名付けた。小学校のテストの99点と言うのは、世の中一般では80点程度に相当するだろう。そこで99点主義の代わりに「80点主義」と呼び代えることにした。

100点を望まず、99点、一般には80点で満足すると、生きるのが非常に楽になる。また、「80点主義」は効率が良く、少ない努力で大きな効果を上げることができる。私があまり努力をしないで、そこそこに充実して生きることができたのは、80点で満足してきたお陰だと思っている。第8章:運命●04<神>のところで書いたように、私の神は99.9999%は正しいが、0.00001%は間違う。神ならぬ身の私が99%では出来過ぎ、80%で良い加減だろう。

今から4年前に「80点主義」についてまとめ、このホーム・ページに掲載した。今回それに少し手を加え、この心に残ることばの付録とすることにした。

2. 80点主義
80点主義は小学校時代からの私の生きる知恵のようなものだった。昔から100点を取れない、いつもどこかケアレスミステークをしている人間だったため、逆に98点で良い、その代わりに他のことでも98点をとろう、という風な努力をするようになっていた。

この98点主義、一般には80点主義、例えば大学入試のような難しいものでは60点主義は、非常に効率がよく、またストレスを少なくする効果がある。力の無い者がそこそこの成績を出す、あるいはそこそこに人生を楽しむには、恐らく最良の方法ではないかと思っている。

この80点主義については、98年にこのWebページに詳しく書いたが、私の生き方の中心となるものなので、文体をこの「心に生きることば」に合わせ、付録:80点主義とすることにした。

80点主義のメリットは以下に要約できる。
1.努力対効果比が良い、2.総合点を増やすことができる、3.重大な失敗の確率が低くなる、4.ストレスが少なくて済む、5.他人の失敗に対して寛容になる、6.失敗を恐れない、7.人生を肯定的に生きることができる

3. 明日できることを今日はしない
「今日するべきことを明日に延ばすな」は当たり前の話である。ところが、フランクリンのように「明日するべきことを今日行え」となると私はまったく反対だ。明日の命が分からないから、今日のうちに片付けておくというのは一理はあるように見える。また、それが自分の「したいこと」であれば、私も「明日できることを今日する」かもしれない。

しかし、明日「するべきこと」というのは「しなければならないこと」と受け取ってよいだろう。その場合は「明日できることを今日する」ことはしない。今日は今日の「したいこと」をする。それが少ない時間をできるだけ有効に使う「生きる知恵」だ。

小学生時代からそうだった。夏休みの宿題は始業式の翌日をタイム・リミットとして、それに間に合う最小限の期間で始めたし、中学以降の試験勉強も同じ、現在は会計事務所の監査、レセプト提出などがそれに当たり、タイム・リミットに間に合わせられるギリギリまでとりかかることをしない。

明日の命が分からないとしたら、一層今日できる「したいこと」をしておきたい。明日死ねば、それは仕方がないこと、死んでしまえば「しなければならないこと」も免責されるだろう。死ぬかどうかが分からないのに、明日の分で今日の時間を消費させられるのはまっぴらだ、というのが「明日できることを今日はしない」第1の理由である。

もう一つは、「短時間で集中的にした方が効率が良い」という経験則を持っているからだ。嫌な「しなければならないこと」はできるだけ短時間で済ませてしまいたい、それにはタイム・リミット一杯まで手をつけないでおくに限る。

ただし、このタイム・リミットを正しく予想できることは重要で、それを間違えれば単なる「サボリ」になってしまう。幸い私の記憶している限りでは、次の08<タイムリ・ミット>で書くように、これを守れなかったことはない。

4. 自分で目標を作り、タイム・リミットを設け、それを守る
私の行動原理は「したいことをする」である。その中でも、何かを作る、問題を見つけ、問題を作り、それを解決するという「能動的欲求」を満たすことが一番したいことである。その場合、自分で目標を作り、タイム・リミットを設けている。これについては、第4章:行動●08<タイム・リミット>にも書いた。

私は、タイム・リミットを設け、それに向けて可能な限り努力するのが好きな人間だ。与えられたタイム・リミットはもちろん、自分で決めたタイム・リミットを守るのが私の「生き方の規範」の一つで、これまでタイム・リミットを守らなかったことは無かったと思う。もちろん、タイム・リミットを守ることが良いとか、守らないのが悪いとかという問題ではない。それはその人の生き方の問題である。

5. タイム・リミットを守る
生きて行く上でさまざまなタイム・リミットがある。学生時代であれば試験、社会人になれば仕事がその大きな対象であろう。これらは他から決められたもので、その環境に属す限り守らなければならない。それとは別に、自分で決めたタイム・リミットもある。私はそれが多く、年齢とともに余計にその傾向が強くなった。タイム・リミットを置いて、可能な限り努力するのが好きなタイプであることをつくづく思う。

与えられたタイム・リミットはもちろん、自分で決めたタイム・リミットを守るのが私の生き方だということに最近気がついた。振り返ってみて、これまでタイム・リミットを守らなかったことは無かったと思う。それは、私の要求水準が低く「80点主義」であること、「集中主義」「重点主義」であることによって可能となったのだろう。

完全主義者で、時間をかけて地道に積み上げていくタイプであれば、タイム・リミットを守るのが無理なのは当然である。だからと言って、タイム・リミットを守ることが良いとか、守らないのが悪いとかという問題ではない。それはその人の生き方、好みの問題に過ぎない。

6. 快感をとめどなく求めるは醜悪
私たちは快感を求めて生きているという面がある。それは根源的なことがらであり、当然の行動である。しかし、快感をとめどなく求めるとなると醜悪に変わる。それは私の美意識に反する行為だ。

例えば、先にも書いたが、私の夕食はビールと食事で腹十二分目にするのが常である。この後で横になればたまらなく気持が良いことは分かっている。しかし、その誘惑を断固退け、診察室に向かい、1日の集計、日計表の打ち出し、その他の診療に関するその日のまとめを済ませる。それからパソコンを使っていろいろの作業を行う。快感の後はストイックになるべきだというのが私の美意識である。

<補足説明>
この度「健康一口ことば」としてまとめ直しながら、この美意識もまた私の健康に関係しているのかも知れないと思うようになった。


7. しゃーないことはしゃーない
これは第8章:運命●03<受容>ところで書いたフレーズである。「しゃーないことはしゃーない」というのは、私の「生き方の規範」の中でも重要な部分だと思う。「しゃーない」「仕様がない」の関西弁である。世の中には、どうしようもないことがある。それを嘆いても、悔やんでも、腹を立てても、何の効果もない。運命は甘受するより仕方がないという考え方だ。しかし、仕様があることには仕様を考え、投げ出さず努力をすることも付随する。


追加

「心に生きることば」から健康に関連のあることばを抜粋して並べ替え、「健康一口ことば」とした。その作業をしていて、3点抜けているところがあることに気がついた。一つは、持って生まれた体質、もう一つは開業医の規則的な生活、三つ目はインフルエンザワクチンの接種である。この三つを加え、「健康一口ことば」を終えることにする。


1.親からもらった体質
健康に良いことをして来なかったのに、31年間病気で休診したことはなく、休んだのは父の葬儀と弟の結婚式、それに息子の幼稚園の父親参観の時だけである。それが可能だったのは、今までに述べたことが大いに関係していると思う。

しかし、やはり、親から受け継いだ体質もかなり関係しているかも分からないと思うようになった。とは言っても、開業するまでは特に頑強な体質ではなかった。学生時代は皆勤賞や精勤賞と縁がなく、勤務医時代はしばしば風邪で休み、30歳から40歳の間は喘息で悩まされ続けて来た。

それでも、快眠快食快便は、生まれてこの方続いている。食欲の無い日は年に数日もなく、眠れなかったのも、68年の人生でわずか1日しかない。あくびが出れば、3分以内に眠ってしまうことができるが、どうやらこれは稀有な体質のようだ。両親が肺結核だったせいか、呼吸器系は強くないが、消化器系と神経系がタフなのは、親に感謝しなければいけないのかも分からない。


2.開業医は規則正しい生活を余儀なくされる
開業してしばらく経った頃、周囲の開業医が次々と亡くなった。その頃、大阪府医師会が調査したところでは、大阪府医師会会員の死亡年齢は府下の住民の死亡年齢より10年若いと報告され、それを読んでショックを受けたのを覚えている。

その頃は、救急体制も不十分で、深夜の時間外診療も多く、不規則な生活とストレスが早死に関係しているのではないかと思っていた。しかし、20年ほど前から時間外診療も少なくなり、むしろ、開業医生活は生活のリズムを規則的にするはたらきがあるように感じている。

朝は7時過ぎに起床、7時45分には診察室に出る。午前の診療の後で昼食を12時半から1時までに終え、午後の診療の後、夕食は8時から9時まで、就床は12時半、就眠は1時、これが診療のある日のほぼ変わらぬタイムスケジュールである。そして、日曜祝日や午後休診の日は、まったく自由に時間を過ごす。

考えてみれば、この規則正しい生活と、自由に過ごす安息日の存在も、私の健康に大いに関係しているのかも分からない。


3.予防接種なしでも、インフルエンザの発病なし
開業31年間で、私と私の家族、当院の職員の誰にもインフルエンザの予防接種をしていないが、誰一人としてインフルエンザで休んだ者はいない。医師会の会合でそのことを話したら皆驚いていた。

94年に予防接種法が改正され、インフルエンザの予防接種は任意となったが、それまでは小中学生を対象に集団接種が行われて来た。そのため、毎年10〜12月は予防接種への出務で大忙しだった。ところが、インフルエンザが流行りだすと、発病して来院するのはほとんどが予防接種を受けた小中学生なので、インフルエンザの予防接種の効果に疑問を感じて来た。

たまたま、距離の接近した二つの小学校の1校でインフルエンザの予防接種を受け、他校は受けなかったケースがあった。予防接種を受けた学校の生徒の方が、受けなかった学校の生徒よりインフルエンザの罹患率が高いという事実が知られると、インフルエンザの予防接種の有効性に疑問が出た上、副作用も問題化し、マスコミはインフルエンザ予防接種反対の大キャンペーンをくりひろげた。その結果、予防接種法が改正され、集団接種から任意接種に変更されたのである。

しかし、高齢者施設で集団感染が相次ぎ、死亡例が続出したことから、重症化を防ぐ効果が見直されて、2011年の法改正で65歳以上は一部公費助成する「勧奨接種」となった。ワクチン自体は本質的には以前と変わっていないのにも関わらず、マスコミは今度はインフルエンザ予防接種の必要性を喧伝し、その結果ワクチン不足が招来され、社会問題化したのは昨年の話である。

当院の職員の子どもは何人もが本格的なインフルエンザに罹患したが、その母親たちは、予防接種を一度も受けていないのにも関わらず、誰も発病することはなかった。職員たちは、多くのインフルエンザの患者さんに接しているので、軽い感染をくり返し、それによって免疫が維持増強されていると考えれば説明が付く。

それにしても、31年の間、予防接種を受けていない当院の職員が誰一人としてインフルエンザで休んだことがないという事実に改めて驚く。学者も厚生労働省もマスコミも、この事実をよく考えていただきたいと思う。



<2004.9.17.>

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