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2015.11.26. 掲載
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目次
はじめに
ヴェネチア
フィレンツェ
アッシジ
ローマ
ナポリ
ポンペイ
まとめ
1992年夏、私たち夫婦は銀婚を記念して初めて海外旅行をした。行く先は迷うことなく「君よ知るや南の国」イタリアだった。
なぜイタリアだったのかを振り返ってみると、ルネッサンスの中心であった国であり、その実りの文化に慣れ親しみ、憧れてきたことが一番大きな理由ではないかと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ドナテロ、ボッティチェリ、フラ・アンジェリコなどの作品が目に浮かぶ。
音楽ではナポリ民謡(カンツォーネ)、数々のイタリアオペラに魅せられてきた。イタリア映画(自転車泥棒など)、イタリアを舞台とした映画(ローマの休日、旅情、刑事、ベニスに死す)、マカロニ・ウェスタンが懐かしい。
初めて海外旅行をする数年前から、医師会で先輩の故高石喜次医師に、海外旅行を強く勧められて来た。先生は10歳年長で、僻地を中心に世界中を旅行しておられ、早く始めないと年齢的に行けなくなって後悔するぞと言われ続けてきた。
しかし、その頃、実用として使えるパソコン、PC-9801が登場し、私はこれを診療に活用することに熱中していたため、聞き流さざるを得なかった。
そのパソコンだが、最初の海外旅行のころになると、手足のようにこれをこき使い、診療の補助になくてはならぬ道具となっていた。
また、海外旅行の整理・記録にも掛け替えのないツールとなっていて、海外旅行が遅れたことのデメリットをカバーするには十分だった。
海外旅行の記録はビデオですること決めていた。本当は写真をふんだんに使った文章記録が望ましいのだが、 インターネットが普及していなかった時代に、この形式で公開するのは費用と時間を考えると現実的ではなかった。
また、前年(1991年)に発売されたHi8方式のSONYビデオカメラTR705は解像度がTV放送より高く、LD並みとなり、発売と同時に購入していた。これで撮影し、編集して旅行記のVHSマスターテープを完成させると、それをダビングするだけで、VHSテープの旅行記をいくつでも簡単に作ることができる。ビデオにナレーション、あるいは字幕を付け、効果的なBGMを流すことで退屈しない旅行記録とすることができる。VHSビデオは当時広く普及していたので、これは充分現実的で実用的だった。
今回Webサイトに記事を載せることにしたのは、ビデオよりも情報量が多く、インターネットに接続すれば、誰でも、世界中何処にいてもこの情報に接することができるからである。これは自分自身の情報源としても非常に重要である。
20年前の2回目の海外旅行を、ビデオ記録から切り出した静止画を使って、真夏のスペイン旅行のタイトルで2ヶ月前にWeb記事として掲載したが、このWeb記事は自分にとって有用だった。そこで、これまでWebサイトに記事を載せていない3件の海外旅行も、まとめることにした。この記事はその内の一つである。
写真はビデオから切り出した静止画を中心に、いくつかの写真をスキャンしたものを加え、ビデオのシナリオを参考にしながら、旅の思い出を記事にまとめた。
行く先にイタリアを選んだあと、故高石喜次先生がご推薦の阪神航空フレンドツアー「イタリア・ハイライト8日間」8月8日〜15日のコースで最初の海外旅行を楽しんだ。先生は「イタリアとスペインは阪神航空のフレンドツアーが良い。飛行機はビジネス・クラスにしなさい」と仰る。
このフレンドツアー利用したのは最初の2回だけだったが、ビジネス・クラスはその後も選び続けた。エコノミーを望む妻の反対を、頑として受け付けなかったが、妻の反対を押し切ったのは、結婚以来おそらくこれだけだと思う。
そのわけは、10時間近い滞空時間も快適に過ごすのでなくては、海外旅行の意味がない。海外旅行は特別の時間「ハレ」である。「ハレ」は存分に楽しむものと思っているからだ。
ヴェネチアは、アドリア海の奥にある、大小118の島々の上にたてられた海上都市である。9世紀から東西貿易に伴う海運業により栄え、約1000年の間、共和国として勢力を保ち続けた。アドリア海の女王と呼ばれたヴェネチアの栄光の歴史は、サン・マルコ寺院やドゥカーレ宮殿のほか、街の多くの建物にしのぶことができる。
ここに来て、人間の創造力の素晴らしさに感動したが、同時に、この都市が確実に滅びいく途上にあることも感じた。この世にあるものには全て終わりがあるが、このヴェネチアという都市の、終わりに向かうさまは自然で良いと思った。
旅行前には思ってもみなかったことを旅行で知り、考えることはよくあることだが、ヴェネチアもまさにそれであった。
ヴェネチアは逆S字型の大運河(グランド・カナル)によって二分され、小運河(リオ)と小横丁(カッレ)が縦横に無数に張り巡らされた都市である。自動車はなく、交通機関は専ら船で、ゴンドラと水上タクシー(モーターボート)、大運河には水上バス(ヴァボレット)が往来する。
世界には○○のヴェネチアと呼ばれる都市は幾つかある。北のヴェネチアと言われるのは、アムステルダム、ブルージュ、サンクトペテルブルグ、北欧のヴェネチアはストックホルムがある。しかし、交通機関が船だけという街はここヴェネチア以外にはない。
関西国際空港(関空)の開港は1994年9月のため、この時は成田国際空港発のアリタリア航空で、ローマ着。国内線で、ヴェネチア本島の北北東 約7kmに位置するマルコ・ポーロ空港着。ここからは水上バスでホテルに到着した。
成田空港での出発が大幅に遅れたため、ヴェネチアに到着したのは深夜。機内から見るヴェネチアの夜景は、得も言われぬほど美しかった。
ヴェネチアは大運河によって二分され、小運河(リオ)と小横丁(カッレ)が縦横に無数に張り巡らされた都市で、このような都市は世界に二つとない。
サン・マルコ広場はヴェネチアの中心で、サン・マルコ寺院やドゥカーレ宮殿、鐘楼、時計台、ゴンドラ乗り場が集中している。ここは世界一美しい大理石作りの広場と言われている。
サン・マルコ寺院はビザンチン建築の代表で、この町の守護神聖マルコの遺骨が納められている。9世紀に建てられ、その後火災にあい、11世紀に再建された。
ドゥカーレ宮殿はマルコ寺院の南側にある。現在の建物は14世紀から15世紀に建てられ、ヴェネチア共和国の公邸だった。
それぞれの部屋の壁を飾る絵は素晴らしく、中でも世界最大の油絵と言われるチントレットの「天国」には圧倒された。
イタリアではヴェネチ・アングラスのことをムラーノグラス(vetro di Murano)と呼ぶ。ムラーノ島の職人によって生み出された手作りのものだ。映画「旅情」で見た赤いゴブレットが印象に残っている。
ムラーノ島はヴェネチア本島の北東1.5km の位置にある。
ヴェネチアの象徴をゴンドラとしても可笑しくはあるまい。あのエキゾチックな曲線を持ち、真っ黒な船体に赤、青、緑、白などのカラフルな覆いが載ったゴンドラが目に浮かぶ。
ヴェネチアの街を知るには、カッレ(横丁)を歩くことのほか、ゴンドラに乗ってリオ(小運河)を巡ることも効果のある方法だと思う。このゴンドラ巡りによって、ヴェネチアの栄光の歴史と、終末に向かう途上であることを実感することができた。
私たちのツアー33人全員で5艘のゴンドラに分乗してゴンドラ巡りに参加した。
大運河のほぼ中間にあるこの橋は400もあるヴェネチアの橋の中で最も有名。長さ、幅とともに、大きさも最大で、大理石造りの美しい橋である。
サンタ・ルチア駅は大運河の西端の位置にあり、イタリア本土からの鉄道の終着駅である。運河沿いに水上バス、水上タクシー、ゴンドラの乗降場がある。
イタリアを選んだ一番の目的地がここフィレンツェだった。ルネッサンス時代の美術の宝庫であるこの街で、直接これらを観ることができることに心躍らせてきた。フィレンツェ生まれの、ルネッサンス時代の画家、彫刻家、建築家は非常に多い。これほど多くの天才的美術家を輩出した都市は、フィレンツェを措いて他にはあるまい。
その中で、私はドナテッロ、フラ・アンジェリコ、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロが好きで、このフィレンツェには特別の想いがあった。
そこで、フィレンツェ滞在二日間の内の、半日の自由時間を目いっぱい使って、図52の14ヶ所のうち11カ所を妻と二人で訪ね歩いた。真夏のフィレンツェは酷暑に近く、飲料水2L瓶を手に、嬉々として駆けずり回った。あの頃は本当に若かったのだと今は思う。
レストランに入っても英語が皆目通じない。困っていると、日本人の女子留学生が助けてくれてありがたかった。
異国の地で、観たいものを求めて自分で探しまわった経験は、それからの海外旅行に影響していると思う。ツアー旅行でも自由時間をできるだけ楽しもうとした。
しかし、昨年あたりから、体力的に自由時間を楽しもうという余裕が無くなって来た。他の人の迷惑にならなずに行動できる間は、海外旅行を続けようという気持ちに変わっている。
フィレンツェの街を歩いて驚いたことの一つは、建物が堂々として立派なことで、大阪中之島に建つ昔の住友銀行本店のような建物がここではいくらでもある。これにはたまげてしまった。もう一つは、建物の地域表示が明快なことで、今いる道路の名前がすぐに分かる。日本との違いを痛感した。
ドナテッロのダヴィデ像に会ったときは、長年恋い焦がれてきた想いでビデオカメラを向け続け、幸福感いっぱいだった。また、サン・マルコ美術館の僧坊へ続く階段を登ったとき、目の前にフラ・アンジェリコの「受胎告知」が現れ、その清楚な絵に釘づけとなったことを今もはっきり思い出す。
ミケランジェロ広場はアルノ川をはさんで、フィレンツェの南東の丘陵にある。ここからフィレンツェの街が一望できる。この広場の中央にミケランジェロのダヴィデ像のレプリカが建っている。
花の聖母教会 ドゥオーモはフィレンツェを代表する建物で、約3万人が一堂に会することができる。ブルネッレスキが設計をした、丘のようだといわれる大円蓋(クーポラ)は街のどこにいても目印となる。
13世紀に着工し、1471年に完成した。
ドゥオーモに隣接してその南側にジオットーの鐘楼が建ち、西側に八角形の洗礼堂が建っている。
ドゥオーモ ファサードの西向いに八角形の洗礼堂が建っている。11世紀から13世紀にかけて建てられた。ドゥオーモに面した洗礼堂の東の扉はギベルティ―の作品で、ミケランジェロはこの扉を「天国の扉」と名づけた。
シニョリーア広場は昔も今もフィレンツェの行政の中心。広場はヴェッキオ宮殿とたくさんの彫刻の並ぶ彫刻廊からなっている。左端ヴェッキオ宮殿の入口の前にはミケランジェロのダヴィデ像(レプリカ)が建っている。ヴェッキオ宮殿の隣にはウフィツィ美術館が連なる。
ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)は昔も今も政治の中心であるが、昔はフィレンツェを外敵から死守する最後の砦として要塞堅固に設計された。現在その半分以上が市庁舎として使われている。
なお、ヴェッキオ(vecchio)とはイタリア語で古い、英語の old に相当する。ポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)はフィレンツェのアルノ川に架かる最古の橋である。
実は2003年5月に私の息子はこの市庁舎で結婚し、フィレンツェ市長の結婚証明書をもらっている。
ウフィツィ美術館はイタリアルネサンス絵画の宝庫である。フィレンツェで生まれ、フィレンツェで育った芸術家たちの主要な作品を一堂に展示している。中でもボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの作品を見ることができたことが嬉しかった。
ミケランジェロの「聖家族」の思いもかけぬ鮮やかな色彩に唖然としたことが強く印象に残っている。
また、ここで「聖母子と二天使」を見て、はじめてフィリッポ・リッピという画家を知り、ボッティチェッリの前にこのような素晴らしい絵を描く人がいたことは偶然ではないと思った。
「ウフィツィ」とはイタリア語で「事務局」を意味する。行政事務局を一つにまとめるために、ヴェッキオ宮殿の隣に、コの字型に建てられ建物の最上階の回廊を、ギャラリーとしたのがウフィツィ美術館の母体であると聞く。
開館は9時から、私たちは8時15分に来たが、すぐに図76のような長蛇の列ができてしまった。
国立バルジェロ博物館はかって警察本部が置かれた場所で、美術館とは思えぬいかめしい建物である。ここの2階に、中学時代に憧れたドナテッロの「ダヴィデ像」がある。
ただ一つの石で巨人ゴリアテを倒した少年ダヴィデの姿。岩波少年美術館で見たダヴィデ像は初々しい少年で、柔らかい肉体には未だ幼さが残っていた。
少女のような少年の美しさ、それはボーイソプラノの美しさに通じるものがあるように思う。身体がどんどん大人になっていく中学時代にこのダヴィデ像を見て、惹かれたのではないかと思う。
それに対して、ミケランジェロのダヴィデ像は男らしい青年像である。否応なく大人になっていく自分に戸惑い、ミケランジェロのダヴィデ像に反発したのではなかろうか?
この旅行の一番の目的は、このブロンズ像を見たいという欲求だったような気もする。 実物を目にして、夢中でビデオを撮り続けたときの興奮が懐かしい。
このドナテッロの「ダヴィデ像」は聖書の英雄を裸で表現した最初の作品であり、二本脚だけで立つ独立像としては、古代以降最初の作品だと言われている。
アカデミア美術館にはミケランジェロの「パレストリーナのピエタ像」などの彫刻が展示されたサロンの奥に「ダヴィデ像」がある。
ミケランジェロは25歳から6年かけて、この「ダヴィデ像」を完成させた。強敵からヘブライ民族を救った若き英雄ダヴィデはフィレンツェ共和国の象徴だった。
先に見たドナテッロの「ダヴィデ像」が青銅製であるのに対し、ミケランジェロのそれは大理石製、高さは158センチメートルに対して5メートル、年齢も少年に対して青年、ゴリアテを倒して首を刎ねた後と倒す前という違いがある。
私は中学生のころからドナテッロの「ダヴィデ像」の方が好きだったが、フィレンツェの市民は力強いミケランジェロの「ダヴィデ像」を大切にして、ミケランジェロ広場、シニョーリア広場にこのレプリカを建てている。
サン・マルコ美術館は元修道院で、現在は美術館になっている。この修道院の修道僧だったフラ・アンジェリコとその弟子による優美で清楚なフレスコ画で飾られている。
その中でも、二階への階段を登り切った正面にあるフラ・アンジェリコの「受胎告知」の清々しい美しい絵に感動した。あの絵は素晴らしい。
ウフィツィ美術館で知ったフィリッポ・リッピという画家もこの修道院の修道僧だと知った。一方は敬虔な修道僧、もう一方は破戒僧であるにもかかわらず、二人の描く女性には。共通して清らかな美しさがある。興味深い。
メディチ家の礼拝堂は新聖器室と君主の礼拝堂とから成っている。新聖器室は16世紀にミケランジェロによって建てられたジュリアーノの墓とロレンツォ2世の墓である。
君主の礼拝堂は17世紀に着工し、100年以上の歳月をかけてメディチ家の富の限りを尽くして建てられた礼拝堂である。
フランチェスコ会に属する教会で、清貧をモットーとしたフランチェスコ会にふさわしい印象を受ける。この教会にはガリレオ・ガリレイ、ミケランジェロなど著名人たちの墓が非常に多くある。
ヴェッキオ橋を通ってアルノ川を渡り、しばらく歩くとピティ宮殿が目に入る。ここはフィレンツェの豪商ピッティが建てた宮殿で、中にはラファエロの11の作品を収めたパラティーナ絵画館がある。残念ながら、到着したときには開館時間を大幅に過ぎていたため、入館することはできなかった。
ボボリ庭園はピティ宮殿の裏側、自然のままの緑が丘いっぱいに広がる典型的なイタリア庭園である。小道を登っていくと頂上に行き着く。ここにはベルヴェデーレ要塞跡があり、ここからフィレンツェの街並みを望見できる。ここはミケランジェロ広場よりも西側の位置にあり、ドゥオモやヴェッキオ宮殿がより近くに見える。
アッシジはローマの北130kmの位置にあり、フランシスコ会の創立者である聖フランシスコの出身地として知られ、キリスト教の巡礼地である。
1992年の最初の海外旅行にイタリアを選び、ヴェネチア、フィレンツェの二つの都市を訪れ、過去に繁栄を謳歌した街の姿に驚き、カルチャーショックを受けた。
それに対して、ここアッシジという名も知らぬ小さな都市では、ヴェネチアやフィレンツェの街とは正反対の、品格のある質素な街の姿に感動した。ヴェネチアのサン・マルコ寺院やフィレンツェのドゥオーモと全く違う雰囲気がここのサン・フランチェスコ教会にあった。それは、特に上下二層にある教会の、下の教会で感じた。信仰というものは本来こうあるものではなかろうか?
ここではジオットの描く「小鳥に説教する聖フランチェスコ」などのフレスコ画が印象深い。もう一つ強く印象に残っているのはサン・フランチェスコ教会へと続く長い長い回廊で、何とも美しいと感じた。
1997年の大地震で大きな被害を受けたが、復旧して元の形に戻っていると聞き安堵している。
アッシジの街は城壁の中にある。この城壁の入口を通って街の中に入る。
上下二層になった教会で、上の教会にはジオットのフレスコ画があり、下の教会は天井が低く荘厳で、その地下には聖フランチェスコの墓がある。
サン・フランチェスコ教会へ続く回廊は長く、見惚れてしまうほど美しい。巡礼の道としてまこと適っていると思う。
このあとヴァチカンのサン・ピエトロ広場のベルニーニが設計した回廊の美しさに魅了されたが、アッシジのこの回廊はサン・ピエトロ広場の回廊の対極にある美しさだと思う。
自然な美しさと人間の作った究極の美、それぞれは比較することのできない美しい回廊であると思った。
「永遠の都ローマ」の名にふさわしく、古代ローマ帝国の時代からルネサンスを経て現在に至るまで、首都として栄えた町、過去と未来が共存する町である。
ローマの観光で最も幸運だったことは、早朝、観光客はもちろん人影もわずかなローマの街を歩き、建物などをそのままの状態で見ることができたことである。
その中でもサン・ピエトロ広場の素晴らしい光景(図171〜図176)は、通常の観光では決して目にすることができないものであった。
また、2000年も前に作られた、コロッセオのような5万人もの人を収容できる競技場を見て、人類の進化の速さは微々たるものではないかという仮説を持った。
現代人が、当時の人と同じ道具などの手段を使って、これを作ることは不可能であろう。逆に2000年前の人がタイムスリップして、現代人の使う文明の利器を手にし、使い方を学べば、現代人に伍して生きて行けると予想できる。
この仮説は、ポンペイ遺跡を訪れ、その高度な生活環境を知って、確信に近づいた。
「コロッセオが亡びるときローマは亡び、ローマが亡びるとき世界は亡びる」と言われた円形闘技場。西暦80年に完成し、収容人員5万人、猛獣と剣士あるいは剣士同士の凄惨な戦いが見世物だったと言われている。
その後、建築材料として大理石が持ち去られたため、現在のような姿になったが、今でも堂々たる威容を誇っている。
コロッセオのすぐ西側にある巨大な凱旋門。高さ21メートル、幅25メートル、西暦315年に建てられた。
映画「ローマの休日」に出てくる「真実の口」。ギリシャ神話に出てくる半人半魚の顔と言われる円盤で、嘘つきがこの顔の口に手を入れると、食いちぎられるという伝説がある。
おそらく世界で最も有名な泉がこのトレビの泉であろう。ローマのバロック様式の泉の中で最後のもので海神ネプチューンの勝利がモチーフになっている。
後ろ向きでこの泉にコインを投げると、またローマに来ることができるという言い伝えがある。
広場に面してスペイン大使館があったのでスペイン広場と呼ばれている。映画「ローマの休日」でオードリーがアイスクリーム(イタリア語でジェラード)を食べながら階段を降りてくるシーンが目に浮かぶ。
早朝、ローマにある世界一小さな独立国のヴァチカン市国のサン・ピエトロ寺院に参詣した。参詣道には人影はすくなく、空気は澄み切っていた。
サン・ピエトロ広場は長径240メートルの楕円形で40万人を収容できると言われる。この広場はベルニーニの設計、左右が対になっている半円形の回廊で囲まれているが、この回廊もベルニーニの設計である。広場は1667年に完成した。
広場の中央にそびえ立つオベリスクは高さ25.5メートル、重さ320トン、エジプトから運ばれたもの。オベリスクの左右に二つの噴水がある。
サン・ピエトロとはキリストの十二使徒のひとりで初代の法王、聖ペテロのこと。サン・ピエトロ寺院は暴君ネロのキリスト教迫害で逆さ十字の刑にあって殉教したサン・ピエトロの墓の上に建てられた。カトリックの総本山である。
内部の奥行は186メートル、ドームの頂上まで132.5メートルの大きく豪華な寺院で、約6万人を収容できる。
クープラ(大円蓋)はミケランジェロの作品。右の入口すぐ横にミケランジェロのピエタ像がある。これを見たとき、心に響く感動に襲われ、見つめ続けた。
ピエタとは聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵を指す。ミケランジェロは生涯でピエタを4体制作しているが、25歳の時に作った最初の作品がここサン・ピトロ寺院にある。
早朝のローマ市内を散策したときに見た風景のいくつか
「ナポリを見て死ね」のことばがあるが、今回はポンペイを見ることが目的のツアーを選んだので、ナポリは車窓観光、通過地点に過ぎなかった。
とはいっても、これまで数々のナポリ民謡に慣れ親しんできたので、ここの歌なのだという感慨があった。
ポンペイは、西暦79年にヴェスヴィオ山の大噴火により一瞬にして火山灰の下に埋没してしまった古代都市である。ここを訪れ、約2000年前の文化や人間の営みが、私たちのそれと大差ないことを知った。人間の知能の進化の速度は2000年程度ではほとんど変わらないほどの微々たるものである。
最初の海外旅行で得た一番の収穫は「人類の進化の速度は微々たるもので、2000年程度では進化はほとんど認められない」という仮説だった。そして、その後の海外旅行の目的のひとつに、この仮説の検証が加わり、5000年前の人間の知能も現代人とほとんど変わらないだろうと考えるようになった。
人間自身の進化は遅々たるものであるが、文明の伝承という他の生物にない能力を持ったことが、現在の高度な文明社会を築き上げることになったと考えて間違いはないだろう。
マリーナの門を通り抜けると右手にバジリカの入口が見える。バジリカは裁判、公聴会、時には取引所として使われた場所で、長方形の平面を持ち、内部にクリアストーリ(採光用の高窓)と列柱のアーケードを持つ建築物である。
アポロは太陽の神で音楽の神でもある。アポロの神殿は紀元前6世紀にギリシャ人によって建立され、ローマ人によって再建された神殿である。中央の台は祭壇で、左側の白い円柱は日時計として用いられた。
マリーナの門から始まり、東西に走るポンペイのメイン・ストリートの一つ。アッボンダンツァとは繁栄を意味する。
馬車の通る車道と歩道は明確に区別され、車道は多角形の石灰岩か粗面岩の塊を使用した敷石で覆われ、強固な目地仕上げを施されていた。
そのため、歩きやすく、排水もよく、雨が降っても歩行者が足を濡らさずに済んだ。
古代都市の市の中心は広い空間を持つフォロ(公共広場)であった。その周りに公共、民事、宗教、生活などに使用される主要建築を配し、種々の記念碑が周りを飾っていた。
ポンペイのフォロは南北142メートル、東西38メートルの長方形だった。
穀物倉庫と市場になるはずのものが、現在は出土品の倉庫として使われている
名著「ポンペイ最後の日」のモデルになった家で、玄関の敷石に cave canem 犬に注意と書いてあることでも知られている。
23年前、最初の海外旅行先にイタリアを選んだ。その記録はビデオで行い、編集し、ナレーションをつけ、BGMを流し、VHSテープとして親しい人に謹呈した。今はそれをDVDと動画マスターファイルとして保存している。
旅行の記録は動画よりもWebサイトの記事の方が情報量が多く、私自身にとってより有用であることから、第2回目の海外旅行の動画記録を、Webサイトの記事としてまとめ直し、真夏のスペイン旅行のタイトルで掲載した。これは予想していた以上に得るところが多かった。
そこで、これまでにWebサイトに掲載していない海外旅行を記事とすることにした。これがその2回目である。今回も動画から切り出した写真とナレーションのシナリオを中心にまとめた。
これまで20回海外旅行をしているが、そのうちイタリアは4回で最も多い。それだけ私にとって魅力的な国だと言えよう。最後の海外旅行先としてスペインを選んだが、もし、イタリアの訪問回数がスペインと同じ2回だったとしたら、イタリアを選んでいたかもしれない。
最初の海外旅行のイタリアで得たことは大きく、種類もさまざまで、海外旅行の魅力を存分に味わうことができた。海外旅行のスタイルはこの初回ででき上がったように思える。
映像技術、特に動画技術の目覚ましい進歩、インターネットを中心とするIT技術の革新的進歩、その恩恵を享受できる幸せを痛感している。そのお蔭でこのような旅行の記録を残すことができたのだから。
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