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ロシア旅行

 モスクワ と サンクトペテルブルグ

 2014.8.27.〜9.4.

2014.09.10. 掲載
2015.02.08. 追加
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目次
はじめに
  追加 HM
モスクワ
  モスクワ大学とその周辺
  クレムリンの周辺
  クレムリンの内部
  地下鉄見学
  トレチャコフ美術館
  ラディソン・ロイヤル・モスクワ(旧名ホテル・ウクライナ)
  モスクワ・ディナークルーズ
サンクトペテルブルグ
  ピョートル夏の宮殿庭園
  エカテリーナ宮殿
  ネヴァ川周辺
  血の上の救世主教会
  運河
  ケンピンスキー・ホテル・モイカ22
  エルミタージュ美術館
孫娘への土産
まとめ



はじめに

ロシアは一番嫌いな国である。それは、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした1945年8月15日の1週間前の8月8日に、日ソ中立条約を一方的に破って、ソ連は日本に対して宣戦布告し、北方4島の占領、シベリア抑留を行った国だからだ。

それでも一度は訪れたいと思ってきた。それは、第二次世界大戦後の44年間、世界を二分した、資本主義陣営と共産主義陣営の一方の盟主であった超大国をこの目で見たかったこと、もう一つの理由は、エルミタージュ美術館を訪れたいことだった。

ソ連崩壊後10年が過ぎた1995年に、スペインからイベリア航空でモスクワ空港を経由して成田に帰着したことがあった。その時のモスクワ空港の惨状は、これがかっての超大国かと目を疑うばかりだった。それがどれほど良くなっているのかにも興味があった。

これまでの海外旅行を振り返ってみて、何を見たい知りたいかと言うと、人間がどのように生きて来たかが中心で、人と関わりのない美しい景色、珍しい景色にはさほど関心はない。

これまで、海外旅行の記録の中に美術館の記事も含めてきたが、今回はエルミタージュ美術館の絵画が素晴らしく、予想していた以上に多くの写真撮影をすることができたこと、モスクワのトレチャコフ美術館の絵画もあることから、旅行記には簡単に美術館の記事を載せ、別に「エルミタージュ美術館 ほか」のタイトルで記録を残すことにした。



図1-1.ロシア地図 モスクワはウクライナに近く、サンクトペテルブルグはフィンランドに近い


追加 HM

1964年から1982年までの間に、合計して10年間をモスクワで過ごされたことのある服部道彦様が、この旅行記の感想や、関連する情報をメールで送って下さった。彼は大学の教養過程の2年間、阪大男声合唱団で合唱に没頭していた時からの友人である。彼ほどロシアに精通している日本人は少ないのではないかと思う。

そこで、彼の許可を得て、関連する情報を追加することにした。以下、追加 HM のマークがある記事は、服部様から頂いたコメントである。


モスクワ

モスクワはロシア連邦の首都。人口は約1150万人、ヨーロッパで最も人口の多い都市である。市の中心をモスクワ川が蛇行しながら流れている。

1812年にナポレオン軍のモスクワ侵攻を受けた際、ロシアの司令官は住民を脱出させた後、建物に火を放ち、木造住宅ばかりであったモスクワは全焼した。これによってナポレオン軍は住居も食料も失い、留まること叶わず、退却を余儀なくされ、それをロシア軍が追跡したと現地ガイドから聞いた。

また、モスクワは砂地で石がなく、当時は木造住宅ばかりであったこと、それ以後の石造の建物はフィンランドから輸入された石を使っているそうだ。


追加 HM

ナポレオンを迎え撃ったロシア軍の焦土作戦については、たしかにガイドの案内が通説で、ソ連時代から言われ続けていますが、異説をご披露します。

ナポレオン戦争のロシア側の主要人物はアレクサンドル一世とクトゥーゾフ将軍です。クトゥーゾフは退役していたのを引張り出されますがこの時すでに67歳。ナポレオン軍との戦争を避けて逃げ回り、為にロシア軍の士気はどん底に落ちます。

モスクワ郊外120kmボロジノ村で初めて衝突となりますが、ここでは防ぎきれず、ナポレオン軍をモスクワに入れてしまいます。

ここでロシア軍が焦土作戦に出たと言うのですが、実際は、民家に入ったフランス軍の炊事の火の不始末で方々で火事が起こり、消防がいないまま燃え放題になったといいます。

アレクサンドル一世とクトゥーゾフは仲が悪く、モスクワを起源にするロマノフ王朝の末裔がモスクワに火をかける作戦を許可したとは考えられないと言われます。

冬将軍以上にフランス軍を苦しめたのが病気です。発疹チフスだそうです。モスクワの家には南京虫はじめ蚤、虱が住み着き、伝染病を媒介しても不思議ではありません。



図1-2.モスクワ地図 モスクワ大学、宿泊ホテル、クレムリンとその周辺、トレチャコフ美術館



●モスクワ大学とその周辺

モスクワ大学は、モスクワ川南岸の丘陵地 雀が丘に建ち、スターリン様式と呼ばれる重厚な高層建築で作られている。雀が丘はモスクワ市街が一望できる絶好のポイントとされている。



図2.スターリンゴシック様式で建てられたモスクワ大学 夏季休暇中で人影なし



図3.モスクワ大学をバックにツーショット



図4.アプローチもシンプルで美しい

追加 HM

モスクワ大学のツーショットの場所は定番の場所です。私もここでよく写真を撮りました。


図5.モスクワ大学のある雀が丘からモスクワ市内を一望 オリンピックスタジアムの左後方にホテルが見える

追加 HM

ここ雀が丘は、燃えるモスクワをナポレオンが眺めた場所です。スターリンゴッシクのモスクワ大学は、私のいた頃には理系だけが入っていました。文系はクレムリンの外、ホテル「ナチオナール」(ナショナル)の近くにありました。


図6.ノボデヴィッチ修道院 貴婦人たちをかくまったことで有名 チャイコフスキーはここで白鳥の湖の想を得たと聞く



図7.ノボデヴィッチ修道院をバックにツーショット

追加 HM

ノヴォデヴィッチ寺院。元々女子修道院ですが実際は要塞であり、牢屋でもありました。ピョートル大帝の姉ソフィアが謀反の罪で幽閉されたのはここです。トレチャコフ美術館にその絵がありました。

墓場もあります。チェホフ、シャリアピン、ゴーゴリを始め、有名人の墓が沢山あります。その他、フルシチョフ、エイゼンシュタイン、ショスタコービッチも。

フルシチョフが死んだあと、墓参りに行って、待ち構えていたKGBに写真を撮られました。クレムリンの壁に入れられなかった人がここに埋葬されるそうです。


ノヴォデヴィチ女子修道院には鐘楼がありまして、晩6時頃になると鳴り始めます。西欧の教会のごーん、ごーんという鐘ではなくて、大小色んな鐘がチンタラ・チンタラと賑やかにメロディーを奏でます。

チャイコフスキーの1812年やラフマニノフのピアノ協奏曲2番にも出てきます。チャイコフスキー自身、ロシア正教会の鐘を何曲か作曲したと言われています。

日本では函館のロシア正教会、一名ガンガン寺は鐘の音をあらわしたものでしょうし、ニコライ堂も賑やかに鐘を鳴らします。鐘は両手の指に小さい鐘につながった綱で、大きい鐘は足で操作するそうです。きっちり叩けるまでには何年もかかるそうで、後継者不足から、スピーカーで流しているお寺が多いようです。


ロシア正教会では礼拝堂に椅子がありません。立ったままの礼拝です。礼拝は歌で進みます。神品(カトリックの神父、プロテスタントの牧師に当たる。)がワーッと歌い始めると、信者が各パートに分かれて歌います。本当に上手です。4部合唱以上に分かれていると思います。しわくちゃのばあ様が、何ともなまめかしい声で歌うのに驚きました。

ロシア正教会では、どうもクリスマスより復活祭の方が重要視されているように見えます。ロシアの気候を考えると、真冬の凍えるクリスマスより、春がそこまで来ている復活祭の方がお祭り気分になるのでしょうね。

また、クリスマスは勿論おめでたいですが、キリストの復活こそキリスト教の教義そのものという人もいます。ある意味で正しいと思います。

正教会の教会のたたずまいはどうも好きになれません。化け者寺かと思われるようなおどろおどろしい雰囲気です。カトリックも五十歩百歩ですが、改装後の上智大学イグナチオ教会は十字架にかかるキリスト像を無くしました。随分とすっきりしました。しかし礼拝堂正面に字架一本だけのプロテスタントが最もすっきりでしょうね。

ソ連崩壊後、老若男女がどっと教会へ押し寄せました。世界中で信者が増えている珍しい例だそうです。ソ連時代にも、お寺の前を通る人達が立ち止まって十字を切るのを何度も見ました。日本人が手を合わせるのと同じでしょうか。


●クレムリンの周辺

クレムリンは「城塞」を意味するが、日本で「クレムリン」と言った場合はモスクワのクレムリンを指すことが多い。

クレムリンの北東に赤の広場があり、赤の広場を取り囲んで、南東に聖ワシリー寺院、北東にグム百貨店、北西に国立歴史博物館がある。



図8.クレムリンとその周辺 by Google Map



図9.モスクワ川の向う岸にクレムリンが見える



図10.聖ワシリー寺院(南側) 1990年にユネスコの世界遺産に登録 



図11.聖ワシリー寺院(北西側) いかにもロシア的な建物だ

追加 HM

聖ワシリー寺院。最もロシアらしいお寺ですね。図11のミーニンとポジャルスキーの銅像の前にステンカ・ラージンの処刑台があります。


図12.ここから赤の広場が始まる(南東部分)図8 参照



図13.工事で占拠されているため、平時の赤の広場を表示 正面は歴史博物館、右はグム百貨店 Wikipediaより

追加 HM

赤の広場を隔てて反対側からパレードが入って来てここへ抜けて行きます。赤の広場は思ったより小さく狭いですね。

ソ連時代はメーデーの軍事パレードをよく見に行きました。面白いのは戦車です。入り口側の広場に行進に参加しない戦車が何台もいるのです。何故?と聞いたら行進に参加する戦車が故障したら代わりに出て行くのだとか。そんなに頻繁に故障するのと聞くと、しょっちゅう動かなくなるとの答えでした。笑ってしまいました。


図14.グム百貨店 グム(GUM)とはロシア語で「総合百貨店」を意味する略称、200店舗が営業



図15.赤の広場に設けられた仮設観覧席 左側は国立歴史博物館、右側はグム百貨店



図16.「赤の広場」はロシア語で「美しい広場」を意味する。共産党の赤ではない!



図17.赤の広場に設けられた野外コンサートのための大観覧席



図18.赤の広場の北西端にある国立歴史博物館



図19.国立歴史博物館を通り過ぎて少し歩くと、バレエ・オペラの殿堂 ボリショイ劇場が現れる

追加 HM

さて図19ボリショイ劇場です。ここは大変お世話になった所です。一階の土間にハードカレンシーで切符を買った外人専用の座席がありまして、よく利用しました。

何しろ邦貨約千円で、音楽ではリヒター、ギレリス、オイストラッフ、コーガン、バレーはプリセツカヤ、ストゥルチコーワ、ワシリエフ等々が鑑賞できるのですから愉快です。1960年代、モスクワに自動車がまだ少ない頃、ボリショイ劇場の玄関に車を置いて観劇したものでした。

正面に8本の円柱があります。デートの約束に右から或いは左から9本目の所で会いましょう、と言われたら振られたことになる、と聞かされました。

屋根に馬車を駆る御者の像がありますね。年末ともなれば、モスクワの運転手は殆どが酒を喰らっています。「正気なのは、ボリショイの屋根に居る御者位でさー」とタクシーの運転手に言われたとか。怖い話ですね。


●クレムリンの内部

クレムリンの城壁は総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代様式の宮殿や大聖堂が林立している。図8 参照

代表的なものとして、大クレムリン宮殿、ウスペンスキー大聖堂、アルハンゲルスキー聖堂、ブラゴヴェシチェンスキー聖堂、大統領府、ロシア大統領官邸として使われている元老院などがある。

大クレムリン宮殿はモスクワ川から望見できる。



図20.ここからはクレムリンの中に入る。歴代皇帝の戴冠式の舞台となったウスペンスキー大聖堂



図21.アルハンゲルスキー聖堂 軍の守護聖人を祀って建てられた教会



図22.ブラゴヴェシチェンスキー聖堂 ロシア正教会の大聖堂



図23.クレムリン内にある巨大な鐘「鐘の皇帝」、一部が欠損しているが、その原因に諸説あり



図24.クレムリン内にある「大砲の皇帝」 榴弾砲史上最大の口径、使用されたことは一度もなし



図25.クレムリン内にある大統領府



図26.クレムリン内にある元老院 ロシア大統領官邸として使われている



図27.クレムリン内にあるクレムリン大会宮殿 6000席のホールで、コンサートなどに使用されている

追加 HM

クレムリン内部。 何と言っても大会宮殿でしょう。ここで1956年、フルシチョフがスターリン批判をぶち上げました。これが契機になって、以後政権が変わっても前任者が殺されなくなりました。

スターリン時代の粛清は凄惨を極めました。もう手当たり次第です。私のモスクワ駐在時、秘書の女の子の父親はスターリンに粛清された元大臣の娘だったことがソ連崩壊後に分りました。

独ソ戦でソ連は2500万人の人命を失ったと公表しています。日本の統計学者から聞いた話では、あの規模の戦争なら死者は800万人止りで1700万人はスターリンに殺されたのだろうとのことでした。上には上があって、毛沢東は5〜6000万人殺したと言われます。



●地下鉄見学

市内には、図28のように、地下鉄が11の路線網を張り巡らしており、世界で最も利用客の多い地下鉄の一つとなっている。

きわめて深い場所に作られた豪華な装飾の駅と、地上と駅を結ぶ長い超高速エスカレーターは、モスクワ地下鉄の特徴である。トンネルの深さは市中心部で30.5〜39.6mとのことだ。



図28.モスクワ地下鉄路線図 市民は路線名を使わず、色名で呼ぶが、環状線だけは環状線と呼ぶそうだ



図29.地下鉄への入口



図30.地下鉄のホームは非常に深い地下にあるが芸術的な雰囲気



図31.通路にはこのような彫刻がある

追加 HM

モスクワの地下鉄は世界一と言われました。本当でしょうか。エスカレーターの傾斜と長さとスピード、それと音に最初尻込みしました。

良く見ればエスカレーターの踏面が木造です。怖いなあ、と思っていたら、1982年帰国する前の2月、事故が起きました。エスカレーターが分解したのです。何人か死者がでました。

どこの市か忘れましたが、交通局の人を地下鉄に案内したことがあります。モスクワ市自慢の地下鉄の事。お褒めの言葉が出るかと見ていたら、その人がぼそぼそ言うには、車輛、道床共に十分にメンテナンスされてなくて安全性に問題があるとのこと。

その後、彼が指摘した点を注意して見たら全くその通りで、時々事故が起きていました。

感心したのは本数の多さです。1960年代すでにラッシュ時には、今発車した車輛がトンネルに消えたと思ったらすぐに次の列車が入線していました。コンピュータ制御はまだで、運転はすべてアナログの時代です。なかなかやるわい、と思いました。


●トレチャコフ美術館

ロシアの古美術と18世紀以降の絵画を中心とするロシア美術最大の美術館。モスクワの商人トレチャコフ 兄弟が自邸に開いた美術ギャラリーから始まった。



図32.トレチャコフ美術館の外観



図33.トレチャコフ美術館の内部 ヴルーベリの間とパネル画「幻の王女」1896年



図34.キプレンスキー 1782〜1836年 「詩人 プーシキンの肖像」



図35.クラムスコイ 1837〜1887年 「忘れえぬ人」

追加 HM

トレチャコフ美術館。私はこの美術館が好きでよく行きました。ロシアの近現代の美術品を集めた美術館ですが、ロシア革命を境に革命前と後に分けられていました。

図35の「忘れえぬ人」という題は日本での展示会の時につけられたのではないでしょうか。原題は「見知らぬ女」です。現代のロシア人女性とは縁遠い雰囲気です。革命前のサンクトペテルブルグの貴族には案外居たかもしれません。この作者のキリストの像もいいですね。

革命前の絵にはいいものがありました。クラムスコイの外にアイバゾフスキーの一連の黒海ものとか、レーピンの「復活大祭」など。

革命後のコーナーはガラクタばかりです。大きなスペースが取ってありましたが、ロシア人は絵を眺めもせず小走りに出口へ向かっていました。

芸術をとっても革命の中身の貧弱さが際経ちます。1800万人もの命は何に支払われたのでしょう。単なる権力闘争だったら犠牲が大きすぎます。


●ラディソン・ロイヤル・モスクワ(旧名ホテル・ウクライナ)

私たちのツアーが3連泊したホテル。スターリン様式のクラシックな外観は、モスクワ大学のある雀が丘からも望見できた。「ホテル・ウクライナ」が3年かけて改修を行い、新しい名前で再オープンしたと聞く。

摩天楼をイメージさせるような外観は、夜にはライトアップされ、一層美しく見える。



図36.バスの車中から見たラディソン・ロイヤル・モスクワ ホテル スターリンゴシックの建物

追加 HM

図36 ラディソン・ロイヤル・モスクワ、旧ウクライナホテルですね。正面玄関前の道をはさんだ広場にウクライナの詩人シェフチェンコの大きな銅像がありましたが、今はどうでしょうか。

モスクワ川に架かる橋の道路がクトゥゾフスキー大通りで、この道を通ってナポレオンがパリをめざして退却したのだそうです。

道を隔ててホテルの反対側は、木造の小さい家が建ち並んで、みすぼらしい景色でしたが、すべて取り払われ、御覧のようなすっきりした通りになりました。


1964年、大きな商談が動きそうだから、商品が分る人間を送れとモスクワ事務所から依頼が舞い込みました。そして、私が送り込まれた訳ですが、以来このホテルに合計で4年近く住むことになります。

ウクライナホテルはロシア人の設計ですが、工事にはドイツの捕虜が駆り出されました。素材は石です。花崗岩のように固い石ではなくて柔らかそうです。どこから持ってきたのでしょう。

モスクワにはこの外に6つのスターリンゴシックがあります。雀が丘から全部見えたかな、定かでありません。

この様式の建物はワルシャワとリガで見ました。ポーランド人はこの建物を嫌って、ワルシャワで一番景色がよい所はどこか知っているか、と聞きます。答えはこの建物から見る市街で、理由はこの建物が見えないからだそうです。

リガにも同じ形の建物がありました。ドイツ騎士団が作ったこの街に何とも不似合いな建物でした。


自分の部屋も事務所もこのホテルにありました。当初、ロシア語は全く分らず、本当に不便でした。エレベータにはエレベータおばさんが居て、自分の行先の階を言わねばなりません。レストランでは欲しい料理を口頭で伝えねばなりません。いやあ困りました。

幸い仕事が暇だったので、家庭教師に来てもらってロシア語の勉強を始めました。半年もすると、相手が何を言ってるのかが分り初め、一年後には、自分からしゃべれるようになりました。この間、大きな商談をものにできて、お蔭で親元の決算が大黒字になりました。

ウクライナホテルに家族で住みました。最初はツイン二部屋に、後にデラックスをもらいました。ウクライナのデラックスは文字通りデラックスで、広い応接室を真中に、両側に寝室があり、それぞれにトイレとバスタブがありました。応接間にはピアノがありました。親子四人ここで暮らした次第です。

1975からNYで仕事をしていました。モスクワではこの頃日本商社の地位が認められて、居住ビザが各社に発給されていました。(それまでは駐在員がソ連の公団と交渉してビザを取得・延期していました)。人数に制限があり、営業部同士がビザ枠を社内で取合いのケンカをする事態になりました。

NYに元所属部から連絡があり、モスクワへ横滑りしてくれというのです。お前が行ってくれればケンカが収まると言われて、またもやモスクワです。

1979年四度目の駐在で出かけて見て驚きました。米ソ対立が激しいのです。1977年にソ連がオホーツク海からアメリカ東海岸に届くミサイルを開発したのが原因です。1979年末にソ連軍のアフガン侵攻。1980年モスクワオリンピックボイコット。外人専用の商店の駐車場に駐車中の、AP通信の車のフロントが目の前で割られ、私の家族にも、これ見よがしの尾行がつき始めます。時を追って尾行が激しくなり、身の危険を感ずるようになりました。


子どもはロシアの学校に通わせていました。感心したのは、先生も級友も全く変らない態度で子どもに接してくれたことです。それどころか、下の娘の参観日に行った時のことです。先生は娘がアメリカからやって来て、必死にロシア語と取り組み、今は優秀な成績を収めている、と他の父兄の前で誉めて下さいました。ロシア人のしたたかさを痛感すると同時に、子どもを守って下さる学校に感謝しました。

私には尾行がつかないのです。と言ったら、ちゃんとついているよ、と教えてくれた人がいました。尾行には見える尾行と見えない尾行があるのだそうです。KGBにしてみれば、米ソ対立が激しくなったとき、NYからふらりとやってきた日本人家族は、目の上のたんこぶでしょう。尾行は日本へ帰れ、というサインと解し、1982年、家族を先に帰国させました。

1979年赴任以来ソ連経済は悪化の一途です。後になって思えば、アメリカの挑発に乗って軍拡に引きずり込まれた結果です。

1964年最初の赴任時には颯爽としていたロシア人が、背を丸めて歩いているように見えました。貿易は売り買いともに大幅に落ち込み、手が付けられない状態です。いつもでかい顔をしている貿易公団も、元気がありません。

1982年帰国しました。この年ブレジネフが死にました。思えば1964年、私が始めてロシアに赴任した時、ブレジネフはフルシチョフを追い出して第一書記の座に付き、最後の勤めを終えて帰国した1982年に、ブレジネフは死にました。私は丁度ブレジネフ政権の時代にモスクワに出入りして働いたことになります。


ウクライナホテルの玄関を入るとポーターが沢山いまして、これが全部KGBです。当時爆弾テロはありませんでしたが、ウクライナは観光客の宿泊ホテルでしたので、KGBは外国人を見張っていたのです。今は金属探知機ですか。チェチェンやウクライナのテロを警戒しているのでしょう。

外国語の習得には読み書き話しの三つがあります。私の場合は秘書が居たので、とにかく話すことに集中しました。耳から聞いて頭を通さず、そのまま口にだす方法です。部屋にいる時は、ラジオをつけっぱなしにして、イントネーションを覚えました。

商談の外国語は話すテーマが決まっているので意外に易しいのです。日常会話は話題があちこち飛び回るのでずっと難しいですね。貿易公団とのレストランでの会食でよく出てくる一口ばなし、江戸小話のようなものが一番難しいですね。最後に落ちがあるのです。ウオッカを呑んで、したたかに酔っぱらっている状態で、聞き取るのは大変でした。

ロシア人は人間の原種のようなものと申し上げました。まあ子どもを想像してください。自分の利益になると思えば喜び、不利益にはふくれっ面で正直に反応します。日本人特有の思いやりは、ロシア人に大変有効です。一寸した贈り物がききます。


女性の芯の強さは相当なものです。娘を守ってくれた学校の校長、担任とも女性でした。チェルノブイリ事故の時、原子炉を覆う作業に兵隊が動員されました。強い放射能のため、作業は五分とか十分単位で交代です。

ロシアは徴兵制です。自分の子どもが作業に狩り出されていると知った母親が、徒党を組んで司令官の所へ怒鳴り込んだものでした。日本では考えられませんね。

軍隊内でのいじめでも、被害者の母親が最高責任者(司令官)に直接強烈な非難を浴びせます。司令官が当惑している写真を見たことがあります。

このように子どもの事になるとロシア女の本領が発揮されます。子どもを連れていれば、水戸黄門の印籠のようなものだと家内が言っていました。

最初は上が二歳、下が零歳でモスクワへやって来ました。ウクライナホテルのフロアーマネージャー(女)、鍵番のおばさん、掃除のおばさんの全員に可愛がられ、今でも家内はアメリカよりもソ連、特にウクライナホテルが面白かった、と言います。


●モスクワ・ディナークルーズ

ラディソン・ロイヤル・モスクワから発着するモスクワ・リバー・クルーズ。

大型レストランシップで、食事やアルコールを楽しみながら、ライトアップされた美しい景観を船上から楽しむことができた。



図37.モスクワ川のリバークルーズは、ラディソン・ロイヤル・モスクワから始まった



図38.クルーズ船が行き交う



図39.これはコロンブスの像?



図40.白亜の「救世主ハリストス大聖堂」 息をのむほど美しい



図41.遠くにクレムリンが見える



図42.クレムリンに近づいてきた



図43.「クレムリン大宮殿」の格調のある美しさに目を奪われる



図44.「クレムリン大宮殿」の右に「ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂」その隣に「アルハンゲルスキー大聖堂」



図45.宮殿と二つの聖堂が輝いている



図46.ライトアップされたクレムリンを守る城門のミドリが美しく愛らしい



サンクトペテルブルグ

モスクワに次ぐロシア第二の都市である。かつてはロシア帝国の首都であった。第一次世界大戦開戦以降はペトログラード、ソ連時代はレニングラードと呼ばれた。フィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置する。

都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が、自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。


●ピョートル夏の宮殿庭園

サンクトペテルブルクから西に約30km離れたフィンランド湾南岸に位置する宮殿と庭園。中心の大宮殿を境にして「上の庭園」と「下の公園」に配置された、全体で20の宮殿と7つの公園から構成されている。庭園を進むと趣向を凝らした噴水に次々と出会う。庭園内の噴水の数は150を超える。



図47.エミルタージュ美術館近くの船着場から高速船で宮殿「下の庭園」の桟橋へ約35分で到着



図48.ピョートル夏の宮殿に向かう噴水の並木道、運河はフィンランド湾に注ぐ



図49.夏の宮殿前の大噴水



図50.大噴水をアップで撮影



図51.噴水はこのようなシンプルなものが見飽きない



図52.家族連れに人気の噴水



図53.「太陽の噴水」 中央の放射状の噴水と周囲の噴水の調和が素晴らしい



図54.「ピョートル大帝の銅像」 身長2メートル13センチの巨漢だった



図55.カスケード



図56.イタリア式庭園にある「ローマの噴水」



図57.イタリア式庭園にある「ローマの噴水」



図58.宮殿前バルコニーからフィンランド湾を望む



●エカテリーナ宮殿

サンクトペテルブルク中心部から南東25kmの郊外にある「ツァールスコエ・セロー」に存在するロココ建築の宮殿。部屋全体の装飾が琥珀で作られた「琥珀の間」が有名



図59.エカテリーナ宮殿外観



図60.金ピカの部屋



図61.グレーの暖炉に救われる思い



図62.金ピカの食事室



図63.隣の部屋への扉、どこまでも金ピカが続く



図64.有名な琥珀の間、部屋全体が琥珀で作られており、世界唯一とか。撮影禁止でWikipediaより



●ネヴァ川周辺

ネヴァ川はサンクトペテルブルク市内を流れ、フィンランド湾に注ぐ全長74kmの川である。川幅は平均で400から600m。



図65.左にエルミタージュ美術館、右は宮殿橋



図66.サンクトペルブルク発祥の地となった「ペテロパブロフスク要塞」内の大聖堂



図67.1917年10月、冬宮に向け革命開始を告げる大砲を放った「巡洋艦オーロラ号」現在は博物館として係留



●血の上の救世主教会

アレクサンドル2世はテロリストにより暗殺され、その地に息子アレクサンドル3世によって建立された。このため「聖書」の中の悲劇的な主題のモザイク画によって壁面が装飾されている。

サンクトペテルブルクの他の建築と異なり、外観はモスクワの聖ワシリイ大聖堂に似たロシア的な様式である。しかし、内側の壁と天井は西欧的な感じがする。



図68.アレクサンドル2世が暗殺された地に、息子のアレクサンドル3世が建立した教会



図69.内陣中央の丸天井には、「全能者ハリストス」に大天使たちが随っている



図70.祭壇



図71.アレクサンドル2世が暗殺された場所が墓所となっている



図72.「聖書」の中の悲劇的な主題のモザイク画によって壁面が装飾されている



図73.この教会の外観は非常にロシア的だが、内部は西欧的に感じられ、違和感が少なかった



図74.フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂のレリーフが思い出される



図75.天井部分も美しい



●運河

サンクトペテルブルグは、市の中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みから、「北のヴェネツィア」と称される。ちなみに、「北欧のヴェネツィア」と呼ばれるのはスウェーデンのストックホルムである。



図76.運河めぐりをすると、両岸に建物が並び、ヴェネチアを思い出す



図77.ホテルの近くにある運河、左側に日の丸の国旗が見える建物は日本総領事館



図78.ロシアを発つ日の朝、北のヴェネチアをバックにツーショット



●ケンピンスキー・ホテル・モイカ22

ツアーで4連泊したホテル。運河沿いに建つ親しみやすいオシャレなホテルで、エルミタージュ美術館のすぐ近くにある。



図79.エルミタージュ美術館へ歩いて数分で行けるのが最大の利点である



図80.運河沿いのオシャレでこじんまりしたホテルだった



●エルミタージュ美術館

サンクトペテルブルグのネヴァ川沿いに建つエルミタージュ美術館は、女帝エカテリーナ二世が、自ら買い集めた絵画コレクションを、宮殿内ギャラリーに展示したことが発端となり、今日では所蔵作品300万点を超える世界最大級の美術館である。

エルミタージュ美術館の前にある宮殿広場は、この都市の中央広場であると同時に血の日曜日事件(1905年)、十月革命(1917年)などの歴史的事件がここで起こっている。ここから北西方向へネヴァ川のかかる宮殿橋を通してヴァシリエフスキー島へ通じ、ネフスキー大通りもここから南東方向へスタートしている。

広場の中心にナポレオン戦争の勝利を記念したアレクサンドルの円柱があり、モスクワの赤の広場と並び称されるロシアの代表的広場である。

なお、エルミタージュ美術館では36の絵画を写真撮影したが、そのすべてを旅行記に載せるのは不適当と考え、旅行記ではその代表的絵画に留め、別にエルミタージュ美術館 ほかのタイトルの記事に掲載した。



図81.エルミタージュ美術館とロシア帝国軍参謀本部ビルの間にある宮殿広場、中央はアレクサンドルの円柱



図82.エルミタージュ美術館に向き合って、ロシア帝国軍参謀本部ビルと凱旋門がある。



図83.エルミタージュ美術館本館 以前は冬宮と呼ばれていた



図84.エルミタージュ美術館本館 宮殿広場の北西側にあり、南東側はネヴァ川に沿っている



図85.エルミタージュ美術館 中央「ギャラリー」




図86.エルミタージュ美術館 中央「大使の階段」




図87.エルミタージュ美術館 中央「大使の階段」




図88.時計「孔雀」18世紀後半、イギリス、J.コックス



図89.渡り廊下の窓から眺めた運河



図90.「ラファエロ回廊」 エカテリーナ二世がヴァチカン宮殿のラファエロ回廊をコピーして作らせた



図91.大イタリア天窓の間



図92.レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452〜1519年「聖母ブノワ」1478年



図93.レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452〜1519年「リッタの聖母」1490〜1491年



図94.ラファエロ 1483〜1520年「コネスタビレの聖母」1504年



図95.ラファエロ 1483〜1520年「聖家族」1506年



図96.セザンヌ 1839〜1906年「ピアノを弾く少女」



図97.マティス 1869〜1954年「ダンス」



孫娘への土産

二人の孫娘のために買ったロシアらしい土産。良いのが見つかったと私たちは思っているのだが、、、



図98.マトリョーシカ ロシアの代表的木製の人形



図99.バラライカ ロシアの代表的な弦楽器の玩具



図100.プサルテリウム 中世ヨーロッパの古典楽器の玩具

追加 HM

ロシア民族について、歴史的には、ノルウェーから出て、キエフを通り拡散した民族です。西欧と違うところは、蒙古の侵略を受けている点です。いわゆる「タタールのくびき」が240年続いていますから、血が混ざらないはずがなく、紅毛碧眼が居るかと思えば、黒髪で何となくアジア風の人間もいます。

「砂の民族」とも言われます。強い力(圧政)で握っていなければ、ばらばらになります。ツァーリ(皇帝)から共産党まで、強い力で締め付けたのも、こういう民族性があるからでしょう。

協調が苦手な民族です。1914年、タンネンベルグの戦いは、協調性のなさの典型例でしょう。優勢なロシア軍が、数で劣るドイツ軍に殲滅させられた事例です。


まとめ

1.旅行は8月末から9月初めだったが、モスクワもサンクトペテルブルグも予想以上に寒かった。

2.天候には恵まれた。変わりやすい天候のようだが、傘を使ったのは10分くらい。曇天が続く中、時おり
 短時間の快晴があり、美しい写真を撮ることができた。

3.往時の超大国だったソ連時代によく耳にしたクレムリンや赤の広場をこの目で確かめることができた。
 予想していたよりも貧弱で規模も小さかった。

4.国民の生活水準、文化水準はあまり高くないとの印象を受けた。

5.モスクワ空港のトイレは、1995年に見たときよりはるかに改善されてはいたが、我が国の空港のトイレ
 と比べ設備と清潔度でかなり劣っていた。

6.モスクワの地下鉄が非常に深いところを走っていることに驚いた。一直線のエスカレータが、かなりの
 速度で動くので少し恐ろしい。面白いことに、関西と同じで、人はエスカレータの右側に立ち、右手で
 手すりを掴んでいた。

7.プーシキンとレーニンが今も国民に好かれているようで、銅像や名前の付いた公園や劇場などをよく
 見かけた。

8.ロシアの寺院建築は、私の好みではない。

9.モスクワはロシア的スラブ的、サンクトペテルブルグは西欧的に感じた。

10.エルミタージュ美術館には三大美術館に値する作品が展示されていた。

11.ロシア国民は親日的で、車と電気製品は日本製を選び、日本米を買う。英語はほとんど通じない。

12.現地ロシア人ガイド特にサンクトペテルブルグのガイドは、21年間の海外旅行で一番優秀だった。

13.ロシア皇帝の権力と財力の使いかたなどを考えざるを得なかった。

14.巨大な権力と財力を持った皇帝→共産主義革命→共産主義陣営の総本山として資本主義陣営と対立
  →衰退→自己崩壊→資本主義化→グローバル化→世界総資本主義化→経済的格差の世界的な拡大と
  文化の均一化 という歴史の経過を思わざるを得なかった。

15.知らないことをたくさん知り、考えることが多く、それでいて楽しい良い旅だったと思っている。

16.ロシア滞在歴10年の服部様から頂いた有用な情報で、この旅行記の価値が増したことに感謝する。


<2014.9.10.>掲載
<2015.2.8.>追加


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