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2009.08.08. 掲載
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目次
1.はじめに
2.フィンランド(Finland)
3.スウェーデン(Sweden)
4.ノルウェー(Norway)
4-1.フィヨルド観光
4-2.フロム
4-3.ベルゲン
4-4.ブリッゲン
4-5.トロル人形
4-6.スターブ教会
4-7.オスロ観光
4-8.ヴィーゲラン彫刻公園
5.デンマーク(Denmark)
6.まとめ
旅行ができる元気な間に、これまで行ったことのない北欧へ旅行したくなった。私たち夫婦、特に私は、きれいだとか、珍しい景色や動植物などを見ることに興味が少なく、人間の過去とか現在など人間に関係するものに関心がある。特に、自分の人生で大きな影響を受けたことならなおさらである。
そういう意味で、これまでもヨーロッパへの旅行が多かった。北欧4国の地理的関係は、ばくぜんとしたイメージだけだったので、この機会に調べてみた。インターネットで見つけたこの地図は実に分かりやすい。(図1)
今回の旅行は、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマークというスカンジナビア半島を反時計回りに巡るコースになっている。それぞれの国に抱いてきたイメージがあるが、それが旅行のあとでどのように変るのか、どのような新しい発見や見直しがあるのか、旅行前から楽しみだった。
モンゴル帝国が西は東ヨーロッパまで領土を拡げたことを知っていたので、フィンランドという国は、私の頭の中では、その末裔だと長く思い込んでいた。
それは今回の旅行の下調べで間違いであると分ったが、言語はヨーロッパの多くの民族が属するインド・ヨーロッパ語族ではなく、フィン・ウゴル語族に属していることから、アジア系なのであろう。
図2.モンゴル帝国の版図 図3.インド・ヨーロッパ語族とそれ以外の語族
この国の2番目のイメージは、ヘルシンキで開かれたオリンピックで、古橋、橋爪の1500m自由形競泳の実況放送を鉱石ラジオで夢中になって聞いていたこと。3番目は、あの「フィンランディア」を作曲した「シベリウス」の生まれた国であること。
4番目は「フィンランド症候群」を2002年に新聞や医学関係の書籍で知って、これまでこのような優れた疫学調査を行なった国がなかったことから、それができる国としての興味が湧いたこと。
5番目は、この国の「ノキア」という会社の携帯電話のシェアが世界No.1であることからIT化が高度であることを示し、6番目は国際学力調査(PISA)世界No.1なので、知的レベルが高いことである。
そのほか、サンタクロースの故郷、ムーミンの国、サウナの国であることも知ってはいるが、それらにはあまり関心はない。
「バルト海の乙女」と呼ばれるこの街には、白い建物と幅の広い通り、多くの緑地が織りなすすがすがしさがあふれている。
食料品や民芸品を売る屋台がずらり集まるマーケット広場。遠くにウスペンスキー寺院が見える。
北欧最大のロシア正教の寺院の内部
スラブ・ビザンチン様式で、一番フィンランドらしくない建造物である
ウスペンスキー寺院のある高台から見えるヘルシンキ大聖堂
白亜の外壁と緑色のドームのコントラストが美しい。福音ルター派の総本山。その下には石畳の元老院広場がある。ロシア皇帝アレクサンドル2世の銅像が立っている。
フィンランドが生んだ大作曲家ヤン・シベリウス(Jean Sibelius)を記念した公園。海に臨む緑豊かな公園で、多数のステンレスパイプを組み合わせたオブジェとシベリウスの顔のレリーフがある。
天然の小さな岩山をくり抜いて造られた教会。ロックチャーチとも呼ばれる。1969に完成。
内装は岩盤がむき出しになっていて、180枚の窓ガラスから暖かな光が差し込み、明るい。
天井は直径24mの銅版で覆われていて、音響効果が優れている。デザインがすばらしい。
この置物にフィンランドのデザインのエッセンスが凝縮されていると思う。これはヘルシンキのメインストリートであるエスプラナーディ(Esplanadi)のストックマン(Stockmann)という北欧最大規模のデパートで孫娘の土産に購入した。
この通りを東に進むと、マリメッコ(Marimekko)、アーリッカ(aarikka)、ペンティク(Pentik)、イッタラ(iittala)などのフィンランドを代表するスオミ・デザインのショップが並んでいる。
飛行機から見たフィンランドは、ほんとうに森と湖の国だった。フィンランド人は自分たちの国や民族のことをスオミSuomiと呼ぶが、その語源は湖、池を意味するスオSuoだと知った。国土の7割が森林で、湖沼が1割を占める。湖沼の数は18万以上だと知った。
首都ヘルシンキの人影はまばらだった。調べてみると、国土の面積は日本の約9割にあたるが、人口は日本の約20分の1である。
アジア系の人種ではないかと思ってきたが、背は高くブルーの瞳で、頭髪は白の強いブロンド、顔はモンゴル人と似たところのまったくない西洋人だった。ことばが他の北欧3国とまったく違うにも関わらず、印欧語族の容姿であることが不思議だ。現地ガイドによると、フィンランド人がどこから来たのか今でも謎の部分が多いという。
フィンランドでは街路など場所の説明は、フィンランド語とスウェーデン語で併記されていた。これは法律で定められていて、フィンランド人の多い地域ではフィンランド語を上に、スウェーデン人の多い地域ではスウェーデン語を上に書くことになっている。フィンランドはスウェーデンに約650年支配された歴史があり、その名残りなのだろう。
この印欧語族に属するスウェーデン語という異種言語との共存が、現在のフィンランド人の知的レベルの高いこととかなり関係しているのではないかという仮説を思いついた。
日本人が漢語や欧米語を学んだことは、日本語と日本の文化を高めたように、まったく異質のことばを理解しようとするとき、自国語はより深められ、知的レベルも向上すると考えてもおかしくあるまい。英語、とくにその文法を学んだことで、日本語がより分るようになったことは、自分の経験からも言える。
ヘルシンキ大聖堂、シベリウス公園、テンペリアウキオ教会などのモダンで美しいシンプルな建造物やペンティクのトナカイのキャンドル立ての置物などを見ると、この国の美的センスの素晴しいことが分る。
北欧で一番治安の良い国、北欧4国のうち唯一ユーロが使える国であることもありがたかった。
スウェーデンという国のイメージの1番目は、私の一番好きな女優イングリット・バーグマン(Ingrid Bergman)の生まれた国であることで、女優としての魅力だけでなく、その生き方が好きだった。
2番目がノーベル賞を選び与える国で、戦後間もなく湯川秀樹が日本人としてはじめてこれを受賞したときの興奮を今も覚えている。最近では2002年の受賞、2008年の受賞が印象深い。
3番目がボルボやサーブなどの自動車メーカーの国で、4番目がダンシング・クイーンなどのヒット曲のあるABBA、5番目はノーベルがダイナマイトを発明して財をなし、ノーベル賞を創設した人であること。
最後は、「水の都 大阪vsベニス」などのイベントで、ストックフォルムが「北欧のヴェニス」と呼ばれていることを知ったことである。
ヘルシンキよりストックホルムまで、飛鳥Uよりも1万トンも大きい5万8千トンのシリアライン(SILJA LINE)のシンフォニー号でバルト海クルージングをした。
キャビンは最上階の11階デッキで、海側の眺めの良い場所だが、シャワーのみでバルコニーがなく、窓越しで見る風景はもの足りない。最も閉口したのは、天井が12階デッキの甲板なので、こども達が走り回る足音が夜遅くまでドタドタ響き、気分を損ねること甚だしい。
夕食は船内のレストラン「MAXIM'S」というので、ネクタイをつけて盛装?で望んだが、回りはTシャツ、ポロシャツ、ジーンズの軽装ばかり。このシンフォニー号は超大型フェリーというのが正しく、世界一周クルーズの豪華客船にはほど遠い。
多くの島々が数え切れぬほど連なり、北欧のヴェニスといわれるわけが分るような気がする
シャンパン、舌平目とスウェーデン産貝柱フェンネル添、上記メィンディッシュ、
洋梨のタルト風、白と赤ワイン、水、コーヒー
飛鳥Uより1万トンも大きいシリアラインのシンフォニー号のクルーズは期待はずれで、これは超大型フェリーであり、豪華客船ではなかった。
ストックホルムが北欧のヴェニスと呼ばれる理由が、地図や船からの景色、展望台からの眺めなどから少し理解できた。
ストックホルム市庁舎は建物は北欧中世風のデザインで、赤レンガの質感、ゴシック風の窓など風格があった。ノーベル賞授賞祝賀パーティーの会場となる1階大広間は、まったく何も置かれていない空間なので意外だったが、パーティーでは絵葉書のような会場に変るのだから面白い。
2008年度ノーベル賞授賞晩餐会のメニューで夕食を摂ったが、本番とは材料の質が違うのではないかと思うような味だった。緊張し、興奮している受賞者は会話が弾み、料理にはそれほど関心がないのではなかろうかと推量した。
北欧全体ではもちろん、スウェーデンでもボルボは余り走っていなかったのが不思議だった。
ノルウェーは北欧の中で、一番多くのイメージがある国だ。まず、音楽では、幼いころ母がよく歌っていたグリーグの「ソルベージの歌」、戦後間もなくNHKのラジオから毎晩のように放送されていたピアノ協奏曲 イ短調 第1楽章の冒頭の部分を思い出す。
読書では、私が中学時代に読んだ本の中で、今も所蔵しているものは8冊あるが、その内の2冊がノルウェー人のものである。
その一つが「コンティキ號漂流記」で、これはノルウェーの人類学者ヘイエルダールたちが、古代でも入手が容易な材料のみを用いて一隻のいかだを建造し、ペルーから海流に乗ってポリネシアまで漂流した記録である。
南米のインカ文明とポリネシア文明と似ているところが多いことから、ポリネシア人の祖先が南米から海を渡って渡来したアメリカ・インディアンであるという説を証明するためだった。中学3年の夏休みに夢中になって読んだ昭和26年3月 月曜書房刊を今も所蔵している。(図42)
もう一冊は「ナンセン伝」で、ナンセンは北極点をめざして航海したり、第一次世界大戦後の難民救済活動を行なったりと多方面で活躍し、ノーベル平和賞を受賞した人で、これも中学時代に岩波新書で読んだ。(図43)
ノルウェーと言えばます思い浮かぶのは、ヴァイキング。昔はヴァイキング形式の料理だったが、2007年にノルマンディー地方を旅行した際に、ヴァイキング時代のことを知り、以来そちらのヴァイキングを思うようになった。
ヴァイキングが、セーヌ川を上ってパリにまで攻め込んでくるのに対して、フランスの当時の王が懐柔するためにノルマンディーの土地を与え、住み着かせた。彼らはここにノルマンディー公国を作った。
ノルマンディー公ウイリアム(ウイリアム1世征服王)がイングランドを征服し、ノルマン朝を作った。ノルウェーと言えばそのヴァイキングの国が思い浮かぶ。
絵画では、ムンクの「叫び」の絵が浮かぶ。これは不安恐怖に慄いている状態を的確に表現している強烈な絵で、眺めたい絵ではない。
この絵の影響が大きすぎるのか、ほかの「思春期」や「マドンナ」なども、ほとんど素通りしてじっくり鑑賞したことはなかった。ムンクの絵は盗難にあったり、話題にことかかないが、私にはあまり知りたくない画家だった。
彫刻では、私が北欧旅行をすることを知った友人から、
「オスロ―のフログナー公園にヴィーゲランの素晴らしい彫刻群があります。その中に、まだ若い者には負けないぞ、と爺さまが木?に飛びついて落ちかけている彫刻があります。もしお暇がありましたら、写真を撮って来てください。」
とメールで頼まれた。そこで、はじめてヴィーゲランという彫刻家を知り、「フログナー公園の秘密」という1995年刊の書籍を購入し、調べてみても該当する彫刻の写真が見当たらない。この公園の観光はスケジュールに入ってはいるが、自由行動の時間はなく、果たして友人の希望に応えられるか不安だった。
ノルウェーはフィヨルドの国である。アラスカで見てきたフィヨルドとノルウェーのフィヨルドがどのように違うのか、興味があった。
最後に北欧4国の国旗の内で 赤地に白い縁取りの紺十字のノルウェーの国旗が最も美しいと私は思ってきた。
ノルウェーはいろいろの場所へ行ったので、観光したところに ● をつけておいた。
行程は、[オスロー]→[ヤイロ]→[フロム](ソグネフィヨルド・クルーズ)→[グドヴァンゲン]→[フロム](フロム鉄道)→[ミュールダール](ベルゲン鉄道)→[ヴォス]→[ベルゲン]→ハダゲルンフィヨルド→[ゴール]→[オスロ]
また、ノルウェー観光を、1)フィヨルド、2)ベルゲン、3)トロル人形、4)ハルダンゲルフィヨルド、5)スターブ教会、6)オスロ に細分した。
フィヨルドとはノールウェー語で「内陸部に深く入り込んだ湾」という意味を持つ。氷河による浸食で作られたU字、V字型の谷に海水が進入して形成された入江のこと。私たち夫婦は2年前、アラスカでいくつかのフィヨルドクルージングを経験した。
ソグネフィヨルドは海岸から東に伸びた全長204km、最深部1,308mの世界最長、最深のフィヨルドである。
クルーズは、ソグネフィヨルドの最奥部で枝分かれしたアウルランフィヨルド(Aulandfjord)とネーロイフィヨルド(Naeroyfjord)の間を巡行する。この地図では赤線の部分になる。
その始まりがフロムで、終りがグドヴァンゲンである。ネーロイフィヨルドは世界遺産に登録されている。
2007年にクルーズしたアラスカのフィヨルドとの違いは、人間が暮らしているかいないかだとすぐに覚った。私は人間の関係していない景色には興味がわかないので、もちろん、ノルウェーのフィヨルドの方をより好む。
標高差864mの急勾配で、フロム(Fraom)〜ミュールダール(Myrdal)間、全長20kmを約1時間かけて登る
ベルゲンは人口24万人のノルウェー第2の都市。12〜3世紀には首都となり、16世紀半ばまでヨーロッパ屈指の商都だった。
ブナの木立に囲まれてうす暗い。雨もかからないほど鬱蒼としていたのをグリーク夫人が嫌い、枝を落としたそうだ。
楽譜に「泥棒さん、この楽譜は私エドゥアルド・グリーグ以外の者には価値のないものです」と書いてあったそうだ
グリーグが晩年家を建てた土地は、ノルウェーに伝承するトロルの名をもじってトロルの谷と呼ばれていたので、夫人は、新しい家をトロルの丘という意味の「トロルハウゲン(Troldhaugen)」と名づけた。ここは湖のように穏やかなフィヨルドに面していて、景色が素晴らしく、ハイキングやボートを楽しんだそうだ。
トロル(Troll) は、岩山などに住む巨人、小人とか、魔物、妖怪などを含む不思議なものをひっくるめているようだ。グリーグの「ペール・ギュント組曲」でペール・ギュントは、トロル兵たちによって「山の魔王の宮殿」から追い出される場面がある。
ブリッゲンは、14世紀半ばにドイツから来たハンザ商人が貿易事務所を開き、居住を許された地区。埠頭に軒を連ねる三角屋根の木造建築ゴートは、ハンザ商人によって建てられたもので、中世のノルウェーの繁栄を伝える。1979年に世界遺産に指定された。
もともとは海の桟橋の上に建てられもので、地盤沈下により右端の家は隣家より大きく沈み込んでいる
彼はノルウェー人で、背が高くてカッコ良く、シャイな方で、妻のお気に入りだ。一緒に写っているのはトロル人形
グリークの家トロルハウゲン(Troldhaugen)のところでも説明したが、トロルはノルウェーの森の奥に住むと伝わる精霊。座敷わらしのように、幸運をもたらすと言われる。ノルウェー人はトロルと国旗が大好きのようだ。
この場所には1200年ころに建てられたスターブ教会があったが、1881年にオスロのノルウェー民族博物館に移築されてしまった。教会を持って行かれて寂しくなったゴル(Gol)の住民が、元通りのものを復元したのがこの建物だという。バイキングがはじめて教会を作った当初の状態を知ることができるという意味で、ここを訪れることができて幸運だった。
ヴァイキングは9世紀から11世紀の間の約300年間ヨーロッパ各地に進出したが、そこで先進国の文化を取り入れるとともに、キリスト教も受け入れ、多神教から改宗して行った。キリスト教の教会は、神のいる天を目指す建築様式になる。
ヨーロッパの教会は石造のためそれは可能だが、木を使ったログハウスの工法では高さに限度がある。
そこで、ノルウェー語で木の柱、支柱を意味するスターブ(stav)を用いた工法が考案された。スターブ教会とは「木の柱教会」であるという、ガイドさんの説明は説得力があった。異教を取り入れたバイキングは、このスターブ教会で信仰心を深めていったのだろうと想像した。
全長23m、幅5mオーセベルグ(Oseberg)号は、800年代から50年間使用された女王の船で、女王の死後遺体とともに埋葬された。そこが粘土層だったため、1904年に発掘されたときに保存状態は良かったそうだ。
横腹の穴の数から、30人の漕ぎ手がオールを握っていたと考えられている。このヴァイキング船50〜60隻が隊列を組んでヨーロッパへくり出していく光景を想像するだけで興奮してしまう。
正面の巨大な壁画には被占領時代から独立を勝ち得て平和が訪れた情景までが描かれている
この国立美術館(Nasjonalmuseet)には著明な画家の作品が揃っているが、中心はムンク(Edvard Munch)の部屋に集められた代表作58点だろう。その中で、鑑賞して印象に残ったものを制作年度順にまとめた。画像はWeb検索で見つけたものの中で、私の印象に最も近いものを選んだ。
この「病める子」には、ムンクの姉の病を知り悲しみに頭を垂れるムンクの叔母と、その叔母を見つめる姉が描かれている。嘆く叔母に対する彼女の横顔は凛として輝いている。
ムンクの母親は5才の時に亡くなり、その母親の妹つまりムンクの叔母がムンク兄弟を育てた。22〜23歳で画いたこの絵が、ムンクのその後のほとんどの作品の起源なっているという。その姉も、ムンクが14歳の時に母と同じ結核で死んでいる。
暖かい陽光がさし、白いカテーテンが風にゆれて春の訪れを感じる。しかし、病室の少女は日差しを避けるかのように目をそむけている。その少女を母親が静かに見つめている。ムンクはこの作品で、印象派と写実主義に別れを告げたと述べている。
孤独や不安、恐怖を表現したこの絵が評価されるのは理解できるが、ムンク=「叫び」というのは、ムンクの評価を偏らせる危険があると今回痛感した。
私はこの絵のイメージからムンクを毛嫌いしてきたが、ここで彼の他の絵を見ることにより、見方が大きく変わった。
死の直前にあるムンクの姉に対する家族のさまざまな思いと表情が描かれている。仮面のように無表情に正面を向く妹は、その後長い間精神病院に入院した。
背をまるめて悲しみを懸命にこらえようとしているのは一番下の妹、戸口で顔を背けているのは、結婚後わずか6ヵ月後に死亡した弟、祈っている老人は父親、その横で椅子の背を支えに、かろうじて立ってるのが母代わりの叔母。背を向けて立っている青年がムンク。
この絵の人物は年齢的に矛盾がある。それに対してムンクは「いま見ているものでなく、かつて見たものを描くのだ」と語ったそうだ。「自分の記憶、印象を描く」ということばに納得した。そして以前、画家堀口博信さんから同じことを聞いたのを思い出した。
別名「受胎」とも呼ばれ、題名からも聖母マリアの「受胎告知」を表していると見ることもできる。彼女は後ろに手を伸ばして背をそらし、その腕は背景に溶け込んで輪郭はぼやけ、夢みるかのような表情の顔、豊かな胸と膨らんだ腹部が女性らしさを強調している。
Web検索で見つけた画像の中で、これが一番実際に見た絵に近かった。少女の右下腿や右手には赤い血液が明瞭に描かれている。胸がふくらみはじめた少女は、足をかたく閉じ、身体の前で手を交差させ、身体をこわばらせている。しかし、大きく見開いた目は毅然と正面を見すえ、微塵のすきも見せない。
ムンクは5歳で母を、14歳で姉を亡くし、死を強く意識してきたことは良く理解できた。私も11歳で妹を、29歳で母を亡くし、こどものころから人は必ず死ぬことを覚り、死を常に意識してきた。幼いころから死を意識して生きるという運命に今私は感謝している。死を思うから良く生きようとせざるを得なかったからだ。
しかし、私は一度も死に対する不安や恐怖を感じたことはなかった。それが私のさだめなら、従わざるを得ないとあきらることができた。そこがムンクと決定的に違うところだ。
「叫び」の絵に狂気の匂いを感じて拒絶することは、今回の北欧旅行でなくなり、ムンクの絵を客観的に鑑賞できるようになった。それでも、好みの画家にまでは変っていない。
ムンクは若いとき売った作品を買い戻し、死後、彼の所持していた1008点の油彩画と4443点の水彩画やスケッチなどをオスロ市に寄付した。市はムンク生誕100年の1963年に、「ムンク美術館」を完成させ、これらの作品を保存公開しているという。
「ムンク美術館」を訪問できなかったが、私にとって、ここ「国立美術館」でムンクの作品を鑑賞できたことは幸せだった。
ヴィーゲラン彫刻公園は、ノルウェーの彫刻家 アドルフ・グスタフ・ヴィーゲラン(Adolf Gustav Vigeland 1869-1943)が人間の一生を表現した193体の彫刻を展示する彫刻公園である。
オスロ市が、現在ヴィーゲラン美術館になっている建物を、アトリエ・邸宅として提供する代わりに、ヴィーゲランはすべての作品を公園に提供するという契約により生まれた公園である。
私は今回の旅行まで彼の名を知らなかったが、友人からこの公園にある一つの彫像の写真の撮影を頼まれたことから、 古木俊雄著「フログナー公園の秘密」1995年三樹書房刊 を入手し、はじめてヴィーゲランというロダンに匹敵する彫刻家を知ることができた。
ヴィーゲランが余り知られていないのは、彼のほとんどの作品がこの公園の中にあり、他へ持ち出すことを認めていないからだ。
この彫像を見て、息子の嫁が孫娘を高く掲げ、孫と嫁がお互いを注視しているポーズと酷似していることを知り、目頭があつくなった。
母はわが子の誕生をこのように喜び、子はその母に全幅の信頼を寄せ、見つめあうのは人類共通の行動なのだろう。
この彫像を見た妻は興奮して「これを撮って」と叫んだ。このような時が来ることを願いつつ、私の年齢から考えて、それは無理かもしれないと思ったのではなかろうか?
まだ若い者に負けないぞと生命の樹に飛びついているように見える
残り少なくなった生命を知って、必死で生命の樹にしがみついていると見ることもできる。 手を離せば即、死が待っているのだから
鉄の棒を曲げて描かれた、透かし彫りの男性像のある門を通り、公園で一番高い位置にあるモノリットの丘に向う
モノリットの周りに、ここで私が一番感動した石像を見た
老人を見つめる少年の眼差しは孫娘のそれと同じだ
今の私は孫に向うと緩みっぱなしの顔になる
このように孫を見つめて真剣に話すときがあるかもしれない
モノリットの丘を出るところにも鉄線で描かれた女性像のある門があった
遠くでホルンの音が聴こえていたが、この人が吹いていたのだろう
フログネル公園の彫刻の数は193体だが、刻まれた人間の数は、人造湖脇の胎児から噴水にある骸骨まで含めると650体以上になり、全てが老若男女の喜怒哀楽を表現した裸像であり、裸を隠すものは何ひとつない。
しかし、卑猥さはまったくない。それぞれの作品には名前も解説もなく、それをどう見るかはその人の感性に任せられられている。
彫像はどれも人間が生まれてから死ぬまでの場面を表している。人は生まれ、生き、そして死ぬ。それが何万年も前から延々とくり返されてきた。生命とはそういうものだ。
人はいつ死ぬか分らない、だから命あるかぎりその時々を大切にして、精一杯生きるべきだと教えているのかもしれない。この公園の彫像を見て「輪廻」を感じた人もいたようだった。それは仏教の「輪廻」ではなく、生まれる→生きる→死ぬ→生まれる→生きる→死ぬの繰り返しという意味であろう。
同じく死を強く意識し、それにおびえて生きたムンクとは正反対の生き方であり、強く共感する。
それにしても、31歳で公園の構想を発表してから43年間、公園の彫刻作成に全力を投じ、これらの優れた膨大な作品を創造してきたことに畏敬の念を抱く。ヴァイキングの血を濃厚に受け継いでいるのだろう。
音楽については、グリーグが晩年過ごしたベルゲン郊外のフィヨルドの水辺、トロルハウゲンを訪れ、彼のことを多く知った。彼をふくめ、バスの運転手も、ノルウェー人全体が「トロル」という妖精をこよなく愛していることも知った。
「コンティキ号記念館」を訪れることはできなかったが、それ以上の収穫があった。それは「バイキング船博物館」を見学できたことである。バイキング船の何と優美で無駄がなく機能的であることかと溜め息が出た。1200年以上も前に、このような船で遠く地中海までも航海していたとは、バイキングはすごい民族である。
最初のノーベル平和賞を受賞したナンセンのことは知ることができなかったが、ノーベル平和賞を授賞するオスロ市庁舎は、スウェーデンの市庁舎とは比較にならぬほど、美しく風格があった。そこに飾られた巨大壁画にはただただ圧倒された。この市庁舎にはいたるところに暖かい絵画が飾られていた。
グリーグをはじめノルウェー人が愛するフィヨルドだが、ノルウェーのそれは、アラスカのフィヨルドと比べて、人と共存していて暖かく感じられた。また、大きな滝があちこちに見られるのも、アラスカとの違いだった。
ムンクの絵については、国立美術館でじっくり鑑賞することができ、現地ガイドの説明も納得できるところが多く、彼の絵に対する私の偏見は大きく修正されたが、そのことについては観光のところで詳述したので省略する。国立美術館は無料で入館できるが、日本での美術展のような人の山はほとんどなく、心いくまで鑑賞することができる。
ヴィーゲランの彫刻については、ただただ感嘆するばかりだった。この広い公園を30分ばかりで通り抜けたのだから、じっくり鑑賞する間はなく、自分の直感で撮影せざるをえなかったが、私好みの写真が得られたと思っている。あとは、観光のところで詳しく書いたので省略する。
ノルウェーの国旗を美しいと思うと、旅行前のイメージで述べたが、ノルウェー人は国旗掲揚が好きな国民のようで、公式の日以外にも誕生日だとか個人的な理由で旗を掲げるようだ。
ヴァイキング船博物館とゴルのスターブ教会は、予想もしていなかった新しい発見であった。もう一つの発見は、北欧4国の中でいちばん清潔であり、一番経済的にも精神的にも豊かなように見えたことだ。
これに対して、ヴィーゲランの彫刻の撮影を依頼してきた友人からは
「1970年代、私が最も頻繁に北欧に出入りしていた頃、スカンジナヴィア三国の中でノルウェーは断トツのビリでした。経済も福祉も教育もすべてにスェーデン、デンマークに及びませんでした。それが7年前に旅行して余りの変わりように驚きました。ノルウェーは生き生きとして、他二国はどうも元気がないのです。おそらくノルウェーは北海油田の開発に成功したからでしょう。国の盛衰もあざなえる縄の如しですね。」
とのメールをもらった。北海油田の開発成功も大きく関係しているのかもしれない。しかし、それだけではないと思う。
旅行前のデンマークのイメージは、1)デンマークの王子ハムレット、2)息子がもっとも長く喜んで遊んだ玩具「レゴ」、3)何年かイヤープレートを集めたことのあるロイヤル・コペンハーゲン、4)孫娘ができてからよく訪れるイルムス、5)アンデルセンの童話、6)倉敷にあるチボリ公園がコペンハーゲンにあるものを真似して造られたなど、とりとめもないことが多い。
その中で、中学生のころに観たローレンス・オリヴィエ主演の映画「ハムレット」だけが、精神的に影響を受けたと言えるかもしれないという程度のイメージしか持っていなかった。
スウェーデン王に一日で耕せただけの土地を与えると言われた女神ゲフィオンは、4人の息子を雄牛に変身させて、1日でシェラン島を耕し、コペンハーゲンのあるこの島を得たという北欧伝説に基づく。頭を下げ、角を立てて大地を耕す4頭の雄牛像は迫力があり、鞭打つ女性像は逞しい。
ベルギーの小便小僧、シンガポールのマーライオンとともに、このデンマークの人魚姫像は世界三大ガッカリ像と言われているのは知っている。
しかし、私たちは他の二つと違ってこの人魚姫像を芸術的な良い彫刻だと思い、ガッカリすることはなかった。これが2m、3mもある彫像であれば、アンデルセンの童話のイメージはなくなってしまう。
クロンボー城は映画「ハムレット」に出てくる城よりは軽く、映画の重厚な感じがなかった。チボリ公園は、やはり本家の方が倉敷よりもスケールが大きく、立派だったが、遊園地に過ぎなかった。王宮もそのほかの宮殿もスケールが小さく、宝物殿でも驚くようなものは見られなかった。
コペンハーゲンのメインストリートであるストロイエを往復し、イルムス・ボーリフスやジョージ・ジェンセンやロイヤル・コペンハーゲンなどにも入ったが、日本の店を越えるほどのところはなかった。
一番驚いたのは、現地でもらった日本語の観光案内パンフに、「ゲイコペンハーゲンへようこそ」というページがあり、首都コペンハーゲンだけでなく、デンマーク全国がホモに対して大変解放的な社会です、という紹介ではじまり、ゲイの集まり場所やゲイやレズを対象とした娯楽施設を教えるなど、驚くばかりの内容だった。
私にとってデンマークは魅力がもっとも少ない国であった。
北欧は全体として、期待していた以上に魅力的な国だった。なかでも、ノルウェーやフィンランドは素晴しかった。
天候は激変しやすいところだった。全体としては曇天の暗いイメージで、時々つかの間の澄み切った青空が現れる。日照時間が一番長い夏でこれだから、夜の長い冬の生活は大変だろうと想像できる。
ヘルシンキもストックホルムもオスロも北緯60度の高緯度にありながら、その割りに寒くないのは、メキシコ湾流のお陰だとのことで、海流の威力を改めて再認識した。
大阪に帰って来ると、やはり蒸し暑い。人間は比べようもないほど多く、だれもが忙しく歩いている。しかし、私たちはこの街が好きだ。この街で生き、この街で死にたい。
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