第11章 質問に答える
私は心霊治療家として毎日幾人かの患者の治療に当たっている。大抵の患者は、来た時はただただ治してもらいたい一心なので、それ以上のことを考える余裕はない。が、良くなってくると、いろいろと質問をするようになる。

直接聞く場合もあれば、手紙で質問してくることもある。心霊的なこと、道徳的なこと、心理学的なこと、生理学上のこと等々あらゆる分野にわたって質問を浴びせてくるので、私もうかうか勉強をおこたれない。

お蔭でずいぶん賢くなった。いわば患者から教えられたわけである。

さて、あなたもここまで私の説に耳を傾けてくださったからには、疑問に思うこと、聞いてみたいことが多々あるのではないかと察している。といって具体的にどんな疑問を抱いているかは知るよしもないが、これまでの体験からおおよその見当はつく。

これから掲げる質問とそれに対する私の回答を読んでいただければ、全部とはいかないまでも、大抵の疑問は氷解していくものと確信する。それが本文での筆不足を補うことになることを期待している。

第1節 悩みや病気は何かの罰でしょうか
信心深い人がよく抱く疑問ですが、決してバチが当たったのではありません。
病気になるには次の三つの原因がからんでいます。

まず第一に、日常生活や人間関係で難しい問題が生じます。これは地上という特殊な生活環境における神の試練であって、一人の例外も無く人間のすべてに共通した条件です。つまり誰だって難しい問題をかかえているのです。

が、これに対する反応は人によって異なります。

それが第二の問題をこしらえるのです。つまり問題に対する心の姿勢です。順序良く片付けていく人と、またか、といった気持ちで対処する人とでは大いに違ってきます。これを悩みとしてしまう人は、病気への最短のコースを辿っていることになるのです。

それがやがて、第三の原因をこしらえる。つまり、その悩みの連続が肉体に反応を示すようになります。これで立派な病人になったわけです。

私のところに来る患者の大部分が最初かならず「私の人生は悩みの連続です」と口を切ります。そこで私は言ってやります。

「とんでもない。実際にあるのは〝悩み〟ではなくて〝問題〟なんです。問題に対してクヨクヨ悩むのがいけないんです」と。

神は問題を与えても、決して悩みは与えません。罰も与えません。もし与えているというのなら、その与えている張本人は自分自身だということを知ってください。

第2節 〝最後の審判〟は本当にあるのでしょうか
これもキリスト教が生んだ恐怖心の一つで、地上で犯した罪のために死後、寝巻き風のロングシャツをまとった白髪の老人によって裁きを受け、イエス・キリストを信じる者だけが救われるというのですが、こんな馬鹿げた話はないでしょう。

すでに説いたことですが、物的宇宙に寸分の狂いのない物理的法則があるように、人間の思想、感情、行為のすべてにも因果律というものがあり、それ相当の責任を取らされるようにできています。

その責任は地上の時の流れの中においてさまざまな形で取らされております、イエスといえども釈迦といえども、代わって償えるものではありません。

では十分な償いをせずして他界した場合はどうなるのかという疑問をもたれるかもしれませんが、それは次の世界で償うことになるのです。地上と死後とを切り離して考えるからそういう疑問が出るのであって、あなたはそのまま生き続けるのであり、同じ宇宙の中で生活しているのです。ただ次元が異なるというに過ぎません。

心霊学によると死の関門を通過して霊界にめざめると、地上生活のあらゆるできごとが、あたかもテレビのビデオテープを見るように眼前に展開するといいます。

良かったこと、悪かったこと、努力したこと、頑張ったこと、怠けたこと、ずる賢くやったこと等々が次々と映り出されます。見栄も欺瞞も剥ぎ取られた赤裸々なあなたの姿を見せつけられるのです。見ているあなたは当然いろいろと考えさせられる。

もう一度地上に降りて、今度こそ立派に生きてみようと思うかもしれない。つまり再生です。あるいは自分の地上生活に満足し、もう一段高い世界へ行ってみようという気持ちになるかもしれません。そこにはかなりの選択の自由があるようです。

その判断はいずれにせよその場にのぞんで見ないと分からないことですから、今から想像しても意味がありません。

それよりもあなたがいま心がけるべきことは、霊界に行って赤裸々な自分を見るように今この時点で現在の自分を赤裸々に見つめて、偽りのない真っ正直な人生を送ることです。神の御心に叶った人生を送っていれば何も恐れることはないはずです。

第3節 まじめな生活を送れば報われるでしょうか
〝まじめな生活〟とはどんな生活のことか、また〝報われる〟というのはどういうことを意味するのかが問題でしょう。

本書を読んでくださった方なら、その辺の本当の意味がわかっていただけると思いますが、もしも〝まじめ〟という意味を、たとえばあなたの信じる宗教の教義を忠実に守るとか、一地方の慣習に従い先祖伝来の家風をそのまま引きつぐことだとすると、そんなまじめさは神には通じません。

我欲を捨て、他人のために心をくだき、死後の存続を信じて霊性の開発にいそしむ──これならば神の心に叶った生活であり、大いに報いを受けるでしょう。すなわち〝健康と富と成功を得る〟ことができること疑いなしです。

第4節 神の存在を信じますか
私は信じます。自然界のいずこを見渡しても、そこには必ず〝意匠〟があり〝構図〟があることはご存知でしょう。

小は原子から大は星雲に至るまで、数学的正確さと芸術的な美しさを具えた設計があります。デザインがあるからには、それを設計したデザイナーがいるにきまってします。それをゴッドと呼んでもエホバと呼んでもアラーと呼んでも、あるいは大霊と呼んでも生命力と呼んでも同じことです。

ただし、神というものが人間と同じような姿恰好をしていて、常に自分への帰依の祈りを要求しているように説くのは私の理性が許さない。神はあくまでも人間の想像を超えた存在であり、われわれはその片鱗を僅かに見出しているにすぎないのです。

人間の霊的進化とは要するに神をより多く知ることだといってもよいでしょう。

ボルテールはこんなことを言っています。

「宇宙のことを考え出すとわけがわからなくなる。が、私のはめている腕時計には間違いなくそれを想像した人がいるのと同じで、宇宙にもそれを想像した何者かがいるに違いない」と。

第5節 宗教をどう思いますか
いかなる宗教も、もとはと言えば一個の人間から生じたものです。その人は大抵心霊能力を具え、ふつうの人に見えないものをみたり聞いたり予言したりしました。あるいは手を触れたり祈ったりするだけで病人を治すことをしました。が、その人が教祖となったというのではありません。

その人自身はそうやって自分の能力を駆使して衆生済度を実践したまでなのですが、その死後、あとに残った弟子たちはどうしても能力が劣ります。すると能力で統率するのでなくて、教義や戒律でもって信者をまとめようとする動きが出てきます。こうして宗教団体が出来あがるのです。

たとえばキリスト教を例にとってみますと、イエスはもともとユダヤ教徒で、アラブ人の容貌をした、色の浅黒い人間だったろうと想像されます。おそらく早くから心霊的な勉強と修養を重ね、少しずつ真理に目覚めていったはずです。

やがて数々の心霊現象と病人の治療によって人々をひきつけ、多くの弟子を連れて放浪しました。そして最後に、ローマの為政者よって弾圧され悲劇的な最後を遂げたわけですが、イエス自身は一度たりとも〝キリスト教〟などという言葉を口にしたことはなく、最後までユダヤ教徒だったのです。

ところがその死後、弟子達はイエスへの畏敬の念が強かったために、その生前の行跡をいろんな形(手紙など)で書き残しました。

それがいつの時代かに誰かによって編纂されたのが聖書なのです。が、その聖書に書かれている行跡が果たして本当かどうかはきわめて疑問のあるところで、あまりに矛盾が多いために聖書学者の中にイエスという人物の実在そのものを否定する人もいるほどです。

ですが、一方聖書には一貫して流れている珠玉の真理があることも事実です。それは愛と奉仕とが最高の美徳であると説き、人類はみな平等であり、一人の例外も無く死後存続するという思想です。

実をいうと、こうした素朴な真理はどの宗教でも説いていることなのです。それが時代の違い、あるいは環境の違いなどによってさまざまに脚色され、変形され、また土着の民話や神話などが付着して、次第に複雑になり、もったいぶった仰々しい教義が作られていったのです。そうした夾雑物を拭い去れば、いずれの宗教もみな同じ真理すなわち人類同胞、愛と奉仕、死後の存続を説いているのです。

私は非常に信心深い人間ですが、教会その他、宗教施設には一切通いません。私にとってそうしたものは単なる建造物にすぎず、信仰の場としてより、むしろ人間のうぬぼれの記念碑としてしか目に映らないのです。

私にとって宗教とは、端的に言うと自分本来の霊的生命と、この世で与えられた物的生命の融合です。つまりこの物的万能主義の世の中にあって、霊性に目覚めていない人と神との縁の架け橋の役目をつとめることです。

第6節 自分以外の者への責任はどこまで負うべきでしょうか
これも〝責任〟という言葉の問題がありますが、かりにあなたが父親の立場にあれば当然子供を一人前に育てる責任があります。すなわち衣食住を適度に満たし、愛情を傾けて、この世の人間として一人前にしてやる義務があります。

が、観点を霊的な立場においてみると、この世に生まれてくる霊は誕生の時点においてすでに霊格の差があり、それに応じた目的使命をもっているのですから、たとえ父親といえども干渉することは許されません。

たとえばあなたに二人の子供がいるとしましょう。一人は父親のあなたよりはるかに霊格の高い霊魂かもしれません。そういう霊にとって本当に生きがいはあなたが考えるものとは当然違ってくるはずです。

あなたが財産を譲ろうとしても「金はいらん」といって奉仕の道に入るかも知れませんし、出家して僧侶になるかもしれません。あなたはそれに反対する権利はないのです。

一方もう一人の息子は霊的に未熟で善の認識の程度が、きわめて低く、いわば動物的段階を脱しきっていないかも知れません。そして、やがて屠殺場で働くようになるかも知れません。が、あなたはそれを止める権利もなければ責任もなく、「あんな息子にしたのは父親の自分が悪かったのだ」などと悔やむ必要もないわけです。

あなたがこの世で責任をもつべき人間は一人しかいません。それは外ならぬあなた自身です。自分自身への責任には口実も弁解も言い逃れも許されません。自己弁護して責任を回避しても、それだけあなたの霊的進化が遅れ、損をするだけです。そして、どうせいつかは責任を取らされるのです。ならば一切の虚偽や見栄をかなぐり捨てて、自分の行為と思想と言葉に責任をもとうではありませんか。

第7節 食生活はどうあるべきでしょうか
何を食べるべきかを考える前に、今われわれはどんなものを食べさせられているのかを検討してみましょう。

まず最初に、おそらくあなたも最高の栄養物思い込んでいる〝肉〟のことですが、これが実は大変な毒物であることを知ってください。最近の食用肉(牛、豚、にわとり)がどんな方法で飼育されているかご存知でしょうか。できるだけ太らせるための合成ビタミンやタンパク、病気にかからせないための何十種類もの抗生物質を飼料に混ぜ、さらに別の薬品を皮下注射します。そしていい加減な大きさに生育すると屠殺場に連れていかれ。むごたらしい雰囲気の中で殺されてしまいます。

殺されるとすぐ首と四肢を切り落とされ、まだピクピク動いているうちに冷凍されます。それから何ヵ月あるいは何ヵ年かして冷凍庫から引き出され、解凍され、いかにも新鮮に見せるために染料を使って着色し、繊維を柔らかくするために木づちで叩き、味を良くするために化学調味料の中に浸します。こうしてようやく一般の家庭の食卓にのぼらされるわけですが、それをいかにも上肉だといって舌鼓を打ち、栄養を取っているかに錯覚し、豊かな食生活をしていると誇りを感じているのですから哀れです。無知ほどこわいものはありません。

肉類だけではありません。ある有名なメーカーのビスケットを分析したら次のような結果がでました。

「小麦粉、プロセスチーズ、綿実油、大豆油、コーンフラワー、合成香料、塩、砂糖、脂肪酸エステル、卵黄、ベーキングソーダ―、グルタミン酸ナトリウム、ヒドロキシルアミン、ヒドロキシトルエン、合成着色料、プロプリガレート」

なんとひどい合成品でしょう。聞きなれない名前はみな有害物質です。ツヤのいいリンゴ、赤々としたニンジン、プラム、ナシ等々、店頭に並ぶおいしそうな果実や野菜類も油断がならない。おびただしい農薬によって栽培され、おそろしい染料で着色されているからです。農薬による汚染は野性の動植物を日に日に滅亡の運命へ追いやっています。

人体には無害だという人がいますが、一体何を根拠に言っているのでしょう。

人間がたった一種類の食物だけを食しているならともかく、一日何十種類もの食物を摂取するのですから、その一つ一つに含まれている農薬や合成添加物の蓄積がどんな影響を及ぼすか、ちょっと想像しただけでも恐ろしくなります。

では私自身どうしているか。どんなものを食べているかという話を次にいたしましょう。

私の家は私を入れて五人家族です。その中で肉類を取らないのは私一人です。食卓に着くと、妻が仔牛だの豚だのアヒルだのをナイフで切り割いて子供たちに分けているのを見つめていますが、私にはそれが赤ん坊を切り割いているようにみえ耐えられません。

私の皿に盛ってあるのは野菜に卵にチーズといったものばかりです。他の家族とまったく違った食事をとっているのですが、家族には同じものを強制しません。いつの日か、私の食事の正しさがわかってくれる時が来ると確信しているからです。

本書では病気の原因をいろいろと説きましたが、実はその重要なカギをにぎるものとして、食事の問題があるのです。ことに現代では、いわゆる悪食による病気が増えつつあります。

私は人間は穀類と新鮮な野菜と果実、ピーナツのようなナッツ類、卵、チーズ、ミルク等を適当に食しておれば、栄養的に十分に健康を保てると考えています。

神は決して、動物を不自然に飼育して殺すという残酷なことをしなければ生きていけないようには作っていないと信じます。植物だけで十分生きていけるし、それがまた食糧危機といわれている今日の食糧問題を解決する道であるとも思います。

もちろん何を食べようとあなたの勝手です。が、フランスの作家で食通としても知られたブリヤ・サバランの次の言葉をよく味わっていただきたい。

「人がどんなものを食べているかによって、私にはその人がどんな性格の人間であるかがわかる」

第8節 酒やたばこはどうでしょうか
誰が何と言おうと、酒は所詮はアルコールであり、一種の薬品であることを知ってください。クスリに中毒はつきものです。アルコールによる中毒の恐ろしさは今さら私が述べるまでもなく、社会問題の一つとなっています。酒なしに生きていけないという人は言わばオモチャなしに遊べない幼児と同じで、人間的に未熟であることを示しています。

一方、タバコの害は酒以上にすでに語りつくされて、科学的にもはっきりとした結果が出ているのですから、私から注意するまでもないでしょう。要するに、百害あって一利なしの一番の見本といってよいでしょう。

たばこの癖は酒以上にタチが悪く、一度吸うことを覚えると、余ほどの精神力がないかぎり、やめることは無理のようです。吸い込んだ煙が気管支から肺へかけてどんな影響を及ぼしているかを一度目の当たりにしたら、一ぺんに気分が悪くなり、吸うのが恐ろしくなります。

イヤ、そのことならよく知っている。命を縮めることも知っている。肺を痛めることも知っている。金のムダ使いであることも知っている。だが、だからといってタバコをやめようとは思わないという方は、どうぞお吸いになって下さい。知らずにやっていることならムリにもお止めしますが、百も承知のうえなら酒もタバコもどうぞお好きなようにやってください。所詮はあなた自身の問題ですから。

第9節 人間には自由意志というものがあるのでしょうか。それとも運命がキチンと定められているのでしょうか
自由意志と運命の問題についてはすでに数多くの本が書かれています。人間は将棋の駒のようなもので、何ものかによって一挙手一投足まで操られているのか。運命というものがキチンと定まっていて、芝居のように筋書きどおりに動くだけなのか。

インドなどではこの運命観が非常に強くて、貧民街などで見かける乞食はみな「自分は乞食の人生を運命づけられているのだ」と信じて、物乞い以上のことは何もしようとしません。

西洋にもこの種の運命諦観思想とでも言うべき思想を抱いている人は少なくないようです。若気の至りでついつい肉体関係にまで行ってしまった男女が「こうなるのも宿命だったんだ」などと真面目な顔をして言うらしいですが、好き合った者同士でやった楽しい体験を、なぜそう深刻に弁解しようとするのか、私にはわかりません。

なるほど、理屈を単純に組み立てればそういうことにならないこともないでしょう。つまり宇宙には凡てを支配する全知全能の神がいて、雀一羽、木の葉一枚といえどもその生死を見のがすことはないとなると、われわれ人間の生死もその神によって支配され身動きができないはずだというわけです。

が、これがあまりに単純な論理であることは、少しでも融通のきく頭の持ち主ならすぐわかるはずです。ナチス・ドイツのヒトラーが、神の与えた宿命によってあのような残虐行為をやったとはとても考えられないでしょう。

十三世紀から十九世紀にかけて続いたローマ・カトリックによる非道きわまる宗教裁判の犠牲者たちが全知全能の神の思し召しだったとは、まともな理性の持ち主には到底考えられないことです。

ではどうだというのか。宇宙は偶然の産物で目的も計画も無く、人間は何をしようと勝手にできているとでもいうつもりか。そうは言っておりません。

もしも私が精子と卵子の偶然の結合によって生産された気まぐれの産物だとすると、何のけじめもない無味乾燥な人生を送っていることになりましょう。「何をしようとオレの勝手だ」こういう人生観が生まれても仕方がないことになります。

結論を申しましょう。両方とも真理の半分しかとらえていません。宇宙には確かに厳然たる目的と計画があり摂理があります。好むと好まざるにかかわらず、あなたもその機構の中の一部であり、逃れようにも逃れられない宿命を負ってります。

たとえば、あなたは男性としての生を享け背は低く色浅黒く、髪の色も黒だとしましょう。これだけは変えようにも変えられますまい。

生まれついた国家、民族も生年月日も宿命といってよいでしょう。個性も霊格も前もって定まっています。それを進化向上させる目的をもってこの世に生まれ出て来たのです。

また、どういうタイプの人生を送るかも定まっています。寿命も定まっています。ビッコになるか、脳性マヒになるか、万能スポーツマンになるかも定まっています。頭の良し悪しも定まっています。人生の航路において遭遇する困難や事件などもあらかじめ定まっています。

実はこうした一定のワクの中で、あなた自身の自由意志が与えられているのです。これを大学生活にたとえれば容易に理解が行きます。

かりに、A大学のB学科に入ったとしましょう。その大学はいつ始業式があって、何年後に卒業するということが、あらかじめ定まっています。またその間に学ぶ教科の数、使用する教材、担当教師の顔ぶれ、試験の時期、休暇の日数等々もあらかじめわかっているわけです。

が、だからといって、学生に自由意思がないわけではないでしょう。つまり、真面目に出席しようが適当にさぼってデートを楽しもうが、学校側の知ったことではありますまい。試験でいい点を取るか悪い点を取るかも本人の努力次第でしょう。

人生もこれとまったく同じです。男女の別、顔の美醜、貧富の差、知能程度、性格、霊格、こうしたものは前もって定まっています。が、そうした条件のもとであなたがどういう人生を送るかは、あなた自身の自由意志の問題なのです。

第10節 私も死後生き続けるでしょうか
その通り。あなたも私も、そして人間すべてが一人の例外もなく死後も生き続けます。これは〝信仰〟ではなくて〝事実〟なのですからどうしようもありません。生きたくないといっても生きています。

洗礼を受ければ永遠の生命が与えられるとか、懺悔してかくかくしかじかの教義を信奉すれば天国へ行ける、とか言った説も誤りです。好むと好まざるとにかかわらず、人間はすべて現在の個性のまま死後も生き続けるのです。死んだと思っているのは肉体だけで、霊的なあなた、本当のあなたはちゃんと生きつづけております。意識も今のままです。

結局、自分だと思っていたこの肉体は実はただの道具であって、肉体と別個の存在である本当のあなたが肉体に宿って操縦していたのです。

ちょうど車を運転するのと同じです。車が故障して動かなくなったからといって、ドライバーが死んだわけではないでしょう。肉体をオーバーコートにたとえてもよいでしょう。温かい春になって、重くてきゅうくつなオーバーを脱ぎ棄てるように、肉体という鈍重な道具を地上に捨てていくのが死というわけです。

実は死後の世界にも何段階かの階梯があり、上には上があります。死んですぐの世界からもう一段高い世界へ進もうとした時、自分の経験不足、霊格の低さを自覚して、もう一度地上へ再生してくるかも知れません。あるいは地球以外の天体へ行くかもしれません。

再生して天才になるか低能児になるか、王子になるか乞食になるか、スポーツマンになるか身体障害者になるか、それは今から予想はできませんが、そんなことはどうでもいいのです。要はその人生から何を学ぶかということです。

たとえば、脳性マヒの人を見ると気の毒に思いますが、実はその肉体に宿っている霊は気の毒がっている人たちよりはるかに霊格が高くて、一層の進化のために敢えてそうした不自由な身体に宿って、そうしなくては得られない貴重な体験を積んでいるのかも知れません。

また金持ちをとかく羨ましがりますが、その人自身は実はその大金をどこまで有効に人のために使うかをテストされているのかも知れません。表面だけを見て羨ましがったり気の毒がったりするのは禁物です。人それぞれの霊格に似合った目的をもって生まれているのですから。

M・H・テスター