第7章 本当の財産とは
財産というと誰しもまず金銭を思い浮かべるが、お金だけが財産なのだろうか。イヤ、その前に、金がはたして財産と言えるだろうか。

実は本当の意味では財産とは言えないのである。金というのは物の価値を計る基準の一つであり、物をやり取りする際に使用される便宜上のものに過ぎない。

ちょっと考えれば分かることであるが、世の中には金という基準で計れない価値を持ったものが幾らでもある。健康の値段は幾らかと言われても困る。車いすの生活をしている億万長者は全財産を払ってもいいから歩けるようになりたいと思うであろう。

幸福は金では買えない。金と言うのは実際そんなものなのである。

古来、多くの人が財産とは何かという定義を試みている。私はすこし抽象的になるが〝これだけは絶対に必要だ〟と思うもの、それがその人にとっての財産であると定義したい。

具体的に言うと、たとえばアラビアの砂漠の遊牧民にとっては、金より何より〝水〟こそが絶対的な財産であろう。彼らにとって水道の話などはまさに魔法のランプ以上の夢物語と思えるであろう。

が、われわれ都会人にとって水道は正直言って涙が出るほど有難いものではない。

仮に、あなたがトランクにぎっしり札束を詰め込んで航海しているとしよう。盗まれては一大事と、夜もオチオチ眠れないかもしれない。

ところが途中で嵐に遭い、船が難破して無人島に流れ着いたとする。トランクはしっかりと握って離さなかったが、食べるものが無い。買う金は腐るほどあっても買うものが無いのだからどうしようもない。

一方、同じ島に流れ着いたもう一人は金は一銭も持たないが缶詰だけは離さなかった。空腹に耐えきれなくなったあなたは、その人を見て恐らくトランクの金ぜんぶと缶詰一箇でもいいから取引しようと思うに違いない。が、

相手は金をいくら貰っても缶詰はくれないであろう。金とはそんなものなのである。

別のたとえでいこう。ある夜あなたの家に泥棒が入ったとする。めぼしいものが無かったので壁に掛けてあった油絵を失敬した。逸品ではあるが、まだ保険はかけていなかった。結局あなたは金も、そして命の次に大切にしていた油絵も失ったことになる。

が、仮に油絵を医師の免状に置きかえて考えてみよう。その免状を手にするまでには数十年にわたる勉学と学費が掛かっていることは確かだが、あなたは同じように失意のドン底に落ちるだろうか。

おそらく平気なはずである。免状は複製ができるからである。ということは、学問や医師としての腕は盗もうにも盗めないということである。言いかえると、心の財産は金にはかえられないということである。

ここまで話を進めれば、私が本章で何を言わんとしているかがお分かりであろう。

生きていく上においてこれだけはどうしても要るもの、それがあなたの真の財産だとはいうものの、問題はその考え方である。あなたにとって絶対に必要なものとは何か。自分でよく考えてみる必要がありそうである。

金はたしかに必要である。金がなくては何一つ買えない。が、絶対的価値をもつものかどうかを考えてみると、決してそうでないことは今述べたとおりである。

私の知人に大金持ちが何人かいるが、普通の人に比べてはたして幸せな生活を送っているかというと決してそうではない。要するに、金は必要以上にもってもしょうがないということである。必要なだけの金を前章で述べたようなやり方で手にすることは結構であるが、金の魔力にとりつかれて金儲けの中毒にかからなければ幸いである。

一見すると、金持ちの生活はどことなく落ち着いた雰囲気があり、人間的にもいかにも出来た感じを与えるものであるが、実は金という化粧で装った見せかけだけの幸福である場合が多い。

化粧をはぎ落すと、そこには意外な内面、たとえば劣等感、家庭的不和、性格異常といったものが折り重なって存在し、陰うつこのうえない毎日を送っていることが多い。

金持ちを決して羨ましがってはいけない。金持ちは金持ちなりにその欲の代償を十分に支払わされているのである。「欲しいものは欲しいだけとるがよい。ただしそれだけのお代も頂戴しよう」これはスペインの古い話に出てくる神さまの言葉である。

こんな次第であるから金銭の話はこれきりやめにしよう。つまり財産のリストから金という文字を抹消していただきたいのである。大切な財産はほかにいくらでもある。

それを例によって、メモ用紙に列記してみてはどうだろうか。自分にとって命の次に大事だと思うものを正直にかいてみていただきたいのである。

ではここで本書をひとまず閉じて、いま言ったことを実行していただこう。


さて、うまく書けたであろうか。私は信じるほかないから正直に書かれたものと信じて話を進めよう。

では、今あなたが書いた財産目録の一つ一つに、次の判断基準を当ててみていただきたい。すなわち、それを財産とすることに良心の呵責を感じないか、ということである。

思うに現代人は、いい事はいい事、悪い事は悪い事として真っ正直に認めないで、何とか理屈をこねて弁解する傾向が強すぎるように思う。

盗み一つを例にとり上げて見ても、盗むことは理屈抜きに悪い事であるはずなのに、「盗みをさせるような状態にしておいた持ち主にも責任の一端がある」だの、「その子の生まれ育った環境に酌量の余地がある」だの、「遺伝的要因も考慮する必要がある」だのと、本人のみならず、まわりの者までが弁護する。弁護できなくなると物の考えが古くさいだの、若者の考えを理解していないだの、道徳観が反動的だのと屁理屈を並べる。

「黙らしゃい!」私だったらこう一喝したいところである。

人間には本能的に善悪を判断する能力が具わっている。盗むことが悪いことであり、無欲の愛が美しいものであることに何の理屈もないはずである。男女の別も年齢の差もない。いい事はいい事だからであり、悪いことは悪いことだから悪いのである。

が、この問題については別の章で詳しく扱うつもりであるから、ここではこれ以上のべまい。とにかくここではあなたの動機は何か、その動機にやましいところはないかという単純な判断基準を当てはめていただければよい。

前にも言ったとおり、お金が欲しいという欲求自体は決して悪ではない。生活をもっと楽しくしたい。生きるよろこびを心ゆくまで味わいたい。これは人間として自然な欲求であり、むしろ、そうでないといけないとも言える。

その手段として車がほしい。カラーテレビが欲しい。ヨットがほしい、プールを設けたい。そのほか人によって、それぞれの欲求をもつことは悪いことではない。

ある人は世界旅行が夢だという人もいるだろう。人気歌手となって、耳を聾せんばかりの拍手をあびてみたいと思っている若者もいるだろう。建築家になって、天にも届かんばかりの大ビルデングを建ててみたいと思っている建築家の学生もいるであろう。

医者になって、不幸な人々を救ってあげるのが念願だという医学生もいるだろう。

ベストセラーを書いてみたいという文学青年もいるかもしれない。カーレースで優勝してみたいという元気な若者もいるだろう。スイスに別荘を建て、思いきり豪華な設備を具えてみたいという贅沢な夢を抱いている人もいるだろう。

ところが、永年にわたって私がアンケートの形で大勢の人から聞いた「一番大切なもの」をまとめてみると次のような結果になったのである。

第一、健康であること。
第二、幸せであること。
第三、人に愛される人間であること。
第四、必要以上のお金があること。
第五、平穏無事であること。
第六、安全であること。

これがアンケートの結果であるが、あなたが書いたものと比べてどう思われるだろうか。

仮に、現在の生活が右の六項目の全部を満たしているとしよう。では、そのうちのどれか一つが欠けたらどうなるだろうか。素直に考えていただきたいのである。

たとえば、もし交通事故で半身不随になってしまったらどうだろう。ふとした過ちから後ろ指を指される人間になったらどうだろう。あるいは思いがけないことから暴力団に脅迫されるような事態になったら、日常生活はどうなるだろう。

自分は間違ってもそんなことにはならないなどと考えてはいけない。いつどんなことでこうした事態になるか、誰一人として予測できないのである。大したことは無かろうなどと多寡をくくってはいけない。人間としての幸せ、家庭の平和といったものが何を土台にして成り立っているかを真剣に考えてみなくてはいけない。

そこで、アンケートの結果をもう一度よく見ていただきたい。四番目を除いて、残り五項目はいずれも、さきに例としてあげた医師の免状と同じく、人から盗まれることも人から盗むことも出来ないものばかりであることに気づかれるであろう。

つまり目に見えない財産ばかりなのである。このうち健康についてはすでに述べた。四番目のお金のかせぎ方についても述べた。これから残る四つの財産について、どうすればそれが確保できるか、あるいは取り戻せるかという問題に進みたいと思う。

ダグラス・ジェロルドという人の書いたものに、
「幸せは我家の炉辺にはぐくまれるものである。よその庭から摘んでくるものではない」
という言葉がある。むベなるかなである。

仮に、あなたは今自分のことを幸せだと思えないとしよう。あなたはそれを環境のせいにしてはいないだろうか。たとえば車がないからとか、ステレオが買えないからなどと思ってはいないだろうか。金持ちと結婚しておれば、こんな惨めな思いをしなくてすんだろうに、などと思ってはいないだろうか。

知人の中にはタヒチ島に別荘を持っている者がいる。バハマ諸島にもっている者もいる。自分にもそんなことができればどんなにか幸せだろうに──そんな考えを抱いていないだろうか。

このほか、その人その人によってさまざまな夢があり、それが満たされないことを不孝の原因にしているのが大半であろう。

が、実際問題として幸福というのはそうした環境や持ち物とは殆ど関係がないのである。問題は心のもち方なのである。言いかえれば〝悟り〟である。金銭や物へのこだわりを捨てた無欲の心境になりさえすれば、どこにいても、何が無くても、幸せの気持ちをかみしめることができる。

逆に物へのこだわりが大きければ大きいほど、たとえ使い切れないほどの財産をもっていても、あるいは御殿のような屋敷に住んでいても、真の幸せは味わえるものではない。

「条件や環境は問題ではない。心の幸せに王様と家来の区別はない」

これはアレキサンダー・ポープという詩人の言葉である。幸せのカギは自分の心にあるということである。なるほど才能によって幸不幸が左右される場合もある。

画家、彫刻家、作曲家、声楽家、こうした人たちは自分の才能を発揮することによって成功している人たちと言える。が、人類全体の数からみれば、こうした人たちの占める割合はきわめて少ないはずである。大部分の人間は特殊な才能を持ち合わせないとみてよい。

だからこそ、そういったいわゆる芸術家が重宝されるのである。

もしもあなたが豊かな才能に恵まれ、金銭的にも不自由しないご身分であれば、それに越したことはない。心から祝福申しあげたい。

が、この種の本を読んでおられるからには、あなたも健康がすぐれないか、事業に失敗したか、貧乏をしているか、少なくとももう少し金が欲しいと思っておられる人であろうと想像する。そうして、そのことを不幸の言い訳にしておられるに違いない。

そういうあなたに、これから私が申し上げることを忠実に実行していただきたいのである。

まず鉛筆とメモ用紙を用意していただこう。その用紙に今あなたが持っている財産を一つ一つ書きしるしていただきたいのである。頭の中に思いうかべるだけではいけない。そういう横着をするからいけないのである。

几帳面に一つ一つ書き出してみることである。では私といっしょにやってみよう。

まずあなたは〝自由〟というかけがいのない財産がある。人に迷惑をかけないかぎり何をしようと何を信じようと自由である。全国民が例外なくこんな有難い財産を与えられている国は、世界広しといえどもそう多くはない。

次に雨露をしのげる〝家〟がある。寒さをしのげるだけの〝衣服〟がある。飢えをしのぐに足るだけの〝食べ物〟がある。これらもかけがいのない財産である。

このニ十世紀において、いまだに世界中いたるところで家もなく、ボロ着をきて食べ物をあさり歩いている動物同然の生活者が何百人もいることを知るべきである。

彼らは一生涯〝家〟と呼べるようなものをもつことなく終わる。食べることも、洗濯することも、それから排便することさえも〝屋根〟のあるところではできないのである。また〝満腹する〟ということがどんなことか知らない人が数知れないのである。

大都市のド真ん中で生活しながら、寝間で寝たこともないまま生涯を終えるのである。次に進もう。

あなたは〝学校教育〟を受けている。〝読み書き〟ができる。精神的に〝正常〟である。生きていく上において何一つ欠陥がない。人を愛し愛されることができる。なんと結構なことであろう。

正常な〝目〟があり〝耳〟がある。当たり前と思ってはいけない。当たり前のものがまともに揃っていない人が数知れないのである。

〝手足〟が二本ずつある。物が持てる。字が書ける。歩ける。跳べる。何と有難いことか。ちょっと拾いあげただけでも、あなたはこれだけの財産がある。人間の原点、つまり裸の自分に戻って素直に見つめてみると、この外にもまだまだ有難いことがたくさんあるはずである。

これほどの好条件に恵まれながら、あなたが生活のうえにおいて、あるいは仕事のうえにおいて失敗を繰り返し、あるいはまた自分のことを不孝な人間だと思うことが私には理解できないのである。やはりあなたは心の姿勢に問題があるのではなかろうか。

私は失敗したこと自体を責めるつもりはない。失敗は誰にでもある。仕事で成功した人、巨額の富を築いた人にも失敗の繰り返しがあったはずである。その失敗の積み重ねが成功の基礎を築いたともいえる。

が、彼が一般の人と異なるところは、失敗したあとの心の姿勢である。失敗しても失敗しても、積極的な前向きの姿勢を捨てなかった点である。たとえ話をしよう。

今どこかをドライブしているとしよう。やがてロータリーに差しかかった。どっちに行こうかと迷ったが、とにかくある方向へハンドルを切った。ところがそのコースを行くうちに、霧が出てきて視界が急に悪くなってきた。

しまったと思いながらも引き返すわけにもいかず、とにかく行けるところまで行こうと車を進めた。田舎道である。轍の跡を便りにノロノロ進むほかはない。

が霧はますます深くなり、やがてまったく視界がきかなくなって、止むなく停車した。

前方を見るとぼんやり何かが見える。車から出て近づいてみるとレンガ塀である。えらいことになってしまった。行き詰まりである。あなただったらどうするだろうか。成功者と失敗者との違いがはっきり現れるのがこんな時なのである。

仮に、A氏とB氏の場合を考えてみよう。A氏はレンガ塀のまわりをたんねんに調べ、どこかに抜け道は無かろうかと必死にさがす。何とか車の通れそうな小道をみつけて車を進めてみた。が、まずいことにドロ沼に車輪を取られてしまった。万事休すである。

A氏はあっさりと車を捨てて歩くことにした。「所詮オレは車をもつ柄じゃないんだ。これからは歩くことにしよう」とひとり言を言いながらトボトボと帰っていった。

一方B氏はレンガ塀があると知るなりすぐに車を逆戻りさせ、もとのロータリーのところまで戻って、そこで改めて方角を選んで車を走らせた。その道もどこかで行き止まりかもしれない。が、行き詰ったらまた引き返して別の道を行くであろう。

B氏の字引には〝失敗〟という文字がないのである。行き詰ったらすぐにやりかたを変えて新しい挑戦をこころみるのである。

人生の道、仕事の道においても、あなたはB氏のような積極的な姿勢で臨むことである。行き詰ったら、あきらめずに別の方向をこころみる。それがダメと知ったら、すぐまた別の方法で臨む。

こうしてあれこれとやり方を変えて挑戦することは、今さっき教えてあげたあなたの持てる財産のすべてをフルに発揮させるチャンスともなる。

財産はただ所有しているだけでは何にもならない。チャンスを与えてどしどし使用しなくてはいけない。要するに、エネルギッシュに活動することである。

米国の政治家ダニエル・ウェブスターも、
「失敗の要因は資本不足より大部分はやる気不足にある」と喝破している。

見方を変えれば、失敗は成功のための絶好の勉強材料である。成功から学ぶことは誰にでもできる。大切なことは失敗から学ぶことである。

さっきの例でいうと、この道はダメだと気づいたらすぐ元に戻って別の道を行くのである。同じ道でウロウロしていては、結局はドロ沼にはまり込んでニッチもサッチも行かなくなる。

車のたとえ話ではその愚かさがすぐにわかるが、事業においてはなかなか頭の切り換えができず、いつまでも同じ道で無駄な努力をくり返している人が実に多いのである。

そして結局はくたびれて、あきらめて、一切を投げ出してしまう。これまでのあなたはそんなタイプではなかったろうか。

これで成功者と失敗者の別れ目、ひいては冨者と貧者の分かれ目がはっきりと認識できたことと思う。要するに心の姿勢の問題なのである。前方に立ちはだかるレンガ塀を見て、一方は万事休すとあっさりあきらめ、他方はこれは道を間違えたと後戻りして、別の道を行こうとする。その違いが失敗と成功という形で現れ、ひいては財運を呼ぶ力の差となって表れる。もう一例あげて見よう。

ここに裕福で有能なビジネスマンがいるとしよう。一代で財を築き、プール付きの豪華な家に住み、子供は一流校に通っている。家族全員健康で、幸せで、何も言うことがない。

さて、この男が思いもよらぬ経済情勢の変化で一夜にして破産したとしよう。家をはじめ不動産一切を抵当に取られてしまった。自分のものと言えるのは妻と子供しかない。こうした事態に立ち至って二つの姿勢が考えられる。

一つは前の例と同じで、もうダメだと絶望する場合である。彼はこんな弱音を吐く。

「もうダメだ。何もかも失った。何か小さな職でも探そう。安月給でも何とか食べていければいい。子供には今の学校はやめてもらう。そして、この家を出て公営住宅に住むことにしよう。万事休すだ」こう観念することによって名実ともに万事休してしまう。

もう一つの姿勢はその正反対である。彼は毅然とした態度で妻にこう語る。

「気を落とすんじゃないぞ。破産したといっても、まだ我が家にはかけがいのない財産が残っているじゃないか。我々夫婦と可愛い子供たちだ。みんな元気だし、笑うことだってできるじゃないか。またオレたちには人生の悟りが出来ている。

素晴らしい友人がいる。こんな素敵な財産はないぞ。そのうえオレには昨日までとかわらぬ頭脳が具わっている。記憶力も衰えていない。あらゆる才能がそっくり残っている。

今度の失敗で大いに反省させられることはあったさ。が、オレは昨日までは成功者だったんだ。そのオレが今度の失敗で昨日よりはるかに大きな体験と教訓を身につけたんだ。成功しないはずがないじゃないか。オレは一からやりなおすぞ。

前よりずっと大きな成功を手にしてみせるぞ。心配せずに見ていてくれ」と。

なんという違いであろう。同じ才能の持ち主が前者の態度をとることによってみじめなほど小さな人間となってしまったのに対し、後者の態度をとることによって、さらに一段と大きな人間へと成長していく過程がよくわかっていただけると思う。

たいていの人間は持てる才能の一〇パーセントしか普段使用していない、というのが大脳生理学の結論である。ということは、使用されずに残っている才能が九十パーセントもあるということである。私が心の姿勢を積極的にせよと言うのは、その残された才能をフルに発揮させることになるからにほかならない。

つまり一つの失敗を才能の限界と観念せず、持てる潜在能力を引き出す絶好のチャンスと考えて、しくじるごとに意気を燃やして挑戦しろと言っているのである。

本当の意味での失敗と言えるものは存在しない。自分で失敗とキメつけることは実は環境や条件の不備にかこつけて、自分の努力不足、意志薄弱、信念欠如を弁解することにしかならない。

私の治療室を訪れていかにも自分が世界で一番不幸な人間であるかのように悩みを語る患者に対して、私はいつも例のヘレン・ケラー女史の話を持ち出すことにしている。

ご存知のとおり、ヘレン・ケラーは生れて数ヵ月にして完全なメクラでオシでツンボという三重苦の状態になってしまった。まったくこれは普通に言う「不自由」などという言葉では言いつくせる状態ではない。仮に、大人になってからでも大変なことである。

教養もひと通り身につけ、物とはどんな恰好をしているのか、花とはどんなに美しいものか、光とはどんな色をしているかといったことを知ったうえであれば、まだ不自由の度合いも違っていたであろう。

ところがヘレン・ケラーの場合はまだ自我意識の全然ない赤ん坊の時から三重苦を背負わされたのである。手で触ってみる以外には物を知る手段がまったくないのである。

光の明るさを知らない。花の美しさを知らない。人間の声も音楽も知らない。こうしたまったくの暗黒と無音の世界に育った彼女には、当然のことながら教養を得る手段は完全に封じられていた。

その彼女がサリバンという女性の献身的な努力で物に一つ一つ名前があることを知るようになり、次第に教養を身につけ、ついには、自分より恵まれている不具の人々の救済のために生涯を捧げたのである。

見えない、聞こえない、話せない、この絶望的とも言える三大苦を背負ったヘレン・ケラーでさえ自分のことを〝不幸な人間だ〟とは一言も言わなかった。

彼女は著書の中でこんなことを言っている。

「失敗は決して恥ずべきことではない。自己の個性の奥ふかく内在する宝を掘り起こす過程の一つにすぎない」

五体満足のわれわれこそ、もって銘すべき言葉である。

第8章 満ち足りた人生を送るには
生きるよろこび──これは人間のすべてが求めているといってよいであろう。あなたも例外ではないと思う。それで結構である。

では、一体満ち足りた人生とは何ぞやと聞かれると、これがまたなかなかの難問である。文豪エミール・ゾラはこう言っている。「もし、自分が新しい宗教を始めるとしたら、たった一つの教義しかつくらない。すなわち〝愉快に生きるべし〟」と。

金をしこたま貯めてロールスロイスを乗りまわし、地中海を望む別称を建て、美食のかぎりをつくし、豪華な衣服をまとい、給仕を置いて身のまわりの世話一切をやらせる。

こんな生活もなるほど面白いかもしれないが、果たしてこんな生活から真の生きるよろこびが得られるだろうか。こんな利己的な、そして物質に埋もれた生活に生甲斐が見出せるだろうか。答えはノーにきまっている。

前七章にわたる私の説に少しでも興味を感じられた方なら、こんな生活は一週間もしないうちにうんざりしてくるはずである。そして何かやり甲斐のある仕事はないものかと思いはじめるにきまっている。

奪うばかりで与えることのない生活は、大自然の法則に反しているからである。結局、このやり甲斐という言葉に、満ち足りた人生のカギが秘められているといってよい。

誰だって楽しいこと、ラクなことはイヤではない。晴れた日に家族連れで遊びに出かけたり、子供の誕生日とか両親の結婚記念日とかにどこかで御馳走を食べるとか、かねてから欲しい欲しいと思っていたものを買いに出かける。

といった種類のことは大いに結構なことであり、それなりの意義のあることである。

が、こうしたことを毎日のように続けたらどうだろう。アゴの落ちそうなご馳走でも、そう毎日食べさせられたらウンザリしてくるにきまっている。やはり普段は質素なものを食べて、時たまおいしいものを食べるからこそ、そのおいしさが身にしみるわけである。

英国の大思想家ジョン・スチュアート・ミルも著書の中で、

「私は幸福というものが、欲望を満足させることよりも欲望を控えることによって得られるものであることを、ようやく悟るようになった」

と述べているが、この言葉の意味がおわかりであろうか。これこそ、本当に悟りを開いた人の実感である。欲望を追求する意欲が足りなかったことに対する弁解の言葉などと思ってはいけない。

生きがいを感じる生活と言っても、その中身は人によって異なるであろう。あなたにはあなたなりの生きがいのある生活があり、それも年齢とともに変化していくであろう。

私も若い頃は高級車のベントリーに美人を乗せて、高級レストランへ連れていくのが夢だった。が、今はベントリーはあっても、乗ることはめったにない。

食事も肉親とは一切取らず、三度三度質素な菜食で、量も少ない。妻は背の高いブロンド美人だが、こうも三度三度一緒に食事をしていては・・・イヤ、余計な話はよそう。

とにかく生き甲斐の感じ方は人によって異なり、年齢とともに変化するものであるが、その根本において共通しているものが一つある。健康でなければならないということである。

海の好きな人は、たとえばヨットに乗って波間をただよっている時が一番生き甲斐を覚えるだろうが、泳げない人には海は生き甲斐の場所にはなり得ない。

山の好きな人は、はたから見て何であんな危険なことが面白いのかと思える山登りに真に生きていることの実感を味わうわけだが、高所恐怖症の人には山は縁はない。

何に生きがいを求めるにしても健康が第一の資本となる。健康を損ねたらおしまいである。と言っても私のいう健康とは病気をしていないといった消極的な意味での健康ではない。積極的に物事に挑戦していく力強い性格を生み出す健康体である。

が、このことに関してはすでに述べた。これからの話はそれを前提として進めていこう。

あなたは健康そのものである。悩みもない。過去への後悔もない。将来への不安もない。が、これだけでは地上生活を営めない。生きていくうえにおいて是非ともなくてはならないものとは何かを考えると、まず家が必要である。が、家といってもいろいろある。

カヤぶきの家でぱちぱちとマキの燃える暖炉のある家がいいという人もおれば、窓を開くと自動車の騒音が聞こえるセントラルヒーティング付きの大都会のマンションがいいという人もいるだろう。

一方キャラバンで放浪するのを理想の生き方と考える人もいるだろうし、山小屋の生活にたまらない魅力を覚える人もいる。要するに寝る場所があれば、外観がどんな恰好をしていようと、家は家である。

次に必要なのは衣服である。が、これまたその人の好みと生活環境の違いによって、いろいろと理想が異なる。山の中の生活と海辺の生活では着るものが大いに違ってくるし、大都会に住む人と田舎に住む人とでは自然に違いが生じてくる。

食べ物となるとなおさらである。毎日ビフテキを食べないと腹がおさまらない人がいるかと思うと、サラダを食べない日は何か忘れ物をしたみたいだという人もいる。

要するにタデ食う虫も好き好きで、はたからとやかく言うべき性質の問題ではない。

そうした好みの違いは生活環境や今まで辿ってきた人生の違いのあらわれであって、これも、これからの生活の変化によって年齢とともに変化していくであろう。が、どう変化しようと絶対に変わらないのは、人間生きていくうえにおいて衣食住が必要だという事実である。となると、それをまかなうだけのお金が必要となってくる。

そこで、あなたは人並みに働いて独立した経済生活を営む。やがて結婚する。子供ができる。するとあなた自身にいろんな好みがあるように、奥さんや子供にもいろいろと違った好みがあることが分かってくる。

乗り物一つをとっても、自分が自転車でいいと思っていても奥さんが乗用車を欲しがるかもしれないし、息子は乗馬がしたいと言い出すかもしれない。

音楽にしても、自分はレコードを聞くだけで満足していても娘はピアノを欲しがるかもしれないし、息子はギターを買えと言い張るかも知れない。

また、あなたは読書が趣味で、書物に取り囲まれている部屋が一番くつろぐといっても、奥さんは絵画のコレクションが趣味かもしれないし、子供たちはテレビを見ている時が一番おとなしいということもあるだろう。

このように好みの違いはどうしようもない問題であるが、ただ忘れてならないのは、今述べたような趣味や好みは本当の生き甲斐の源泉ではないということである。ただ単に、好きなことができるというのが生きがいではない。

では、本当の生きがいを生むものは何か。世界の哲人はこの点に関しては全く同じことを説いている。すなわち「真の生きがいは他人に対する愛と奉仕の精神から生まれるものである」と。

私は生まれつき現実ばなれのした〝きれいごと〟を並べるのは性に合わない。だからこそ当初から私は、理性の納得のいかない説は信じるなと大見得を切ってきた。

ここまで私の説に耳を傾けてくださったあなたは、多少なりとも私の説に〝筋〟を見いだして下さった方であろうと信じる。ならば、ついでにもう少しお付き合いねがって、この生き甲斐の問題についても私の説を信じてもらいたいのである。

決して絵に書いたモチのような話はしない。それなりの根拠があるからこそ堂々と説くのである。

さていよいよ本論に入るが、あなたが本当に生き甲斐のある人生を送りたいと願うなら、まず隣人のお付き合いが難しいものであることは私も認める。

善意が善意として通じない人がいることも知っている。無知な人、自己中心的な人がいて調和を乱しがちであることも知っている。しかし、だからといって善意を引っ込めてもよいという弁解は許されない。

物質の世界に絶対的な物理法則があるように、心の世界にも絶対不変の神の摂理がある。その一番の要となるのが愛であり善意なのである。イエスはこう言った。

「汝等たがいに愛を負うるのはほか何をも人に負うなかれ。人を愛する者は律法を全うするなり。・・・愛は律法の成就なり」(ロマ書第十三章)

このイエスのいう愛とは善意のことであり、法律とは神の摂理のことである。つまり人の道で一番大切なのは隣人に対する善意であり、これがひいては神の道に叶うのだというのである。物の考え方に相違があっても、善意さえあればお互いに理解し合うことはできるはずである。意見は違っても善意さえあれば仲良く生きていけるはずである。

このことは人間を一個の発電所に例えてみるとよくわかる。発電所というのは電気をこしらえて各方面へ送るところである。が、電気を貯えておくことはできない。

つまり発生した電気はドンドン使う必要がある。もし需要がおちれば出力を落として電力の発生を押さえなくてはいけない。さもないと、機械にムリがいって故障してしまう。全く需要が無くなれば、操業をストップしなくてはならない。

さて人間は発電所のようなものだといったが、人間が出すのはもちろん電力ではなく霊力である。その霊力の強さを表す単位はボルトやオームやワットではない。これがすなわち愛であり善意なのである。

あなたがその愛なり善意なりを接触する人ごとに施していけば、あなたという発電所はフル操業して霊力を生産することになり、そこに生きがいを感じることになる。

反対にあなたが自己中心的で、物質的にも精神的にも人に施すということをしない生活をしていると、これはつまり霊力の需要がないということであり、あなたは霊的な生産活動をストップしなければならなくなる。それは言い換えれば霊的な死を意味する。

あなたは操業を完全にストップした工場、あるいは廃業して野ざらしになっている工場を見たことがあるだろうか。何とも言えない、わびしい感じがするものである。愛も善意も忘れた人間は、たとえ肉体としては生きていても、霊的には野ざらし工場と同じく何の存在価値もない、わびしい存在となってしまう。

私はよく人と人生問題を議論する。議論とは私流に言わせれば脳の柔軟性であり、やったあと非常に気持ちがいい。もちろん、必ずしも意見の一致をみるとは限らない。が、私は何も相手を説き伏せるために議論するのではない。どんな考えをもっているかを知ろうとする態度で臨む。

一番多いのが「神なんか存在しない」という説である。われわれ人間はこの地球という天体に偶然に発生したのであって、目的も価値も人の道も神も摂理もない。死ねばそれでおしまいだ、という。

なるほど、こういう前提に立てば人間はまったく空しい存在であり、何を好んできまじめな人生を送るのかという考えも出てくる。「食べて飲んで遊んで、やりたいことをやって楽しまなきゃ損だ」という人生観が生まれても当然であり、それがその人にとっては満ち足りた人生なのだろう。

が、生憎と人生はそんな風には出来ていないのである。人間がこの世に生まれたことは厳とした目的があり意味がある。私の勝手な思惑や推量でそう言っているのではない。心霊学という学問によって、厳然たる事実のうえに立証されているのである。

「神は空間を嫌う」という言葉がある。無造作に散らばっているかに見える物的宇宙は実は寸分の狂いもない法則によって展開している。

同じように好き勝手動いているかに見えるわれわれ人間の世界も、実は一糸乱れぬ因果の法則によって支配されているのである。その人間世界の根源を支配しているのが愛であり、善意なのである。人間は互いに愛の施しをしなければならない。善意を出し合うことが人生を意義あらしめるのである。

人間は時として自分の殻に閉じこもりたくなるものである。こう人間の数が増えてくると、つき合いが煩わしくて利己的な考えに傾きやすくなるのも無理はない。

が、実は人間が多くなれば多くなるだけ、それだけお互いの依存度も高くなり、従ってなおさらお互いの立場を理解し合い、積極的に善意を施し合わねばならないのである。

つまり現代人の幸福は人間関係一つにかかっているといってよい。自分の殻に閉じこもることは他人との関係を嫌い、あるいは他人の存在を無視することであって、そこからは生き甲斐ある人生は出てこない。ただ欲が深まるだけである。

利己主義と我欲は不幸と病に通じ、無私と奉仕の精神は満ち足りた生活と健康に通じる。その原理は発電所のたとえでお分かりいただけたはずである。

あなたという霊的発電所は善意という名の霊力を自分以外の人々に送ることによって初めてその機能を正常に働かせ、従って故障という名の病も生じない。

「陰徳あれば陽報あり」と古えの聖賢も説いている。国際ロータリークラブの会長アーサー・シェルドンが協会のモットーとして考えた文句は結局 He Profits most who serves best. の六語につきた。これは「陰徳あれば陽報あり」と何ら変わるところはない。

本章は「満ち足りた人生を送るにはどうすればよいか」という問題を扱ってきた。そしてその答えは結局〝愛〟と〝奉仕〟の二語につきることを説いた。両者は車の両輪と同じで、一方があっても片方を欠いては十全とは言えない。

それは発電と送電に似ている。発電はしてもこれを各方面へ送電することをしなければ意味がないし、送電設備をそなえても発電しなければ何の役にも立たない。

それと同じで、いくら心が愛と慈悲に満ちていても、それを奉仕という形で他人に施さなければ意味がないし、奉仕奉仕と口で言っても、それに愛と善意がこもっていなければ奉仕にはならない。愛がすべての原動力であり、その愛の実践が奉仕なのである。

さて、これまで私は人間を一個の発電所にたとえて話をしてきた。あなたという発電所が愛という霊力を出し続けているかぎり、健康で満ち足りた生活を楽しむことができる。何事も善意に解釈し明るく受け止めるからである。

イヤなことが無いというのではない。誰にだってイヤなこと苦しいことはある。ただ、それを明るい広い心で受け止めるから〝悩む〟ということが無い。自分には立派な背後霊がついて決して悪いようにはしないという信念があるから、イライラしない。

が、もしあなたが思いがけない事件に巻き込まれて、心ならずもある人を憎むようになったらどうなるだろうか。発電所のたとえで言えば交流が突如として直流に変わったようなものである。電圧がニ四〇ボルトから一気に四五〇ボルトにあがる。

何の予告もなしにこんなに上がると、各方面に異常事態が発生する。つまり有難く受けていた側が、今度は実害をこうむることになる。人間の場合だと、憎しみの念が相手に伝わって精神的平和を乱すことになる。

電力の場合は多すぎるからといって余分の電力を発電所に送り返すわけにはいかないが、人間の場合は幸か不幸かそれが出来るのである。

できるというよりも、調和を乱すような念波をはね返す性質を備えているといった方がよいかもしれない。一種の拒絶反応である。

しかも、(ここが大切な点なのだが)返される時、はずみでその念が倍も三倍も勢いを増すという性質がある。つまり悪意、嫉妬、軽蔑心、こうした悪感情はみな倍加されて本人のところに戻ってくるのである。

愛情や善意を出し惜しみ、右のような悪感情をむき出しにする人は、自分が出した分量の倍、あるいはそれ以上の悪感情をみずから招いているようなものであり、それが健康に、あるいは精神面に測り知れない害悪を及ぼしている。調子を崩すだけではない。

実感としての痛みを覚えさせることもあり、ひどい時は死の原因となることすらある。日常生活の禍の殆どが、こうした自分が出した悪感情のお返しによって起きていることを知らねばならない。

我欲というのは恐ろしいものである。不幸、病気、犯罪の根本原因はことごとくこの我欲に捉われることから発生している。

この事実に気づかぬ人こそ本当の意味での無知な人、愚かな人というべきであり、力こそ善なりと信じ、金こそ全てだと思い込んでいる人こそ真の愚か者というべきである。

誰が言ったかは知らないが、「暴力とは無能な人が訴える最後の手段である」という言葉がある。また聖書には「剣に生くる者は剣にて滅ぶ」という意味の言葉がある。

悪意、憎悪、嫉妬、怒り等はたしかに一種の暴力である。いわば精神的暴力である。しかもその念はかならず自分のところに戻ってくるのである。それもただ戻ってくるのではない。はね返る時に勢いを増して戻ってくるというから恐ろしいのである。

では、もしあなたがそういう悪意の対象とされた場合はどうすべきか。成り行きに任せておけば、あなた自身の調和が乱されるばかりでなく、あなたがはね返す悪念で当人も傷ついていく。

自業自得だという考えかたもできるが、これは神を知った人間の考えとしては落第である。悪意には善意で返し、憎しみには愛で返してやるのが最高の心掛けである。

そんなわけにはいかない奴もいるヨ、とおっしゃりたいのではなかろうか。その気持ちもわかる。たしかに愛せない人、好意を向けたくない人がいるものである。が、そう思っているかぎり、あなたも相手と同じ次元から脱していないことになりはしないだろうか。

憎い相手を愛するのは、確かに難しい。が、「成らぬ堪忍するが堪忍」という諺と同じで、その難しいことを何とか実践しようと努力するところに、魂の成長もあるわけである。相手も神の子である。何か良いものをもっているはずである。その良い面を認めて慈しみの心を向けてやることである。

悪意に満ちた人間をなぜ慈しむ必要があるのかと思われるかもしれない。が、よく考えていただきたい。そういう人は悪感情に囚われているのである。

自分という小さな心の世界に閉じこもり正常な判断力を失って、低級な悪念のとりこになってしまっているからである。こう言う人こそ気の毒な人であり、外部からその悪念のカベを破ってやらねばならないのである。

あなたが受けた憎しみをそのまま返していたら、また戻ってくる。また返す、また戻ってくるというふうに、いつまでたっても悪循環は断ち切れない。お互いの傷つけ合いがいつまでも続くことになる。これは神を知る人間の賢明なやり方とはいえまい。

送られてきた悪感情をそっくり受けとめ、代わりに愛と善意の念を送り返してやることこそ、神の道に叶った心掛けである。

あいつはつまらん人間だという評価を下すのは極めて容易であり、あなたの立場も一応は弁護される。が、それでは次元が低すぎると言っているのである。もう一歩高い次元から見つめて、相手も神の子だ、何か良い面をもっているはずだという見方で臨めば、あなたも一段と霊的に高められると同時に、相手も暗い我欲の牢獄から救われることになる。

こんな話をご存知であろうか。ヒトラー政権化のドイツにおけるユニークな教育実験の話である。医学、遺伝子、育児学、栄養学、その他ありとあらゆる面で完璧な体制のもとで優秀な子供を育ててみようという実験的試みがなされた。

まず性格的に父親として母親として理想的と診断された健康な男女を集めて、理想的な自然環境のもとで結婚生活を送らせてみた。

やがて子供ができると育児専門家のもとにあずけられ、栄養、運動、情操教育に細心の注意をはらいながら育てられた。

が、実験は失敗した。予想とは正反対に、鈍感で元気のない、しかも知能的に意外に低い子が多すぎたのである。

その後、いろいろとその原因調査が行われ、その結果きわめて興味深い結論が出された。すなわち、その子供たちは受胎、出生、育児の各段階において最も大切な〝愛情〟という栄養が欠けていたということである。

科学の粋を集めて行われた育児も、親の愛情を補うことはできなかったわけである。

これに関連して思い起こすのは園芸の腕のことを英語で Green Fingers (緑の指)ということである。どうしてそう呼ぶようになったかというと、これが園芸家の植物に対する愛情と密接な関係があるのである。

つまり同じく花を栽培するにしても、我が子を育てるごとく、愛情をこめて手を加える人の指先は緑色をおびてくるというのである。このように育てられた花は生き生きとして、生け花にしても持ちがいい。反対に商売本位に量産することしか考えない人が栽培した花は生きが悪く、すぐしおれる。

そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、事実なのだから仕方がない。グリーン・フィンガーズという言葉がそれを雄弁に物語っているといえよう。

この事実はとりもなおさず、花にも愛情を感受する感受性が具わっていることを示すものであり、同時にまた、生命の発育にとって愛情というものがいかに大切であるかを示しているとも言える。むろん動物も同じであり、植物よりも反応が速くまた強烈である。

こうしたすばらしい威力をもつ愛が人間に通用しないはずはない。今もしあなたが自分のことを不幸だと思い、人生が面白くないと感じ、何とか生きがいある満ち足りた人生を送りたいと願うのなら、ただちにこの本を置いて外へ飛び出すがよい。

そして困っている人、気の毒な人のところへ行って、優しい言葉で助けになってあげることだ。一人暮らしの老人がいるであろう。見舞客の来ない病人がいるであろう。

イヤ、何も外へ出る必要はない。身内の人であなたが冷たく当っている人がいないだろうか。嫁につらく当ってはいないだろうか。姑にいじわるをしていないだろうか。もし心あたりがあれば、明日からと言わず今この時点から心を入れかえて、理屈も打算も抜きにして、ひたすら善意の心で優しくしてあげることだ。

あなたの、そうした〝人を美化する〟念波はかならずあなたのもとに帰ってくる。倍も三倍も威力を増して戻ってくる。いつしか、あなたはなぜか無性に楽しくなってくる。

生きていることが楽しくなってくる。あなたは真の生きがいを感じはじめたのである。

第9章 知恵を働かせるコツ
どういうわけか、人間は知恵というものを自分のそばに求めようとする傾向がある。困るとすぐ誰かのところを訪ねる。あるいは書物をひもとく。

なるほどそうすることによって何らかのアドバイスを得ることはできる。ある種の知恵を得ることも出来る。自分と同じ窮地において他人がどうしたかを知ることができて、参考にはなる。が、知恵は絶対に得られない。得られたと思うのは一種の錯覚である。

そもそも知恵とは、よそから借りられる性質のものではない。英知という人間のもつ最高の判断力の結果が知恵であり、その奥において霊的感受性と深くつながっている。

つまり本人にとって一番適切な知恵は、その人の霊的発達に応じた霊的感受性によって決まることであり、他人にとって最高の知恵が必ずしも自分にとって最高であるとはかぎらない。むしろ弊害をもたらすことすらある、ということである。

その意味で、本書も知恵の書ではない。私の個人的体験にもとづいて、この複雑な物質万能の世の中を生きていくうえでの物の考え方、心の持ち方を説いたものである。

もしも知恵を授けるつもりならば、「理性の納得のいかないことは信じるな」などとは言わないはずである。

人間は洋の東西を問わず、古来、心のよりどころとして何らかの宗教書を座右に置いてきた。キリスト教はバイブルを、ユダヤ教徒はタルマッドを、マホメット教はコーランを、仏教徒はお経を、といった具合である。

私は決してこの事実を無視するつもりはないし、悪いことだとも思わない。私が言いたいのは、そういった経典を唯一無二の絶対的な拠りどころとしてすがり、そこから有難い知恵を得たつもりでいても、実はそれは本当の意味での知恵となっていないことである。

それはあくまでも断片的な借り物であり、当人の表面的な判断力で選り出した他人の知恵であって、かならずしも当人の悩みの根本的解決とはならないということである。

知恵というのは、さきほども言ったように、本人の霊的な判断力の加味されたものでなくてはならない。あくまで本人の判断である。私が理性の納得のいかないことは信じるなと言い、証拠のあやふやなものは拠りどころとするなと言ったのはそのためである。

繰り返すが、私は聖典や経典を無視しろといっているのではない。それを絶対視してマルのみ込みする傾向を戒めているのである。聖典や経典自体は善でもなければ悪でもない。要は、それを読む人の心構えの問題である。

書かれてある語句を一つ一つ検討すると成るほどいいことを言っている。が、それをそのまま今のあなたに当てはめることには問題があると言っているのである。

では、いかなる態度で臨めばよいかということになるが、私はいつも「自分自身に忠実でありなさい」と説いている。自分自身に忠実ということは、我欲と、その我欲が生むところの悪感情を捨て切った、まるはだかのあなた自身に成り切ることである。

無我の境地に入れば、当然そこに背後霊のインスピレーションがひらめく。

無我の境地に入る方法はすでに、繰り返し説いたから詳しい説明は省こう。要するに静かな場所で心身ともにくつろいだ状態にして、今あなたがかかえている問題や要求を口頭で述べるのである。

では、そんな余裕のない時はどうすればよいのか。つまり、今すぐ判断を下さなければならないが家に帰ってくつろいでいる暇はない、というケースも確かにあり得る。

たとえば会社のミーティングの席上において、今まさに会社の命運を左右するような大問題について最終的な結論を出す段階に入った。その決定はあなたが下さなくてはならない。が、あなたにも自信はない。こんな時どうすればよいか。ということである。

こんな時はまず用紙に出席者の意見を列記する。そして、これこれの方法を採用した時はどちらにどれだけの損得があり、しかじかの方法を採用した時はどちらがどれだけの損得をこうむる、と言ったことを書き記す。それが出来たところで、ほんの一、二分黙アyする。

いかにコンピューターが発達した今日でも、人間のコンピューターほど早くて効率的なものはない。本当に我欲を棄て切り、無我の境地で精神を統一すれば、その時点における自然の策が一瞬のうちにひらめくはずである。

もしもひらめかなかったら、あるいはその策を採用してうまくいかなかったとしたら、その原因は精神の統一が充分でなかったか、それとも完全に無我になり切っていなかったかのいずれかである。自分個人としてはこうしたいのだが、といった欲がチラチラしているようでは、せっかくの背後からのインスピレーションも着色されてしまう。

精神統一には訓練が必要である。また我欲を捨てるということも容易なわざではない。が、是非ともやらなければならないことであり、習得すればこれほど価値あるわざはほかにないといってもよい。

思うに、現代人はいささかうぬぼれがすぎてはいないだろうか。科学者といい宗教家といい、もはや知るべきものはすべて知り尽くしたと言わんばかりの態度が見られる。

特に神学者は神について全てを知り尽くしたと豪語する。二千年前には神イエスを通じてすべての真理を人類にさずけてあると信じ、その後に出たいかなる啓示もみな悪魔のそそのかしによるものであり、神を冒pするものであるという。イヤ、二千年前ではなく五千年前だと主張する学者もいる。

そう主張する宗教学者に、私はわざとこんなことを言ってみることがある。「私にも神からの啓示があるんですよ。これまでの啓示はすべて間違いで人をあやまらせるものだと言うんですがね」と。すると、きまりきって「神を冒pするにもほどがあります」と言って、怒りの表情を見せる。が私に言わせれば、そういう宗教家こそ神を下らん存在になり下がらせている真の意味での冒涜者だと言いたいのである。

人間は貴賤上下の区別なく、みんな毎日のようにその人なりの啓示と指導を受けているのである。教会も寺院も神社もいらない。神はいついかなる場所にも存在し、チャンネルさえ合わせれば誰でもその啓示を受けることができる。

キリスト教は神をむやみに権力と威厳をふりかざす時代遅れの頑固おやじのようにしてしまっているが、これこそ冒pというべきではなかろうか。

科学者も似たり寄ったりの過ちを犯してきている。空を飛ぶ考えが持ち出された時、科学者たちは口を揃えて、もし人間が空を飛べるなら、神ははじめから翼をつけてくれていたはずだと一笑に付した。

自動車の計画が持ち出されると、一時間に三十キロものスピードで走られては目的地に着くまでに客はみんな死んでしまうよ、と言って取り合わなかった。

初めて蒸気船が大西洋を横断したと聞いた時、そんなはずはない、あの距離を渡るには船に積み込めないほどの燃料がいるはずだと言って信じようとしなかった。こんなバカバカしい話が実際にあったことを忘れてはいけない。現代でも心霊学に対してまったく同じような態度をとっているのである。

科学者に輪をかけて傲慢なのが医学界である。医学的に不治と診断され、病院を追い出された患者が日に何千人となく心霊治療家を訪れ、その殆どが全治している事実を今もって認めようとしない。

認めないだけならまだしも、心霊治療に協力した医者は即刻医師会の名簿から除名するという暴挙までするのであるから、もはや無知を通りこして罪悪と言わねばならない。

「天網恢々疎にして漏らさず」という。こうした真理への反逆はつまるところ物質主義と高慢と偏見の所作であり、真理への扉をみずから閉じるようなものである。

心の目を覚まし既成概念の牢獄を打ち破って、まったく新しい視野から自分自身を、そして人生全体を見直さないかぎり、真理の扉は開かれない。生涯を挫折と失意の繰り返しで終わることになる。

あなたは心の奥底では悪いことだと知りつつも、表面では適当な弁解をしているようなことはないだろうか。精神分析学ではこれを「事故妥協」と呼ぶ。つまり心の中で「まあいいじゃないか」と妥協してしまうことである。思い出すとどうもすっきりしない。

心のどこかにひっかかりがある。でもまあいいじゃないかと打ち消す。これがつまり自分自身に忠実でない証拠だと私は言うのであるが、そんな体験はあなたにはないだろうか。

本書は実践を説いた本である。お説教をしているのではない。どうやって実践すべきかを説いているつもりである。従ってもしも私の指摘が図星だと感じられたなら、これきりそんな都合のよい事故妥協などはやめて、真理に徹底的に忠実になっていただきたいのである。

今もし、何かの問題をかかえて判断に迷っているのなら、ただちにこの本を閉じて、その場で黙アyして心を空っぽにし、背後霊に知恵をお願いすることだ。

「たかが日常の問題でそう神だ仏だと大ゲサに言うこともはばかろう」とおっしゃる方がいるかもしれない。「常識で判断すればよいではないか。くるみを割るのに金庫破りの七つの道具を用意するようなマネはせんでもよい」とおっしゃる方がいるかもしれない。が、私はそうは思わない。

たかが日常の問題というが、日常の何でもない隣人関係にも、青少年犯罪を扱うとかわらぬ真剣さと知恵が必要なのである。神の真理は極大の世界だけでなく極微の世界にも行きわっており、小をおろそかにすることは大をおろそかにすることである。日常生活における善意の判断は生涯のかかった重大問題の判断にも影響を及ぼす。

詮じつめれば、人生百般の問題は道義心の問題の一つに帰着するのである。

いつだったか、テレビのインタビューで、ある商業銀行の頭取が語った言葉を今も覚えている。その頭取は人事問題については「処分は即座に、ただし事後処理は慎重に」ということをモットーにしていると話した。

たとえばセールス会社を経営していてセールス・マネージャーの腕が悪いことがはっきりしたとする。そんな際、彼だったら即刻クビにして敏腕家と置きかえるという。

何となれば、その会社の成功と、その会社とかかわりあっている無数の人々や家族の将来がその人にかかっているからだという。

ただし、彼はそのマネージャーをただクビにして放っておくことはしない。この仕事ならと思う仕事を世話するか、一年ないし二年間年金を支給するか、それとも責任賠償額とでもいうべきものを払って、とにかくその人が絶対生活に困らないようにしてあげるという。

そこに彼なりの道義心が働いているわけで、そういう細心な人だからこそ銀行家として成功しているのだと思う。

表面だけを見ると、人間の社会は確かに、複雑そうに見える。が、それは詮ずるところが我欲が絡まっているからにすぎないのであって、人間の原点である道義心に立ち返って真っ正直に判断すれば、すべては簡単に解決する。

我欲を捨て打算を捨て、裸の自分に立ち返って背後霊に知恵を乞うのである。そんな単純に割り切れるものではないとおっしゃるかも知れない。が、そう考える時のあなたは実は問題が割り切れないのではなくて、あなたの気持ちが割り切れないにすぎない。

つまり我欲を捨てきれないのである。損得の感情が働いているのである。

我欲を捨てて道義心に忠実になるには確かに勇気がいる。真に勇気のある人というのは、いついかなる時でも道義心という神の声に忠実に従える人のことである。

あなたにはあなたの人生があり、行く手には数々の問題が待ち受けているであろう。が、楽しいこと、素晴らしいことも待ちうけている。人生とはいわば旅である。道中にはいろんなことが起きる。危険な山道を通らねばならないこともあるし、ぬかるみもあろうし、嵐に遭うこともあろう。

そうかと思うと、歩きやすい平坦な道もある。素晴らしい景色をながめ、口笛を吹きながら歩く楽しい道中もあるであろう。そのうち道が四方に別れていて、道標も見当たらず、どっちへ行くべきか迷うこともあろう。たまたま運よくそのあたりに詳しい人に出合って迷わずに済むこともあるが、だれ一人聞く人がないこともあろう。

が、そんな時も少しもあわてることも心細がることもない。あなたには背後霊がついているではないか。我欲を捨てて打算を捨てて、道義の鏡をきれいにすることだ。

それには勇気がいる。思い切りがいる。が、それ以外に方法はない。しかもそれが一番神の道に叶った確かな方法でもあるのだ。