本書を訳し終えてしみじみと感じたことは、本物と言われ続けてきた新約聖書の影が薄くなったことである。実を言うと長年教会にたずさわってきた自分が、何故もっと早くこれに気が付かなかったかと考えてみた。聖書は余りにも人物を神格化しすぎたり、大事な部分を端折(はしょ)ったりしている。しかも肝心な霊的知識は稚気に過ぎている。
代表的な例を挙げてみよう。聖書はイエスの復活と昇天に全力を傾注して新約の要としている。しかしクレオパスはそんなことにはほとんど触れていない。余りにも教説が幼稚と思えたからであろう。
人間イエスは、十字架で殺され、一般人の一人としてユダヤ式に葬られたにも拘らず、死んだ直後のことを、病的と思える程に美化し、幼稚な形で神格化してしまったのである。スピリチュアリズムの立場から見れば、霊の抜け殻である肉体は例外なく土や灰になるのが当然であり、旧約聖書でさえ、冒頭で(創世記)銘記している原理である。
それを殊更に、イエスは肉体ごと復活したと大騒ぎすることは余りにも幼稚で痛々しい。愛する人を失った者たちの深い悲しみの反動として、イエスを埋葬した墓にまつわる一連の幻想が、復活、昇天となって現れたものであると考えられる。
イエスご自身が口癖のように弟子たちに教えたことは、『私を信じる者は、たとい死んでも生きる』であった。
最も重要な生命現象の仕組みを懇切丁寧に教えているのである。肉体は土や灰になり、肉体の主人公である霊は肉体を離れ、霊界に於いて新しい生活を開始する、という明快な原理である。
このような本質を彼らが良く理解できなかったとすれば、我々の周囲でよく見受けられるように、死にまつわる悲しみと混乱が生じたとしても決して不思議ではあるまい。イエスはこのようなことを決して望んではいなかったと思う。
言葉では表現されてはいないが、クレオパスの記録は、そのことを鮮明に感じさせてくれる。イエスの死にまつわる幼稚な幻想物語を云々するよりも、『イエスが明らかにした真理(霊と真実〈まこと〉)』がどのようにして伝えられていったかという最も大切な事柄を検証する歴史として取り上げている。
クレオパスの視点に注意をはらって読んでいただきたい。その視点とは、イエスの後に従った弟子たち(使徒)、ことにパウロの正体をありのままにさらけ出していることである。
聖書では、パウロを伝道者の英雄のように描いているが、彼の全行動の因果関係は漠然として要領を得ない。
何故ステパノをあれほど憎んだのか、何故大祭司と組んだのか、何故エルサレムにやってきたのか等々、聖書の記述ではまったく不明である。クレオパスは、その肝心なパウロの人間像の裏表に容赦なく光をあてながら、イエスが心から知って欲しいと望んでいた真理を浮き彫りにしていく。
イエスの霊は、パウロが使命を果たし終えるまで執拗に手綱をゆるめず、しかもパウロが過去に蒔いた種を一つ残らず刈り取らせる試練の連続の中に、師と弟子、(イエスとパウロ)の強い協調関係(パートナーシップ)がにじみ出ているのである。痛々しいパウロ、情けないパウロ、いやらしいパウロ、異常的パウロといった赤裸々な人間像をさらけ出している。だからこそ、イエスの真理が一層際立って光り輝いている。
クレオパスの記録には、当時のことを「成る程」と思わせる説得力がある。聖書のような無理なこじつけや、押しつけがましい教条的表現がないからであろう。その点でも聖書は大半の魅力を失っている。つまり読んでもおもろくない。クレオパスが提供した記録は分量が多くて、とても一冊には治まらない。おそらく四冊くらいになる計算である。
だからこそイエスの真理を学びたい者にとっては貴重な資料になる。パウロを英雄視させるためのものではなく、教会を創設した功績を弟子たちに与えるためのものでもない。新鮮なイエスの真理を学びとらせるためのものである。
現今の教会は、皮肉にもイエスが葬られた翌朝、墓にやってきた女たちに天使が言った言葉、『あなた方は、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。その方はそこにはおられない』(ルカ、二四‐五)の通りになってしまったのである。
最後に一つ触れておきたいことがある。
この霊界通信を受けて記述したカミンズ女史は、序文でも編纂者が触れているように、キリスト教とは全く無縁のアイルランド人である。聖書を読んだこともなく、パレスチナに行ったこともなく、教会とは全く無関係であった人物が、どうして専門家をも驚愕させる史実が書けるのだろうか。
彼女の記述をチェックする証人として同席したギブス女史もまた然りである。ギブス女史も全く教会とは無縁の者である。世間には霊示された内容の信憑性をチェックしようもないいいかげんなものが氾濫している。
それなればこそ本書の真価がますます高められるというものである。その筋の多くの専門家によって内容がつぶさにチェックされているからである。その点で心底から敬服させられることは、『霊界通信の威力』である。
微力ながら同じ著者の「イエスの少年時代」を翻訳した時にも同じことを感じさられた。しかし本書は単なる偉人伝ではなく、多くの人間が、様々な場所で実際に行動した記録が中心であって、その歴史性にかなりの重点が置かれているだけに、いいかげんな霊示ではすまされない性格を持っている。
時代的背景、地名、人名、社会的構造、生活様式など、あらゆる分野の専門家(主として神学者、歴史学者、言語学者等)が知識を寄せ合っても、未だに分からないことが少なくないのに、たった一人の女史の手でどうしてこのような記述が出来るのであろうか、本物の霊界通信の偉大さに、ただただ敬服するのみである。
このような形で霊の実在を信じることができることは実にすばらしいことであると思う。超常現象や奇跡によって霊界のことを信じる者は少なくないであろうが、どうしても霊現象に対して正しい識別能力に欠ける傾向があるように思われる。分かりやすく言えば、ミソもクソも一緒くたになっているのではないかということである。
そこへ行くと確実に存在したカミンズ女史と誠実に生きた彼女の生涯を知ることによって、人智では測り知ることのできない霊の偉大さに直面させられ、自然に受け入れられるようになる、つまり、理性でしっかりと受け止め、理解できる道が備えられているということに大きな喜びを感じるのは、私だけであろうか。霊界の深いご配慮に感謝している。
欧米で過去に一大センセーションを巻き起こしたといわれる本書の日本版を世に送り出すことができることを光栄に思う。日本ではセンセーションを引き起こす素地があるかどうかは知らないが、少なくともイエスの真理を真剣に求めている真の〝求道者〟のためには少なからず貢献できると信じている。
今春出版された『イエスの少年時代』の姉妹編として大いに役立つと思う。真理は、水と同じく、低きに流れていくものである。イエスの名言中の名言であるように、幼子のようにならなければ、天国に入ることはできない。
幼子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉い(マタイ、18‐3)であるから、あらゆる先入観、あらゆる偏見、あらゆる教説をいったん棚に上げ、偉大なる霊覚者クレオパスの提言に耳を傾けていただけるならば私の本懐である。このような高貴な文献を贈呈して下さった近藤千雄氏、並びに出版の労を惜しみ無くとって下さった潮文社の小島社長に心から感謝する次第である。