第1章 ペテロの試練
私はキリストがよみがえった直後の驚くべき事柄を伝えるために参った者である。
イエスの弟子たちは、しばらくの間ひどく悩まされていた。それは誠に地獄のような苦しみであった。しかし互いに隠忍自重して、努めて明るく振る舞っていた。十一人の弟子たちは、それぞれ残忍な悪霊に責められていた。
彼らは聖なるお方をお迎えするために、祈りと瞑想に専念するように師(イエス)より言われていた。それで彼らは内からも外からも様々な試練にさらされていたのである。
そんなある日のこと、サンヒドリン(最高司法庁)及び大祭司(最高権限者)から数人の使者がおしのびで三人の弟子のところにやってきて、金貨やたくさんの贈り物を彼らの目の前に積み上げた。当時ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、信者の指導者として共同生活をしていた。三人は、一体これにはどんな意図が隠されているのかを話し合っていた。
夕方になって使者はようやく口を開き、「今よりキリストの名を口にして民衆の間に彼の教えを広めるようなことをしたら、当局の怒りを買うことになる」と言った。使者は大祭司が望んでいる事柄を伝え、「この金貨は、三人の指導者ペテロ、ヤコブ、ヨハネに贈られたものである」と言った。
ペテロは使者の言葉を聞きながら、師が最後に自分に言い残された言葉を思いうかべていた。
「私の小羊を養いなさい」(ヨハネ伝二十一章十五節)。この言葉は、まさに、このような情況に直面した時に最も大切な意味があることを知った。もし三人の羊飼い(指導者)が団結しなければ、多くの信者は散りじりに離散してしまうことは分かりきっていた。
ペテロは人間的にとても脆(もろ)いところがあったので、使者の言葉に少なからず動揺していた。もしも大祭司の意向に刃向かえば、どんなに痛い目にあわされるかを思いうかべていた。彼はヤコブとヨハネから少し離れて座っていた。
彼の心が揺らいでいることを察知した使者は、ペテロのところに近寄り、甘い言葉をささやいた。「私の小羊を養いなさい」という声が心に響きわたり、昔イエスを裏切った時に師が彼に見せた顔を思い出していた。その瞬間、彼は地上に卒倒した。ヤコブとヨハネは、彼が気絶したのかと思い、急いで彼を抱き起した。
ペテロは二人の手をふりはらい、大祭司の使者に向かって、「ここから出て行け! グズグズしてたらたたきつぶしてやるぞ!」と怒鳴った。使者は動こうとしないで、逆にペテロを脅し始めた。
それで生来気短なペテロは逆上し、使者の頭を殴りつけ、その部屋から追い出してしまった。「主の御名に誓って悪霊なんかの言うなりになるもんか!」と怒鳴り散らした。
ヤコブとヨハネは怒り狂っているペテロの手と口を押さえ、ほかの人々に知られないように努力した。突然ペテロは駆け出した。二人は彼の後を追い掛け、ついに暗い部屋の中で泣いている彼を見付けた。罪の苛責に苦しんでいたのである。彼は師の意に反して再び失敗し、指導者として全く恥ずかしいことをしてしまったことを嘆くのであった。
彼はヤコブとヨハネに対し、自分はもう異邦人にキリストを伝える資格はないので、他の弟子の家来にしてくれないかと懇願した。それをきいた二人は静かにペテロに行った。
「人間は誰でも心ひそかに恐れているものに腹を立てるものです。あなたは大祭司の使者に恐れをなしたので怒り狂っただけのことですよ。
でも大きな誘惑に打ち勝ったのですから、その罪は許されています。もう二度と失敗しないようにして下さい。このことは誰にも言いませんから、大祭司の使者がきたことも、あなたが怒り狂ったことも知られずにすむことでしょう」。
シモン・ペテロは、もう二度と怒り狂うことはしないと二人に固く誓った。三人は、そこから誰もいないところに行き、しばらくの間ペテロの罪を清める祈りをなし、師の約束(聖霊の降臨)の準備を続けた。
ペンテコステ(訳者註─五旬節といってイスラエル人が毎年行う三大祭りの一つで、麦の収穫を感謝する。さらに二個のパンを初穂として神に捧げる。イエスの時代には、十三歳以上の男子は全てエルサレムの神殿に参拝するのが義務であった。イエスは弟子たちに自分が去った直後には必ず聖霊を各人にさずけると約束した。それで教会はその日を以て教会の誕生記念日とした)
を数日前に控えた頃、三人の指導者は群れのところに戻ってきた。そして以前に申し合わせていたように、二階座敷が用意されていた。ペテロの心は非常に燃え上っていた。彼の罪は許され、二人の同僚に支えられていたからである。
そんなわけで、ペテロは怒りの罪を乗り越えることによって弟子の誰よりも最初に大きな奇跡を成し遂げることになったのである。それについては、聖書の使徒行伝、三章一節より十節に記されているとおりである。
ペテロのたった一言で全身麻痺の乞食が立ち上がり、神を称えながら神殿へ歩いて行ったのである。もし、この奇跡を聖書で読む時は、あの怒りの罪が許されたことに由来するものであることを覚えておいてもらいたい。
第2章 選ばれた弟子の横顔
聖霊降臨に関する証言は、弟子たちによって違っている。一人一人の精神構造や霊性に違いがあるからである。
一人として全く同じように造られている者はいないのである。御多聞にもれず、イエスの十二人の弟子も千差万別で、互いに違った者どうしで組み合わされることによって、一つの立派なパターンができあがるように選ばれていたのである。
師であるイエスは、安全に水上を運行する船は、一本の木材だけではなく、多くの木材を必要としていたことを承知していた。それで彼は意図的に十二人を選んだのである。霊的資質に優れているというだけではなく、この船は早晩彼の教えを満載して、異邦人の所へ運んでいく任務を帯びていたのであった。
第一の弟子は、『ヨハネ』である。彼が選ばれた理由は、一点の曇りのない透明な魂という容器に、純粋な霊の炎が燃え盛り、永遠に関する幻を見ることができたからである。彼は無知な人々に目に見えない多くの徴を与え、霊的知識を教えることができた。
第二の弟子は、『ヤコブ』である。彼はこの世俗な知識を豊富に持っており、冷静な判断をくだすことができる人物であった。彼はあらゆる点で工夫することに優れていたので、生活面や対人関係において他の弟子が大いに助けられていたのである。
第三の弟子は、『ペテロ』である。彼は一口に言えば、情熱家であった。彼の強烈な気質は、地上のすべてを焼き付くし、荒野の茨をも吹き飛ばしてしまう程の気概を持っていた。彼の人間的弱点もまた選びの対象となった。人は犯した罪を悔い改める時、何倍もの良い働きをするものである。これは主イエスに対する忠誠心につながっているのである。
第四の弟子は、『アンデレ』である。彼の長所は何事にも動じない胆力であった。その様は、あたかも夕べの湖面のように滑らかであった。
第五の弟子は、『ピリポ』である。彼は学識があり、柔軟性をふんだんに持っていたので、相談事があるたびに大いに役立ったのである。更に彼は、異国に対する恐れを持たず、諸国に関する知識や理解も豊富で、地の果てにまで出掛けて行くことができる人物であった。
第六の弟子は、『バルトロマイ、又の名をナタナエル』である。バルトロマイという名前は、彼がエジプトで生まれた時につけられたものであり、彼がユダヤ人社会に住みついてからナタナエルと呼ばれるようになった。彼は才知に優れ、教えることや布教することに大変熱心であった。しばしば挫折するのであるが、更にそれを乗り越える情熱をもって癒されるのであった。
第七の弟子は、『マタイ』である。彼は用心深く、口数が少なかったが、霊的なことに関しては非常に敏感であった。従ってどんなささいな疑問点でも応答できる人物であった。
第八の弟子は、『トマス』である。頑固が彼の代名詞である。まるでロバのようであった。いったんこうと決めたら自分の考えや主張は絶対に変えようとしない。しかし彼には思考力と強靭な独立心が備わっていたので、後日になって一人前の指導者として活躍し、イエスに対する信仰を固く保つ人物であった。
第九の弟子は、『アルパヨの息子ヤコブ』である。暖かい心の持ち主で、多くの弱い者の味方となった。彼の魂は同情心であふれていた。けれども生来小柄で、指導者としての力量はなかった。どちらかと言えば良き従僕であった。
第十の弟子は、『カナン人のシモン』である。働きが敏捷で、生き生きとしていた。不信な気持ちを粉砕する程の説得力を持っていた。しかし精神的には深みはなく、ときとして三人の指導者(ヤコブ、ペテロ、ヨハネ)から強引に知恵を引き出そうとした。それで三人のリーダーは、なるべくこの弟子から離れ、自分の努力で霊の知識を引き出せるように配慮した。
第十一の弟子は、『タダイ』である。彼は生来の分裂病者であった。ある時はとても用心深く冷静で、行動に適切な判断を下すことができた。しかし時として荒々しく熱狂的になり、めちゃくちゃになることがある。しかしこの性質が選びの対象となった。後日彼は獰猛な人々への布教に直面した時に、彼らに生きる灯を与え、焚火の残り火のような温もりを与え続ける役割を担ったのである。
最後は、『ユダ』である。決して彼を裁いてはならない。彼こそ別な目的のために選ばれたのである。最初イエスが彼と出会った時、この気難しい気質の男を、いつまでも縛っておくことができない人物であることを見抜いていた。
師を慕っている間は忠実であるが、師をとりまく連中をねたむようになるであろう。まさに彼は、自分の強い欲望によって師を裏切る者の一人として選ばれたのである。
裏切りというのは、昔から低い人間の徴候として運命ずけられてきたもので、愛の変形(類似)としてどこにでも見られるのであるが、実に不健康で、魔性の愛にほかならないものである。ユダの死後、彼の魂は暗闇の中にうごめいていて、悲哀と苦渋の中であえいでいるのである。
しかし自分の強烈な師への思慕が、あのような裏切りにつながっていたことを悟って悔い改める時が来るであろう。彼は決して金のために裏切ったのではない。彼は、ただ、師の一番弟子に他の者を任命した師への憎しみのために裏切ったのである。ユダは三人のリーダーの一人になりたかったのであるが、これを拒否されたのである。
第3章 マッテヤが選ばれる
十一人の弟子が何度も協議を重ねたが、まだ結論に達することができなかった。そこで彼らは納得がいくまでしばらくの間状況を見守ることにした。十二弟子は、師から霊感祈願の訓練をある程度受けてはいたものの、人間に適用する訓練は受けていなかった。それで彼らがその時どのようにしたかを伝授しよう。
まず彼らは一緒に集まり、一つのテーブルを囲んで座った。無言のうちに互いが手をつなぎ合い、光を求める祈りを心の中でとなえた。しばらくして手をはなすと、確かな兆しが現れた。それを何と表現したらよいかわからないが、とにかく光り輝く体(霊体)のようなものが十一人の肉体から出現したのである。
するとその光の体が次第にまざりあって肉眼には一つの純白な円柱のような形になり、彼らの頭上を越えて霧の中に消えていった。
一時間後、身動きひとつしないで導きの祈りを続けていた。これは人間の昏睡状態とは全く違うものである。もし眠っているとすれば誰かが夢を見て体を動かすとか、うわごとを言う筈である。やがて十一人の体が動き出した。
それはちょうど人間が死ぬときに霊体が肉体から離脱する際に見せる身震いであった。この場合は、離脱した霊体が再び肉体に舞い戻った時の身震いであった。体の震えが止んでから、彼らは深く息を吸い込んだ。それから一人ずつ立ち上がり、無言のまま部屋から出て行った。
ヨハネが一番最後に部屋から出ていった。彼は心身とも疲れきっていた。他の弟子もそうしたように、彼は誰からも煩わされないような静な場所を探した。もしこの時に誰かと接触しようものなら心身ともに傷つけられていたであろう。
新しい一人の弟子を補充するために、このような集まり(watch)があったということは誰にも知られていないことである。まして異邦人には、この無言のひとときを通じて十一人の弟子の心に「マッテヤ」というスペルが綴られていて、イスカリオテのユダの後継者の名前が知らされていたなどとはツユ知らぬことであった。理性には伏されていても、霊には見えていたのである。
十二番目の弟子の名は、あの光の体が弟子たちの体から抜け出した時に与えられていたのである。このことは頭では分かるものではない。従って規定に従ってくじを引くときに自然に引き出され明確になったものである。
これは決して協議を重ねて決められたものではない。例の集まりによる成果だったのである。この場合はどうしてもこのような集まりを開き、不思議な「光の体」の合体を必要としていたのである。そこでは、もはや十一人の弟子ではなく、全て一人になっていたのである。純白な一本の柱のようなものになれたお蔭である。
第4章 ペンテコステ(五旬節)
さて、ここでは聖霊降臨によって臆病風にふかれていた無知な人々が、いかに素晴らしい証言者となって師の教えを伝える者になったかをお話しよう。
ペンテコステの前夜は、それぞれが御互いに離れ離れになっていた。十二人の弟子はみな孤独の境遇に身を置いて悪霊の大軍から猛攻撃を受け、熾烈な戦いを展開していた。誰一人としてこの奇妙な戦いを避け得る者はいなかった。うすきみの悪い妖怪が襲ってきて大切な信仰心をもぎ取ろうと狙い撃ちするのであった。
その中にあって、ヨハネとペテロの二人だけがこの呪われた戦いをたやすく切り抜けることができた。ペテロが最後に悔い改めてからというものは、全く別人のように変わってしまい、彼の魂はまるで夜明けに咲いた花のように馨しかった。
そんなわけで、その夜は弟子たちにとってとても長く感じられた。しかし一人も戦いに敗れるものはいなかった。悪霊の大軍は早朝になってすっかり力を失っていた。一同は水で体を清めてから二階座敷に上がり、しばらくの間、師なるイエスに思いを馳せていた。彼らは立ったまま日の出を眺め、祈りをしながら心を清めていた。
最後の晩餐のとき、イエスが命じられたように、一同は聖卓を囲んで座った。つまりイエスを記念する行事である。彼らは聖体(イエスの体を象徴するパンのこと)に近寄った。一つのパンをみんなで分けあった後、一同は互いに手をつなぎ、師の約束された聖霊が降下するのを待っていた。突然不思議な変化が起こった。
部屋中が真っ暗になり、気体のようなものが彼らを覆った。光は吹き消され、どよめきが起こった。強い風が渦巻き、嵐のように彼らのまわりを吹き荒れた。光があらわれて舌のような形をした炎があらわれ、まるで真っ赤な花が咲いたように一人一人の弟子の頭上に灯った。
彼らの体は驚きにワナワナと震えていた。しかし恐怖ではなかった。ある者の目には、それが野に咲く百合の花のように純白のように映り、他の者には師の流された血のように真っ赤に映った。純白は清純をあらわし、赤は救いの徴であった。
十二人弟子は一瞬肉眼では見えない巻物が広げられているのを見た。その中にこれから起こることが記されていて、異邦人が必ず師の御言葉を受け入れることを告げていた。それが余りにも早い速度だったので、ある者はそれを覚えることができなかった。しかし霊の目で捕えていた。一同は言いようのない喜びにみたされていた。
更に頭上に止まっていた炎の花が空中高く昇り始めた。その時に、今まで分からなかった師の言葉が、まるで昼間の輝きのようにはっきりと意味をつかむことができた。
風は止んだ。十二人の頭上にあった炎も見えなくなっていた。二階座敷は静まりかえっていた。各々は今まで味わったことのない強烈な気力がみなぎっていることを感じた。
最初に沈黙を破ったのはペテロであった。彼はすっくと立ち上がり、大声を張りあげて預言者の言葉を話し出した。まるでスラスラと巻物でも読んでいるようであった。最初に預言者ヨエルの言葉(旧約聖書中の小預言書で、神の裁きが到来しつつあることを警告した)を引用し、神を知らない異邦人のために告げられて御言葉を語った。
『若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。そして多くの不思議と徴とがおこるであろう。〝日は闇に、月は血に変わるであろう〟とヨエルが言ったことは本当に実現するであろう。しかし私にはそれがいつ実現するかは分からない。聖霊の炎が燎原の火のごとく広がり、多くの夢や幻が与えられ、イスラエルの神の素晴らしい働きが示されるであろう。
その日を待ちなさい。イエスの再臨の日ではなく、アブラハムの子孫に約束された土地のように、異邦人に与えられる「約束の光」がやって来る日を待ちなさい。その日に、異邦人は霊の浴場で水浴を楽しみ、人々の魂を覆っていた闇は全く一時的に肉体を包んでいたものであることを悟り、人間は死んだ後もなお生きながらえるものであり、霊の炎を完全に消し去ることはできないことを知るに至るであろう。
私が今日、霊の目で見せられた巻物に記されていた人間の生死に関する内容について話して聞かせよう。これから先何世代もわたって、戦争や堕落が起こっていくが、キリストの霊が良き時代でも悪い時代でも人々の心に宿るようになり、少しずつ彼らを変えていくであろう。
しかし、又キリストの名を語ってサンタが大あばれする時がやってくるであろう。しかしお互いにしっかりと結び合っているならば、悪に巻き込まれることはない。霊言というものは、全く平等に与えられるものであって、誰よりも多くを所有できるというものではない。それは共通の宝物である。
我々十二人の弟子は、定められた日に霊の命令によって、どこにでも出かけて行こうとしているのである。(使徒行伝二章十七節──二十節参照)
聖霊を受けた後、弟子たちはエルサレム近郊に住むことになった。その理由は、この町には地の果てから多くの人々が集まっていたからである。彼らは鳥のようにイエスの教えを運んでくれるのである。弟子たちは張り切って遥かな異邦の地で働く準備をしていた。ペテロは雄弁に語り、弟子たちは聖霊の息吹を全身に受け、喜びに満たされていた。
第5章 ペテロの奇跡
さて、私は大きな力がペテロに与えられたことを話してみよう。
大祭司の家来が彼の所にやってきたときに、ペテロはイスカリオテのユダに劣らない失敗をやってしまったことは、前に述べた通りである。時として人間の弱点から、健全で頑強な精神が芽生えることがある。ペテロはまさしく心からの悔い改めによって、霊の力をいやが上にも発揮することになったのである。
聖霊降臨の日には、まだ誰にも霊力が与えられなかったのに、いちはやく彼には霊力がみなぎり、いの一番に口を開くことになったのである。
弟子のすべてに聖霊が満たされてから、一斉に立ち上がり、様々な国から商売をしにやって来た者や、過越の祭りにエルサレムへやって来た群衆に向かって話し出したのである。この時期には、親戚縁者が親しく再開するために遠くからはるばるやってくるのである。聖霊降臨もこの好機が選ばれた訳である。
群衆が最も度肝を抜かれたのは、十二人の弟子たちが全く無学であったのに、聞く者が属している国言葉で話し出したことであった。群衆の多くは外国からエルサレムに来ていた人である。
イエスの教えを自国語で聞けるとはまさに驚きであった。そんな訳で、弟子たちから聞いた「生命の君」(イエス)についての知識は、周りの国々にまで伝えられるようになったのである。
さて、ペテロはこの時期のエルサレムには、あらゆる遠いところから集まってきていることを知っていたので、主なる祈り、奇跡を行う力を乞い求めた。やがて彼の内部に霊力が満たされ、ついに「美しの門」(神殿回廊の門の一部で)、全然歩けなかった肢体障害者を治すことになったのである。この出来事はすぐに町中の話題になった。
しかしこんなことで驚いてはならない。これから行われようとしている奇跡のほんの始まりにすぎないのである。ペテロは続く七日の間、義憤が爆発したように、熱病で弱っている者を治し、生来の盲人の目を数多く直したのである。
この時に行われた癒やしは、ペテロの生涯はもちろんのこと、十二人の弟子たちの生涯にとって最も多く為された奇跡であった。なぜなら、この時ほど十二人の弟子が心を一つにしていた時がなかったからである。彼らの話によって、多くの人々の信仰が強められた。
この時の彼らの信仰は実に謙虚で純粋であった。ペテロは又多くの苦痛を取り除いてやった。彼の影に触れるだけでも病が軽くなり、危篤の病人が回復するのであった。このようなわけで、ペンテコステの祭りに続く数日は、実に「癒しの日々」と呼ばれていた。
ついに祭司やサドカイ派(ユダヤ教の一派で、パリサイ派と宗教的、政治的に対立した)の連中が協議を始めた。
その結果直ちに弟子たちの口を封じ、祭りが終わるまで監獄に入れて監禁しようということになった。そうすれば特にペテロが病人や瀕死の人々を治すことができなくなり、話題が広まることを防ぐことができるであろうと考えた。
この時期に、大祭司やサドカイ派の人たちが直接弟子たちに手を出さなかったのは、エルサレムにいた群衆が、暴動や流血沙汰を起こさないようにと配慮して、群集が散るまで待っていたからである。
第6章 大慌ての大祭司とペテロの奇跡
ここでは十二人の弟子たちの活躍振りを紹介してみよう。何しろ彼らの活躍はめざましく大木のように成長して全地にその影を覆う程になったのである。彼らの奇跡が余りにも目覚ましかったので、大祭司と神殿の総代が次のようにつぶやいた。
「これ以上続いたら、我々は手も足も出なくなってしまう」
彼らは懸命にペテロの行方を探し、彼を掴まえることができたが、犯罪人として扱うことができなかった。そこで彼らは神殿に近い大祭司の家にペテロを留め置くことにした。
大祭司は博学な人であったが、霊的な賜物は与えられていなかった。彼は昔から奇跡を起こしたり、病人を癒す力が欲しいと熱望していた。彼の名はアンナスであるが、一般にはハナンという名で知られていた。
神殿の総代は、キリストの教えが大衆の間に広がっていくのを恐れていた。それに対して大祭司は、あの無学な男が多くの病人を癒しては一身に栄光を集めているのが羨ましかった。
そこで、ある晩のこと、ペテロを呼んで言った。
「ペテロ君、どうだろうかね、ひとつこの神殿の中でうんと勉強してみたら。そうすれば、サンヒドリン(最高司法庁)の議員にでも取り立ててやるんだが。もしおまえさんが病人を治す奇跡の秘密をわしに打ち明けてくれれば何でも好きなものを進呈しようじゃないか」
ペテロは答えて言った。
「この御力は、私達の師イエス・キリストからいただくもので、私自身の力ではないんですよ。私は卑しい罪人にしか過ぎません。そのような私を主が選んで下さって、岩のくぼみのような私に御力の水をいっぱい注ぎ込んで下さったのです。それで渇いている者の喉を潤し、瀕死のものたちに生命力を与えるのです」
大祭司はペテロの言っていることを信じないで、あざけるように言った。
「おまえは、その力を隠者かエジプト人から教わったのであろう。おまえの手の一撃あるいは空中から癒しの気体を取りこむ術は決して奇跡ではないのだ。おまえは、きっと誰か賢人からそれを盗み取ったのだ」
ペテロは冷静に聞いていた。ハナンはペテロを責めて彼の顔をたたきのめした。しかしペテロは平然と構えていた。
夜通しハナンは怒り続けていたが、ついにペテロに哀願した。お願いだからおまえの秘密の力を賢者たちには教えないと約束してくれ、とも言った。夜があけてから、大祭司の頭にあることがひらめいた。もしも、ペテロを長老会議にひきずりだしたなら、恐れをなして、秘密をしゃべるかもしれないと考えた。
そこでペテロは使徒の代表者として長老たちの前に立たされた。当時の長老は大きな権力をにぎっており、巧妙な弁舌と凄みのきいた顔付とで、みんなに恐れられていた。
ぺテロは、彼らの面前に立たされても、何の質問もうけず、しばらくの間沈黙が続いた。
霊の恵みに満たされていたペテロは、おもむろに主イエスのことや、どのように死から蘇ったのかについて語りだした。長老たちは途中で止めさせようとしたが、ペテロは話しを止めようとしなかった。彼はさらに、自分は全く無学の者ではあるが、心の中にある神殿に貯えられている内的神秘の知識を持っていることを示した。ペテロは雄弁に訴えた。
「私はこのためにこそ大衆に訴えたいのです。私を行かせてください。そして、イエス・キリストの霊の光を一人でも多くの人々に広めたいのです」
長老たちは彼を黙らせようとして、彼を牢獄へ移した。ちょうどその時、外で騒ぎが起こった。牢獄の入口の近くで当時エルサレム在住のローマ人の娘が卒倒したからである。娘は寝台に寝かされた。まだ年が若いのに、手足が動かなくなってしまった。歩行不能者を治したことを信じない長老たちは、ペテロをあざ笑って言った。
「この娘を治してみろ! そうすればおまえが無駄口をたたいていた霊の恵みとやらを信じてやろうじゃないか」
しかし大祭司はそれを許さず、なおも牢獄の中に留置した。議論の末、彼らはクジを引いた。結局ペテロは失敗するだろうと思うものが大勢をしめ、直ちにペテロを娘の所に連行した。ペテロは両手で彼女の手を取り、彼女の目を覗きこんだ。彼女には信仰があり、ためらわずにペテロの顔を見上げた。
少女は言った。
「先生! 私は、あなたが願えばきっと治して下さることを存じております」
長老たちはみんな周りにやってきて、彼がしくじってうろたえるのを待っていた。しばらく沈黙が続いたが、突然、硬直した少女の体が動き出し、激しく震えた。まるで霊が少女の体の中に突入したようであった。彼女は大声で叫ぶと寝台から立ち上がり、ペテロの足元にひれ伏した。
「先生! 私は元気になりました!」
ペテロは再び両手で彼女の手を取り、地上から立ち上がらせてから言った。
「お嬢さん、私のような罪人を拝んではなりません。あなたを立ち上がらせた方は、〝生命の君〟と呼ばれるキリスト様なのです。治したのは私ではありません」
長老たちはびっくり仰天した。それと同時にローマ人の怒りをかうことを恐れた。それで彼らは、このことには全く関係がないという態度をとることにした。
少女はペテロを父のところに案内したいと申し出たが、ペテロは断った。
「私の仲間が待っていますので」と彼は言った。
群衆はペテロに挨拶しようと彼の周り集まってきた。この奇跡はまたたく間に鳥が飛ぶように早く広まった。お蔭でこの日にペテロは、イエスの教えについて多くのことを語ることができた。
さて、長老たちは、ペテロが大勝利をおさめ、ローマ人の少女を癒し、彼らを黙らせてしまったので、群集の動向を恐れた。長老たちの最後の頼みは、群集がペテロを責め立てることであったが、それとは逆に、彼らはユダヤに預言者が現れたと宣伝したのである。
長老たちは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を呼び出しこれからはあの犯罪者(イエスのこと)について一切口にすることは相成らぬと厳重に命じた。その理由は、早晩大きな騒動が起きて殺される羽目になるということであった。三人の弟子は口をそろえていった。
「そんなことはできません。誰もこれを止める力はありません。我々はただ聖霊がお告げになることを運ぶ器にすぎません。ですから渇きを覚えている人々にひろく行き渡るようになるでしょう」
三人の弟子は、ひどく当惑している長老たちのところから帰って来て、他の弟子たちと共に、更に徳を高めるために一生懸命に祈った。当時の教会という小舟は吹けば飛びそうな脆い状態であった。静けさの中に一陣の風が吹いてきて、地上が大きく揺れ動いた。ある弟子は、その中に師の面影を見た。
ペテロと主に愛された弟子(ヨハネ)は、これによって弟子全体が神に祝されており、主によって選ばれた道をつき進んでいることを感じとった。
第7章 アナニヤとサッピラの物語
アナニヤとサッピラという人物に関して、余り多くのことが記録されていないのは、それほど重要性がないと考えられていたからであろう。
そもそも十二使徒は、師より総てのものを共有するように教えられていた。ある者にとっては、とても辛いルールであり、ともすれば不満の種となった。そこでペテロは信者全員に招集をかけ、洗礼を受けた者はみんな集まった。
ペテロは口を開き、みんなキリスト・イエスに在って一つになるためには、このルールに従わなければならないと言明した。これに対して最も不満を持っていたアナニヤが呼び出され、文句があるなら自分の考えを言うように促された。彼は困ってしまい、ただ一言、みんなの意思に従うと答えた。ペテロは言った。
「この件に関しては、意志の問題ではなく、キリストへの忠誠が問われているのだ」
ペテロの放った言葉には強い響きがあり、アナニヤは臆病であったので弱々しい声で自分の全財産を捧げると約束した。
これで騒ぎは解決し、信者たちは全財産を十二弟子の所に持ってきて、一日に必要な分だけをうけとった。このことはたちまち評判となり、ある者はあざ笑ったが、たいていの人は、このやり方が徹底すれば誰も飢えたり不足することがなくなると言った。中には悪意に満ちた連中がいて、みんなが楽をしたがっているなどと悪宣伝をした。
ペテロに恨みをいだいたアナニヤは、ついに全財産を売る順番がやってきた。彼の財産は大きく莫大な金になった。アナニヤはイスラエルの議員のところに行って彼の不満をぶちまけた。
「あなたはキリスト教のルールをご存知ですか? 親子二代が汗水たらして築いた全財産を取りあげて、この国を倒そうと狙っているやからなんですよ。これは陰謀です。彼らはこの企みを隠すためにキリストという名を騙(かた)っているのです。巻き上げた金は乞食やドロボーにくばって味方を増やしているんです」
アナニヤの言い分を聞いた議員たちは互いに相談して、もう少し様子を見たいと言って取り合わなかったが、アナニヤが派手に造反を重ねるので、にっちもさっちも行かなくなってしまった。彼は気の弱い仲間を集めては不満の種をばらまき、ペテロ打倒の反乱を実行しようとした。
いよいよ予定されていた集会が始まろうとしていた。この場で彼はペテロと対立するつもりでいた。ペテロはすでにアナニヤが大きな態度でものを言うであろうと察知していた。
アナニヤは嘘つきというよりも更にたちが悪く、まるで草むらに隠れている毒蛇のような者であることも承知していた。
アナニヤに言いふくめられていた年輩の信者が、自分の全財産を弟子の足元に持ってきて、不満の火ぶたを切った。ペテロは大声をあげて叫んだ。
「アナニヤよ! さあ、ここにきて、お前の全財産をだしなさい!!」
アナニヤは、自分の差し出す分はとても少ないと言った。臆病な彼はわなわなと震えながら答えた。ペテロの鋭い視線を浴びてひどく狼狽した。ヤコブやヨハネは、アナニヤの心に悪魔が占領していることを知らなかった。ただペテロだけが霊の働きによって彼の裏切りを察知し、この集団を腐らせてしまう原因となることを知っていた。
もしこのような枝を切り取って焼き捨ててしまわなければ、樹木そのものが腐ってしまうのである。烈しい霊気がペテロを捕らえた。ペテロは、群れの立派な指導者であった。
一匹の狼が今や羊全体をむさぼり食おうとしていた。ペテロの心の中に義の炎が燃えさかり、彼の中でいやが上にも燃え上がった。
アナニヤの体のまわりに、突然冷たい空気が立ち込めてきた。それはまるで葬儀の時に使われる「きょうかたびら」(棺覆い)のように、彼をすっぽり包み込んでしまった。彼は次第に息ができなくなり、その場で死に絶えてしまった。
不満の声はどこへやら、部屋中は静まりかえった。アナニヤが全財産をごまかして、ほんの一部しか持ってこなかったことをペテロが見抜いたので、みんなは大いに恐れた。気の弱い信者たちは、アナニヤの悪行を知っており、だれ一人として口をきく者はいなかった。
そこでペテロは、改めて全財産を互いに分け合うルールがどんなに大切であるかを話して聞かせ、これを着実に実行することができれば、必ずこの地上に天国を実現すると訴えた。
この大事なルールに反抗したアナニヤは、天の王国実現を阻む悪魔の故に死なねばならなかったのである。
さて、彼の妻サッピラは美しい女であった。彼女は金使いが荒かった。それで彼女は夫を誘惑し、全財産を弟子に提供するなら、もう夫を愛さないと言っていた。ペテロはこの時も霊の力によって、この女の美しさに目がくらんで、アナニヤが正道をふみはずしてしまったことを知ることができた。
彼女は、おしゃべりと美貌を売り物に気の弱い信者たちの心を毒していたので、彼女をも滅ぼさねばならなかった。
サッピラは、きっと自分の夫が群れのリーダーとなって、大いなる勝利を収めてると思い、さっそうと会場に入ってきた。ペテロの顔を見て驚いた。ペテロの一言によって、彼女もたちどころに卒倒し、信者の面前で息絶えてしまった。若者たちが彼女の亡がらを運び去り、裏切り行為で息絶えた夫と同じ墓に葬られた。
初代教会では、この物語がしばしば語られた。それは、ペテロに癒しの奇跡よりももっと大きな霊力が与えられていて、彼が信者の頭として選ばれた者であることを示すためであった。
アナニヤとサッピラの死は、広く伝わっていった。中傷する者はいなくなり、権力者たちは彼らの動向を見守った。信者の数は日ごとに増えていった。それで財産を共有することは、彼らを支配する権威の一つとして受けとめられるようになった。ペンテコステの祭りの前までは、ペテロはそれほど恐れられてはいなかった。
彼は単に病気を治す預言者ぐらいに思われていて、権力者の間では彼についての評価が一致していなかった。
大祭司ハナンはひそかに領主、長老、商人たちを集め相談した。彼らはそろって弟子や信者の財産を共有しているのは、反乱を起こし国の権力を握ろうとしているのではないかと恐れた。このルールは、兄弟愛に基づくキリストの教えからきていることを知らず、反対に陰謀を隠す悪質なベールであると思いこんでいた。
そこで彼らは、キリスト教という新しい宗教をたたきつぶそうということで意見が一致した。しかし一般の民衆は、ペテロにもっとたくさんの奇跡を起こしてほしいと願っていた。イスラエルの議会は、ペテロを裁判にかけるために、サンヒドリンよりも強力な体制を作った。
領主や長老だけではなく、異邦人の力も投入した。このようにして権力者たちは、満を持してペテロと弟子たちを監禁した。
第8章 弟子たちの逮捕
アナニヤとサッピラの死によって信者の間に恐怖が広がった。物に執着のある者たちは互いに言った。
「これは実に厳しい掟である。へたをすると、我々も殺されてしまうかもしれない」
アナニヤとサッピラの件について世間では、彼らが財産の一部をごまかしてペテロに嘘をついていたので殺されてしまったと言い触らされていた。しかし真相は、アナニヤが大祭司と結託して教会を潰してしまおうという陰謀であったことを誰も知らなかった。ただ一人ペテロだけが、霊的洞察力によってこれを見破ったのである。
さて、その頃、ヨハネと称する者が三人もいた。長老ヨハネ、神秘家ヨハネ、そして学者ヨハネの三人とも聖者と仰がれていた人物であった。後世になって、この三人の聖者は同一名であったので、ごちゃごちゃになってしまった。
現今の聖書に多くを書き残しているのが神秘家ヨハネであるのに、長老と学者のヨハネと混同されている。
この三人の中で、学者ヨハネは学識が災いしてか、頭が混乱しペテロに攻め寄って抗議した。
「あなたがなさっていることは大変良くありません。弊害が大きいのです。絶望と隣り合わせにある恐怖心を煽ることは、死に値する罪であると思いませんか」彼は続けていった。
「私達の師キリスト様がなされた奇跡をお考えください。それによって汚れた霊どもが体内から追い出されて行ったではありませんか。あなたがアナニヤとサッピラになさったことは、殺害としか言えないじゃありませんか」
ペテロは動じなかった。しかし同時に、彼らをどうしても納得させなければならないこともよく承知していた。させなければ大きな誤解を生んで、多くの者を惑わせてしまうからである。
ペテロは答えて言った。
「霊の御導きが私の内側からわき起こってきて、あの二人の罪人を手厳しくやっつけてしまうよう誘導されたのです。彼らは、ひそかに弱いキリストの群れを破壊しようとたくらんでいたからです。それで私は主イエスの教えに従って、あの二人を抹殺したのです。その教えというのは、あなた方も主イエスから直接お聞きになったはずです。
『もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ込まれるより、片目になって命に入る方がよい』とね」(マタイ伝十八──九)
学者ヨハネは頭を下げ、ペテロを疑ったことを謝った。彼は、このことに関しては神の知恵に頼らず、人知に頼ったからであった。しかしこの教えには充分注意を払う必要があったことは言うまでもない。『片目を抜き出してすてなさい』という教えを真理に基づいて行われなければ、それこそ健康なものまでももぎ取ってしまう危険があるからである。
さて、ペテロはなおも多くの病人を治し、弟子たちは神殿の庭でイエスの教えを説いていた。それで続々と多くの人々が信者となり、聖霊の炎によって、いやが上にも燃えていた。その勢いには、大祭司でさえ為すべきすべを知らなかった。
弟子たちは、毎朝、日の出に祈ることにしていた。その時には、戸を全部閉めて、師イエスと共に祈り、常に新鮮な気持ちでイエスと共に過ごすのだった。この時だけは、一般の人は同席しなかったので、かえって兵隊が襲うのにとても好都合だった。
イスラエルの兵隊は戸をこじ開けて侵入し、槍でおどしながら弟子たちを留置場まで連行していった。彼らを牢獄に閉じ込めてから、神殿の総代は誰一人として刃向う者はいなかったことを大祭司に報告した。権力者たちはみんな喜んだ。これで、国が滅ぼされる心配がなくなったと思ったからである。
第9章 弟子たちの救出
ペテロと弟子たちは、狭い地下牢に投げ込まれていた。そこは不潔で薄暗く、いったん閉じ込められたら、人間の力では絶対に出ることのできない頑丈な戸がはめられていた。
ペテロは静かに祈ることを命じ、みんなから少し離れたところに座って、聖霊を呼び求める祈りを始めた。彼は聖霊の御助けにより、あの頑丈な戸が開かれる事を願い求めた。すると、前にも述べたことがあるように、例の光の体(霊体)が現れ、肉眼にかすかに見えるような形となってペテロの肉体の表面を覆った。
そのとたんペテロの体が地上に投げ出されて気絶してしまった。身動きひとつしなかったので、みんなは死んでしまったのかと思い近付こうとしたがペテロは死んでいないと言い、そこを動かないで静に祈り続けるように指示した。
霊の力は実に偉大なもので、我々に驚異の目を見はらせることがある。ペテロの体から、光の体と、それを覆っている複体(肉体と霊体とを結合させている接着剤のようなもの)が現れ、天使はそれと合体し、異常なパワーが溢れていた。天使はいきなり頑丈な戸をこじ開け、獄吏が騒ぎ出さないように、その場で立ったまま眠らせた。
戸が開かれても弟子たちはじっと動かないでいた。すべてペテロの指示に従っていたからである。
救出の段取りがすべて完了すると、天使の姿が消えた。冷気が辺りを覆い、体が震えた。聖なるお方の臨在を身近に体験したからであろう。それは鳥が飛ぶような一瞬の出来事であった。ペテロは立ち上がって、みんなについてくるように命じた。
彼らは前に進み、深く眠っている獄吏の横をすり抜け、牢獄の門の下をくぐり抜けて外に出ることができた。もう夜が明けていた。ペテロは体が大きく震えていた。余りにも偉大な奇跡をやってのけたからである。彼は油断せず、そのまま神殿へと進んで行った。多くの人は、弟子たちがそこにいるので非常に驚いた。
ペテロと弟子たちは、大声を張りあげて主を賛美し、主の教えを宣べ伝えていた。
第10章 ヤコブの活躍
当時の教会は、様々な誤解と不信が渦巻いていた。商人は教会の教理がむずかしく、金持ちから財産を巻き上げるたくらみだと誤解していた。また、祭司や長老は、自分たちの権威の座が揺らいでしまうのではないかと心配した。
「あの連中は、一体どうなるんだろうか」とお互いにささやいた。
「あいつらが、我々に代わって祭司になり、例の犯罪人(イエスのこと)の馬鹿げた話をして民衆をだますつもりなのだ。あいつらの秘密の力は、古代エジプトのものを盗んできたにちがいない。
それもエジプトの墓から癒しの秘密を盗んできたのだ。エジプトの墓には、モーセの時代に君臨していたパラオ(王)の亡がらが安置されており、頭の下に巻物があり、そこに秘密が記されているそうだ。
モーセもそこから秘密を教わり、それにイスラエルの神の力を加えたそうだ。でも、やつらの秘密の力とやらは、どうやら悪魔の仕業かもしれないな」
こんな風に、人々が集まるところでは、とりとめもないことが噂されていたのである。
さて、獄吏は選びぬかれた者ばかりで、弟子たちは牢獄の中に居るものとばかり思っていた。軍の将校が牢獄に急行して報告を受けた。
「夜明けにここを通った者は一人もおりません。我々は一晩中見守っておりました」と獄吏は報告した。
この報告を聞いて、神殿の総代は内心よろこんだ。彼はひょっとしたら奇跡が起こっているかもしれないと心配していたからである。
彼が牢獄に来て、中に入ってみて驚いた。なんとそこには人っ子一人見当たらないではないか。まるで砂漠のようであった。獄吏も中に入って驚いた。彼らは一睡もしないで見張っていたことを主張した。総代は頭に血がのぼった。
弟子たちは、もう神殿の庭で神の教えを説いており、更に聖霊のお助けによって牢獄から救出されたことを民衆に語っていた。総代は急いで将校を神殿に走らせた。彼らが神殿の庭に近付くと民衆は彼らに言った。
「おまえたちがこの聖人に手出しをしたら承知しないぞ! 石の雨を降らせるからな!」
一瞬そうぜんとなった。そこでペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が両手を挙げて静かにするように民衆を促した。静かになったところでペテロは総代に頭を下げて頼んだ。
「せっかくのチャンスですから、長老たちに教会の教えについて語ることを許して下さい。そうすればあなた方の手を煩わせないで自主するつもりです」と。
総代もそれがよかろうと言ったので、彼らは急いで集会所に行き、イスラエルの長老も同席した。
一同が中に入ると、戸が閉められ、権力者たちの態度が急変した。出方によっては告訴して、直ちに裁判にかけてやると脅された。
そこでヤコブが叫んだ。
「そんなことをしてごらんなさい。民衆が黙っちゃいませんよ!」
集会所の外では民衆が喚声をあげていた。権力者を憎む怨嗟(えんさ)の声であった。彼らは将校を押し退けて戸を破らんばかりの勢いであった。
大祭司が立ち上がる前に、弁護士が厳しい口調で弟子たちを非難しはじめた。
「おまえ達は国家を転覆させる陰謀をひそかに企てていた。それには、お前たちの仲間で陰謀に反対したアナニヤという良き証人がいる。彼から全財産を巻き上げようとし、貿易商からは物品をことごとく巻き上げ、商人からは倉の中のものを出させようとした。しかも共有財産の一部を乞食や泥棒に施して暴動を起こさせようとしていた。これはまさに国家の転覆を狙った陰謀である」
ヤコブは彼のずるい話法をよく承知していたので、彼は弁護士にアナニヤが財産提供に関する文書を彼に見せたのかと質問した。
彼はただ口頭でそれを聞いたと答えた。
ヤコブは大祭司に向かって言った。
「アナニヤを地獄から呼び戻してください。そうすればこの件に関する証拠が得られるでしょう」
弁護士がすかさず言った。
「おまえ達がその男を殺してしまったではないか」
ヤコブは叫んだ。
「嘘が自分を殺したのです。あんたも口をすべらして、彼の後に続かないように気をつけるがよい!」
この言葉に弁護士は身震いした。この聖人なら本当にそれができるかもしれないと思ったからである。それでもう二度と口を開かずおしだまってしまった。彼の両手は震え、顔面は蒼白となっていた。
ヤコブは落ち着きはらって語り始めた。一同はイスラエルで最もずるい弁護士を黙らせてしまったことに驚いた。ヤコブは雄弁に語りだした。まず財産の共有についての教えを説いた。
彼はキリストの言葉を引用し、これは国家の法律のようなものではないことを述べた。『カイザルのものはカイザルにささげなさい、しかし神のものは神にささげなさい』と言った言葉である。ヤコブは言った。
「イスラエルの人達よ、心に聖霊を迎えず、キリストの教えを受けていない者同士が、どんなに共有しようと努めても、失敗するであろう。せっかくの平等分配も空しくなってしまうであろう。それは欲望が前提になっていて、真理の御霊をもたないからである。それはただ混乱と騒ぎを招くだけである」
それにひきかえて、キリストの教会は、天の御国というイメージを目指しており、一人一人の心の中に「生命の君」(イエス)の教えをしっかりと持っている。その上イエスは地上に天の御国をうち建てて、霊による喜びが心の中に溢れるようにして下さったのである。
イエスに従う生活を始めると、ひとりでに美と真理の霊に導かれるようになるのである。
国家は国家であり、すべての人は国家の法律に従うべきである。しかし、心のうちに、キリストの恵みを持ち、真理の御霊に導かれるならば、御互いが本当の兄弟のようになり、心から財産をわけあうことができるのである。
彼らは平安に満たされ主の働きのためには超自然的な力が発揮されるようになるのである。このように教会の人々は、キリストの教えたルールを守り、慈愛にみち、貧しい兄弟たちを助け、すべてのものを愛によって分かち合っているのである。
世の中には、様々な組合や団体があるだろう。それらはみんな民間の権威者によって運営されており、それぞれの組合や団体には財産や役人がいるものである。
しかしキリストの教えに支えられている教会には、そんなものは無く、全く自発的に運営されている。教会には個人を縛りつけるような束縛はなく、男も女もみんな持ち物をなかよく分け合っているのである。持ち物だけではない。
様々な働きについても分け合っているのであるが、知恵の霊に満たされている聖徒が采配を振るっていて決してねたみが起こらないように配慮されているのである。人間にとって本当に必要なルールとは、野獣のように(欲望だけで)生きることから向上して、イエス・キリストの真理に生きようとすることである」
以上がヤコブが語った趣旨である。彼は聴衆に対して国家と教会を混同してはならない点を明確にした。
すなわち国家は、国民全体を保護するためにあるものであり、国民の共通の意思や願いに基づいて事を処理するところである。しかし教会は、内面生活(心)のために存在するもので、天の御国というイメージのもとにあるものである。従って教会は、決して国家をひっくりかえすような陰謀などとは関係なく、むしろ国家を強くするために存在していることを示したのである。
ヤコブの明確な説明によって、信者は満足し、市民として果たすべき貢物をカイザルに差し出す準備をした。