第31章 パリサイ人の不吉な夢
ろうそくの火が灯っている部屋の中で、パリサイ人はうろうろと歩き回っていた。彼の手と唇は常に忙しそうに動いていた。親しい律法学者や少年イエスが立っている前で、ぶつぶつ呟いていた。机の上には沢山の本が積んであった。パリサイ人は言った。
「平和について調べてみたが、この聖書からはなにも回答は得られなかった。一体どうしたらよいのじゃ。どんなふうに読んだらよいのじゃ。わが民族が異邦人に対して膝をかがめ、カイザルに頭を下げねばならないとは」
パリサイ人は不平をならしていた。そばにいた律法学者は、てっきり自分の主人であるこの方が少年イエスのことを嫌っていらいらしているのかと思った。彼は主人の耳元でささやいた。
「上さま、お心の中を隠さず御告げ下さい。この少年を部屋から追い払いましょうか?」
パリサイ人は立ち止ってイエスの方を眺め、ニヤリと笑った。
「乞食少年だと! ばかを言うでない。この方は計り知れない宝物の持ち主じゃ。しかもわしの不注意な発言を絶対外部に漏らさぬ立派な鍵を持っておられる方じゃ」
居合わせた律法学者は、次第にイエスの容貌から信頼と平和を感じとっていた。パリサイ人は大きな独りごとを言った。
「そうだ! 平和だ。我々が住む地上にかつて平和があっただろうか」
彼はきびしい調子で律法学者に言った。
「もう行ってよろしい。イエスよ! こっちに来て、わしのそばにかけなさい」律法学者は部屋のすみに行ったが、部屋から出ようとはしなかった。自分の主人が、神殿内をうろついていた少年を余りにも大切にするので、すっかりうろたえてしまった。イエスはパリサイ人の足元に座った。
このパリサイ人は豊富な知識を持ち、しかも「選民の旗手」とまで言われた程の人物であった。彼は大祭司の怒りやサンヒドリンの反対をものともせず、ローマに対して柔軟な姿勢をとり続けてきたからである。しかし彼を悩ませる問題が山積していた。
「外国の勢力が武器を持って我がユダヤ民族を征服してしまった。彼らは徹底的にローマ型に変革しようとしているのじゃ。だがのう、我がユダヤ民族は、たとえ捕虜になっても唯一の神への信仰は捨てないだろう。
我々にはメシヤが速やかにやってきて、ローマ人を我が領土から追い出し、我がユダヤ民族が地上を支配するという言い伝えがある。なあイエスよ、わしはこの祭りの間、二度も同じ夢を見たのじゃ。
一人の男がやってきて、わしを外へ連れ出し、エルサレムの街が見えるところまで行ったのじゃ。
空が白みかける頃、ものすごい光があらわれて、そこら中の景色が一色になってしまったのじゃ。わしがオリーブ山の頂上に立っていると、沢山の人が集まっているのが見えたのじゃ。戦いの叫び声が聞こえてきて、嘆きの声がみなぎり、死の翼がわしのそばを通り抜けていったのじゃ。
夜が明けると、あの死の翼が神殿めがけて突進し、金色の塔を粉々に破壊してしまうのじゃ。わしはそのものすごい光のことや、それがどこからやって来たのかを知るようになったのじゃ。高い天空に暗い穴が開いていて、そこから煙のようなものが舞い降りてきたのじゃが、実は、それが何と悪霊の頭ベルゼブルが率(ひき)いる軍団だったのじゃ。
夢の中の幻が段々と細くなってきて再び一本の大きな炎となり、天空に昇り消えていったと同時に、エルサレムの街やうごめく人々の姿も消えてしまったのじゃ。それからまた戦いの叫び声が聞こえ、ベルゼブルがあらわれおった。
この光景が際限なく繰り返されてから、遂に神殿の金色の屋根が吹きとんでしまい、大きな支柱は滅茶苦茶に崩れ落ち、祭壇が破壊され、大きな壁は粉みじんになり、全部地中にTまれてしまったのじゃ。イエスよ、この恐ろしい夢の解きあかしをしてくれないか」
暫くしてイエスは口を開いた。
「ラビ、その夢は神の御告げです。それは先生にとって悲しみではなく、平和の訪れです。世の終わりが近づいています。時が熟しているのです。メシヤが間もなく現れて、神の王国をお建てになるでしょう。その時が来たら、この神殿も、先生が夢でご覧になったように滅びてしまうのです。その夢はまさにその時が近づいていることの徴(シルシ)なのです」
「神殿が滅びるのは我々ユダヤ人が滅びること、いや、イスラエルの神への信仰が滅びることになりませんか?わしはなあ、この夢は、昔わしが怖れていたことが実現するのではないかと心配しとるんじゃ。つまり、我がユダヤ民族が滅びるのではなくて、異教徒にやっつけられて、異教の神々を拝まされるようになるということじゃ。
そんな夢にどうしてわしが落ち着いておられると思うのじゃ、それこそ大変な痛みなのじゃ」
イエスは続けて説明した。
「この夢はたしかに天国が間近に実現するという兆(きざ)しです。私の天の父上様が私にそのようにおっしゃっているのです。今の神殿が亡くなったあとには、人の手にて造られない神殿が、神の御手によって建てられ、わが民族の栄光になるであろうと、おっしゃっています」パリサイ人は驚いてイエスを睨みつけながら尋ねた。
「なんて変なことを言うのじゃ、手にて造らぬ神殿などあるものか。神殿が亡くなったらどうやって神を讃え崇めるのじゃ」
「それはちゃんと聖書に記されているじゃありませんか、〝主の民は牛のように閉じ込められ、荒廃と飢餓がやってくる。主の民は嘲けられ、拒否され、長老たちは刃にかけられる〟と。また別なところで預言者が言っているではありませんか。
苦難の後、これはおそらくローマの支配のことを言っているのだと思いますが、〝主なる神は再びシオン(エルサレムのこと)を建てられ、そこではもはや戦いも荒廃もなく、祭司や長老が人類を治めるであろう〟と。
その上、この預言者はすばらしいことを言っています。〝太陽はもはや昼間の光とはならず、月も我らを照らすあかりとはならない。主なる神御自身が永遠に我らを照らす光として輝き、栄光となる。嘆きの日が終わる時、あなたがたはその地を嗣ぐであろう〟と。(旧約聖書イザヤ書60・19~21)」
「それはそうだが、神殿が滅び、我々が飢え死にしたら、もう何もかもおしまいになるんじゃないか?」
「太陽が消え失せ、月も光も失うというのは、この世の終わりを指して言っているとお考えでしょうが、そうではないんですよ、先生! 預言者が選民イスラエルに約束したのは此の世のことではなく、破滅の後にやってくる〝神の国〟のことを指しているのです。
エルサレムが潔められ、民が救いに与るのは、全く新しい世界、新しい時代になされるのです。神御自身が光となって治められる王国は、此の世を超えた、天の御父の国なのです。
それは肉眼には映らず、霊眼で見ることの出来るすばらしい王国なのです。〝永遠の光のうちに過ごす〟と記されているように、神の光のうちに歩いている人間には、手で拵えたような鈍重な神殿はもう必要(いら)ないのです。
真理と愛のための殿堂といっても、手のかわりに理性よって、大工の道具や人力のかわりに霊の力によって建てられる殿堂です」パリサイ人は悲しそうに頭を振りながら言った。
「それはとても悲しい夢だね、イエス! でもわしはねえ、本気で考えているんだがね、ユダヤ人がみんな立ち上がって、ローマ人をわしらの領地からつまみ出したら、どんなに痛快なことじゃろう。わしは本当のところ、死んでからどうなるのかわからんのじゃ。
お前はきっとわしのことを頼りないと思っておるじゃろうが、預言者が言われたように、死の向こう側にはすばらしい王国が在ればどんなにうれしいことかのう。イスラエルはきっと今年の夏の終わり頃には萎れた草の葉のようになっちまうだろう。サドカイ人や大祭司などは、この国をローマに売り飛ばそうと虎視眈々としているようじゃ。
いずれ此の国は裏切られ、祖国の名も地上から抹殺されてしまうだろう。民衆が決起したら、彼らは反乱のかどで死刑にされたユダのように、みな殺しにされてしまうじゃろう」イエスは言った。
「ラビ! 剣をとる者は剣で滅びます」
「わかっとる。けれどもいったい救いはどこからやってくるのじゃ、一体全体!」
老賢者〝シケム〟は少年イエスを見つめながら優しく尋ねた。イエスはあたかも親が息子に対して同情を示すときの柔和な眼差で老賢者を眺めていた。老賢者は吃驚(びっく)りした。これでは、まるで立場が全く反対ではないかと思ったからである。
老賢者が若い長老の足元にひれ伏して、知恵と慰めを得ようとしているかのように振る舞っていたからである。
イエスが再び話しだすと、その声は以前にナザレの学校でこのパリサイ人の心を虜にしてしまったときの美しい旋律と同じように響き出した。
「ラビ! 僕がこうして座っていても、本当の僕のことがお見えにならないのです。先生が僕の頭に手をおき、僕が先生の手をつかんでいても、それが本当の僕ではないんです」
「お前は、何と馬鹿なことを言いだすんじゃ? わしは、ちゃんとお前が見えるし、うす暗いろうそくの光の中でもお前のことがはっきりわかっとるぞ」イエスはすかさず言った。
「ラビ! 僕の顔は、ただのお面(マスク)です。僕の手や頭は、被い(カバー)です。僕はこの頭や体でもありません。この手足でもないのです。本当の僕とは、ここに来いとか、あそこに行けとか、僕に指示を与える理性なんです。本当の僕とは、僕の唇を開いて話をさせたり、色々な言葉を出させる霊(スピリット)の力なんです。
でも先生の目にはその僕の本体(スピリット)は見えないのです。先生が僕のことが解るというのは、僕と話しているときに働く理性のおかげなのです。この体は本当の僕ではありません。本当の僕は、僕のことを動かしている支配者(スピリット)なんです。僕の言っていることに賛成していただけますか、先生」
「もちろんだよ、イエス! わしは、唯物主義のサドカイ人のやつらとはちがうからな、お前の言っていることはよくわかるとも、でもな、今は国民のことで悩まされ、神殿の崩壊という不吉な夢におびえているわしに、それがどんな助けになるんじゃ?」イエスは答えた。
「先生は目に見える外面的なものが崩壊することを恐れていらっしゃいます。外面(うわべ)だけのものはすべて失われていきます。人間の寿命は、せいぜい六十年くらいでしょう。でも魂の寿命はどれくらいでしょうか。
おそらく永遠ではないでしょうか。私たちが本当に神様から選ばれた民族であるならば、私たちは立派な神の子等ではありませんか。魂が永遠に生きながらえるということは、私たちの知識では捉えることができません。それを考えれば、地上のひとときに於ける<誇り>だの<権力>なんて一体何なんでしょうか?
地上のものはすべて溶けて亡くなってしまうものばかりです。ですから地上的な勝利だとか財産なんかに目を奪われてはなりません。それよりは盗人や征服者などのいない、したがって、戸に鍵をかけることも、逃げまわることも必要(いら)ない天に宝を積み上げようじゃありませんか」老賢者〝シケム〟は溜息をついて言った。
「せめても、わしが死ぬ前に、エルサレムを治めるイスラエルの救済者(メシヤ)をみたいもんじゃ。我がイスラエル民族だけが地上に正義の王国を築くことができると信じておるのじゃ。預言者もそう言ってるのだが、まさかSVを言ってるわけじゃあるまい」
「もちろんですとも、ラビ! 私たちが生きてる時にそれは実現すると思いますよ。誰が一体時の徴(しるし)を読みとることができるでしょうか。天の父なる神様が僕に告げて下さいました。
〝正義の王国は、ここにある、あそこにあるというふうに建てられるものではなく、人の心の中に築かれるものだ〟とおっしゃいました。別な言葉で言いますと、人の心の中に、愛と喜びの王国が築かれていなければ、決して神の王国は地上にやってこないということです」
イエスの話を聞いているうちに、このパリサイ人の心には、イエスのいだいている幻の意味が少しずつ解りかけてきた。彼はイエスの頭に手をおいて言った。
「本当にお前はわしの先生じゃ。一体どこからそんなすばらしい知恵を仕入れてきたのじゃ。ガリラヤには、これ程勝れた学者や長老がおらんのじゃないか」
「僕の知っていることは、みんな天のお父様からいただいたものなんです。ガリラヤの山々を、夜明けごろ歩き、お父様とお話するんです。天のお父様こそ僕の生命、力の泉なんです。だから僕はお父様と全くひとつになっているんです」
老賢者が優しくイエスに言った。
「明日の朝、わしと一緒に神殿に行こう。そして威張りくさっている律法学者たちに、お前の話を聞かせてやろう。彼らは、わしが今混乱したように、お前の話を聞いてきっと混乱するじゃろう」
民衆から最高の権威者として尊敬されてきたこの老賢者は、少年イエスの中に秘められている、あふれるような知恵に接し、小躍りした。その夜も次の日も、このパリサイ人は、まるで我が子のようにイエスと共にいる喜びを味わった。
自分の本当の息子に関しては、ただ悲しい思い出しか残っていなかった。彼の息子は、ユダに従って、ローマに敵対行為をとったため、あえなく死刑の露と消えていったからである。
第32章 私の息子をお返しください
ナザレの少年は神殿で語り始めた。その言葉は両刃の剣(つるぎ)のように鋭く、百戦錬磨の論客をへこましてしまった。最初のうちは陽気に話をしていたが、段々と学者たちが真剣になり、どんな注解書から引用しているかを質し始めた。イエスの返答が余りにも単純で意味深いので、居合わせた学者たちは、ただ感嘆するばかりであった。
二日目には、一人の長老がみんなと相談して、イエスを中央の石台の上に立たせて言った。
「もう我々は何を言ってもイエスにはかなわないので、もっと充分に時間をかけて彼の話を聴いてみたいと思う。それから彼の知恵について正当な判断をくだそうじゃないか」
老賢者たちは笑いながら同意した。心の中では、どうせこの小僧めがボロを出すに違いないと思っていたからである。質疑応答だけでは、その人の真意を理解することができない、演説させれば学識内容や欠点が顕れると考えたからである。しかしイエスは、全く怯む様子もなく、神の子として少年時代を過ごしてきたときに天の御父より示された人間の理性の働きのすばらしさについて語った。
聴衆は、ただただ舌をまくばかりであった。ある部分は、ラビ・ヒレル(当時尊敬されていた学者)の言葉に置き換えて彼らの理解を助けた。しかしイエスの話は、他の引用だの、参考資料だの、まわりくどいことが無く大胆に語ったのである。彼は次のように語った。
『天の王国は、畑に隠されている宝のようなものです。人がそれを発見すると、持っていた全財産を売り払ってその畑を買うのです。天の王国は、また、種子(たね)の中で一番小さな、ひとつぶの芥子種(からしだね)のようなものです。土に蒔かれて育つと、大きな木になって地上に陰を作って、鳥がかくれ家に利用できるほどになります』
イエスはこのように譬話を用いながら、深遠な意味を解き明かすのであった。天の王国は、善人の心に蒔かれると大きく育って大木となり、多くの人々がそこにやってきて慰めを得ることを示したのである。人間というものは、最初どんなに小さな存在であっても(芥子種のように)、偉大な存在になれることを説いたのである。
イエスは多くの知恵ある言葉を語った。並居る律法学者や権威者たちが、うっとりして彼の知恵に聴き入っていた。彼は疲れたように見える頃になって、遠くからこの様子を見ていたマリヤがヨセフに言った。
「ねえ、ヨセフ、イエスのところへ行きましょうよ。この人たちに息子だということを知らせてやりましょうよ」
「いや、だめだよ。おれの服と言葉の訛りで、すぐガリラヤの田舎者だということがばれてしまうから、いやなんだよ!」ヨセフはあとずさりをした。
マリヤはイエスを愛していたのでそんなことにはお構いなく、学者たちの間をくぐり抜けながら前の方へ進んで行った。彼らはそんなマリヤには気付かず、熱心に話し合っていた。マリヤは下からイエスの衣の裾を掴まえたが、イエスは全く気がつかなかった。マリヤは声を大きくして言った。
「息子よ! 私たちは三日間もお前を探しまわったんだよ! お前はどうして私たちをこんなひどい目にあわせるんですか?!」くるりとふりかえってイエスはマリヤを見つめていたが、イエスは全く見知らぬ人が居るように思えた。
彼の心は遠くにあって、偉大なラビを相手にしていたからである。イエスは即座につぶやいた。
『僕は今、天のお父様の仕事をしているのが解らないのですか!』この言葉にマリヤはがっくりして、そこにしゃがみこみ、泣きだしてしまった。白髪の大勢の賢者たちに圧倒されていたマリヤは、イエスの呟きの意味も解らずに、すっかり度肝をぬかれてしまったからである。例のパリサイ人〝シケム〟がやってきて言った。
「あなたがイエスのお母さんですか?」やさしく声をかけられたのでマリヤは胸をなでおろした。
「ああ、先生、私の息子をお返しください。私たちは空しい思いをしながら三日のあいだイエスを探し回ったのです。山のふもとにたむろしている盗賊に捕まって泥棒にでもなってしまったのかと心配してました」
パリサイ人は言った。
「彼はもう一日、イスラエルの偉大なる教師を務めるでしょう。それがすんでから、イスラエルの誇りと栄光という〝お土産品〟を添えてお返し致しましょう。ここにおられる大勢の学者、長老たちも、お父様の名誉をほめたたえるでしょう」こう言ってからパリサイ人はイエスに尋ねた。
「このまま、ずっとわしの家にとどまってもよいのじゃよ。それともガリラヤへ帰って御両親にお仕えするか、どうかね」
「先生、それはとても難しい質問ですね。でもやはり、先生の御指図に従います」暫く考えてからパリサイ人はゆっくりとした調子で話しだした。
「そうだなあ、もしお前がわしの家に止まって神殿の中で勉強を続けていったら、お前の磨ぎすまされた知恵をねたむやつがきっと出てくるじゃろう。それよりは、わしのシッポを脱がせた知恵をお前に授けられたガリラヤの山々に戻ったほうが、遥かに賢明じゃ、やっぱり帰りなさい! そして大人になるまでご両親に仕えるのじゃ。
その間にガリラヤの美しい湖や野山で、もっともっと輝くような知恵の宝を積み上げるのじゃ。そのかわり、大人になったら、必ずわしのところに来て、わしの息子になるのじゃぞ」
マリヤは怯えているヨセフをパリサイ人のところに連れてきた。この老賢者〝シケム〟は、マリヤとヨセフを自分の家に案内した。彼はこの家族のために、旅に必要なものを用意し沢山の御土産品を持たせた。彼はイエスのことを褒めちぎったので、ヨセフは感極まって地に平伏してしまった。
第33章 腹黒い教師の罠(わな)
流れゆく時間の扉に、誰も掛け金をおろすことは出来ない。ましてや、時代の変化や気まぐれを止めることはできない。
イエスがガリラヤに戻ってきて再び両親と一緒に暮らしていると、隣近所の人たちがみんな彼に好意をよせてきた。見ず知らずの者まで交際を求めてくる始末であった。それはエルサレムでのイエスの功績と名声が燎原(りょうげん)の火のごとくにナザレ中に知れわたったからである。
おまけに例のパリサイ人が、相当な金額を贈り、イエスが過酷な労働をしなくても、ゆったりと学ぶことが出来るように配慮してくれたのである。この特別な恩賜金の話は、イエスの名声をいやが上にも高くして、前に散々貶(ケナ)していた者までイエスを誉めるようになった。彼らはイエスのところにやってきて親友になってほしいと要求した。
それだけではなく、色々な相談事をもちこんできて、彼の話を熱心にきこうとした。単純な連中は、こんなにも態度を急変させる偽善者に対して目を白黒させていた。昔は散々馬鹿よばわりしていた者が、急にイエスのことを持ち上げるからである。こんな連中は、なんでもかんでも権威さえあればよいのである。
馬鹿呼ばわりを率先してやっていたナザレの律法学者、ベナーデルも例外ではなかった。何の躊躇(ためら)いもなく、大工の息子は必ず賢者になって、イスラエルの大先生になるであろうと宣伝した。さらに、相当な金額の恩賜金までもらったということで、ナザレの者はわれもわれもとイエスの友人になりたいと願い、それを自慢する程であった。
ヨセフの家族がエルサレムから戻ってきた一週間後に、学校の教師がヨセフの仕事場に姿をあらわした。ひねくれ者の教師が言った。
「ヨセフさん! 私はあなたの息子さんが大変な名誉を受けられたそうで、本当にうれしかったよ。ところでね、私は決して威張れるような者じゃないが、こういうのも何だが、イエスが示した知恵というのは、みんなこの私が教えこんだものなんだよ。彼が学校に通い始めた頃からずっと教えてきたのは、この私なんだよ。そうだろう。
言ってみれば、神殿に集まった学者先生たちを驚かせた知恵の言葉は、みんな私が教えてやったものなのさ! 私がイエスに教え、イエスがそれをものにして、学者先生たちの前で披露したというわけさ! ねえ、ヨセフさんよ、私はあなたから御礼を言ってもらうつもりはサラサラないんだよ。あなたの息子さんを通して与えられた名誉がうれしいだけなんだよ」
「いやいや、まことに先生のおかげですよ、あれは、何はともあれ、先生には深く感謝しておりますとも」
「私はね、ヨセフさん、褒美なんか欲しくて言ってるんじゃないんだよ。私は本当に不束者(フツツカモノ)なんだからね」
ヨセフはうろたえながら彼に尋ねた。
「ねえ先生、ちょっと教えていただきたいのですが・・・実は、イエスがエルサレムの神殿で、盛んに〝父親〟とか〝父上〟といったことを口にしていたのですが、この父親とは一体誰のことでしょうね? あんなに力ある知恵の言葉を授けた父親のことですよ。 この私でないことぐらい、よく解っているつもりですが」
「そのことだよ、ヨセフさん! そりゃ決まっているだろう! それは、ほれ、この私なんだよ! イエスはね、そんな回りくどいことを言っているが、私のことを誉めてくれたんだよ。知恵に関しては私が彼の父親同然なんだよ。
それとも誰かほかにそう呼べる人を知っているかね?」ヨセフはすっかり彼に乗せられてしまい、マリヤを呼んで教師をもてなすように言った。老獪(ろうかい)な偽善者は酒を飲まされ、陽気に振る舞った。そこにイエスが入ってきた。
「やあ、よくやったね、イエス!」と言いながら教師は彼に接吻して挨拶をした。彼は学校の生徒として実に勤勉であり、ガリラヤ中で最も賢い少年であると褒めあげた。イエスはひとことも言わず、この教師の顔を見つめていたが、くるりと背を向けて外に出て行こうとした。マリヤが呼び止めて言った。
「ねえ、イエス、エルサレムでお前がラビたちに話していた〝父親〟とは一体だれのことなの? 今ここではっきり言ってごらん。ここにいるお父様のことではないでしょう?」
「はい、そうではありません、お母様」ヨセフが口を入れた。
「やっぱりそうだろう。お前が隠したっておれにはちゃんとわかっているんだ。それはここに居られる先生のことだろう」ヨセフは上機嫌の教師を指差しながら言い放った。突然イエスの顔に怒りがこみ上げてきた。イエスは急いで教師の方にふり向くと、激しく教師を睨みつけて言った。
「あなたは、私がエルサレムでラビたちに申し上げた天のお父様と呼ばれたいですか?」
「もちろんだとも。どうしてそんな怖い顔をしているのだ? 私はとってもうれしいんだよ、お前が示した知恵の言葉は、みんな私のものであることをよくおぼえていてくれたね!」イエスは憤然として言った。
「偽善者は、ペチャクチャとよくお喋りするものです。偽善者がどんなに多くを語っても、それは全然知恵とは無関係なのです」イエスは、まるで他人がものをいっているような調子で続けた。
「私が言っているお父様とは、あなたのことではありません!! はっきり言っておきますが、あなたのその弛んだ唇でもの言う言葉はすべて、反対に、神の御名を汚しているのです。昔のあなたは、私を馬鹿者と呼んでいましたね。
そして今になって、馬鹿者である私の父親になりたいとおっしゃる・・・もし、本気でそんなことをおっしゃるんでしたら、何と恥しらずなことでしょう! 言うこと為すことすべてが、全く馬鹿げていると思いませんか! ガリラヤ中のどこを見回しても、私ほど愚鈍な子供は見当たらないと、あちこちで宣伝なさったことに対して、何と言い訳をなさるつもりですか? ぜひ聞きたいもんですね!」
ヨセフとマリヤは、息子の語気にすっかり圧倒されてしまい、口を大きくあけたまま、恐る恐る教師を見守るばかりであった。やおらヨセフが立ち上がって言った。
「イエス、お前は頭にきおったな! 何と馬鹿なことを言っているんだ! お前はこの先生を尊敬していないのか?」
「偽善を内に隠し持っている人間を尊敬するわけにはいきません。年令には関係ないのです。人はすべて素直で、真心を持っている人が敬われるのです。名声や財産によって言うことを捻じ曲げるのは最低の人間です。
でもお母さん、烈しい口調で人を傷つけてしまって、ごめんなさい。でもこんなふうに、はっきりと教師に言えたことをうれしく思っています。どんな人間でも、蒔いた種は自分で刈り取らねばならないんですからね!」
こう言い残してイエスは戸口から出て行った。仔鹿のように素早く出て行ったので、ヨセフも止めることは出来なかった。教師の名誉は、これで無に帰してしまったのである。
第34章 野生の仔鹿のように
一日が暮れようとしていた。月が静かに湖の上に登ってきた。幼いヤコブは母と手をつなぎながら細い道を通り、藪のところで立ち止まった。ヤコブは鶫(つぐみ)のような鳥声をまねて、三回口笛を吹いた。
古い木の枝につかまっていたイエスが、マリヤ・クローパスの通る道に飛び降りてきた。静まりかえった中で突然枝の折れる音がしたので、マリヤ・クローパスは小さな悲鳴をあげた。彼女はイエスに言った。
「ねえ、ヤコブを許してあげてちょうだい。私が、いらいらしていたので、見るにみかねてお前の隠れ家に案内してくれたんだから」
「許すも何もありませんよ、でもどうして僕と逢いたかったんですか?」彼女は野性の仔鹿に口早に言った。
「とにかく私の言うことを聞いてちょうだい。ねえ、イエス。私はいつもあなたの味方なんだから」
「いいですよ伯母さん」
「お前のお母さんから聞いたんだけど、今日のお昼頃、学校の教師がやってきて、お前のことを褒めていたそうね。そこにお前が入ってきて、ヨセフが言うには、お前がとても生意気なことを言ったんだってね。お父さんはお前を見つけ次第教師の処に連れてって、教師に謝らせると言ってたよ」
「僕があの教師から学んだことは、苦痛に耐えることでした。でも知恵や知識は何ひとつ与えてくれませんでした。だから僕はあの教師を知恵の教師と呼んで嘘をつきたくないんですよ。どうしても言えというなら、僕は偽善者の父と呼びたいんです」
「まあ、なんとひどいことを言うのだね、お前は」
「時として、ひどい言葉によって治ることもあるんです」
「それはそうと、今晩お前が家に帰ると、お父さんは無理矢理にもお前を教師に謝らせるんじゃないかしら」
「僕は断然そんなまちがったことはやりません」
「でもね、イエス、お父さんのいうことを聞かないと、お母さんがとっても傷つくと思うのよ」
「お母さんは、できるだけ傷つけたくないと思っています。でも僕はこのことで屈服してしまったら、もうなにもかも駄目になってしまうんです。真理として大切にしてきた光、それはいつまでも消えることがなく、私たちすべての人々の心の中に灯されている光に対して大きな罪を犯してしまうのです」イエスは熱をこめて話した。すかさずマリヤ・クローパスが言った。
「お父さんを先ず大切にすべきじゃないの? これも天の神様の命令ではないのかい、イエス」イエスは黙ってしまった。胸のうちで苦しんで悩んでいた。あちこち歩き回り、足もとでカサカサと草や小枝の音がきこえていた。
「お父さんの言う通りにしたら、僕は罪を犯してしまうんだ。そうなったら何もかも他人の言うなりになってしまいます。僕の喜びも平和もふきとんでしまいます」
「お前の平和って何なの?」
「それは天の御父様の御心を行うことです」
「ねえ、イエス、もうそろそろ私にお前の本心を打ちあけてもいいんじゃない? お願いだから、他人には天の御父様のことを口にしないでちょうだい! そうでないと、今度はもっとひどい目にあうわよ。
ナザレの人たちはそれを狙っているのだわ。お前が今までのように天のお父様のことを言い続けたら、きっとお前のことをこの町から放り出し、お前の両親がとても恥ずかしい思いをするわよ」
「御忠告ありがとう、伯母さん。僕の言っていることが真実であると認められるのは、まだ先のことです。でも僕はこの件に関してお父さんの言いなりにはなりません。もう僕は学校には行きません。だから教師に対して謝罪したり、彼の虚栄心をくすぐるような〝偽り〟を犯さなくてもよいのです」
「ああ、なんて悲しいことを言うんだい。きっとヨセフはお前を折檻して、お母さんはますます苦しむことになるわ」
「もう私は家に帰りません。僕は森の中で暮らします」
「ねえ、私の家にいらっしゃいよ、私がお前をかくまってあげるわ」
「そんなことをしたら、お父さんが怒りますよ」
イエスは微笑みをうかべながら彼女に言った。イエスの顔からはもう厳しい表情が消えていた。マリヤ・クローパスは尋ねた。
「それもそうね。ヨセフを怒らしたら、主人も心おだやかじゃないわね。でもお前は今晩どこで寝るつもりかい?」
「狐には穴があります。鳥にも巣があります。でも僕には寝るところがないのですよ」
「やっぱりお父様のところに帰ったら」
「いいえ、それはできません。山の中で木の葉や草で自分の塒(ねぐら)を作ります。どうか心配なさらないでください。必ず旨くやりますから」
「でも山には食べ物に飢えた野獣がうろついているというじゃないか」
「僕はとてもすばしこいのです。それに僕には、あなたが聞こえない音でも聞くことができるんです。その音によって何がやってくるかがわかるんです。どんな鳥がとんでいるか、その大きさも、たけり狂っている野獣もわかります。
さらに羽をつけた昆虫や草むらの中を這いまわる蛇の言葉も解るんです。ちっとも心配はいりません。野の生き物はすべて私の友だちなんです。人間だけが僕を憎んでいるのです」
マリヤは長い間イエスと話してから、イエスに約束させた。一日の終わりには必ず逢うということを。マリヤ・クローパスはパンと肉を彼に与え、三人は寂しい場所であることを忘れてしまう程楽しく話しあった。
イエスは父ヨセフとぎくしゃくする前までは、とても快活で、話すときも朗らかで、よく冗談を飛ばしていたものである。それも思い出になってしまった。
三人が食べ終わると、イエスは口笛を吹き、歌った。森の音楽とでもいうか、野獣の声や、鳥の声などを上手にとり入れながら、うっとりとするようなメロディをマリヤ・クローパスとヤコブに聞かせた。彼女にとって自分の息子以上に可愛がってきた少年イエスと別れるのが辛かった。
遂に彼女は腰をあげ、月に照らされた小道を通って湖畔の方に向かって立ち去った。イエスは名残惜しそうに別れを告げ、茂った草原の中に二人の姿が消えるまで見送っていた。妻が居ないので、夫クローバスが探しにやってきた。
ちょうど曲がり角でばったりと出逢った。夫は彼女に小言を言ったが、彼女は弁解ひとつしないで、森の中の野生の仔鹿のことを包み隠さず彼に話してあげた。後になって、母マリヤも遠くから息子のことを見守っていたことがわかった。この二人の女は、くよくよ思っているヨセフの前では、なるべくイエスのことを話さないようにしていた。
第35章 自然を我が家に
初めのうちは,雨つゆをしのぐ納屋もない所で、星の真下でイエスは眠っていた。真っ暗闇の中で、たった一人で居ても彼は怖くなかった。蛍が飛び交って、イエスの頭上でダンスを踊っていた。
蝙蝠(こうもり)が羽をバタつかせながら飛び回り、哀れな鳴き声をたてながら藪から藪へと渡って行った。時折、動物たちが枝の間をざわつかせて歩き、目を覚ますこともあった。
初夏の夜は風もなく、平和な空気が大地や星空を覆っていた。イエスは急いでオリーブ畑のある険しい坂道を駆け上り、農家が点々と並んでいる地域から離れた荒野へ出てきた。彼はまだ薄暗いオークの森の中へ入っていった。
突然彼は立ち止った。ジャッカルの咆える声を耳にしたからである。そのうちに鳥たちが羽をばたつかせ、あたり一面を照らしていた月も雲におおわれて真暗になってしまった。その夜はいつもの緊張が緩んでいた。知恵の面では豊かでも、賢い少年は、すっかり子供に戻ってしまい、すすり泣きをしながら暗い木立の中でうろうろしていた。
彼はじっと息を殺しながら恐怖におびえ、葉のおい茂った小枝をつかみ、ちぢこまっていた。再びジャッカルが咆えだすと、今度は鳥の鳴き声は止まり、すべての生き物も鳴りを潜めてしまった。イエスは絶望しながら細々と口を動かした。<天に在(ましま)すお父様、悪魔から私をお救い下さい。今夜のような恐ろしい夜から私をお守りください>
暫くすると、心地よい一条の光が射しこんできた。遠くで輝いていた古参の星々は、地上に沢山の光をまき散らし、地上の靄を吹き飛ばし、まるで沢山のろうそくの火が灯っているように荒野を明るく照らしていた。イエスは立ち上がり、額の汗をぬぐい、感謝の言葉を口ずさんだ。彼の体からは震えがとまり、背筋を伸ばすことができた。
再び賢さが舞い戻った。棒を使いながら歩けそうな道を探し、ようやくのことで林の中の空地にたどりついた。
枝の間に寝られそうな場所を見つけ、そこに葉をもぎ取ってきては積み重ね、恰好な塒(ねぐら)をつくった。木の幹がとっても大きいので、彼はゆったりとねころんで休むことができた。もうジャッカルや狼は怖くなかった。彼はぐっすりねむった。
夜明けという〝お喋り屋〟が眠っている少年の魂をゆさぶった。イエスはゆっくりと目をさまし、あたりを見まわすと、何と驚いたことに、ひとつの小屋が目に入った。野獣や悪魔の恐怖は早朝の美しい光によって消えていった。
あたり一面がパラダイスのように思われた。はしゃぎまわる鳥の囀りも加わって、暫しの間夢心地になっていた。孤独な生活程此の世で素晴らしいものはないと思えた。
太陽が真上に差し掛かった頃、イエスは丘から降りてきて一気に湖畔まで歩いた。彼は水泳が得意であったので、銀色に輝く浅瀬であろうと深い処であろうと、自由自在に泳ぎ回った。長い間泳いだので疲れをおぼえ、湖畔に生えている〝ギンバイカ〟(1)や〝タチジャコウ草〟(2)の間にねころんで空の雲を見つめ、ゆったりと空中を舞っている鳥を眺めていた。突然、うしろの葦の中から声がした。
「こりゃ驚いた、イエス! おまえはまるで魚だね! 人間の子じゃないね、道から見ていたんだが、まるで魚みたいに泳いでいるじゃないか」
イエスは吃驚(びっくり)して後をふりかえると、懐かしい〝ヘリ〟が立っていた。彼は天下の風来坊であった。二人は早速、ヘリが棕梠の木の下に作った、ギンバイカの小屋に直行した。砂漠の放浪者ヘリと若い弟子イエスの二人は、別れてから今日に到るまで、自分にふりかかった出来事を語りあった。
ヘリはイエスの話を聞きながら、心の中ではイエスの味わった経験を年代順に整理していた。暫くの間沈黙してからイエスに言った。
「暫く私と一緒にここですごすといいよ。そうしたらお前に病気を治す薬草の作り方を教えてやろう。体と理性の働きを使って癒す方法もね。夏の間、ここにいれば飢えることもないし、お前もじっくり勉強して、もっと人のために役立つ知恵を身につけたらどうかね」
イエスは顔に昔の傷跡のあるこの賢者の申し出を喜んで、彼の指示に従う生活を始めたのである。
(註1)
南欧産のふともも科の常緑灌木。夜は芳香を放つ白色の木で、愛の象徴として古くヴィーナスの神木と見なされた。
(註2)
ヨーロッパ原産の小低木。薬用、香料などに用いられる。せんじ薬またはエキスとして、せき止めにし、ソース、カレーその他の調味料に加えて賞味される。
第36章 可愛い妹レア
ガリラヤ地方にも、沢山の貧乏人と僅かな金持ちとが住んでいた。大抵の人は楽しそうに暮らしており、明日のことを余り心配しなかった。食物が足らなくなっても、どうにかこうにか飢えをしのいでいた。
貧しい漁師たちは、ローマの権力で莫大な税金を徴られても、何とか楽しみを見つけ、太陽に輝くガリラヤ湖を眺めては、さまざまな夢を描いて気持ちをまぎらわすのであった。彼らは月夜に森で鳴くナイチンゲールのように唄い、朝から晩までメロディと共にすごすのであった。
ヨセフは、ガリラヤ人の楽観的気質を持ちあわせていないようだった。いつも取越苦労をして、眉にしわをよせていた。彼は悲観的な幻想に悩まされるのである。そのヨセフが、エルサレムから帰ってきてからは、例の教師とはぎくしゃくしていても、とても機嫌がよく、冗談をとばしては楽しそうに暮らしていた。
仕事が順調にはこんでいたからである。イエスが家出した最初の頃は、腹をたててはいたが、それもかえってイエスのためになるだろうと考えるようになっていた。それから家の中は平和になった。
イエスがエルサレムで大変な評判になったおかげで、ヨセフと息子のトマスには沢山の仕事が持ち込まれるようになった。仕事の量が俄(にわか)に増えたので、三男のヤコブにも手伝わせ、セツには使い走りをさせた。ナザレの人々は、猫も杓子もヨセフに仕事をたのみ、ヨセフのことを煽(おだ)てあげた。
よほど高貴で、才能に恵まれた父親でなければ、あれ程すばらしい息子イエスは育てられない、とまで言った。単純なこの大工は、すっかりのぼせてしまい、イエスのことを思い浮かべては、うれしそうにしていた。マリヤがどんなに頼んでも、イエスの扱い方については、自分の考えを曲げなかった。ヨセフはマリヤに口ぐせのように言った。
「お前の生んだ放蕩息子が帰ってきても、教師に詫びをいれなければ、絶対に家には入れてやらないぞ」
マリヤはそれを聞くたびに目に涙をためて言うのであった。
「そんなら、あの子はいつまでたっても家に入れやしないじゃありませんか」
「そんなのは、おれのせいじゃない。イエスには、学校に行かせたが、うちはもっと生活をきりつめて、三人の息子たち、トマス、ヤコブ、セツには、せめて読み書きぐらいは家で教えてやらなくちゃ。それに今まで随分苦労をしてきたから、三人の息子たちにも仕事をさせて金を儲けようじゃないか」
「まあ、あきれた! 今でも随分お金が入ってくるじゃありませんか。あなたの名前がナザレ中に有名になったのも、イエスの知恵のおかげじゃありませんか。それでもあなたは不足なんですか。あなたがもう少し賢ければ、もうあの子に命令なんかすべきじゃないわ。かえってあの子に耳をかたむけるべきよ」
ヨセフの顔色が変わった。そのとき末娘のレアが手に沢山の花をかかえてヨセフの処にやってきた。レアが入ってこなかったら、どんなにひどい言葉で罵っていただろう。
レアはヨセフの大きな手のひらに花をおいた。レアが幼児語で、だっこしてくれと強請(ねだ)ったので、彼はレアを肩車にして外へ出て行った。この幼い末娘レアは、とても明るく可愛らしかった。ヨセフは、ことのほかレアを愛し、彼女のことを〝金の宝〟と呼ぶほどであった。
ヨセフの目は輝き、レアを地上に降ろして胸に抱きよせ、優しくレアの耳元でささやいた。レアが頼むと、天気の日には仕事場から出てきて散歩に出かけた。小川のほとりでは、水をとばしたり、泥んこ遊びをした。レアと遊んでいると、ヨセフは辛いことをみんな忘れてしまい、レアの言うなりになる、優しい父親となるのであった。
マリヤは満足していた。子供のことに関しては、ヨセフは実に親切で理解のある父親であった。レアは全く例外で目に入れても痛くない娘であった。彼女の金髪の頭は、彼にとって言い尽くせぬ神秘であり、彼女の可愛らしいお喋りは、無限の喜びであった。
仕事が順調にはかどり、レアが彼の傍に居るときは、喜びの杯があふれるばかりであった。彼はマリヤに言った。
「神様は私たちに沢山の祝福を与えて下さった。いつまでもこの幸せが続くとよいのだが。子供たちはこの儘大きくならず、僕の仕事もそこそこで、お前とレアがそばに居てくれて、来る日も来る日も今のように歌ったり遊んだりできるといいんだが」弾んだような声でマリヤが答えた。
「この金髪のお嬢さんをさらっていくお婿さんがあらわれたら、あなたの顔色は仏頂面になり、やきもち父さんになるわね。きっとあなたは気狂いのようになるわよ」
マリヤはこれ以上何も言えなかった。ヨセフの唇が彼女の口にふたをしてしまったからである。ヨセフはこんな風にして丘の上を独りで歩いていた少女マリヤに恋をしていた青年時代の愛をあらわすのであった。
第37章 神霊治療の業を磨く
夜が訪れた。太陽という金色の梭(ひ)(織物に使う道具=シヤトル)が弛んだ縦糸を使って多色の衣服地を織ろうとしているかのように、ガリラヤの山々や湖の様子が無気味な色に見えていた。
ヘリとイエスは、岩だらけの道に立ってカルメル山の方角を眺めていた。少年イエスの心には、様々な疑問が浮かんでいた。海をへだてた向こう側にある外国はどんな処なのだろうかと。ヘリにきいてみた。ヘリは答えた。
「私には悲しい思い出があるのだよ。一体どんな人の中に真実があるのか、一生けんめい探し求めていたのだよ。
こいつは本当に大変なことでね、ダイヤやオパールを探すよりもむずかしいのだよ。律法学者やパリサイ人にも逢ってみたが、全然だめだった。私が若いころ決心して、いろんな人間に逢って勉強したいと思ってね。
石工として働きながら,あちこちの街に行っていたのさ。テベリヤ、それからピリポ・カイザリヤなどではね、異教の神々を祀る神殿の土台造りをやってみた。また、船員になって、アンテオケ、アテネ、アレキサンドリア、エペソといった大きな町にも行ってみたのさ。
ある期間中にその町々に住んでみて、色々な人と逢ってみたのだが、誰一人として幸せや平安を教えてくれたものはいなかった。ところがね、ある日のこと、東方からやってきた一人の男に私にその人の国に来て見ないかと誘われてね。
もしかしたらお前の探しているものが見つかるかもしれないというのだよ。それで私は軍人になって、ある金持ちの商人に雇ってもらったんだよ。この商人は、たいした方で、沢山の隊商を動かし、没薬、乳香、その他沢山の高価な商品をアラビア砂漠の向こうから運ばせていたのだ。
それで宝物を泥棒から守る護衛に任命されたという訳さ。私はある時、インドの大きな町にやってきたとき、これが東方の世界だなと思ったのさ、けれども私には、そこに喜びも平安も感じられなかったのだ。私は青年時代のすべてを賭けて探しだそうとしたのだが、段々とやる気を失ってね、いやになってしまったんだよ。
大きな町には神様が住んでおられるとは思えなかったのだ。王宮の周辺には、きらめくような寺院が並んでいた。
王や支配者の華麗な建物とは裏腹に、狭くて汚い小路をはさんで、飢えた人々や、障害者が住んでいるのだよ。曲がりくねった道端には、目のない乞食が、あちこちにいて、両足を震わせながら嘆き声をあげているんだよ。
主人の手で肢体をもぎ取られた奴隷たちが路上に座っており、汚れきった小さな部屋の中には、病人がうずくまっているんだよ。どんな悪いことをしても、この町ではとるに足らぬ小さなこととして処理されてしまうのだ。
町がどんなに美しくても、私は苦悩している人々、貧しい人々、奴隷の流す涙などに目をつむることができなかったのだよ。しかもこのような人々が浜の真砂のように沢山いるんだよ。イエスよ、人々が集まる町という所は、強盗と悪人の巣のようなものなんだ。喜びの代わりに絶望が待ち受けているんだよ。
私は遂に荒野に出て、流浪を続ける一部族とばったり出逢ったのだ。この部族の人々はとても強く、烈しい性格で、時折お互いが斬りあったり、旅人を襲ったりするんだ。
彼らはまるで砂漠や岩山の陰に潜むハイエナみたいなやつなのだが、町の人々には見られないすばらしいものを持っているんだ。自分がどんなに喉が渇いていても、水を求める人には水筒をそっくり飲ませてしまうような人類愛は、まさに王侯貴族に優る気高さを感じさせるんだ。
私自身がアラビアの不毛な地を旅して死にかけていたとき救ってくれたのも、この砂漠の流浪部族だ。そのおかげで、今まで失いかけていた神への信頼が呼び戻され、この連中と一層親しくなってしまったんだよ。
烈しいこの人々には私が町の人々には発見できなかった知識と知恵があるんだよ。それで私はもう石工や、船員や、兵隊などをやめて、この連中と一緒に暮らすことにしたんだよ。流浪の旅というやつは、とても辛いものだが、ようやく今までの苦労が報いられたという訳なんだ」イエスはすっかりおどろいて尋ねた。
「彼らはどんなすばらしいものを持っているんですか?」ヘリは答えた。
「私が町でこせこせと暮らしていた時には、エホバ(神)の道は隠され、私の心は病んでいた。あの砂漠の中で流浪の部族と暮らしているときには、エホバの道は明るく私を導き、心のうちに喜びがあふれるのだ」
イエスはこの話を聞いてヘリに懇願した。
「ねえ、僕もそこへ連れていって下さい」
「今はだめだ、イエス。とにかくお前が今すぐやるべきことは、御両親と和解することだよ。お前の体は柔らかだから、到底焼けつくような日射しのもとで、飢えの連続という厳しい生活は無理だ。三年がまんしろよ。
そうしたらきっとお前をつれてってやるよ! きっとお前は砂漠の古老から、エルサレムの律法学者や文献などでは得られない知恵を受けるだろうよ。神殿にたむろしている学者が口にすることは、まるでアジアの古い葡萄酒のようで、我々の理解力を鈍らせるばかりか、世界の靄(もや)の中で手探りさせるばかりだよ」
イエスは力強く言った。
「わかった。ヘリの約束を信じて待ってます」
「そうとも。必ず約束を果たしてやるよ。私はこの流浪人から初めて信仰の道を学ぶことができたんだからね。彼らは烈しく残酷なところがあるが、町の連中のように偽善はやらないぜ! 彼らが口にする言葉は、まるで山に横たわる不動の岩山のように、真実そのものなんだよ」
二人はしばらくの間沈黙しながら、金色に輝いているカルメル山が次第に夕闇に包まれていく光景を眺めていた。山の輝きが雲に蔽われていくさまは、実に神秘そのものであった。
二人は森まで降りると、夕食の支度にかかった。火を熾(おこ)し、魚を焼いた。水は小川からくんできた。月が頭上高くあがる頃、二人は残り火の上にポットを載せて薬草を入れ、煮出した。
ヘリはイエスに病気の癒し方を伝授した。一つは何種類かの草を混ぜ合わせ、薬草の効力を高める方法と、もうひとつは、意識の働きによって治療者の体の中に治癒力を湧出させる方法であった。
夏の間、ヘリの薫陶を受け、ついにイエスは自分の体の中に治癒力が湧き出るようになるのを感じた。そしてその力を病人に与える方法や、その力が尽きた時に補給する方法も会得することができたのである。
ヘリは、この少年が常ならぬ若者であることを感じとっていた。彼の魂は強靭で、肉体は治癒力の倉庫にふさわしく清らかであった。彼は医者として求められる、生命力の増強に適したあらゆる条件を備えていた。ヘリは最新の注意力をこめてイエスに言った。
「お前は大人になったら、さぞかし大きな働きをするようになるだろうよ。でもな、断っておくがお前の力は、お前に心を開き、お前を信じようとしない限り癒すことができないよ。だから病人を見て、どうしたらこの人に信仰を持たせることができるかどうかよく見極めた上でやることだね」
朝早く、日の出の頃をみはからって、ヘリはイエスを座らせ、治癒力を豊かに備えている目に見えない体(霊体、幽体)に刺激を与え、その力を引き出す業を施した。この業を通して語られた知恵の言葉によって、イエスは、此の世のものではない天の知恵に充ち満ちた平和と甘美を味わったのである。
イエスは、週に三回ほど、陽が沈んでから、ナザレの丘のふもとまで降りてきて、マリヤ・クローパスと幼いヤコブと逢い、食べ物と様々な情報を受けていた。ある日のこと、幼いヤコブからとても悲しい報せを聞かされた。
多くの人々が高熱にうなされているという報せであった。ヨセフが可愛がっていたレアまでも高熱にやられ、危篤状態になっていた。イエスはころげるようにヘリの処へやってきて、ヘリに薬草をもってナザレに行ってくれないかと哀願した。ヘリはうつむきながら答えた。
「私がナザレに行けば、みんな私めがけて石を投げつけるだろうよ。私がナザレを出るときには、私のことを砂漠の犬と罵ったくらいだからな。
どうして私を軽べつした人々の手で私の平和をこわそうとするんだ。私は二度と町や村にはいかないと心に誓ったんだよ。では、こうしようじゃないか。私がこの小川で休んでいるとき、レアのことを観察してはどうだろう」
「此処から五キロ以上もある所で寝ている子供を、しかも四つの壁に囲まれている部屋の中をどうやって見ることができるんですか?」
「しっ! だまって。レアがこの水面に映るかもしれないぞ!」ヘリはそう言いながら小さな岩で囲まれた池の水面を見おろしていた。ひな鳥が母親の翼の陰でゆったりとしているような一日が流れた。やがて夜になってから、ヘリが頭をもたげながら言った。
「こんな馬鹿げた連中には、レアの病気なんか治せっこないさ。みんなレアの周囲をびっしりととりまいているだけなんだ。レアの熱はどうも最高に達しているようだが、僅かばかり体力が残っているから、もう三日間くらいはもつだろうな。今週の終わり頃、安息日(土曜日)が来るまでは、死の天使の手にはかけられないだろうよ」このことを聞いていたイエスは、もっと強くヘリに行ってほしいとたのんだが、頭を立てにはふらなかった。
「そうだ、お前の体に治癒力を満たしナザレに行かせよう! 水がいっぱい入っている水差しのようにお前の体の中に治癒力が充満していれば、きっとお前の妹の生命を救えるかもしれない、少なくとも死の道をたどっている苦しみをやわらげてやれるはずだ」イエスは否応なしに彼の言う通りに従った。
それからヘリは、一昼夜の間、少女の体を蝕んで死に追いつめようとしている悪霊に打ち勝てるだけの強い力をイエスに授けるのに全力をかたむけた。ヘリは一時間程休みを入れ、空飛ぶ燕のように心を解放した。弟子もよく師の言うことに従った。もう一度あの小川の池を覗き込んだ。
「ああ! レアがひどい熱にうなされているのがみえるぞ! お前のお母さんがレアの部屋には居ない。馬鹿な連中が大勢レアのベッドの周囲でべチャクヤお喋りしてやがる、一体病人を何だと思っているんだ。野生の驢馬のように大声でしゃべっていやがるんだ。
お前のお父さんは、どうしたらよいかもわからずに、家中をうろうろしているだけだ」イエスは言った。
「ねえ、僕もう行ってもよいでしょう?」
「いや、まだ早い」
「レアが死んでしまったらどうするんですか。ただ、じっとここで彼女が死ぬのを待っているんですか」
「お前が彼女を救うときがまだ来ないのだ。お前の体は疲れている。それじゃ何にもならないんだ。治癒力がまだ充分じゃないんだよ」
「愛するレアが死んでしまう!」イエスは両手をねじり、頭を垂れ、初めて味わう深い悲しみにわなわなと手足をふるわせていた。ヘリは鋭い口調でイエスに言った。
「私の言う通りにしなさい! そうすればレアは助かるだろう。私にさからえばレアの生命は保証できない!」イエスはもう何も言わず、賢者の後に従って山から降り、湖の岸辺までやってきた。ヘリは何時間も黙っていることがあった。この夜ばかりは彼の無言はこたえた。
二人は無言のまま歩き、小川の処に来て乾いた葉を敷いた。ヘリはただ一言「ねさない!」と言った。イエスはそこで横になった。湖畔の柳の樹々が星の光をさえぎっていた。深い眠りが彼の瞼を閉じさせた。
イエスが目をさましたときは、あたかもリンゴの花の満開のときのように、熟睡のあとの爽やかさを味わった。そのとき、ヘリが遂に口を開き、イエスに命令した。
「ただちにナザレに行きなさい。右にも左にも曲がらず、真っすぐお父さんの家に急ぎなさい。お前が悪霊をたたき出すんだ! お前が偉大な霊の力から流れ出る美しい旋律(メロディ)の容器(うつわ)となって働くのだ。一つだけ忠告しておこう。恐れないことだ。恐れることは霊力の援軍を裏切る行為なのだ。怒ってはいけない。
また悲しみに負けてはならない。感情に負けて理性を失わないように気をつけるんだ。感情でぐらついた体や心は、偉大な霊の力に仕えることができないからだ」
イエスは頭をたてに振り、彼の親切な忠告に充分気をつけますと返事をした。イエスはまたたく間に姿を消した。イエスに知恵を伝授したこの流浪の人は溜息をついて、独り言を言った。
<彼は自分では気付いてはいないが、もう一人前の教師になっている。何年も苦労し、食を断って修行した私にも、まだ与えられていない大きな霊力がすでに備わっているようだ。彼ほど心の美しい汚れのない人間は他に見たことがない。娑婆で汚されなきゃいいのだが>
第38章 最初の奇跡・・・妹レアのために
レアの部屋は女たちでいっぱいだった。彼女たちは、なんだかんだとお節介をやいていた。ある女は、田舎で知られている様々な療法を施していた。しかしどれもみな効き目がなかった。熱はますます高くなり、レアはうわごとを言い出し、頭は焼けるように熱かった。
ヨセフはレアの傍に座り、頭を低く垂れ、目はどんよりとして無気力であった。ヨセフは苦しむレアをまともに見ることができなかった。回復の望みは一切断たれてしまった。彼はまるで墓場の幽霊にでもとりつかれたような姿であった。うめき声が止み、瞼を閉じて少女は静かになった。
「もう臨終だわ」と女たちがささやいた。
クローパスがお祈りをしようと言ったので、みんながひざまついた。静まりかえった部屋に、ヨセフのすすり泣きだけがきこえた。マリヤは小部屋に居た。そのときイエスが家の敷居の上に立っているのに気がついた。
マリヤの目には喜びと絶望が去来していた。イエスはひざまずいて祈っている女たちの間をくぐり抜けてレアの傍に立ち、両手をゆっくりとレアの腕においた。彼女を慰め、癒しを施した。すべてが順調に運んでいった。誰も彼がするのを止めなかった。ただ、いずれ我が家にもやってくるかもしれない死の天使に戦(おのの)いているのであった。
イエスはレアの手をにぎりながら話し出した。樵(きこり)が斧をふり上げて、樹に打ち込むように、あたりの静けさを破った。
「レア! 目をさまして起き上りなさい!」
そのときレアは、両目を開けてベッドのわきに降りて真すぐに座った。そして呆気に取られている父母の方を見ながら」長い髪の毛をかきあげた。イエスはもう一度言った。
「レア! 床につきなさい! もう病気は治ったよ!」
レアは彼の言う通りにした。なごやかな表情がありありと顔にあらわれていた。ほっぺたは色づき、傍に立っているイエスの顔を見つめていた。イエスはなおもレアを見据えたまま唇を動かし、額からは大粒の汗がにじみ出ていた。
男も女もひとことも語らず、イエスがいつ死の天使と格闘して捻じふせたかも知らなかった。ただ最後の方で、イエスが身をかがめて妹の顔を拭いてやったり、手足をきちんとなおしてやってから、
「さあ、レアはもう直ぐ元気になるよ! 病気が治ったんだよ!」とイエスが言ったときに、ようやく我に返ったのである。
よろけるようにイエスは出口を探し、土の上に寝そべって、じっと動かないでいた。呆気に取られて黙っていた人々は騒(ざわ)めき出し、イエスの仕草を見つめていた。幼いレアはぐっすりと眠っていた。ヨセフが額に手をあててみると、もうすっかり熱が下がり、平熱になっていることがわかった。また耳をレアの口元に当ててみると、呼吸も正常にかえっているのがわかった。
「イエスは、私たちのためにレアを返してくれたのだ!!」ヨセフは夢心地であった。
「イエスに歓迎の挨拶をしましょうよ」
「いや、歓迎どころじゃないよ! おれはイエスに謝らなくっちゃね!」
第39章 へりとの固い約束(神癒の禁止)
マリヤの三番目の息子〝ヤコブ〟は外見の好い少年であった。彼は目上の人の言うことにはなんでも従った。そのためにはいつも自分を殺していなければならなかった。それで彼は学校の教師はもちろんのこと、彼を知っている人々からは模範的な少年と言われていた。細面(ほそおもて)で薄い唇の少年は熱心に教師の言うことに耳をかたむけていた。
彼は聖書の言葉をすばやく暗記してしまったのである。しかし彼の知識は、ただ機械的に暗記したものであったので理解とはほど遠いものであった。
レアの紳癒が行われた翌日には、家族の順番が一変していた。従来は、イエスに対するヨセフの悪感情から一番末席であったのが、突然最大の待遇を受け、父の右側に席がもうけられた。今までイエスの悪口を言ってた隣近所の人々からは、とても親切で優しい言葉がかけられた。
彼はいち早く人気者になり、あちこちから相談をかけられるようになった。父ヨセフも弟たちにイエスを大事にするように命じた。家の中には、まるで別の主人が居るようであった。
けれどもイエスは決して思い上ることもなく、穏やかな微笑をうかべながら彼らのもてなしを断った。
ある日のこと、三男のヤコブがイエスに話しかけた。
「お兄さんは、今まで散々悪口を言われていたのに、今度の奇蹟でみんなから崇められるようになり、先輩の長老たちまでお兄さんの言うことに耳をかたむけるようになりました。一体だれからそんな力をいただいたのですか? 僕なんかは、ただ聖書を暗記しているだけで、どこから引用されているかは全然わからないんです」
「その通りだよ、学校の教師は言葉の意味なんかは教えてくれないよ。僕は前から、こんなことではなんにも勉強にはならず、聖書の意味を識ることはできないと思っていたんだ。だから学校に通っていた頃は、教師のことなんか眼中になかったんだ。全く馬鹿げていたので我慢できず、遂に教師も僕のことを悪く言い出したという訳さ。
それに反して、あの流浪者ヘリは、すばらしい知恵の持ち主であることがわかったんだ。彼からヘブル語で聖書を読むことを教わり、聖書の解釈をならい、遂にエルサレムからやってきた偉いパリサイ人の前で堂々と聖書を読むことができたんだよ。その上、レアが死にかかったときも、病気を治す業を教えてくれたんだ」
このことを知ったヤコブは倒れんばかりに驚いて言った。
「僕は癒しの霊力は欲しいけど、あの乞食みたいなヘリとつきあうなんてごめんだな! どんなに聖書のことが明るくなっても、あいつの仲間だと思われたくないですよ。だってヘリは、罪人で悪魔と一緒に暮らしているそうじゃないですか」イエスは言った。
「善人はとかく悪人呼ばわりされるものなんだ。ヘリを非難するやつは一体誰なんだ? 彼の本来の姿をおしえてやらなくちゃ」
「ナザレの律法学者が言うには、流浪の民族は碌なことしかやらないんですって。モーゼを通して顕れた神様を拝まないというではありませんか。ヘリは漁師の家で食事をする時には手も洗わず、お祈りもしなかったので土間に座らされたそうですね。なんでも僕たちが尊敬しているエルサレムの偉い人たちを散々こき下ろしたそうです。
あのミリアムおばさんも、ヘリの目には悪魔が住んでいるといってましたよ。ミリアムおばさんの子供を睨みつけたとたん、悪魔が体の中に入りこんだそうです。お兄さんがエルサレムに行っている間に、ミリアムおばさんが音頭を取って、ヘリをナザレから追い出そうとみんなが石の雨をふらせたんですよ」
「あの女の口には猛毒があることをみんな知ってたくせに」
「でもね、今度ばかりはナザレの律法学者も後押ししてね、ヘリは悪魔と通じ合っていると言いふらしたんですよ。それに最初の石を投げつけたのも律法学者だったんだそうですよ」
「昔の預言者も同じ目にあったんだ」
「でも僕はヘリから教わるのはいやなんです」
「滅多にないチャンスじゃないか。ヘリこそ百年に一人しかあらわれない人物だよ。これから僕はヘリの処へ行かなくちゃ。お前も一緒においでよ。お前の夢が叶うように祈ってあげようではないか」
「僕の夢ですって?」
「そうとも、お前はエゼキエルかあるいはイザヤのような立派な預言者になりたいんだろう?」
「そうだけど・・・でもやっぱりヘリから教わるのはいやです! あれは悪魔ですからね」
イエスはささやくように呟いた。
「民衆と律法学者だけがヘリのことを悪人だと言っているんだよ。昔から正義をおし進めようとした預言者たちも全く同じ目にあったんだよ」ヤコブはイエスの言った最後の言葉には耳をかさず、自分の本心を口にするだけであった。イエスは悲しそうにこの少年を見つめ、吐き出すように言った。
「どうしたらお前に大切な知恵を分けてあげられるだろうか。お前の心は全く閉ざされてしまっているんだ。お前には此の世のことしか眼中になく、知恵者と称する偽善者の言うことしか耳に入らないんだ。ヤコブ! お前の心がきれいにならなければ、お前の正しい理解力を縛りつけている鎖を解きほぐすことはできないんだよ」
「もうそんなことは沢山です。ヘリは悪魔なんです。長老たちもみんなそう言っています。砂漠をうろつくような放浪者はみんな放蕩者なんですよ!」
イエスが再びヘリに逢いに行ったとき、彼は荷物をからげて旅に出るところであった。イエスはあわててたずねた。
「どこへ行かれるんですか?」
「もうこれ以上は長居できんのだ。仲間も待っているからね。焦げつくような夏になると、干からびた砂の中に隠れている水脈を見つけてやらにゃならんのだ。それに病人を治したり、薬草を岩山のごつごつした処に育ててやらねばならんのだ」イエスはヘリに、一日も早く戻ってきてほしいとたのんだ。
「私はもう三年は帰ってこないだろうな。その間は、お父さんに仕えるんだよ。近所の人たちがお前に病気を治してほしいとたのまれても、決してひきうけてはならんぞ。お前に伝授した薬草でも使ってはいかん」
イエスはどうして力を隠し、悲しんでいる人たちに背を向けなければならないのかときいた。
「将来、お前が大人になったら、きっと大勢の病人を癒すことになるだろうよ。手足の不自由な人を歩かせ、目の見えない人たちに見えるようにしてやるだろうな。今お前がそれを引き受けたら、必ず失敗するということをよく覚えておきなさい! なぜなら、お前の近所の連中は、お前を赤子の時から知っているからだ。
連中の心の中に信仰を引き出すことはできないからなんだよ。霊力による癒しの業は、神を信じる者に与えられるんだ。お前のことを褒める者がいても、それは必ずお前を憎む集団になるんだよ。それは嫉妬のなせる業なのだ。
嫉妬という毒には、何ものも敵(かな)わず、病気を回復する力さえ失わせてしまうのだ。お前のときがくるまでは、丘の上で天の御父と交わりを続け、独りでお前の理性と体を鍛えあげるんだ。私が再び戻ってきたときには、お前はきっと、自由に癒しの力を駆使できる者になっているだろうな。我が兄弟よ! さらばじゃ!」
第40章 金持ちの依頼を断る
ひと夏の間、熱病は多くの人々を襲った。ナザレは日に日に嘆き悲しむ声で充満していた。女たちの泣き声や嘆きは頂点に達し、若者も老人もすべて明るさを失い家の中に閉じこもっていた。
そんな状態の中で、イエスの話が伝わった。正直言って、その頃はナザレの人々にとってヨセフや家族のことはどうでもよかったのである。イエスのことを耳にした連中がやってきて言った。
「なんでもあんたの息子さんが、癒しの術を弁えておられ、妹さんの病気を治されたとうかがいましたが」ヨセフは鼻を高くして言った。
「あそこをご覧なさい。庭で飛んだり走ったりしているでしょう。あの子がひどく熱病にやられ、危篤状態までいったのです」この言葉を聞いた人たちは、喜びと驚きの声をあげた。彼らはヨセフに哀願した。是非そのときに使った薬草で病人を治してほしいと言い出した。ヨセフは説明した。
「息子イエスは、その薬草で治したのではありません。妹の病気を治したのは、彼の体とその中に宿っている霊の力によるものだったのです」一人の客が言った。
「そんな馬鹿な! 薬草と患者の血が混じり合って熱を追い出したんですよ」ヨセフはむっとして言った。
「レアの病気を治したのは、イエスの霊力だったんですよ! 私はSVは言いません!」
「いやいや、どうも。私たちはただ、お宅の息子さんに来ていただいて、我が家から忌まわしい熱病を放り出してほしいんですよ。ぜひ息子さんにたのんでくれませんか」
ヨセフは答えた。
「あれは今外出しています。でも帰ってきたらたのんでみましょう」
「息子さんが病気を治してくださったら、もちろん、たっぷり御礼をするつもりなんです」
近所の人々はイエスに期待して帰っていった。
ヘリが与えた忠告は、イエスにとって彫刻刀のように鋭く響いた。ヘリと別れを告げて帰ってくると、父ヨセフが先程のいきさつをイエスに伝えた。イエスはきっぱりと答えた。
「僕はどんな病人のところにも行きません。僕はもう二度と病気を治すようなことはしません。別に医者を探すように言って下さい」
「お前、まさか失敗することを恐れているのかい? お前はレアの生命を立派に救ったじゃないか」
「はい、それは本当です」
「魚問屋の〝ハレイム〟さんがやってきてな、急いでお前に来てくれと言うんだ。今にも若い細君が死にかけているんだ」
「僕はもう病人なんかで煩わされたくないんですよ」
「ハレイム・・・て言えばナザレ中に聞こえた金持ちだ。あの方の要求だけでもきいてやれば、きっと舟の建造をこのわしにやらせてくれるに決まっているよ」
「僕のときがまだ来ていないんですよ,お父さん」イエスはやるせなく、溜め息をついた。随分大勢の人々が熱病で苦しんでおり、イエスの助けを欲しがっているのを知っているだけに、ヘリの忠告がイエスにはずっしりとのしかかっていた。
ヨセフは苛立ってきたが、命令することもできず、マリヤと一緒になって絶望のどん底に喘ぐ魚問屋の名をあげながらイエスに哀願した。イエスはつっ立ったままで、額から大粒の汗が流れだした。両手をきつく握りしめ、静かに祈っていた。マリヤもヨセフの傍に居て、何とかよい返事を引き出せないかとイエスの顔をじっと見ていた。
「やっぱり、僕には、僕にはできないよ!」イエスはヘリとの約束に板ばさみになって、どうすることもできなかった。ヨセフはなおもイエスに哀願した。
「お前がやらなきゃ、近所の連中がどんなになるか、わかってくれ。お前が変な意地を張って、困っている人たちを無視すれば、どんなに私たちがひどい目にあうかわかりゃしない。お前には立派な治癒力がそなわっているじゃないか。レアを死の淵から引きあげて、恐怖を吹き飛ばしてやったじゃないか」
「あれはね、レアが僕のことを天使のように信じてくれたからなんですよ。でもこの人たちは僕のことをただの大工の息子と思い、しかも、中には、昔教師や律法学者が散々悪口を言ってた息子だと思っているんですよ。そんな人たちに効き目があるはずがないじゃありませんか」
こう言い残してイエスはヨセフとマリヤの前から立ち去った。二人は呆然(ぼうぜん)と空を見上げ、空しく星空を眺めているだけであった。