第21章 王者の片鱗
学校の先生は、まるで羊の群れの周囲を嗅ぎ歩くように、イエスの周囲をうろつき回った。何か懲らしめてやろうと、恐ろしい目付きで彼を睨みつけていた。手には棒を持ち、悪意に満ちた眼光をたたえていた。

生徒たちはその日の放課後、誰か一人が、こっぴどく罰せられそうな予感がしていた。彼らは直ぐ先生の心の中にあるものを見抜いていた。それはみんなの前で、何か失敗をやらかす生徒は誰であるか想像できたからである。

なぜならば、先生はイエスの横まで来るとピタリと立ち止り、射るような目付きで彼を睨みつけたからである。

どの生徒もみんなこの先生から睨まれるのを怖がっていた。しかしイエスは平然として頭を挙げ、じっと教師の顔を見上げていた。イエスの顔付きは教師の悪意に満ちた怨みと、力づくで脅そうとする残酷な態度に挑戦しようとする無言の返事であった。

丁度その日は、エルサレムから偉いパリサイ人(1)が学校に来て、生徒が聖書を読んできかせる日になっていた。そのために、生徒の中から聖書の朗読者が一人選ばれることになっていた。こんなとき選ばれた生徒が、読み方をまちがえようものなら、町中に知れわたり、大恥をかくことになるのである。

遂に偉いお客様が入ってきて、演壇の側の席に腰をおろした。はたせるかな、教師は、棒で机を叩きながらイエスを呼び出し、聖書朗読の一番手を命じた。生徒たちは心配であった。イエスは余り勉強もしないし、いつでもヘブライ語には弱いことを知っていたからである。その彼が今、口語体ではないヘブライ語に直面させられたのである。

教師はわざと無差別に開かせたページの最初の行から読むように命じた。イエスは怖気(おじけ)ず、堂々としていた。生徒たちの方が却って怖れをなし、まちがいなく教師の手にしている棒が振り上げられると思っていた。

イエスが聖書をめくっていると、あの偉いお方が言い出した。

「これは不思議な少年だ! きっと高貴な生まれのお方じゃろうて。わしは彼の態度が気に入った。彼の名は何というのかな、そして親の名前は?」教師が答えた。

「はい先生、彼は貧しい大工の息子でございます」

「彼はまことにイスラエルの王、ダビデの子孫にちがいない! なぜなら彼の姿は鷹のように凛々しく、小柄な貧弱な体つきをしているがとても高貴な顔付きをしているからじゃ!」

賢者の言葉は低い声で語られたので生徒たちにはよく聞きとれなかった。しかしダビデの子孫という言葉を耳にして、ひどく怒り出した教師の顔を見て、イエスに好意をよせていた二、三の友だちはふるえ上った。<あの偉いお方がお帰りになったあとに、イエスはきっと背中の皮がはがれる程棒で叩かれるにちがいない>とヤコブは思ったとたん、目から涙が流れだすのであった。

イエスは頭を上げ、開かれた〝詩篇〟(2)の題目を述べた。

「もうよい、早く読みなさい! 一言もまちがえてはならんぞ! お前の年頃の子供は、それぐらいのところはみんな諳(そらん)じているんだからね」と教師はせかせた。少年イエスは朗々と聖書を読み始めた。

〝万軍の主よ、

あなたのすまいは如何に麗しいことでしょう。

わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、

わが心とわが身は生ける神にむかって喜び

歌います。

すずめがすみかを得、

つばめがそのひなをいれる巣を得るように、

万軍の主よ、わが王、わが神よ、

あなたの祭壇のかたわらに

わがすまいを得させてください〟

(詩篇第八十四篇、1-3)

つかえることなく、ためらうこともなく、イエスは朗々と読みあげた。その美しいこと、しかも主の宮を恋したう言葉の調子の美しいことに全員が感動し、腰のまがったパリサイ人も背すじをのばして直立し、読み手のイエスに大きな喜びを伝えるのに両手を挙げてサインを送った。

その日の朝のように、このような感動をもって聖書が語られたことはなかった。その声はハープのように響き、美しいメロディが次から次へと湧いてくるのであった。

教師が途中で止めさせようとするのであるが、かの客人がそれを許さず、続行を命じた。それは彼の言葉がまるで美しい音楽のようであり、客人のような老人にさえ、新しい幻(ビジョン)が与えられるのを感じたからであった。

このことが後になって他の母親たちに伝わるや否や、生徒たちはみんなイエスは全く変わったことを証言した。

以前には見られなかった目の輝き、あのすばらしい声の響きの前には、イエスの貧弱な体つきは問題ではなかった。従兄弟のヤコブだけはその秘密を知っていた。彼はイエスと一緒にナザレの山々を歩いていた頃のことを思い出していた。

遂に朗読が終り、聖書が閉じられると、パリサイ人はイエスに手招きをして彼の近くに呼び寄せ、イエスの腕に体をよせながら教師に向かって叫んだ。

「もうこれでよい! 他の生徒に読ませなくてもよろしい。この子はずっとわしの傍に居るがよい! 彼の声は何とすばらしいのじゃろう。わしはこのすばらしい楽器の背後に控えておられる偉大なる霊のことが知りたいのじゃ! この聖なる御言葉に添えられた、うるわしいものは、人間の言葉ではなく魂そのものの響きだからじゃ!」

石畳の上まで垂れさがっている帯(シンクチャー)をひきづりながら、威厳のあるパリサイ人は、イエスを伴って陽の当る方へ歩いて行った。二人はゆっくりと草原の上を歩き、老人が熱心に語り、少年は丁寧にゆっくりと受け答えするのであった。

この様子を見ていた単純なナザレの人々は「大工の馬鹿息子」で知られていたイエスに驚いてしまった。かの高名なイスラエルの師が誉めぬいたからであった。

それ以来、あの腹黒い律法学者、ベナーデルや友人たちは、イエスのことを褒めそやした。

学校の中では、怒り狂った教師が生徒にあたりちらし棒をふりまわしていたが、もうそれはイエスに及ばないものとなってしまった。教師はもうイエスに対してふるってきた権威をすっかり失くしてしまったことを感じていた。ただ彼は歯をくいしばりながら、今まで暗かった生徒たちの表情が急に明るくなったのを眺めるだけであった。

パリサイ人がイエスに別れを告げるとき、もしエルサレムに来るようなときがあったら、ぜひ神殿にきて自分を訪ねるように言った。

イエスは悲しげに答えた。
「きっと大きくなるまではお逢いできないと思います」

「いいとも。時の流れは早いものじゃ。なあ、イエスよ、もう一度お前の胸に隠されている〝リュート〟の音と、賢い響きの御言葉を聞きたいもんじゃ」

「はい先生、僕もそのつもりでいます」
イエスは、ぺこんと頭をさげた。

(註1)
紀元前二世紀におけるユダヤ教の一派で、サドカイ派と並んで勢力があった。従って神殿に於ける権限は絶大なるものがあった。律法の実践に熱心であったので、反対者から〝ファリザィ〟(分離者)と言われるようになった。

(註2)
旧約聖書中の教訓書である。内容は、百五十篇からなる詩と祈りを集めた詩集である。大部分はダビデ王の手によって作られたと言われている。ユダヤ教でも、現今のキリスト教でも、典礼に多くとりいれている。ユダヤ人は会堂、神殿、祭日、巡礼のとき好んでこれを唱えていた。


第22章 マリヤ・クローパスの証言
マリヤは川で洗濯をしていた。衣類を揉みながら近くの草むらで遊ばせている赤子の方を見守っていた。彼女は朝早くから夜遅くまで働き通し、エルサエム行きの旅の仕度に追われていた。

しかし彼女にはその楽しみも消え失せてしまった。ヨセフがイエスのことをどうしても連れていかないと言い張っていたからである。そのときのイエスの悲しそうな顔を忘れることができなかったからである。木蔭のもとで佇(たたず)んで休息をとり、ナザレの景色を眺めていた。

すると急に道路ぎわで騒がしくなり、池で泳いでいた白鳥たちが羽をばたつかせていた。みると一人の女がこちらに向かって走ってきた。髪をふり乱し帽子も横に捻れていても、そんなことにはお構いなく叫んだ。

「ねえ!あなた!耳よりな報せがあるのよ!あなたが吃驚(びっくり)するような素晴らしいニュースがあるのよ!」

「そんなことあるはずないわよ」

「それが本当にあるのよ!」とマリヤ・クローパスが近づいてきて言った。
「もうなんにも心配することなんかないわ! あなたはね、イスラエルの偉大な預言者の母なんだから」

「まさか。そんなのは御伽噺(おとぎばなし)よ!」
「そうじゃないのよ! わたし見たの、私きいたのよ、だからそう言ってるのよ」

「イエスったら、悲しませることばっかしやるんだから、どうして喜べると思うの」

「わたしがね、イエスのことを話してあげるわよ、よく聞いてちょうだいな、マリヤ! 私がね、朝早く丘の上でイエスを見ていると、彼の様子が変わってきてね、天の空に不思議なものが現れたの。真白な衣を着けた方が地上に降りてきてイエスの傍に立ったの。二人が話し始めたのよ。近よってみると、その賢者は杖によりかかってイエスの相手をしてるじゃないの」

「それ本当なの? その方はどなたなの? 何ておっしゃる方なの?」
「ただの人間じゃないのよ、何でも〝エリヤ〟て言ってたわ!」

「何百年も昔におられた方とどうして話ができるの? それにその方がどうしてエリヤだってわかったの?」

「そりゃすぐわかるわよ! 第一真っ白な髭を生やしていて聖書にある通りのお姿なんですもの、鳥でさえ囀るのを止めて、シーンとなってしまったのよ」

「お姉さん一人だけだったの?」
「そうよ」

「ごめんなさい、私どうしても信じられないの。お姉さんは夢でも見てらしたんじゃないかしら。律法学者にはむかったり、聖書も読めないイエスがそんな偉い方と話すなんて」

「でも彼は立派に天使や預言者と話しているのよ! 太鼓判を押してもいいわ。彼にはね、昔あなたにさずけられた神様の賜物(たまもの)があるのよ、あなたこそ昔天使ガブリエルと話したことを忘れちゃったの! あの丘の上を、天のお父様と一緒に歩いていたことを忘れてしまったの? 救い主の母となるという大天使の約束をあきらめてしまったの、どうなの!」

「そのおかげでとても悲しい目にあったことをどうして忘れられるもんですか。私、大馬鹿だったのよ、高望みなんかして、苦痛の種をいっぱい集めることにしかならなかったんだから」

「そんなことないわよ。もし本当にあなたが大天使様の言われたことを信じるなら、あなたが心の底から願ったような、とても心の清い息子がエリヤと話し合っても決して不思議じゃないと思うわ」 マリヤは手にしていた洗濯物を放り出し、両手で顔を覆った。

暫くの間彼女は体を震わせて泣き通した。そしておもむろに姉の祈りに応えるかのように言った。

「私が泣いたのは、あれ以来大天使ガブリエルが二度と私にあらわれて下さらなかったからなの。それにイエスのことも怖くてね。昔私が幻を見たばっかっしに、とんでもない目にあったので、きっとイエスも私と同じ目に逢うんじゃないかしら。あの子は他の子のように平凡であってくれればよいのにね」

「そりゃちがうわよ。彼はきっとすばらしくなるわよ。彼の内に秘められている深い知恵は誰も測り知ることなんかできないからね。そりゃそうと、私ね、主人と今度過越祭にエルサレムへ行くんだけど、イエスを連れてってもいいかしら?」

「それはとってもありがたいことですわ。でもヨセフが一銭だってあの子にかけるのはもったいないって言うのよ。彼は一銭だって恵んでもらうことをきらうと思うわ」

「恵むなんてとんでもない! 私たちわね、イエスを信じているのよ。だから神様におささげする献金のつもりでいるの」

「そんならすぐヨセフに話してみて下さい。きっと姉さんから話せば、いやとは言わないかもしれませんから」

それからこの二人の女は衣類をかき集め、赤子をだっこしてナザレに帰ってきた。ヨセフは扉の上に張る横木を作っていた。姉の説得も上の空で聞いていた。ヨセフは、イエスが学校でくだらないことばかりやるので大恥をかかされていることを繰り返し言うだけだった。彼は頑としてエルサレム行きを許さなかった。

彼と姉とが話し合っているところに、近所の人たちがどやどや仕事場に入ってきて、にぎやかに話し始めた。そしてさかんにヨセフのことを褒めそやすのであった。あのパリサイ人がイエスのことを誉めたことを聞きつけたからである。

一人の者が言い出した。

「あの大先生が言ってましたよ。お宅は、ダビデ王様の子孫にあたるんですってね。そうすると大変な御家柄になるんですね」

二人目の者が続いて言った。
「エルサレムの律法学者でも、お宅のイエスのように聖書を朗々と読める者は居ないと言うじゃありませんか!」

三人目の者が言った。
「みんなが言うには、イエスが大きくなったら、きっと大学者ヒル様のようになるんじゃないかって」

彼らが、わいわい話し合っている間に、マリヤは姉に言った。

「お姉さんえらいことになったわね。やっぱりお金を貸してください。イエスを過越祭に連れていくことにきめたわ。なあに、午前中は糸を紡ぎ、午後は一生けんめい働いて借金を返すわ。ねえ、お姉さん、私が失っていたものを昔のように戻して管さって本当にうれしいわ」

「そうこなくちゃね、マリヤ! イエスがエリヤと話したことを疑っちゃだめよ!」

「はいはい、もう二度とそんなこと言いませんわよ。それに悲しむこともね。だって大天使ガブリエルの約束が本当に実現するんですもの。あのとき、みんなが言ってたような、SVつきの悪戯(いたずら)天使の仕業じゃなかったんですね。本当に大天使ガブリエルだったんですね」

そこにイエスが入ってきた。母マリヤは彼のもとにかけより、イエスの肩に手をかけて言った。

「イエスよ、あなたは私の喜びの泉です。私の日々の誇りです。今度こそあなたと一緒に過越祭にでかけましょうね。そこで街々や金色に輝く神殿の姿が見られるのです。

そこで多くのことを学びとり、捧げ物をするのです。神様は心から私たちの巡礼の旅を祝福して下さるでしょう。二人の息子を連れて聖なる都に上京できるなんて、なんてすばらしいことでしょう」マリヤはイエスを抱きしめた。

近所の人たちが帰ってから、マリヤはイエスと二人きりになって最後の疑問をぶつけた。
「どうして字が読めなかった子が急に賢者や学者のように完璧に聖書が読めたのかしら?」

「僕が天のお父様とお話するときに、どうして字が必要なんでしょうか」
「そうじゃなくて、ほら、学校でのことだよ」

「あのときのことですか。それは天のお父様が僕と一緒に居られたからですよ。僕は天の御父の子供じゃありませんか!」

ヨセフが大声でマリヤのことを呼んだので、もうこれ以上イエスと話しておられず、話は中断された。イエスの言っていることがよく解らなかったので、マリヤが姉のそばを通りぬけるとき姉の耳元でささやいた。

「あの子ったら、またヨセフを悩ますような変なことを言い出すのよ、あの子が変なことを言い出したら、あっちの方へ連れ出して下さいね、もうやりきれませんからね」姉のマリヤ・クローパスが言った。

「そうだろうね、あの子が言っていることが解らないからだよ、でもね、私には解るの。あれはね、神様があの子の額に御自分の徴をおつけになり、将来神様の働きをするようになるとの思し召しなんだよ!」この言葉を聞いたマリヤは、改めて心に深く刻みつけるのであった。

第23章 いよいよエルサレムへ
学校の教師は、このままでは治まらなかった。あちこちでナザレ中の子供たちを集めては次のようにふきこんだ。

「お前たちは、あの偉いお方のおっしゃったことをそのまま親に話したと思うが、あれは冗談でおっしゃったんだと言いふらすんだ! 前言を取消さなきゃ今度はお前たちをひどい目にあわすからな、よくおぼえておけよ!」教師の粗暴な性格を知りぬいていた子供たちはふるえ上って答えた。

「はい、そういたします。先生の命令通りにいたします」

そこで彼らは家の者や親戚の者にふれまわり、あれはラビの本心ではなく、そうあったらいいなということを言ったまでだと吹聴した。

それで事態は一変してしまった。イエスは見向きもされなくなった。再びひどい噂が口から口へと伝わった。蛇の毒のような悪巧みは、すべてこの教師と律法学者によって仕組まれたものであった。それでヨセフは、イエスの自慢話をしなくなった。しかし彼はイエスにはとても親切になったのでマリヤは安心できたのである。

あの異邦人ヘリが再びやってきた。相変わらず汚いぼろぼろの着物を身につけて、道路ばたに腰をおろしていた。ヘリはイエスのよき理解者であった。彼は何時間も太陽、月、星など天体のことや、戦いのたえない地上のことを話してきかせた。

さらに、この世界には、春に大きくなる穀物の葉のように、逞しい有色人種があちこちに発生してくる様子などを話してくれた。ヘリは砂漠に住んでいる遊牧民族のことにふれ、いつか必ず彼らにあわせてやると約束した。

「あの人たちは本当に面白い連中なんだぜ。エルサレムにいる学者たちよりはずっとましなことを話してくれるんだ」

彼の話は心に深く刻みこまれていった。イエスは親から独立できたら、きっと遊牧者たちを探しに行こうと考えるようになった。しかし今度のエルサレム行きのことを考えているうちに、エルサレムに行ったら神殿に行き、学校で約束してくれた偉いラビを訪ねる計画などをヘリに話した。

「エルサレムに行ったらね、あの大先生が律法の知恵を教授してくれるんだ! そしたら、そこに居すわって、もうナザレには帰らないんだ! 神殿に寝とまりして、そこに出入りする学者たちから話がきけたらどんなにすばらしいだろうね」

「そりゃよした方がいいぜ。お前は、言ってみれば、野生の鳥みたいなもんだからな。お前はたちまち籠の中の鳥にされちまうぜ。お前の魂は根こそぎ骨抜きにされ、折角の霊力を失くしてしまうことになっちまうよ。ねえ、おれと約束をしてくれよ、絶対にナザレに戻ってくるとな。そのラビが神殿に止(とど)まれと言ったって絶対に断わるんだぜ!」

「うん、そうするよ。神殿の庭は天国の外庭みたいな所だろうから、そんなことをしたら、きっと追払われてしまうだろうね」

「ガリラヤの方がずっといいぜ。いや、それよりも砂漠の方がもっと賢いぜ。おれはなにもエルサレムにいる学者にケチをつける訳じゃないが。問題は、健全であるかどうかなんだよ。

来世の生活に健全な影響を及ぼすもの、それは地上の高い処ばかりじゃなく、生きている勉強は道ばたでも得られるように、見知らぬ処で見知らぬ人々と話し合うことによって手に入るんだぜ」イエスはヘリの言うことが正しいと理解できたので、今度の祭りに上京しても、家族と一緒に必ずガリラヤに帰ってくることを約束した。

いよいよエルサレムに出発するときが近づくと、マリヤの心中には喜びが炎のように燃えさかった。歌ったり、笑ったり、一刻もじっとしてはおられず動き回っていた。彼女の心には一点の曇りもなかった。

彼女はマリヤ・クローパスのお陰で、若い頃に享受(う)けた大天使の約束を再び待ち望むことができるようになった。

彼女の愛情や優しさはすべてイエスに注がれた。夜明け頃、エルサレムへ出発するときには、イエスをしっかりとQdまえてはなさなかった。巡礼の一団は、それはすばらしい世界で包まれていた。

旅をする子供たちには、何と言ってその喜びを表わしたらよいか、その言葉がみつからなかった。彼らは言葉をはずませながら長老たちに質問の矢をあびせ、道中で見るものすべてが新鮮であった。

エスドラエロンの深い谷間にキション川(列王紀上、18・40参照)が流れ、そこで預言者エリヤが偶像バアル神の預言者をやっつけてその預言者四百五十人をその川に投げすてたと言われている場所や、遠くの方に聳えているギベオンの山や谷を眺めながら進んで行った。長老たちは、くたくたになるまで先祖たちの物語をきかせるのであった。

エルサレムに近づくと、少し様子が変化した。日が沈み、うす暗い道にさしかかったとき、遥か上の方から岩づたいに水がしたたり落ちてきて、みんなを驚かせた。そこは〝涙の谷〟と言って、イエスの心の中にひとつの影のようなものが横切った。上の方に目をやると、そこには岩の狭間に沢山の墓があるのが見えた。

イエスはそのとき、人間の生命の儚いことを感じていた。彼は<人間の肉体は、鳥がこのうす暗い谷間を飛び去っていくように消えていくのだ。それは何と目にもとまらぬ速さであろう>とヤコブに呟いた。それから暫く喋らなかった。

ヤコブはイエスに、どうして長い間歩いて足が痛くなっているのに、そんなにうれしそうな顔をしているのかと尋ねた。彼は答えた。

「だって明日は、いよいよエルサレムなんだよ! どんなものが見られるかと思っただけでも胸がわくわくしてくるんだ。きっと天使だって僕以上に喜ぶことなんか出来ないと思うよ」

第24章 大祭司アンナスの衝撃(ショック)
朝早く目を覚ますと、土がむき出しになっている丘に冷たい風があたり、空はどんよりと曇っていた。幼いヤコブは、陽気に唄ながらエルサレムへ向かっている巡礼の群れの中にあって、一人でふるえていた。

ヤコブは自分よりも大きなイエスの手をしっかりと握りしめ、「ねえ、僕、怖いよ! もっときつく握ってよ!」と言った。

実は、エルサレムを囲んでいる外壁に沿って、かなりの数の十字架が立っており、その上に磔になっている残酷な姿が目に入ったからである。死んでいるものもおり、まだ生きて苦しみもがいている者もいた。

禿鷲(はげわし)が彼らの周囲に飛来して鋭い口バシで死人の肉をついばんでいた。まだ生きている者は、恐怖のあまり、うめいたり悲しんだりして、額から油汗をふきだしていた。ヤコブはイエスにしがみついていた。イエスは静かに立ち止り、顔は真っ青になり、悲しみを隠しきれず、乱ぼうな口調で言った。

「これが天の御父の町なのか!」

巡礼の一団は、男も女も、そこを通り抜けたとたん、再び大声ではしゃぎ出し、賛美の詩篇を声高らかに歌い、両手を神殿の方向に向けて楽しげなメロディに酔いしれていた。

クローパスとヨセフを中心とする一団は、道の曲がりくねったあたりに横になるところを見つけ、その上にねそべった。そこは汚い穴の中で、日中でも太陽が当たらなかった。それでもねぐらにありつけた人は幸運であった。

その夜はみんなぐっすり眠れたか性か、明くる朝早くヤコブが目をさました。隣で寝ていたイエスの寝顔を見ているうちに昨日の悲しみは跡形もなく消えていた。

ヤコブとイエスは母からパンをもらってから外の狭い歩道で遊んでいた。ふとあたりを見回すと、遠くにユフラテ河地域からやってきた髭を生やしたユダヤ人がいた。アンテオケやアジアから来た人々もいた。男も女も子供たちもみんな疲れた目付きで起き上がってきた。

顔にはありありと食物に飢えていることをあらわしていたが、同時に希望と夢に輝いていた。もうすぐ神殿で神を讃える喜びが近づいており、さらに其処では、たとえ一瞬(ひととき)であってもローマ人の支配から自由になれることがたまらなくうれしかったからである。

神殿の中庭には、イスラエルの人々が入ることを許され、外国人は、たとえローマの高官であっても入ることができなかった。それだけに、イスラエルの人々の喜びは大きかった。

ヤコブもイエスもはしゃいでいた。ところが突然、赤子を抱いていた一人の女が泣きだして、通りの家の前で座りこんでしまった。立ち上がろうと努めるのであるが、よろよろと後ろの方へ倒れてしまうのである。彼女は夫に言った。

「もう私は一歩も歩けないわ。疲れている上に何も食べていないんですもの。お乳も干からびてしまってこの子も飢えているわ。私ここで待っているから、あなただけ神殿に行って、捧げ物をしていらっしゃいな」

夫の顔には明らかに暗い怒りがこみあげていた。まわりの巡礼者たちがざわめいていた。

「私たちはとても貧しく、その上昨夜エルサナムへ入った所で、なけなしの僅かなお金まで盗られてしまったのです。ですから一切れのパンでも結構ですから妻に食べさせてやりたいのですが」

「おれたちには、ひとかけらの食いものも残っとらんよ。おらが持っている金もつかえねえだよ、おれの妻や子供が飢えちまうからな」

他の者が言い始めた。一人ひとり、弁解を言い始めた。目の前にいる困った人に対して、何もできない理由を並べたてた。自分の町や村に帰れる分しか持ち合わせがないということであった。それに神殿に行ったら捧げ物もしなければならないとも言った。赤子は火のついたように泣き、女はそこで泣き伏してしまった。

周囲の人たちは、もうこの夫婦には目もくれず、曲がりくねった道を通って神殿の方へと立ち去っていった。

可哀想な夫婦だけになったとき、イエスはその女の方へかけより、その日の分としてあてがわれていた食料を全部差し出した。女はじっと見つめ、ひとことも言わず、冬の間飢えきっている狼のようにガブリついた。女が食べ終わってから、厳しい表情をしたユダヤ人が、イエスを祝福しながら言った。

「小さな先生よ! あんたの捧げ物は神殿で捧げられるものより尊いものだね!」

イエスは何も言わず、踵を返して一行の方へ戻って行った。イエスはヤコブに厳しく言った。
「このことは誰にも言うんじゃないよ!」

「だって、あなたのほうが神殿につくころに空腹で倒れてしまうよ。僕の分は全部食べちゃったし、どうしたらいいの?」

「いいんだよ、ヤコブ! 私の天のお父様がちゃんと養って下さるんだからね」

「あなたのお父さんが知ったら、きっと怒りだすと思うよ。お父さんは、大切な自分の分を他の人にあげちゃだめだって言ってたじゃないか! 巡礼の中には食料を持たずにやってくる人がいるんだってよ」

「僕が言っているのは、天にいらっしゃる神様のことだよ。そのお父様が、あの人に僕の分をあげなさいとおっしゃったんだよ! これだけはお父さんもお母さんも、律法学者やパリサイ人でもできない命令なんだよ。天の御父様に対しては、僕はただ〝はい〟と言って従うだけなんだ。此の世のお父様には、私のことについて審(さば)く権威はないんだよ、ヤコブ」

ヤコブはイエスの顔を見ながら黙ってしまった。始めのうちは、一行からはなれてしまったことを心細く思っていたが、イエスは清らかで真っすぐな人だと信じて従っていた。

ところが、あの見知らぬ女がわりこんできて、ヤコブからイエスの心がはなれてしまったように思った。両親からいいつけられたことを平気でふみにじってしまうイエスなんて、と思った。

いよいよ神殿の柱廊が見えてくると、そんなことはすっかり忘れてしまった。山あいの渓流のように、巡礼の一行はあちこちの小径からふきだしてきた。大きなアーチの下をくぐり、ソロモンの柱廊や王の柱廊の前で礼拝した。

あたり一面に、ざわめきが起こった。二人の少年には奇妙な言葉がきこえてきた。両替する商人の罵声である。イエスがヤコブの耳元でささやいた。

「ごらんよ、いつか必ずこの商人たちのいる神殿が崩れる日が来るよ! もう二度とあくどい商売ができなくなるんだ。これらの柱はみんなゆれ動き、倒れ、大きな石は道の上に落下して粉々に砕けてしまうんだ。この商人たちはみんな死んでしまい、蝗(いなご)の大軍が通り過ぎた跡のように、緑地帯はすべて消え失せてしまうんだよ」

「何て恐ろしいことを言うんですか、そんなことが知れたら、いっぺんに投獄されてしまいますよ!」 ヤコブは目に涙をいっぱいためながらイエスのことを悲しんだ。イエスはこのようなヤコブを見て優しく手をとって言った。

「そんなに怖がらなくってもいいんだよ。僕の時がまだ来ていないんだからね」 イエスはおどけた口調でヤコブの涙をぬぐってやり、彼を笑わせるようなことを言って慰めた。すっかり機嫌が直った二人は、父たちが待っている神殿の中庭へ入って行った。そこは婦人が入れない神聖な場所であった。

何時間か祈りがささげられ、鳩や子羊などの捧げ物が潔られ、イエスもヤコブも有頂天であった。高貴な庭のすばらしさ、神殿で焚かれる香のかんばしいこと、行き来する祭司たちの着ている輝くような祭服、薄暗い至聖所のおごそかな光景、あちこちからやってきた信仰のあつい人々の礼拝風景など、見る者すべてを圧倒していた。

昼を過ぎたころはみんな疲れてしまい、女たちと逢うことになっている場所で待っていた。すると突然群衆をかき分けるように堂々たる馬車と一緒に、一人の大きな体つきのパリサイ人がやってきた。イエスはヤコブの耳元でささやいた。

「あの方は僕の友達だ。お父さんがくるまでここで待っててね。お父さんには、あのパリサイ人と話していると言ってちょうだい」幼いヤコブは、うん、と返事をしたものの、イエスがパリサイ人という身分の高い人と話しこもうとする無茶な勇気に飽きれていた。

ところが髭を生やした老人が、ニコニコしながらイエスの手をとり、親切な言葉をかけながら彼を歓迎しているではないか。度肝を抜かれたヤコブは親との約束をすっかり忘れてしまい、パリサイ人とイエスのあとを追いかけて行った。

群衆は大きな部屋の真ん前に群がっていた。その中には数人の番人と、色模様をつけた服の長老がつめていた。

パリサイ人はこの部屋の前でイエスと話していたので、パリサイ人の話を聞きたいと思って群がっていた人々は、ひとことも口をきかず辛抱強く待っていた。すると突然大きな部屋の扉が開いて、一人の男が出てきてどなりだした。

「さあさあ、道をあけろ! 神の大祭司様がお成りになりますぞ! 道をあけろ、もっとうしろにさがれ!」あたりの人々から歓声があがった。堂々としていたパリサイ人の様子が急に変わった。彼の誇らしげな表情が消えていた。大祭司が彼の真ん前に立ち止ったからであった。パリサイ人は地上の石に額がつかんばかりに頭を低くたれた。

周囲の人垣は神殿の柱の後に半分ほどかくれてしまった。それで背の低いヤコブは視線が遮られてしまい、やっと話し声だけがきこえてきた。パリサイ人と大祭司は、エルサレムの道にさらされている半逆人のことを話していた。

幼いヤコブは、大祭司の御付きの者がみんな引きさがっているのに、イエスだけがパリサイ人の近くに立っているので吃驚(びっく)りしてしまった。大祭司は額にしわをよせながら盛んにローマの支配者たちの馬鹿げていることについて話していた。

「彼らは私に酷い圧力をかけているのだ。こんな非常識な時代には、気狂いどもが反乱すれば必ず軍隊によって鎮圧されてしまうのだよ。先だっては、ローマ総督が、いっそのこと神殿の中庭にでもローマ軍が駐屯すればどんなにか皇帝(カイザル)はお喜びになるだろう、てなことを言い出す始末だ。

彼の言葉には、いつも刺(とげ)があるんだ。いつだって私と話すときは、我々を冒pするような脅しをかけてくるんだからね。もうこの神聖な神殿も不潔極まる外国人の手から守られるという保証はなくなったようだね」

二人がこのような話をしていても、御付きの者たちには全然きこえていなかった。突然大祭司アンナスは、パリサイ人のすぐ傍に居るイエスに気がついて怒りだした。

「この子は一体何者だ! ここにも潜り込んだ敵方のスパイではないのか?」
「いいえ、ちがいます。大祭司様。この子は私の親しい知り合いです」

「そんなことはどうでもよい。即刻ひっとらえて牢獄にぶち込んでしまえ!」

この声を耳にしたヤコブは震え上がってしまった。大祭司の激しいそぶりから、投獄とは死刑にあたることを察知したかからである。大祭司は一人の家来に、子供をひっ捕らえるよう合図をしていると、パリサイ人はイエスの体をしっかりと抱きかかえながら口早に低い声で言った。

「この子はまだ子供です。あなた様が何をおっしゃっているかもよく分かっていないのです。どうか寛大なご慈悲をお願いします」

「いや、ならん、この段に到って慈悲など必要ない!」

「お言葉ではありますが、この子はナザレから遥々やってきた小僧っこです。世の中のことは何もわかっていない田舎者なんです。彼は祭りに詣でるために、初めてエルサレムへ上京してきたのです」パリサイ人は真剣になってナザレで彼と初めて逢ったときのことを話し出した。彼の弁舌はさわやかであったので、大祭司の怒りは一陣の突風のように過ぎ去った。

侮(あなど)るような笑みをたたえながら大祭司はイエスの方をふり向いて言った。

「エルサレムに居る律法学者が、一年もかけて学んだものよりもずっと賢いことを、一時間足らずでこの大先生に注ぎ込んだとは、本当に驚いたね。一体誰がそんなことを教えてくれたんだい?」イエスは答えた。

「天の御父様です」

「こりゃすごい謙遜だ。自分の才能を隠すとは! 知恵は稀なもの、乏しきもの程おおきなものを言いくさる。私はお前の賢いそのひとことが気に入った。私に知恵が与えられて以来、何と久しい年月が流れたことよ」

この言葉を耳にしたヤコブには、どうしてもイエスをからかって、パリサイ人をいじめているとしか思えなかった。

「平和をつくりだす者は何と幸いでありましょう。彼らは神の子と呼ばれるでしょう」とイエスは小さな声で言った。この言葉を聞いた大祭司の顔色が変わった。さっきまでパリサイ人と話し合っていたローマの支配に心を痛めていたからである。

「おお、よくぞ言ってくれたな、少年よ! 現実はなあ、誰にとっても平和を保つことは実にむずかしいのじゃ、敵が刃を向けてきたらどうやって平和を保てると思うかね?」イエスは言った。

「敵を愛することですよ! そして迫害する者のために祝福を祈ることによって初めてできることです」

この言葉を聞いて、大祭司アンナスは頭を後に倒し、草むらのように生やしている髭の間から大きな笑い声を出し、高貴な大部屋がひっくりかえらんばかりに笑った。

「なあ、お前、やっぱり大先生の言っている通り、人智から遥かに遠くにあるナザレの夢想家なんだねえ。昔、モーセが神のことばとしていわれた〝目には目を、生命には生命を〟ということを知らんのかね」

「はい先生! しかし復讐は再び復讐を呼んで、それを、繰り返すことは本当に知恵と言えるでしょうか、憎しみを以って征服者に勝てるはずはありません。でも先生なら愛によって征服者に勝つことができると思います」

「おお、小さな助言者さんよ! お前は人類のことをまるっきり知らないんだ」溜め息をつきながら大祭司は続けた。

「確かにお前の言う通りだ、でもお前には賢さと馬鹿が同居しているのじゃ。つまり、お前のようなものが支配者になったら、お前の知恵は、たちどころに国民全体を破滅させてしまうだろうよ。子羊だと知った狼は、愛もへったくりもなく、貪るように自分の餌食にくらいついてくるだろうよ」イエスはなおも答えて言った。

「狼も訓練次第ではないでしょうか。聖書にも、狼と子羊が共に暮らすと書いてあるじゃありませんか」(旧約聖書イザヤ書11・6)

「そりゃそうだ、預言者イザヤは、わしらの時代のことをさして言っているんじゃないぞ、でもお前は仲々賢い奴だ、それが夢想家の果実だとしても、わしは気に入った。でもなあ、征服者が手に手に武器を持って攻めてきたら、いろいろとかけひきをしながら、味方が生きのびることを考えるだろうよ。

やっぱり武器を持っている者が主人なのだよ、この世では。そんな主人を馬鹿な奴と軽蔑するかもしれないが、そいつの言いなりになってしまうんだよ」周囲の者は、はらはらしながらこの様子をうかがっていたが、イエスは堂々と大祭司の顔を見つめているうちに、大祭司の心の中に誰にも言えない深い秘密が隠されていることを察知した。それでイエスは静かに言った。

「霊界に於いては神ならぬ人間を〝主人〟と言ってはなりません」

このイエスの放った一撃は、大祭司アンナスの顔を素手で殴りつけるよりも大きな衝撃(ショック)を与えた。

「神ならぬ人間を主人と言ってはならぬ、とな! こんな単純なことが果たして本当なのだろうか」と呻くように大祭司はつぶやいた。暫くの間、この二人は、じっとお互いの顔を見つめ合っていた。イスラエルを支配しているこの大祭司の顔には深い悲しみが現れて、放心したように頭を垂れていた。

突然頭をあげてパリサイ人に向かって言った。

「わしはこの奇妙な青年ともっと話したいのだが、今日はもうこれ以上話したくない! 奴は知恵があり過ぎて理解力をにぶらせているのじゃ。夢見る者の落ち行く宿命じゃ。だがなあ、奴の言っていることが本当なら、一国の破滅はおろか、ローマ帝国も根こそぎ破滅してしまうだろうよ。何と恐ろしいことよ。お前も奴についていけなくなるだろうな」

これらの言葉を言い残して、大祭司は群がる人々の挨拶やお世辞をていねいに受けながら、部屋の中に消えて行った。大祭司の姿には威厳もなく、顔に憂いが漂っていた。イエスの放ったあの一言が、彼の秘密の部分を抉ったからである。

かつて、青年時代に心から憧れていた真理と知恵の道を思いだしていた。その道は、くねくねした道であり、今ではその片鱗さえも残っていなかった。

第25章 神と富との狭間に
そもそもマリヤが救世主(メシヤ)を産みたいとの切なる願いをもって神に祈り、その実現を夢見たのは、ユダヤ民族の救済のためであった。彼女が若かった頃、ユダヤの国全体がローマ帝国の手によって大変悲しい思いをさせられていた。

彼らの信仰はふみにじられ、散々苦しめられたので、ユダヤ人はローマ皇帝を恨み、若者は革命の機会を狙い、軍隊と結託して秘かに陰謀を企て、ユダヤおよびその周辺からローマの勢力を撃退しようとした。

〝ユダ〟と名のるゴール人が、ユダヤの青年を指導してシーザーの軍隊と真っ向から戦いを挑んだことがあった。彼らは勇敢に戦ったのであるが、力およばず、何百という多くの若者が殺されてしまった。

ユダは暫くの間身をひそめ、丘の上で態勢を整え、再びローマ軍と戦ったのであるが、遂にローマ軍に敗れ、滅ぼされてしまった。その後時々若者たちが軍を組織してはローマ軍を襲撃するのであった。

このような徒輩(やから)は「反逆者ユダ」の手下として知られるようになった。なぜならば、ユダがローマからの自由を望むユダヤ人の心に、解放の火を点火したからであった。(新約聖書、使徒行伝5・37参照)

さて、ローマを悩ませた小刻みな反乱は、当時のローマ総督〝キリニウス〟の怒りをひき起こし、ユダヤ人の支配者階級の長老たちを震え上がらせる結果を招いた。〝サンヒドリン〟(1)のメンバーであった祭司たちは、力づくでは到底ローマ人をユダヤから放り出すことはできないことをよく知っていた。

それだけに支配者たちは、反乱が起きないようにと厳重に監視した。殊にローマ総督から、神殿内部の権力を直々にあずかっていたパリサイ人や祭司は、自分の権力の座を奪われないようにと、必死になって反乱を食い止める努力をしていた。そのうちの一人が、大祭司アンナスであった。

彼は二人の〝主人〟に仕えねばならなかった。一人は、全ユダヤの最高の指導者たる、大祭司として仕える神であり、同時にもう一人は、ローマ皇帝であった。ローマの寵愛を受ける代償として、皇帝の意思通りに従わねばならなかった。

ローマに仕える代償は高価なものであった。アンナスの家の富は益々豊かになった。彼の親族はすべて、キリニウス総督の恩恵に浴し、大きな利益を享受していた。しかしアンナスの心は穏やかではなかった。

ひと晩でも安眠できる日はなかった。彼は常に神殿の長老たち、熱心党(2極端な国粋団体)、パリサイ人、サドカイ人(親ローマ派の一大政党)の動きや、ローマからの直接の指令に悩まされていた。

けれども彼が享ける莫大な報酬の故に、ローマ皇帝の命に服し権力の座を保ってきた。しかし彼は悲しくも、過ちを犯していることを知っていた。だから彼は、少年イエスが彼の心をすべて見透かしていることに驚いた。

少年イエスが口にした言葉は少なく、その内容は大祭司を驚かすほどのものではなかった。しかしこの少年の稀にみる才能、即ち深い悩みを見透かし、過去の記憶をかき回す才能に^U然としたのである。

彼は若い頃、神と人とに忠実に仕える人間になりたいとの夢を持っていた。現実の彼は、毎日のように人々を裏切っていた。ローマ皇帝の言いなりになって、同胞のユダヤ人のためといいながら自分の地位を保全していた。もし彼がローマ総督の命令に背くようなことをすれば、たちまち馘(くび)になることを承知していた。

大祭司のしもべたちは、大祭司の心境が穏やかでないことを感知していた。アンナスは部屋中を行ったり来たり歩き回っていたからである。アンナスの相談相手をしている一人の年老いた律法学者が突然入ってきて、心を痛めている大祭司に尋ねた。こんなことをしたら、いつもなら大声でどやされるところであるが、この時には、もの柔らかな調子で話し出したので驚いてしまった。

「馬鹿な少年めが! ありゃきっとガリラヤの羊飼いか何かであろう。わしを責めおって、心の底まで揺さぶりおった」

「そんな奴は番兵に掴まえさせて棒で叩きのめしたらよかったじゃありませんか、大祭司さま!」

「いやいや、これはきっと神様の御指図だろう」彼は溜息をつきながら言った。

「わしはなあ、この聖都エルサレムに反乱が起きないように努力をしてきたことは知っとるだろう。それを少しでも怠って見ろ、この神殿はたちまちローマ人に潰されちまっただろう」

「そうですとも大祭司様、あなたこそ立派にイスラエルのために尽くしておられます。あなた様こそ真の平和論者であられます」

大祭司は、ほほえみながらイエスの言った言葉を思い出して呟いた。

「そうか、だから神の子というのか。わしは平和を保とうとして罪を犯してきたのじゃ。ローマ人がわしらの信仰を侮り散々貶(けな)すのを密かに助けてきたようなものじゃ。まるで草むらに隠れている毒蛇のように狡猾(ずる)く立ち回っていたのじゃ」律法学者が鋭い口調で言った。

「大祭司様あなたはずっと平和を探し求めてきたではありませんか」

「そこだ! ずっとだ、不名誉にもな! ガリラヤの一羊飼いが、わしの若い頃おぼえていた賢者の諺を思いださせてくれたのじゃ。<神ならぬ人間を主人と言ってはならない>とな。聖なる大能の神の御名において、わしの本当の主人は、ユダヤ人やローマ人であってはならんのじゃ! おお、なんということか! 明日は総督キリニウスから、わしの返事を迫られておるのじゃ。

ローマ皇帝がエルサレムの神殿までも支配したいと言ってきてるのじゃ。もし羊飼いの助言に従って、それを拒否すれば、神の御意志に叶うことになり、神殿は聖なるものとして外国人に汚されずにすむという訳じゃ」

「そりゃいけません大祭司様、そんなことをなさったら、皇帝を怒らせてしまいますぞ」

「神ならぬ人間を主人と呼んではならんという偉大なる教えに反するよりは、ローマ皇帝に反する方がよいではないか?」

「あなた様は、即刻、馘になり、同族の方々はすべて路頭に迷うことになりましょう。あなたさまは、大祭司の座を追われてしまうのですぞ。いやいやそれどころか、生命まで落とされることになりましょう。この件につきましては、大祭司様と総督のお二人以外の者は誰も知らないのですから、適当に処理されてはいかがでしょうか。

外国人が勝手に神殿に入ってきて恥ずかしめたとしても、自分の預かり知らぬことと言えばすむことではありませんか」

「へびの悪知恵め! わしが本当に神を主人として崇める者であれば、サンヒドリンを招集し、全議員の前でこの汚らわしい問題をどう処理したらよいかを話すのじゃ。それから全議員の代表として総督の処に行き、次のようにぶっ放すのじゃ。<サンヒドリンの名に於いて宣言する。もしローマ皇帝が、神聖なる神殿を汚すなら、われら全員、死をもって迎える>とな」

「大祭司様、それは狂気の沙汰ですぞ」

「おおそうともさ、正しい道とは、気狂いじみているものじゃ。だがなあ、その前に、もう一つやっておくべきことがあるのじゃ。つまり、わしが総督の処へ行き、わしの考えを打ちあけてみるのじゃ。わしの出そうとしている命令を知れば、総督は真っ青になって、わしの言うことを聞くじゃろうて」

「それは名案ですね。でもそんな脅迫じみたことが本当にできるのでしょうか」

「あたりまえだ。わしが本気でやるという決意のほどを示さなければ、誰がわしの言うことを信じると思うか!」大祭司は、威厳のある手つきで、律法学者に直ちに立ち去るように合図をした。なぜなら、大祭司はもう彼の甘言に誘惑されることはないと思ったからである。

(註1)
ユダヤの最高裁判所。サドカイ派、パリサイ派、長老の三派より各々代表をだし、大祭司が議長となって審議する。議員は全部で七十二人から構成される。

(註2)
ユダヤの極端な国粋主義者の団体で、ローマ皇帝に反抗するために、テロ活動を展開し、ローマを悩ませていた。


第26章 アンナスとキリニウスの友情
ある日の日没頃、エルサレムに居る二人の支配者が窓辺に立ちながら町を見おろしていた。

民衆の家々は雑然と建ち並んでいて、家々の間を細い路地が曲がりくねっていた。二人は遥か遠くの方で動いている人の群れが、蚊の大軍のように映った。大祭司が口火を切った。

「この民衆の生命は、あなたの権力によって左右されているのですぞ、総督殿」

「そうですねえ。でも、あの人たちは一体何を考えているのか、私にはさっぱり解らないんですよ。その意味では、野にいる獣(けもの)よりも性質(たち)が悪いといえませんか。あの人々は、我々には、判をおしたように黙りこくって、ただ黙々と我らの支配に従っているのです。これでは生き地獄のようであり。永遠の眠りのようでもあると思います。

最も高貴であられるラビ殿、あの人たちはどうしてあれ程神殿やその名誉に強くこだわっているのですか?」

「それは我らの神なる主を重んじているからでございます」

「それでは困るのです。あなたに全権を託しておられる方は、カイザル(ローマ皇帝)でありますぞ、大祭司殿。貴殿はまず第一にカイザルに義務を果たしてもらわねばなりません」

「カイザルに対しては、もちろん法的権威であられる方に従わねばなりませんが、神殿のことに関しては、われらの神に従うべきものと考えております」

「私は、あなたのよき友人としてそれを理解することが出来るのですが、どうしても、その御言葉は地上の主であられる皇帝(カイザル)を批判する響きを持っているのです。ローマ皇帝は、神殿でさえ支配する権力をお持ちのはずです。

帝国内のあらゆる領土及び国民のものは、すべて私のものであると皇帝は言っておられます。ですから神殿も、帝国内に属するユダヤ人が集まる場所としてカイザルの支配下にあるものです」大祭司は答えた。

「総督殿、私に委ねられた権限で申し上げます。私は、口はばったいようですが、全議会のすべての議員を私の思うままに動かすことができるのです。総督も御存知の通り、ユダヤの国はサンヒドリンの議員たちの手で牛耳られています。この際ですから、はっきり申し上げておきますが、カイザルがどうしても聖なる神殿を我がもとしたいというのでしたら、ユダヤ人全員を一人残らず虐殺なさるのがよいでしょう」

「なにをそんなに血迷っておられるのですか、大祭司殿。あなたの御言葉をそのままカイザルの耳に入れようものなら、あなたは、たちどころに今お召しになっている金色に輝く服装が剥奪されてしまうでしょう。

権力だけが物を言うのですぞ。名を与え、またすげかえることができるのです。あなたの同族はみんな全財産を没収され、この町に住む最も貧しい連中と全く変わらなくなってしまうでしょう。権力から離れた人間など、まことに哀れな存在なのです。それに、私も同様総督の地位を奪われてしまいます。

あなたは高貴なラビとして私に深い愛情を示し、私を尊重してくださいました。そのあなたの愛情は今どこに行ってしまったのですか。友情の誓いを破り、サンヒドリンにかけこんで私を裏切り、完全な信頼関係をひっくりかえしてしまわれるのですか」

アンナスは、呻くように叫んだ。

「私にローマの手先となって、支配者の思うがままになれとおっしゃるのですか!」アンナスは怒りと苦痛で彼の大きな体を震わせた。キリニウスは、柔らかく口を開いた。

「私たちは初めてユダヤ人と外国人の間に友情を培ってきました。そのことは誰にも話さず、あなたと二人だけの秘密として守ってきました。だからこそ私たちには格別な喜びが与えられたのです。私たちの出逢いと友情は、民衆の誰とも比べることのできない高価なものでした。

あの当時私たちはお互いに語りあったじゃありませんか、死後も、地獄までも一緒に行きましょうと。それをあなたはあきらめろとおっしゃいます。もう私たちには苦しみも楽しみも失くなってしまいます。

一塊(いちかい)の塵(ちり)となってしまうのです。残り少ない余生をどうしたらよいのでしょうか。私たちがいなくなったら、民衆に対するあなたの名誉や信頼は一体どうなるのでしょうか。権力の座にいる間は、もっと楽しく、一日の真昼のように明るくやっていこうじゃありませんか。

あなたの神々が我々を作ろうと、私たちの神々がつくろうと、それは大した問題ではありません。私たちの義務は、自分自身と子孫を守ることではないでしょうか。子供たちだけが私たちに不滅の道を与えてくれるのです。

そんな馬鹿げたことをすれば、あなたや私をも滅ぼしてしまいます。あなたは私のすべての喜びを盗み取り、私の老後までも奪い取ってしまうのです。尊いアンナス様、どうかわが子孫の名に於いてお願い致します。我が最後の人生を栄させてください。喜びと名誉にあずからせてください。今後の数年間は私にとって最後のものとなるでしょう。

どうか酷い仕打ちをなされず、平和を破らないでください。それだけではありません。アンナス様の御子様方に対しても正しい配慮をなさるべきではありませんか。大祭司様、どうか彼らをも裏切らないでください」

アンナスは、思いがけない総督の哀願に驚いてしまった。大祭司のすぐ傍で待機していた例の律法学者は、二人の秘密会議が行われている間に、三回も口をはさもうと努力したのであるが、できなかった。高い塔の聳えている神殿は、夕陽をうけてきらきらと輝いていた。

白く塗られている部分は、夜になってもうすっかり明るかった。祭司たちの歌う詩篇の流れが微風に乗って心地よく伝わってきた。その上大勢の人々の話し声や歌声などが、まるでバベルの塔のように、ごちゃごちゃと混ざり合って聞こえてきた。大祭司は大声で言った。

「あれは我が民の声だ、見よ、風に乗ってわしの処へやってくる。わしはその声に耳をかたむけにゃならん。それは風に乗ってくる神の御声じゃ。わしはそれに従わねばならんのじゃ!」

大祭司はキリニウスの方を向いて堂々と話し出した。

「私はユダヤ人です。あなたは外国人です。私たちは友情で結ばれてきました。でも、私の体の中を流れている血を変えることはできません。私たちはまた先祖の名を変えることもできません。

大きな溝が、私とあなたの間にあるのです。そして両者をつなぐ橋はかけられないのです。あなたがおっしゃる通り、二人で一緒に地獄へ行くことはできます。しかし真実のユダヤ人は、神とその国家を裏切れないのです」

「しかし大祭司様、あなたは私が今願ったような些細なことでも実行してこられたではありませんか。あなた流に言わせていただくなら、あなたは民族を裏切ってきたことになるのですぞ」

「おっしゃると通りです。だからこそ、私はそれを修復したいのです。キリニウス殿!! 襤褸(ぼろ)をまとった羊飼いの少年が神殿にやってきて、とても阿保なことを言いました。でも彼が言っていることは神の御告げのようなものでした。それがひどくこたえましてね、こんなことを言うんです。『神ならぬ人間を主人と言ってはならない』とね。

これを聞いてから、なぜか、神殿のことや自分の子供たちへの愛情などは、どうでもよくなってしまったのです。こうして今あなたが寄せて下さる友情は、涙がでる程うれしいのです。この友情は、長い間誰にも知られず、ひたかくしに隠してまいりました。今でもこの友情の炎が消えないようにと祈っている程です。

けれども私はやはりユダヤ人であり、あなたは外国人であるという宿命を背負っているのです。大祭司として私一人だけでも神に頭をさげ、礼拝し、選ばれた民族にお仕えしなければなりません。これが私の心境なのです。

カイザルに対する御処置に関しては、あなたの思う通りにやってください。カイザルからの公式文章にはもう目を通す必要もありますまい。私の生涯は今終わったのです」

キリニウスは、大祭司の両手を固くにぎりしめながら涙を流した。
「おお、なんという偉大なるラビであろうか!! あなたの御決意には心から感激いたしました、しかしカイザルからの返事が到来するときには、私の生涯にとっても終わりとなることでしょう」

それから何年か経ってから、カイザルの神殿支配に関する公式決定が発令された。キリニウス総督は、ローマ皇帝より厳しい指令を受け、大祭司アンナスに対しては、病気を理由にして大祭司のポストを退くよう命令されていたのであるが、キリニウスはカイザルの命令を無視し、アンナスを現職にとどめた。

総督キリニウスの勇敢な行為と大祭司に対する友情は、例の律法学者だけが知っているのみで、ユダヤ人やローマ人双方とも二人の間に何があったのかは知るよしもなかった。

遂に総督も現職を]R奪され、ローマ本国へ送還された。しかし彼の名は、ユダヤの歴史には記録されず、ただ〝ガリラヤの羊飼い〟と言う文字だけが残されている。

彼の後任として、〝バレリウス・グラーツス〟が総督に任命され、彼は慎重な態度で臨んだ。赴任当初は、大祭司の追放策をすぐに実践しなかった。アンナスは、イスラエルの長老や民衆から尊敬されていたからである。暫くして彼はその口実を見つけるのに成功した。

それはアンナスがこの神殿の支配を他の者にゆずろうとしていることを突き止めたからである。アンナスにとってこの時期程悲しいときはなかった。彼には依然として<支配欲>が残っていたので、大祭司のポストを離れたくなかった。

そこで彼は実に巧妙な術策を計画し、彼の娘婿〝カヤバ〟を大祭司にすえて、背後から神殿を支配することになった。そんな訳で、<神ならぬ人間を主人と呼んではならない>という言葉をすっかり忘れてしまったのである。一片(ひとかけら)の良心をも失ってしまったのである。

その後、彼は、こっそりとローマに媚びへつらい、尊大なサンヒドリンの議員たちに<おべっか>を使っていたのである。だからこそ、将来再びイエスと再会したときには、イエスに対して最も残酷な判決、即ち〝十字架形〟(1)をくだすことになったのである。かくしてアンナスの麗しい反省の念もローソクの火のように、あっけなく吹き消されてしまったのである。

(註1)
十字架を重罪人の磔刑(たっけい)の道具として用いたのは、おそらくフェニキア人が最初であろう。ローマ帝国がその方法をとり入れるとき、それが余りにも残酷なので、奴隷や凶悪犯人のほかは適用しなかった。


第27章 燕の羽を生やそうとする雀
幼いヤコブは大きな柱の陰から抜け出し、脇目もふらず、大祭司の入っていった部屋の前から逃げ出した。あのときには、イエスの勇気に惚れこんでいて、恐怖を感じていなかったのであるが、やがてその気持ちもふきとんでしまった。

巨大な神殿を目前にして大きな町にいる夥(おびただ)しい群衆を意識したとたん、自分がまるで荒野を彷徨う人間というよりも、狼の洞穴(ほらあな)に放り込まれたような恐怖に襲われた。

薄暗くなった町の中をさまよい、怖い気持ちを押し殺し、唇を強くかみしめていた。口の周りから鮮血が流れていた。遂にヤコブは母親を探し当て、顔を埋めながら大声で泣きじゃくった。

みんなはヤコブに尋ねるのであるが、イエスのことは一切聞き出すことはできなかった。なぜならば、幼いヤコブの心には、あの偉大な大祭司の怒声(どせい)が耳にこびりついていたからである。ひとことでも見た儘のことを話そうものなら、首ねっこを掴まえられて、地獄の燃えさかる火の中に放り込まれてしまうと思いこんでいたからである。

イエスの弟トマスが言った。

「お父さん、イエスとヤコブが立っていた大きな柱から、戻ってきなさいと言われたので僕はちゃんと言うことを聞いたのですが、あの二人はちっともいうことを聞きませんでした。特にイエスは、厚かましくて、ラビの後にのこのこついて行き、内庭に入ってしまいました。それで僕は二人とも見失ってしまったのです。

それからヤコブがどの辺をうろついていたのかわかりません。でも急いで行ってみると、イエスがあのパリサイ人の後ろにぴったりくっついているじゃありませんか。僕もどうしたらよいか困ってしまいました。

お父さんの言いつけを思いだして、あの大きな柱の下で待っていたのです。お兄さんは、また変な病気に取りつかれているのかと心配になって、知らずに内庭へ入ってしまったのです。そうしたら護衛の者がひどく怒り、ここは一般者が入ると罰せられると言われたのです。ですから僕は再び柱の処に戻り、お父さんが来るのを待っていたんです。

僕は兄を見守るために、偉い人しか入れない場所に足をふみいれてしまったんです。僕のせいじゃありません!」ヨセフは言った。

「そうだとも! お前の兄が、お前くらい知恵があって従順ならいいのだが。あいつは親の言うことを聞かず、おまけに聖なる場所へ入り込んで。ひどいことをやってくれたね。全く手が付けられりゃしない!」

二人の女は何か恐ろしいことがイエスの身の上に起こりゃしないかと心配でたまらなかった。この二人は心からイエスを愛していたからである。

「ここに平安がありますように!」と言って聞きなれた声がひびいてきた。みんながその方を見ると、細身のイエスが夕陽に輝く金色の光の中に立っていた。彼の顔付は、実に美しく、神秘的で、両眼の輝きは王者の風格を備えているように見えた。パリサイ人と話し合ってからのイエスの風貌は一変していた。

父のヨセフでさえ、後ずさりする程であった。ヨセフはイエスを叱るつもりで言い出した。

「お前は聖なる場所に入りこんで、汚したと聞いているが、それは本当か?」
「とんでもありません。僕がどうして聖なるものを汚すというんですか。清らかな心の持ち主がどうして汚すことができるのですか?」

「昔の病気がまた始まったようだな、しかも幼いヤコブまで巻き添えにして、今まで何をしてきたのかぜんぶを話してごらんなさい」

イエスは頭を横に振って何ひとつ答えようとしなかった。そんなイエスをみて、ヨセフは激しく怒りだした。イエスはなおも沈黙を続け、何ひとつ語らなかった。周囲(まわり)の者は気が気でなく、何でもいいから話すように強く迫った。

それでもイエスは口を開こうとしなかった。例のパリサイ人との固い約束を守っていたからである。

脅(おど)してもすかしてもイエスの固い口を割らせることができないと知ると、今度は幼いヤコブに矛先を向け始めた。怯えたヤコブは、口がきけず、ただベソをかいて泣きじゃくるだけであった。

困り果てた家族の者は夕方になったので、神殿から街へ出て行き、宿探しを始めた。ヨセフは一家の長として何とかイエスの口を割らせる懲罰はないものかと考えあぐんでいた。マリヤに夕食の支度をさせ、イエスの分だけは別に用意させた。そしてヨセフは頑固な気持ちを和らげ、両親の言うことを聞いたら夕食をたべさせてやると言った。

母マリヤはいろいろとイエスに意見をするのであるが、かくも深く愛している母親に対しても頑として口を閉ざすのであった。

マリヤは一晩中ねむれず、ヨセフの懲罰を無視して息子に食べ物を与えたいと思っていた。夜明け頃、一条の光が射し込んで来た頃、マリヤは起き上がり、ヨセフがぐっすり眠っていることを見とどけてから、這うようにして戸の傍で横になっているイエスの処に行った。イエスは眠っていなかった。

薄暗い部屋の中で、彼の顔は青白く見えた。マリヤが耳元でささやいた。

「イエス! 起き上がって外に出てきなさい。音をたてるんじゃないよ。何かおなかにいれるものを用意してあげるからね」

イエスは母のゆう通りにやってみたが、体の方が弱っていて、いうことをきかず、地上に倒れてしまった。

「僕もうだめだよ。断食と疲れで立ちあがれないんです。お母さん、僕のことを構わないでください。お母さんこそ眠った方がいいですよ」マリヤはときどきひどくびくついて、ヨセフにさからったときに見まわれる癇癪玉(かんしゃくだま)を怖れた。

ヨセフは気の短い人であった。井戸に転落してから彼の健康は勝れず、病める体は彼の魂を蝕み、ますます八つ当たりをするようになった。マリヤは彼の機嫌を損ねないように気を配ってきたのであるが、息子を思うあまり、恐怖心をふりはらって、ぐっすりとねこんでいる夫の傍へにじり寄った。

ヨセフの腰にしっかりと結びつけている葡萄酒の入った革袋をそーとはずしてから、家族の者が寝ている間を忍び足でまたぎながらイエスの処へ運んできた。イエスに葡萄酒をのませ、パンを食べさせてから戸外へ連れだした。

「ねえ、お前は今日神殿に行くのを止めとくれ。お父さんが目を覚ましたら、昨日のことをあやまって、何もかも全部話してしまったらどうだい。そうでもしなきゃ、私たちの楽しみが目茶目茶になってしまうんだよ」

「お母さん、それはどうしてもできないんです。僕はそのことを絶対に誰にも言わないと約束したのです」

「一体誰とそんな約束なんかしたの?」母は悪友でなければよいがと、質問した。
「とても偉い賢者です。それ以上僕に言わせないでください」

母はイエスのためになることだということを懇々と諭した。母は、イエスとヨセフの関係が日ましに悪化していることを恐れた。そしてその溝は次第に大きく広がってきて、父のイエスに対する偏見が抜き差しならぬところまで悪化し、目を覆いたくなるようなひどい折檻をするようになっていた。イエスは母から少し離れて言った。

「お母さんは、うちのお父さんの名誉を大切にするようにおっしゃいますが、その前に、天におられる本当の御父様のことを大切にしなければならないんじゃないでしょうか。僕が嘘をつき、大事な約束を破ったらどんなに天の父上を裏切ることになるでしょう。

僕たちは、天の父に似せられてつくられたんじゃないのですか? 僕は絶対に口を開きません」マリヤは答えた。

「よくわかりました。その代り、明日からは、自分勝手に出掛けることは許しません! 私たちから離れないように、いつも一緒にいてちょうだい。ねえ、お願いだから、何でもお父さんの言うことを聞くと約束しておくれ」

「出来ないことを約束しろとおっしゃるのですか?」
「両親の言うことがきけないのですか?」

「そうではありません。僕はどうしてもやらねばならないことがあると言っているのです。お母さん」

二人が話し合っていると、宿の中からヨセフの呼ぶ声がしたので、母は急いでヨセフの処へとんで行った。マリヤはもう臆病な妻ではなかった。勇敢な母として何もかも自分がイエスに対して行ったことを告白した。

ヨセフが肌身はなさず持っていた葡萄酒は、病気で倒れた時や、旅の疲れで動けなくなったときの非常用として大切にとっておいたものであった。その葡萄酒をイエスに飲ませたことを正直に話したのである。マリヤのやったことを知ったヨセフはひどく機嫌が悪かった。それから二日間というものは、二人の間に冷戦が続いた。

ヨセフが口を開くときは、マリヤにあたるようなことしか言わなかった。でも殆んど黙りこくっていた。それがかえってマリヤには辛かった。それまでは、エルサレムという大きな聖都に来て新しい体験や様々な喜びを分け合っていた。それでも俗人であったが、ヨセフは心のやさしい男であった。

夜になってから彼は小さなプレゼントをマリヤにさし出して、おれが悪かったと詫びを入れ、マリヤの御機嫌をうかがった。

彼はもうイエスのことを持ちだすのをきらい、またひどく折檻したことを詫びる気もなかった。昔の古傷がもたげてきて、イエスのことを誤解していたことや、大恥をかかされたことを思い起こしていたからである。ヨセフは同行しているクローパスに嘆いて言った。

「イエスは時々阿保な霊にとりつかれ、とてつもない馬鹿なことをやらかすんですよ。ナザレでは律法学者なんかにたてついて自分の馬鹿をさらけ出すんだから、始末におえないやつですよ」クローパスは彼に意見した。

「あなたは、まるで燕の羽を生やそうとする雀のような御方だ! あなたは遥か遠い彼方にまで飛んでいける羽をつけたイエスには到底追いつけないでしょうよ。すべての点でイエスはあなたと違うからです。あとになって悔やまねばならないような審判はなさらない方がよいですね」

第28章 先なる者が後に
それから二日間というものは、イエスは母の一行の中にあって、一時間足りとも母のもとを離れなかった。

婦人が入れない神殿の中庭の前でもイエスは中庭に入らず、母たちと行動を共にした。きっと中庭に入って祈りたかったことであろうが、一切それもしないで、女たちと同行した。母マリヤは鳥のように明るくお喋りし、時々歌ったり、はしゃいだりしていた。イエスとマリヤ・クローパスがお互いに尊重し合っている様子がとてもうれしかった。

彼らが市場にさしかかって商人たちが売りさばく様子を眺めていた。店頭では色取りどりに美しく刺繍された布地が人目を引き、殊に単純なガリラヤの女たちの心をとらえた。その他蜂蜜、穀物、ワイン、豪華な服、食品類、豊かな果物などが並べられていた。女たちが店頭の珍しい商品を見ている間、イエスは通り過ぎて行く群衆を見つめていた。

店頭の品々を物欲しそうに眺める飢えた乞食、遠くからやってきたユダヤ人、エチオピア人、ギリシャ人、エラム人などがいた。さらにアラビアやローマからやってきたユダヤ人もいた。

ある人の顔は枯れ葉のよな茶褐色をしており別な人の顔は熟した葡萄のような黒ずんだ色をしていた。若者たちの髪の毛は美しく、周囲の山々からやってきた羊飼いや農夫などもいた。これらの人々はみんなエルサレムの一大行事である過越祭に参加するためにやってきたのである。

母マリヤはこのような雑踏の中では、到底イエスは夢見るひまなんかないだろうと思った。

イエスは目の前を通り過ぎて行く人々の顔を丹念に見入っていた。まるで通行人の数をかぞえ、一人一人の顔の特徴を念入りに掴もうとしているのであった。マリヤ・クローパスはめざとくそれに気付き、イエスに何をしてるのかと聞いた。イエスは答えて言った。

「この人たちの胸のうちに何が潜んでいるかを見ていたんです。人の額を見ると、その人の性格や過去が封印されていますが、目を見ると何を求めているかが解るんです。

物質的なものか、霊的なものか、あるいは、権力的なものか、奉仕的なものかといった具合にね。でもね、僕がこうしてこれらの人々が何を求めているのかを読み取っていると、やはり天の御父様が僕に与えようとしておられるお仕事はこれなのだということが解ってきたのです」すかさず母マリヤが言った。

「お前は本当に変な子ね、こっちにきて一緒に楽しみましょうよ。他人様(ヒトサマ)の秘密なんか探るようなことはおよしなさい」

イエスは母のあとについて行った。一行は笑ったり、冗談を言い合ったりしながら一日中あちこちを歩きまわった。

みんなはくたびれたが、母とイエスは本当に楽しむことができた。彼らは見るもの聞くものすべてに感動をおぼえ、互いに喜びを分かち合った。この喜びにあふれた平和をかき乱す二人の者、ヨセフとイエスが一緒でなかったことを幸いして、此の世のものとも思えぬ程の喜びを味わった。

それは人間が地上を離れて赴く最初の世界に共通する無垢なる意念(オモイ)が支配していたからである。

夜になってガリラヤ勢が集まってきて、その日にあったことを互いに話し合った。親族の一人がイエスを詰(ナジ)ってヨセフに言った。

「お前さんの子供はまだ一人前に成長しとらんようだね。それにしても女々しい男の子のようだ。あの子はいつも母親と叔母にくっついているんだから」みんなが、どっと笑いイエスのことを嘲(アザケ)った。するとヨセフが眉をひそめながら言った。

「みんなが言う通りだ。こいつは大工の腕も上がらないし、おやじの言うこともきかない。こいつはもう子供じゃないのに年下の子供と遊んだり、年上の女どもとしか話さないんだよ」イエスは憤然(フンゼン)として言った。

「僕はね、人の心の中に隠されているものが何であるかを知りたいのです。普通の大人よりも、女性や子供たちの方がとっても正直に教えてもらえるのです。彼らは僕らと違ったやり方で〝生命〟(イノチ)のことを感じとっているのです。

僕が大人になる前に、子供や善良な女性の心の中に秘められている無垢な清らかさや美しさを知っておきたいのです。

さもなければ、僕の心は盲目になり、霊的に乏しくなってしまいます。ですから幼い子供たちや、か弱い女性の方がみなさんよりも偉いのかもしれません。〝先なる者が後になり、後なる者が先になる〟のです」

ヨセフは嘆くような調子で言った。

「馬鹿もいい加減にしろ、いつになったらお前から阿保な霊が立ち去るのだ! ナザレの律法学者も言うはずだよ。

親の誇りも喜びも消しとんでしまうような馬鹿者だってね。何だって、先の者が後になり、後の者が先になったりするんだ! 子供が大人よりも偉かったり、乞食がサンヒドリンの大先生より偉いだなんて! なんてこった、この馬鹿息子めが、頭でも冷やしてきたらどうだ」

イエスがむきになって反論しようとしたが、母親の合図で彼は黙ってしまった。後日マリヤ・クローパスがイエスに質問した。

「あの時あなたが言っていたことはどういう意味なの? ええと、最初の者が最後になったり、最後の者が最初になるとか言ってたけど。それから、か弱い者や乞食が支配者や大先生よりも偉いとか、それ本気で信じているの?」

「僕はね、この世のことではなく、霊界のこと、それに、これからやってくる〝とき〟のことを話そうとしたのです。

僕はあの日、〝クレテ島〟(地中海第四の島)からやってきたユダヤ人の巡礼者が、もう一人の巡礼者に一片(ひとかけ)らのパンを与えているのを見たのです。パンを求めた巡礼者はお金が無くて、食べるものが買えず、せめて子供にだけでも食べさせてやりたいと叫んでいたのです。

パンを与えたクレテ人は、弟から何て馬鹿なことをしたのかと責められていました。天の父なる神様の目からごらんになれば、どうしても此の貧しいクレテ人の方が最初に神様から迎えられる人であり、飢えた子供の泣き声を聞きながら知らん顔をして通り過ぎて行った金持ちは、神様から迎え入れられるのは仲々むずかしいということです」

「でも金持ちの中にも善意を大切にしている人がいるかもしれないわ。あなたが見かけたけちな金持ちがそうだったからといって、みんながそうだと決めつけてはいけないわ」

「でもね、伯母さん、金持ちが霊的に向上したり、愛の業をすることは、とても難しいのです。自分の財産のことしか頭にないからです。だから金持ちは、飢えた子供たちの叫び声が耳に入らず、霊界のことを考える余地もなく、まして人々の心に宿っている愛のことがわからないのです。

支配者や金持ちの商人は、一見して偉そうに見えますが、神様から見たら、決して偉くはないということです」

マリヤ・クローパスは、この言葉を聞いて黙りこくってしまった。イエスの言っていることが、地上のものではなく、霊界の知恵であることを感じとったからである。そういえばガリラヤの丘でイエスが預言者エリヤと共に歩いていた光景や、それよりずっと前に、彼の母マリヤが同じ丘の上で神様と対話してしたことを思いだしていた。

第29章 イエスを見失う
ヨセフの心には重苦しい雲がたなびき、イエスに近寄るのが苦痛であった。支配者や偉い人々に向けられたイエスの言葉が妙に胸につかえて、ヨセフの心は荒々しくなっていた。

ヨセフとイエスの仲がこれ以上険悪になっては大変だと感じてるマリヤは、クローパスの処に行ってこのことを打ちあけた。賢い商人クローパスは何か困ったことがある時には、自分の顎鬚(アゴヒゲ)をひっぱりながら妻の方を眺めるのであった。妻は彼に提案した。

「ねえ、あなた、ヨセフの泊まっている宿はせまいので、エルサレム滞在の最後の二日間はイエスをうちで引き取りましょうよ。私たちはイエスをとても愛しているからとてもうれしいわ」

話は直ぐまとまり、クローパス夫妻はイエスの面倒を見ることになった。ヨセフの態度は一変した。彼の陰うつな気分はたちまち消えてしまい、マリヤとトマスと三人で愉快に街を歩き回った。神殿に行ったり、あちこちを見学した。昔の仲間の処を訪ねて挨拶をしたり、エルサレムに引っ越した連中と旧交を温めたりした。

神殿に来て、ヨセフとトマスの二人が大きな礼拝堂の中に入り祈りをささげた。荘厳な讃美歌に耳を傾け、香炉からたちこめる煙が堂内に満ちて芳香を放ち、うっとりとして彼らの心がなごむのであった。三人は満ち足りた気分で神殿を立ち去った。翌日も神様の御守りのうちに過ごせることを信じながら。

さて、イエスはクローパスに連れられて行動した。イエスは森の中の仔鹿のように温和(オトナ)しく見えたが、同時に野性的でもあった。

クローパスはしきりにヨセフとイエスの間にわだかまっている誤解の原因を聞き出そうと努めるのであるが、彼は全然心の扉を開かず何も言わなかった。それでもクローパスはとても楽しかった。

イエスの心にある麗しい愛と強さをひしひしと感じるからであった。それは実に澄み切った清らかさと機智に富んでおり、まるで大きな鳥が目にもとまらぬ速さで山や平地を飛びかけるようであった。

イエスの話を聞いていると、クローパス夫妻の心に次から次へと豊かな幻が浮かび、二人がもう少し若かったらきっとイエスに立派な相談役になって欲しいと願い出たであろうと思える程であった。彼は心から尊敬される律法学者のようであったからである。

ガリラヤの一行が、いよいよエルサレムを去ろうという前日になってペタニヤに住んでいるクローパスの下僕から一通の手紙が届けられた。それには、折角エルサレムまでおいでになったので、数キロしか離れていないペタニヤの実家に立ち寄って欲しいと書いてあった。

クローパスと妻は相談の末、予定よりも一日早くエルサレムを発つことにするとヨセフに知らせた。

次の朝、クローパス夫妻は、イエスと話しているのが楽しいので、ヨセフの宿にはやらず、出発間際までイエスを留めおいた。クローパスはイエスに両親が泊まっている宿に行き、両親が最後の神殿訪問を終えて帰ってくるまで待っているように言った。クローパスの妻マリヤが言った。

「またこの子は仔鹿のようにどこかへ行ってしまうんじゃないの」

「とんでもない。彼はそんなことはしないよ、マリヤ! 彼はちゃんと言われた通りヨセフの宿に行くとも。僕たちと一緒になってからはイエスはなんでも言うことを聞いたじゃないか」妻マリヤは溜息をつきながら言った。

「そうだわね、でも天のお父様から話しかけられたら最後、誰が何を言っても聞きやしないんだから」クローパスは笑った。

「おまえも世の母親と全く同じだね、子供にはあまり必要ないことをくどくと言うんだから。イエスに関しては全く心配ないよ!」

「そうだわね、イエスは私の本当の子供のように可愛いのよ。だからイエスがヨセフやマリヤのもとに居るときには、とても落ち着かなくて心が休まらないんだわ」

一条の柔らかい光が、クローパスの妻の顔をよぎった。夫が目を見張るような美しい妻の顔を見て、二人の間は再び新鮮な仲になるのであった。この夫婦はお互いに罵りあったことがなく円満な良きカップルであった。

イエスはクローパスに言われた通り、曲がりくねった道を歩いてヨセフの宿に行った。そこには誰も居なかった。

暫く宿にいてから彼は考えた。これでいったんクローパスの言うことは果たしたのだと。彼は再び足の向くままに歩き始めた。足は一人でに神殿の方へ向かった。後になってヤコブに打ち明けた話によれば、彼はそのとき幻に導かれていたということである。

<天の御父様が私を導いてくださったのです。それで父母のことは全く頭にありませんでした。やがて祭司の庭の入口にも行くように言われました。そこで用事が告げられるであろうとも言われました。>

イエスは待っている間中、広い神殿の中に居て多勢の巡礼者が出たり入ったりしているのを眺めていた。余程綿密な打ち合わせでもしない限り、親族や友人と逢える場所ではなかった。しかし例のパリサイ人が心配そうな顔付をしながらイエスの目の前を通って行くではないか。

イエスは小おどりしながら見守っていると、彼はまるでイエスには用はないと言わんばかりに入口の方へ歩いて行った。すると急に立ち止まり、ぐるっとこちらを向いてイエスの方を見た。目に輝きがともったと思うとイエスの方に歩いてきて両手をさし出しながらイエスに挨拶した。

「イエスじゃないか! お前を探していたのじゃ!」彼は自分のことをすっかり忘れてしまったかのように、大声をはりあげて自分についてくるように言った。二人は秘密の道を通り神殿を抜け出し、ひとことも喋らずにパリサイ人の家にたどりついた。パリサイ人はイエスを客として迎え入れたのである。

「夕方になると親たちが僕の帰りを待っているんですが」

「そうだね、わしの召使を出して、わしと一緒にいるからと知らせてあげよう」パリサイ人の胸のうちには、多くの心配事が詰まっていた。それで彼は遂にヨセフとマリヤに召使を遣ることをすっかり忘れてしまった。

ヨセフとマリヤは、クローパスがひとあし早く出発したことを知っていたので、イエスも一緒について行ったと思い込んでいた。何一つ心配することなく、明くる朝早くガリラヤの一行と共にガリラヤに向けて出発した。連日の観光や巡礼の旅でみんなの足は痛んでいた。彼らがクローパス夫妻に追いついたときには、足が折れそうに疲れきっていた。

クローパスがたずねた。

「イエスはどこに居るのかね」ヨセフは言った。

「お兄さんと一緒じゃなかったんですか?」

「そうじゃないんだ、僕たちが発つ前に、あなたの宿へ行かせたんだが」

「まさか! 私たちは全然見かけませんでしたよ」

「そんならイエスは、私どもの言うことを聞かず、エルサレムに残っていて、今頃街の中をさまよっているんじゃないだろうか」

マリヤは大声をはりあげて叫んだ。

「どこへ行ってしまったの? もう帰ってこなかったらどうしましょう!悪人にさらわれて奴隷にでも売りとばされているんだわ!」マリヤの深い悲しみを感じたヨセフは、イエスへの怒りを通りこして懸命にマリヤを慰めようとしたが無駄であった。夜になってもマリヤは眠れず、一晩中彼女は喚き続けた。

「私の大切な宝物、私の愛する息子よ、もう二度とお前に逢えなくなってしまったんだわ! 奴隷に売り飛ばされたか、熱心党に捕まって反逆分子にさせられたか、どちらかにきまっているわよ! ああ! あの子が私からもぎ取られるくらいなら、だれか私の右手を切り落としてちょうだい! あの子を取り戻してくれたら、喜んで私の目をくりぬいてもいいわ」

マリヤはひと晩中喚き通し、体を捩(ヨジ)らせながらのたうちまわった。ヨセフはもう手が付けられず、クローパスに助けを求めた。クローパスは堰を切ったようにヨセフに言った。

「今直ぐにエルサレムに引き返すんだ! 僕の驢馬を使いなさい。絶対に歩いてはだめだ! このままぐずぐずしていたらマリヤがもだえて死んでしまう。母親の愛情とは、こんなにも強いものとは今まで知らなかった」ヨセフが言った。

「マリヤとイエスの絆は特別なんですよ。マリヤはイエスのことを何も知らないんですよ。奴は苦痛と悲しみの因(モト)をつくるだけなんですから」ヨセフの言葉を遮るようにクローパスは言い放った。

「マリヤが冷静になったときを見はからって、一刻も早くエルサレム行きのことを話してあげなさい。きっと落ち着きを取り戻すと思うから」

クローパスは、イエスのことを理解できないヨセフの心を嘆いた。何を言っても聞く耳を持っていないことが悲しかった。ヨセフとイエスは、まるで言葉が通じない外国人のようであった。

第30章 大いなる知恵を語る
エルサレムに戻ったヨセフとマリヤの目には、この街がアラビアの荒野よりもひどい不毛の地に見えた。彼らは方々を歩き回り、知らぬ人や巡礼者を片っ端からつかまえては、細身で浅黒い少年を見かけなかったかと尋ねた。しかし全くつかみどころが無かった。

二人は万策尽きて何をしたらよいかもわからなかった。次男のトマスはクローパスに預けてきた。

そうこうしてるちに、まる二日が過ぎてしまった。イエスに関する手がかりは何ひとつ得ることができなかった。マリヤは、まるで強い陽射しに照りつけられた花のように萎んでいった。

ふと、ヨセフは大工や石工が集まってつくっている組合のことを思いだし、その親方の処にでも出かけてみる気になった。その親方は、今ではかなり高い地位にあげられ、パリサイ人や祭司の間でも結構重んじられていた。恐る恐るこの親方を尋ねた結果、ガリラヤ人の噂を耳にすることができた。

愚か者はぺらぺら喋り、賢い者は相手の言うことに耳を傾けるものである。御多聞にもれず、ヨセフはぐう愚者の役割を発揮した。彼はイエスのことについて不必要なことまでも、ぺらぺらと喋りまくった。

「やつは近頃こんなことまで言うんです。偉い者程卑しいんだ、なんてぬかすんです。ひどいことを言うじゃありませんか、国の支配者や長老たちは、庶民よりも下衆(ゲス)な人間だとか、祭司さまや議員の大先生でも奉公人同然だなんて言いくさるんでね」

これを聞いていた親方は顔をしかめながら言った。

「お前の息子がそんな馬鹿げたことを言ってるんじゃ、確実に、熱心党の連中にとっつかまっているよ。やつらはあの丘の上にうようよいるんだよ。そんな噂きいたことないかね」ヨセフは知らないと答えた。親方は続けた。

「とても馬鹿げた話だから、本当かどうかわからないんだが、何でも祭りになると熱心党のやつらが街中をうろつき、エルサレムに上京してくる阿保な小僧たちを掴まえていくそうだ。奴らの手口というのは、お前たちを立派な兵隊にして軍と戦うイスラエル軍の将校にしてやると言って欺(ダマ)すんだそうだ。

きっと同じ手口でお前の息子もエルサレムでしょっぴかれちまったんだよ。今頃は、やつらの隠れ家にしている洞穴(ほらあな)にでもいるんじゃないか。やつらは、イスラエルの救済てな格好いいことを口実にしてるんだよ。

実際にやってることは、商人たちの行列を狙って、盗人を働いているんだ。そういえば家の手合いの者が昨日の夕方、街の外で西の方へ連れていかれる若者たちを見かけたそうだ、イエスもその中にいたんじゃないか。

何でも水が欲しいって言っていた若者が、さかんに〝イエス〟と呼んでいたそうだ。お前が話してくれた息子のイメージとそっくりな気がするね。権威にたてついて支配者や長老たちを罵ったんだよ、お前の息子は。金持ちの商人を襲って、とっつかまって、今頃エルサレムの城壁の外で樹に吊りさげられているんじゃないか」

親方の最後の言葉を聞いた途端、マリヤは卒倒してしまった。ヨセフは身をかがめてマリヤを抱き上げ、親切な親方の家に運んだ。おかみさんが甲斐甲斐しく介抱した。泥をふきとってくれたり、気付薬などを与えてくれた。

徐々にマリヤは回復したが、いっぺんに老けこんでしまった。ひとことも口をきかず、ただ言われるままに身を委(マカ)せていた。

その夜は親方の家に泊めてもらうことにした。次の日になって、もう一日だけでもゆっくりするように勧めてくれたのであるが、マリヤは次の日の朝には、ナザレに帰りたいとヨセフにせがんだ。マリヤは淡々とヨセフに言った。

「ナザレに帰ったらきっとよくなると思うわ。この街はとてもやかましくて居たたまれないわ。私が愛しているイエスの性格からは、どうしてもあの子が泥棒の仲間になって、洞穴の中に住んでいるとは思えないの。

きっと何か不運な罠にひっかかっているんじゃないかと思うわ。今私の前に天使があらわれて、イエスが悪霊に取りつかれていると言っても私は絶対に信じないわ。ねえ、ヨセフ!今から親方が言ってた城壁の外に行き、本当にあの子が樹に吊り下げられて死んでいるか見に行ってみましょうよ。この眼で確かめなきゃ,死んでも死にきれないわ」

親方の家を出るとき、彼らはもう一度神殿に立ち寄って、イエスが悪者から救い出されるように祈ろうということになった。単純なガリラヤ人は、尊敬を集めている親方の言ったことを一語一句疑うことを知らなかった。親方は金持ちで雄弁だったので、このガリラヤ人は彼が言っていることが最も正しいと思いこんでいた。

ヨセフとマリヤが神殿に通じる石階段を登りかける頃は、もう薄暗くなっていた。むしあつい風が街の中を吹いていた。ヨセフとマリヤは、よろめくように歩いていた。もう二度と帰ってこない息子のことを思いつめながら。

ヨセフとマリヤは、離ればなれになって祈った。二人は神殿のど真ん中にいて、そこから動こうとしなかった。ヨセフは自分を責めながらマリヤに言った。

「おれが間違っていたんだ。軽率なことばかり言ってイエスの心を傷つけちまったんだ。だから臍(ヘソ)を曲げたんだよ。あんなにどやしつけなければイエスは泥棒の仲間などにならなかったのに、なんとおれは馬鹿なことをしてしまったんだろう! マリヤ! おれを許してくれ。

おれは、腕のいい大工としてあいつが誇りに思えるように一生懸命やってきたつもりなんだよ」ヨセフは頭を低く垂れ、押し黙ってしまった。マリヤは彼を慰め、彼の弱さや失望を救おうと努めた。

マリヤは静かな道を選びながら群衆から遠ざかった。ヨセフはマリヤの腕に引かれ、慰めの言葉をきいていた。二人はいつのまにか聖所の中に踏み込んでいるのを知らなかった。一人の老人が手を叩いて大声を出すまでは解らなかった。そこは祭司や長老以外の者は一切入ってはならない聖所であったからである。

二人が目をあげて見ると、そこには美しい色の祭服を着て、髭を生やした賢者たちの顔が多勢いて、その前に一人の細身の少年が石のブロックの上に立ち、互いに話し合っている様子が見えた。

ヨセフとマリヤには、長老たちの質問や少年の賢い返答のやりとりの内容がさっぱり理解できなかった。二人が少しずつ近づいて顔の輪郭がわかる所まで来たとたん、マリヤは叫んだ。

「あれはイエスよ! 私の愛するイエスだわ!」マリヤはすんでのところで、目の前にいた白い髭の老師をつきとばしてイエスのところにかけよろうとしたが、ヨセフはマリヤをしっかり押さえつけながらささやいた。

静かにしろよ、マリヤ! この方たちは、お偉い方々だ。支配者、長老、律法学者の方々だ。さあ、地べたに頭を押し付けてお辞儀をしなくては」

一人の少年が白い祭服を着せられて、長老賢者の真只中に立ち、預言者のような風格で語り出す偉大な知恵を耳にして、彼らは大いなる喝采をおくるのであった。その様子を見ていたヨセフとマリヤは、再び穏やかになっていった。