第7章 心霊治療
「心霊治療によって奇蹟的に病気が治る・・・それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚める所まで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終わったことになります」
シルバーバーチの心霊治療感をせんじつめるとこの言葉に尽きるようです。つまり心霊治療も魂の開発の為の一つの手段であって、単なる病気治療だけに留るものではないと言うのです。
数ある驚異的心霊現象の中でも特に心霊治療、つまり奇蹟的治療の現象は、歴史の中に多くの例を見ることが出来ます。
聖書に出てくるイエスの話などは、聖書と言う世界的超ベストセラーのお陰であまりにも有名ですが、実際には洋の東西を問わず、世界のどこでも起き、今なお毎日のように起きていると言っても言い過ぎではありません。
しかし一人の患者を見事に治療した心霊治療家が次の患者も同じ様に奇蹟的に治せるかと言うと、必ずしもそうではありません。そこに“何故か”と言う疑問が生じます。
そしてその因果関係を辿って見ると、シルバーバーチが一番強く説いている因果律の問題に逢着します。因果律は当然、これ又シルバーバーチが強調する“苦難の意義”と密接につながっており、結局それは人生そのものとなります。
シルバーバーチが心霊治療を他の現象以上に重要視するのは、それが人生そのものの意義と共通した要素を持っているからに他なりません」
ではシルバーバーチに語ってもらいましょう。
『人間には、ただ単に病気を治すだけでなく、魂の琴線に触れて霊的真理に目覚めさせる偉大な力が宿されております。私はこれからこの霊力について語り、あなた方に是非理解して頂きたいと思います。と言うのは、心霊治療もそこに本来の存在理由があるからです。
心霊治療によって奇蹟的に病気が治る・・・それはそれなりに素晴らしい事ですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終わったことになります。魂の琴線に触れた時こそ本当に成功したと言えます。
なぜなら、その体験によって魂の奥にある神の火花が鼓舞され、輝きと威力を増すことになるからです。
心霊治療の背後には必ずそうした目的があるのです。治療家はそうした神の計画の一部を担ってこの世に生まれてきているのです。すなわち、この世に在りながら自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたのかを悟れず、
従って死ぬまで何を為すべきかが分からぬまま右往左往する神の子等に、霊的真理と永遠の実在を悟らせる為にその治癒力を与えられて生まれてきたのです。これほど大切な仕事はありません。
その治癒力でたった一人でも魂を目覚めさせることが出来れば、それだけでも、この世に生まれてきたことが無駄でなかったことになります。たった一人でもいいのです。それだけでこの世における存在価値があったと言えるのです。
最近この道での仕事が盛んになり、霊力に対する一般の関心がますます大きくなってきつつあることを私は非常に嬉しく思っております。地上の同志が困難に直面すれば、吾々は出来る限りの援助を惜しみません。病気治療には一層多くのエネルギーをつぎ込みます。
しかし忘れてならないのは、あらゆる出来事には必ずそれ相当の原因があると言う事です。霊界からいかなる援助を差し伸べても、この原因と結果の相関関係にまで干渉することだけは絶対に出来ないのです。
援助はします。が既に発生したある原因から生じる結果を消してあげる事は出来ません。私達は奇蹟を起こす力はないのです。自然法則の連続性を人為的に変える事は絶対に出来ないのです。神の法則は一瞬の断絶も無く働いております。
瞬時たりとも法則が休止する事はありません。宇宙間何一つとして神の法則なしに発生する事はあり得ないのです。もしもありとあらゆる手段を尽くしても治らなかった病が心霊治療によって治ったとすれば、それは宇宙に霊的エネルギーが存在することの生きた証拠と受け取るべきです。
すなわちそれまで試したいかなるエネルギーにも優る強力なエネルギーが存在することを如実に思い知らされる絶好のチャンスなのです。
数ある心霊現象には其々に大切な意義がもたらされていますが、それが何であれ、霊的真理へ導くためのオモチャに過ぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはおかしいでしょう。いつかは大人へ成長しなくてはいけないでしょう。大人になれば最早オモチャは要らなくなる筈です。
心霊治療(ヒーリング)にもいろいろあります。一番基本的なものは磁気治療で(マグネッチックヒーリンク)、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるもので、一種の物理療法と考えても宜しい。これには霊界の治療家は関与しません。
次の段階はその磁気的治療とこの後に述べる純粋の心霊治療の中間(サイキックヒーリング)と言うもので、遠隔治療は主にこの療法で行われております。
そして最後に今述べた純粋のスピリチュアルヒーリングで、治療家が精神統一によって波長を高め、同時に患者がそれを受け取る態勢が整った時に一瞬のうちに行われます。
人間の側から見れば奇蹟的に思えるかもしれませんが、因果律の働きによって、そう言う現象が起きる機が熟していたのです。
人間は一人の例外も無く神の分霊を宿しております。要はその神的エネルギーをいかにして発揮するかです。
肉体にも自然治癒力と言うのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治る様に、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も備わっており、その法則を理解し、其れに従順に生きておれば、病気は自然に治る筈のものなのです。
健康とは肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病と言う結果が生じます。調和を保つにはその三者が其々の機能を法則に忠実に果たすことです。
霊は素晴らし威力を秘めております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げれば、天罰はてきめんに現れます。
それと同じエネルギーの見本が至るところに存在します。そもそもこの物的大宇宙を創造したエネルギーがそうですし、大海原を支えるエネルギー、万有引力のエネルギー、惑星を動かすエネルギー,その他地上の人間、動物、植物、昆虫、等々ありとあらゆる生命を生育せしめるエネルギーがそれと同じものなのです。
要するに治療エネルギーも生命力の働きの一部なのです。身体に生命を与えているのは霊です。物質そのものには生命はないのです。霊が宿っているからこそ意識があるのであって、身体そのものには、意識は無いのです。
あなた方を今そうして生かしめている生命原理と同じものが、悩める者、病める者、苦しむ者を救うのです。
しかし痛みや苦しみを取り除いてあげることが心霊治療の目的ではありません。あくまで手段なのです。つまり眠れる魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段に過ぎないのです。
病気で苦しみ続けた人が心霊治療によって霊的真理に目覚め地上生活の意義を悟れば、その治療家は偉大な地上救済計画における自分の責務を果たしたことになり、そうあってこそ私達スピリットが援助したことになるのです。
身体の病気が治癒することよりも、その治療がきっかけとなって真の自我に目覚めることの方が、遥かに大切なのです。それが真の目的なのです。そこまで行かない心霊治療家は、例え病気は治せても、成功したとは言えません。
こうした心霊治療の真の意義が理解されるには長い長い年月を要します。心霊治療に限らず、霊界の力を地上に根付かせるには、大勢の人間を一気に動かそうとしては駄目です。一人の人間一人の子供と言う具合に、一度に一人ずつ根気よく目覚めさせ、それを霊的橋頭保として、しっかり固めていくほかありません。
何故なら真理に目覚めると言う事は、そのきっかけが心霊治療であれ、交霊会であれ、あるいは物理実験であれ、本人の霊的成長度がその真理を受け入れる段階まで進化していることが大前提だからです。
魂にその準備が出来ていない時は心霊治療も功を奏しません。いかに優れた心霊治療でも治せない病気があるのはその為なのです。従って失敗したからと言って心霊治療を批判するのは的外れなのです。
患者の魂がまだまだ苦しみによる浄化を充分受けていないと言うことです。すべて自然法則が支配しています。トリックなどありません。いかなる心霊治療もその法則の働きを勝手に変えたり曲げたりする力はありません。
もちろん苦難が人生の全てではありません。ホンの一部に過ぎません。が苦難のない人生も又考えられません。それが進化の絶対条件だからです。
地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。が完璧になる可能性を宿しております。人生の目的はその可能性を引き出して一歩一歩と魂の親である神に向かって進歩していくことです。
その進化の大機構の中で程度と質を異にする無数のエネルギーが働いており複雑に絡み合っております、決して一本調子の単純なものではありません。
が、生命は常に動いております。渦巻状を画きながら刻一刻と進化しております。その大機構の働きのホンの一端でも知るためには、人生の真の目的を悟らなくてはなりません。
苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。
魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。
地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、貪欲が我がもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当たりません。
医学の世界もご多分にもれません。人間が自分達の健康の為に他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。
全ての病気には其れなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見いだせません。
心の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和良く働いている状態の事です。それをか弱い動物を苦しめたり、その体内からある種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はその様な計画はされておりません。
神は人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるように意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。
肉体に何らかの異常が生じると言うことは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないと言うことです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全である筈です。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。
それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでも宜しい。
大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものではなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです』
以上がシルバーバーチの基本的概念です。
心霊治療の価値と必要性をこれほど協調するスピリットを私は他に知らないのですが、その考えの厳しさも又格別です。
しかしその基本的概念としてはそれが真実であり理想であろうと考えます。その理想に一歩でも近づこうとするところに治療家としての努力の余地があると言えるのではないでしょうか。
後で世界的心霊治療家ハリー・エドワーズ氏及びその助手たちとの一問一答を紹介します。が、その前に、心霊治療に際して必ず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養と言った事から始めるのに西洋では皆無と言っていいほどそれは聞かれないのはそれはどう言うことか、という点について私見を述べてみたいと思います。
其れは私の師である間部詮敦氏の治療法を紹介するのが一番都合がよい様です。
間部氏は本来は心霊治療家で、私は側近の一人としてその治療の様子をつぶさに観察して参りましたが、やはり除霊と供養を重点においておりました。
具体的に説明すると、まず患者をうつぶせ寝かせて、そしてその背に手を置くと、その手が身体の悪いところに自然に動いていきます。その要領で三十分施療した後、患者を正座させ、背後から霊視します。すると病気にまつわる霊、いわゆる因縁霊が出てきます。
これは多分間部氏の背後霊が連れてくるのだろうと思われますが、霊視が終わると、患者にその霊の容姿を説明して、その名前又は戒名を尋ねます。
それを二枚の短冊に書き、うち一枚を患者に手渡して、仏壇に備えて三日間お水をあげ、その水を清浄な処に捨てるようにと言います。霊が古くて名前が分からない時は、およその年齢の見当を付けて、例えば「五十代の霊」と言う風に書きます。
主として関西地方と中国地方を回られたので、自宅(三重県)に戻られた時は短冊もかなりの枚数になっていたと思われますが、それを神棚に供えて祈念し、霊を一人一人呼び出して(多分背後霊が連れてきて)、死後の世界の存在を教え、向上進化の必要性を説き、指導霊の言う通りに従うように諭します。
勿論背後霊の働きかけも盛んに行われた事であろう事が推察されます。
さてこれで万事うまく行ったかと言うと、必ずしもそうではありません。例えば私の家族の場合は良く父方のお爺さんが出ました。そのたびに話を聞いて、その時は一応得心するのですが、またぞろ出てきていろいろと災いをもたらしました。
別に何の遺恨があった訳でもないのですが、晩年に精神に異常をきたし、不幸な最期を遂げた人でしたから、その人がうろうろするだけで非常に良くない影響を与えた訳です。
バーバネル氏のthis is Spiritualism(拙訳『これが心霊の世界だ』潮文社刊)に霊の肖像画を専門にしているフランク・リ―アと言う人の話が詳しく出ていますが、その中でバーバネル氏は
「死者を画く時はなぜかその人間の死際の、言わば地上最後の雰囲気が再現され、リ―ア氏も否応なしにその中に巻き込まれる。その意味でリ―ア氏自身、自分の描いた肖像画の枚数分だけ死を体験したことになる」と述べ、
更に別のところでは
「この種の仕事で困る事は、そのスピリットの死の床の痛みや苦しみと言った、地上生活最後の状態を霊能者自身も体験させられると言うことである。
なぜかは十分に説明されていないが、多分ある磁力の作用によるものと思われるが、スピリットが始めて地上に戻って来た時は地上を去った時の最後の状態が再現されるのである」と述べています。
間部氏もそのたびに「又お爺さんですなあ」と言って首をかしげておられましたが、考えてみると酒やたばこ(それにもう一つありそうですが・・・)がなかなか止められないのと同じで、どうしても霊的自我が目覚めず、地上への妄執が断ち切れなかったのでしょう。
これに類することで興味深い事がいろいろあって、私には勉強になりました。
さて問題は除霊すれば因縁が切れるかと言うことですが、今の例でも分かる通り、霊と言うのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方は無論のこと、霊の方でも自分が人間に憑依している事に気づいていないことすらあります。
因縁という用語はもともとは因縁果と言う言葉からきたもので、因が諸々の縁を経て果を生むと言う意味だそうです。私はその通りだと考えます。
つまりシルバーバーチの言う因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバーバーチが繰り返し強調しているところですが、その縁と果の間にいろんな縁がはいり込んで複雑にしていきます。
病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因がある訳ですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。
従ってその霊を取り除けば楽にはなりますが、それで業を消滅した事には成らない。勿論霊が取り除かれた時が業が消える時と一致する事もあります。いわゆる奇蹟的治癒と言うのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすれば事が済むと言うものではないようです。
次に西洋では病気にまつわる因縁霊観念はないのか、除霊の必要性はないのか、と言う事ですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人がもっとも有名です。
この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。
それをまとめたのがThirty Years Among the Deadで田中武氏が訳しておられますので、一読をお勧めします。
ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係がある筈であり、本来なら日本式の供養の様なものがあってもいい筈なのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないと言う事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。
たとえば浅野和三郎氏が「幽霊問答」と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対と言ってよい位起こり得ない話です。
日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くもの、という先入観があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残根に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用な筈です。いわゆる煩悩に過ぎません。
シルバーバーチはある交霊会で供養の是非を問われて「其れはやって害はなかろうけど、大して効果があるとは思われません」と述べておりますが、シルバーバーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から見た説である事を認識する必要があります。
つまり永遠の世界を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊は必ずいる、と言うことを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。
また民族によって治療法が異なる様に、個々の治療家にとっても治療法や霊の処理方法が異なってくる筈であり、供養しなくても済む方法があるかもしれない、と言う認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。
一問一答 (質問者はハリー・エドワーズを中心とする治療家グループ)
問「心霊治療によって治るか治らないかは患者の魂の発達程度に掛っていると言われたことがありますが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであると言うことになるのでしょうか」
「あなた自身はどう思いますか」魂に働きかけないとしたら、他に何に働きかけますか」
問「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されると言う事でしょうか」
「その通りです」
問「では私達治療家は通常の精神面を構う必要はないと言うことでしょうか」
「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。従って魂が正常になれば、おのずと精神状態も良くなる筈です。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達してなければ肉体への反応も起こりません。魂が一段と発達するまで待たねばなりません。
つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。その過程は決して甘いものではないでしょう。何故なら魂の進化は安楽の中からは得られないからです」
問「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」
「その点は地上も霊界も同じことです」
問「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」
「真理はあくまでも真理です。その真理を何と名付けようと私達霊界の者には何の関わりもありません。要は中身の問題です。
仮にクリスチャン・サイエンスの信者が心霊治療のお陰で治ったとしても、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のお陰だと信じても、それはそれでいいのです」
問「私達治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、患者の魂を治療すると言うのは何だかとりとめのない感じがするのですが・・・」
「あなた方は少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一あなた方地上の治療家がいなくては私達も仕事になりません。
霊界側から見ればあなた方は地上と接触する通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーの様な存在です。電波が流れる、その通路と言うわけです」
問「流れると言うのは何に流れるのですか。肉体にですか魂にですか」
「私達は肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのですか」
問「生理状態です」
「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのですか」
問「無くなっています。病気に負けて、病的状態になっています」
「もしその活力が再びそこを通い始めたらどうなりますか」
問「腕の動きも戻ると思います」
「その活力を通わせる力は何処から得るのですか」
問「私達の意志ではどうにもならない事です。それは霊界側の仕事ではないかと思います」
「腕を無理やりに動かすだけでは駄目でしょう」
問「力ではどうにもなりません」
「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなると言う事です」
問「すると私ども心霊治療家は患者が生まれつき具えている機能に活を入れると言う事になるのでしょうか」
「そうとも言えますが、そればかりではありません。と言うのは、患者は肉体をまとっていますから、波長がどうしても低くなっています。それで霊界からの高い波長を持った電波を送るには一旦あなた方治療家に電波を送り、そこで波長を患者に合った程度まで下げる必要が生じます。
あなた方をコンデンサーに譬えたのはそう言う役目を言った訳です。
そう言う過程を経た霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇蹟のような事が起きる訳ですが、前にも言いましたように、患者の魂に其れを吸収するだけの受け入れ態勢が出来ていない時は何の効果も生じません。
結局、治るか治らないかを決める最終の条件は患者自身にあると言う事になる訳です」
問「神を信じない人でも治る事がありますが、あれは・・・」
「別に不思議ではありません。治療の法則は神を信じる信じないにお構いなく働きます」
問「さきほど治癒は魂の進化と関係があると言われましたが・・・」
「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がおります。霊界の高さは信心の強さで測れるものではありません。行為によって測るべきです。
よく聞いて下さい。あなた方治療家に理解しておいて頂きたいのは、あなた方は治るべき人しか治していないと言う事です。つまり治った人は治るべき条件が揃ったから治ったのであり、そこに何の不思議もないと言う事です。
あんなに心掛けの立派な人が何故治らないだろうと不思議がられても、やはりそこには其れなりの条件があってのことなのです。ですが、喜んでください。
あなた方を通して光明へ導かれるべき人は幾らでもおります。皆が皆治せなくても、そこには厳とした法則があっての事ですから、気になさらないでください。
と言っても、其れで満足して、努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言う通り、神の意志は愛だけでなく憎しみの中にも表現されています。
晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。それと同じく、成功と失敗とは永遠の道連れですから、失敗を恐れたり悲しんだりしてはいけません」
問「治療による肉体上の変化は私達にもよく分かりますが、霊的な変化は目で確かめる事が出来ません」
「譬え百人の霊視能力者を集めても、治療中の霊的操作を全部見極める事は出来ないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。
肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者とも其々にとても複雑なのですから、その両者を上手く操る操作は、それはそれは複雑になります。
無論全体に秩序と調和がいき亘っておりますが、法則の裏には法則があり、又その裏には法則があって、言葉ではとても尽くせません」
問「肉体上の苦痛は魂に何の影響も与えないとおっしゃったように記憶しますが・・・」
「私はそんな事を言った覚えはありません。肉体が受けた影響は必ず魂にも及びますし、反対に魂の状態は必ず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。
一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えて良いのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから」
問「では肉体の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手が無いと見たら魂の悪影響を防ぐために故意に死に至らしめると言う事もなさる訳ですか」
「其れは患者によります。原則として霊体が肉体から離れるのはあくまで自然法則によって自動的に行われるべきです。もっとも人間の気まぐれから自然法則を犯して死を早めている事が多いようですが・・・」
問「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますが…」
「ありますが、いずれも周到な配慮の上で行っている事です。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが・・・」
問「肉体を離れるのが早過ぎた為に生じるショックですか」
「そうです。物事には必ず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げると必ずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。
それがどんなものになるかはその人によって異なりますが、どんなものであれ、あなた方地上の治療家としては出来るだけ苦痛を和らげてあげることに意を用いておれば宜しい」
問「絶対に生きながらえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるような手を加える事は良い事でしょうか。悪い事でしょうか」
「私はあくまで人間は死すべき時に死ぬものと考えています」
問「肉体の持久力を弱まめれば死を早めることになりますが」
「どうせ死ぬと分かっている場合でもそんな事をしてはいけません。あなた方の辛い立場は良く分かります。又私としても、好んで冷たい態度を取る訳ではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまでも魂にその準備が出来た時に来るべきものです。
それはちょうど柿が熟した時に落ちると同じです。熟さないうちにもぎ取ったものは渋くて食べられますまい。治療もあくまで自然法則の範囲内で手段を講ずべきです。
たとえば薬や薬物ですっかり身体を壊し、全身が病的状態になっている事がありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されている訳です。
まずそう言う観点から考えていけば、どうすればいいのかがおのずと決まってくると思います。何事も自然法則の範囲内で考えなくてはいけません。
勿論善いにせよ悪いにせよ何らかの手を打てば其れなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いのか悪いのかは霊的法則にどの程度通じているかによって決まる事です。
つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきなのです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」
問「魂の治療の点では私達地上の治療家よりも霊界の治療家の仕事の方が大きいですか」
「当然そうなりましょう」
問「すると私達の役割は小さいと言う事でしょうか」
「小さいとも言えますし、大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療法には二通りあります。一つは治療エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。
それを再度治療エネルギーに変えてあなた方が使用する訳です。
もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に備わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」
問「いえ、理屈は良く分かります。ただ実感としては理解できませんが・・・」
「では説明を変えてみましょう。まず、生命とはそもそも何かと言う問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかと言うと、生命とは本質において物質的において物質と異なったものであり、いわゆる理化学的な研究対象には成り得ないものだからです。
で、わたしは、良く生命とは大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、又樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだと言うのです。
ですから、あなたが今そこに生きている事実そのものが、小規模ながらあなたも神であり大生命の流れを受けていることを意味しています。
私がさっき述べた治療法は、その生命力の働きの弱った患者の魂に特殊な霊波、言わば生命のエッセンスのようなものをその霊格に応じて注ぎ込んでやる事なのです。
無論これは病気が魂にある場合のことです。ご承知の通り病気には魂に原因があるものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的な場合は治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今述べた生命力を利用します。が、この方法にも限度があります。
と言うのは、あなた方治療家の霊格もおのずから限度がありますし、患者も同様だからです。またいわゆる因縁というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにお構いなく働きます」
問「魂の病にもいろいろあって、それなりの影響を肉体に及ぼしているものと思いますが、そうなると病気一つ一つについて質的に異なった治療エネルギーがいるのではないかと想像されますが」
「全くその通りです。ご存じの通り人間は大きく分けて三つの要素から成り立っています。一つは今述べた霊でこれが第一原理です。存在の基礎であり、種子であり、全てがここから出ます。
次に霊が精神を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体を支配します。この三者が融合し互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在はなくなります。三位一体と言うわけです」
問「精神と肉体とが影響し合うわけですか」
「そうです霊的発達程度から来る精神状態が肉体を変えていきます。意識的に変えることも出来ます。インドの行者などは西洋の文明人には想像もできないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思い通りに操ることが出来ることを示す良い例でしょう」
問「そう言う具合に心霊治療と言うのが魂を目覚めさせるものであるならば霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」
「そうとも言えますが、逆の場合が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ、自縛の霊になってしまうものが多い事実からも分かるとおり、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でない限り、大抵は物的な波長にしか反応を示さず、
私達の送る霊波には全く感応しないものです。そこであなた方地上の治療家が必要になってくるわけです。
従って優れた心霊治療家は霊的波長にも物的波長にも感応する人でなければなりません。心霊治療家に限らず、霊能者と言われている人が常に心の修行を怠ってはならない理由はそこにあります。
霊的に向上すればそれだけ高い波長が受けられ、それだけ仕事の内容が高尚になっていくわけです。その様に法則が出来上がっているのです。ですが、そう言う献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。
ただ一人、前人未到の地を歩みながら後の者の為に道しるべを立てていくことになります。あなた方はこの意味がお分かりでしょう。優れた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」
問「先ほど治療エネルギーの事を説明された時、霊的なものが物的なものに変換されると言われましたが、この転換は何処で行われるのでしょうか。何処かで行われる筈ですが・・・」
「使用するエネルギーによって異なりますが、古の賢人が指摘している“第三の目”とか太陽神経叢を使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する“場”なのです。
これ以外にも患者の潜在意識を利用して健全な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」
問「説明された所までは分かるのですが、もっと具体的に、どんな方法で、いつ、どこで転換されるのか、その辺が知りたいのですが・・・」
「そんなふうに聞かれると困ってしまいます。弱りました。分かっていただけそうな説明がどうしても出来ないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーの様な事をするのです。
コンデンサーと言うのは電流の周波を変える装置ですが、だいたいあんなものが用意されていると思って下さい。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、心霊実験で物質化現象などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・」
問「一種の“中間物質”ですか」
「そうです。スピリットの念波を感じ易く、しかも物質界にも利用できる程度の物質性を備えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のエネルギーが結合してコンデンサーの役割をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。
その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的温みを感じるのはその時です。知っておいて頂きたいことは、とにかく私達のやる治療法には決まり切ったやり方というものが無いと言うことです。患者によってみな治療法が異なります。
また霊界から次々と新しい医学者が協力に参ります。そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どんな放射線を使ったらどんな反応を得られたか、その結果を細かく検討します。
なかなか捗らなかった患者が急に良くなり始めたりするのは、そうした霊医の研究結果の表れなのです。また直接治療家の処へ来ないうちに治ってしまったりすることがあるにも同じ理由によります。
実質的な治療と言うものは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において、その大部分が為されていると思って差し仕えありません」
問「そうすると、一方では遠隔治療を受けながら、もう一方では別の治療家の処へ行くと言う態度は治療を妨げることになる成るわけでしょうか」
「結果を見て判断なさることです。治ればそれで宜しい」
問「何故それでいいのか理屈が分からないと、吾々人間は納得できないのですが・・・」
「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、全く支障をきたさないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから一概に言いきるわけにはいきません。あなただって、患者をひと目見てこれは自分で治せるとは言い切れますまい。
治せるかどうかは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家の処へ行けば良くなるかもしれません。条件が異なるからです。
その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと断定的な言葉は使えなくなる筈です。神の法則には無限の奥行きがあります。あなた方人間としては正当な動機と奉仕の精神に基づいて精一杯人事を尽くせばよいのです。後は落着いて結果を待つ事です」
問「細かい点は別として、私達が知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどの治療家にでも援助の手を差し伸べてくれるかと言うことです」
「霊格が高いことを示す一番の証明は、人をえり好みしないと言う事です。私達は必要とあらばどこへでも出かけます。これは高級神霊界の鉄則なのです。あなた方は決して患者を断るようなことをしてはいけません。
あなた方はすでに精神的にも霊的にも立派な成果を上げております。人間的な眼で判断してはいけません。あなた方には物事の裏側を見る眼が無いのです。従って自分のやったことがどんな影響を及ぼしているかもご存じないようです」
問「複数の人間が集まって一人の患者の為に祈念すると言う方法をとっている人がいますが、効果があるのでしょうか」
「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご存じの通り、すみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇蹟と言うものは絶対起こりません。
もしもその祈りが利己心から発したものでしたら、それはそのままその人の霊格を示すもので、こんな祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。
ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげていと言う真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りにはおのずから霊力も備わっていますから、高級神霊界にも届きましょうし、自動的に治癒効果を生むことも出来るでしょう。要するに祈る人の霊格によって決まる事です」
問「祈りはその人そのものということでしょうか」
「そう言うことです」
問「大僧正の仰々しい祈りよりも素朴な人間の祈りの方が効果があると言うことでしょうか」
「大僧正だから、あるいは大主教だからと言うことで祈りの力が増すと考えては間違いです。肝心なのは祈る人の霊格です。どんなに仰々しい僧衣をまとっていても、その大僧正が筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果も無いでしょう。
もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。如何にも力が増しそうですが、案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数では誤魔化されないと言うことです。
祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高める為の霊的行為です。波長が高まればそれだけ高級霊との接触が生じ、必要な援助が授かると言うわけです。あくまで必要な援助だけです。幾ら頼んでみても、必要でないもの、叶えてあげるわけに行かないものがあります。
その辺の判断は然るべき法則に基づいて一分一厘の狂いもなく計算されます。法則をごまかすことは出来ません。神に情状酌量を頼んでも無駄です。人間は自分自身をごまかせないと言うことです」
問「治療家の話に戻りますが、患者に信仰心を要求する治療家がいますが、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」
「心霊治療に限らず霊的なことに関しては奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言え切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治り易い場合いが確かにあります。
その信仰心が魂に刺激を与えるのです。しかしあくまで自然法則の知識に基づいた信仰でして、何か奇蹟でも求めるような盲目の信仰では駄目です。反対に一欠片の信仰心が無くても、魂が治る段階まで達しておれば、必ず治ります」
問「神も仏も無いと言っている人が治り、立派な心掛けの人が治らないことがあって不思議に思うことがあるのですが」
「人間の評価は魂の発達程度を基準にすべきです。あなた方の観方は表面的で、内面的観察が欠けています。魂そのものが見えない為に、その人はそれまでにどんなことをして来たかが判断できません。治療の効果を左右するのはあくまでも魂です。
ご承知の通り、私も何千年か前に地上で幾ばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに長い霊界生活を送ってきましたが、その間私は何にもまして強く感じていることは、大自然の正確無比なことです。
知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分の狂いも不公平もありません。
人間も含めて宇宙の個々の生命は其々にあるべき位置に所を得ていると言う事です。何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して生活なさい。そして、後は神にお任せしなさい。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。
あなた方は所詮私達のスピリットの道具に過ぎません。自分よりも偉大なる力が全てを良きに計らってくれているのだと信じること、それが何よりも大切です」