第5章 死後の世界
1848年のフオックス家における心霊現象が近代スピリチュアリズムのキッカケとなったことはすでに常識となっておりますが、物事の受け取り方や解釈の仕方によって異なるもので、心霊現象をどう解釈するかという点に関しても、大きく分けて二つ、細かく分けると三つの観方があるようです。
二つの分け方は言うまでも無く肯定するものと否定する者の二者で、肯定する側は勿論スピリチュアリズム、否定する側・・・少なくても肯定することを躊躇している側の代表がSPR(Society Psychical Research)と言う純粋の学術機関で、英米をはじめ多くの国にあります。
SPRの基本的態度は心霊現象を科学的に検討すると言う事に尽きるわけですが、科学的と言うのはあくまでもこれまで物質科学について行われてきた科学的方法と言う意味であって、それを超物質の分野である心霊問題にそのまま適用しようとするところに無理があるようです。
これまで度々紹介しているマイヤース等も心霊研究に興味を持ち始めた初期の頃は英国SPRの会長までした事がありますが、こんなやり方ではいつまでたってもラチが明かないと考えて、いち早く辞めております。
名探偵シャ―リック・ホームズの活躍する名探偵で有名になったコナン・ドイル卿 A Conan Doyle(本職は医師)や、ケーティ・キングと名のる美人物質化霊の出現した心霊現象で有名なウィリアム・クルックス卿、あるいは英国を代表する世界的物理学者だったオリバー・ロッジ卿Sir Oliver Lodge等も、其々にSPRの会長を務めておりますが、いち早く霊魂の存在を信じてSPRを離れていきました。
英国で(Sir)の称号が付くと言う事は大変な事で、そうした名誉のある地位の人が、予期される非難をものともせずに霊魂説を認めた事は注目に値します。
次いでに言えば、私の師である間部氏はもともと子爵の家柄ですが、戦前、官憲から心霊と爵位のどちらを取るかと迫られて、あっさりと爵位を捨てたという話を聞かされました。なぜか地上と言うところは昔から、あまりあからさまに真理を述べると迫害を享けるところのようです。
そもそもSPRが霊魂説に踏み切れないのは、従来の科学的方法で検討する限りでは証拠不十分と言う事に理由があるのであって、頭から霊魂説を否定しているのではありません。
それはちょうど刑事事件で証拠不十分の故に“疑わしきは罰せず”で無罪、と言うのと同じ様なものですが、無罪になったからと言って犯人がいなかったという事にはならないように、物質科学的証明が出来ないからと言って霊魂の存在を否定するのはあまりにも短絡的です。
心霊実験を見ても、心霊体験を聞いても、霊魂の存在は火を見るよりも明らかなのに、いかんせん物的証拠、それも従来の科学的方法で立証できるような証拠がないという理由でSPRは今なお霊魂説に踏み切れずに、単なる資料集めとその分類に時を費やしておりますが、この調子ではまず永遠に結論の出る日は来ないでしょう。
コナン・ドイルも「新しい啓示」The New Revelationの中で「これだけのものを見せつけられて尚且つ信じようとしないようでは、その人間の頭がどうかしている」と語気を強く述べております。
さて細かく分けると三つになると言ったのは、霊魂説を認める人にも大きく分けて二種類あると考えるからです。その一つは心霊現象や霊能をただ興味本位に取り上げ、見た目に映る異常さ、意外さ、面白さを目玉にしてこれを一つの商売にしている人達です。
心霊現象は確かに魅力があります。霊魂の存在を信じるには物理実験を見るに限ります。私自身もたった一度の実験会ですっかり霊魂の存在を信じるようになったのですが、問題はその後です。
死んでも尚生き続けているとなると、その世界はどんな所なのか、その世界とこの世界はどうつながっているのか、神は存在するのか等々、興味と疑問は尽きる事を知りません。それを追求していくのがスピリチュアリズムであり、
心霊実験もその案内役として始めて正当な意義を発揮するのです。その点を理解せず、何時までも現象ばかりをいじくりまわしている人がどんなに多い事でしょう。
こうした傾向は世界的に言えることのようです。
拙訳「スピリチュアリズムの真髄」の原著者レナードもその点を遺憾に思い、一種の警告を込めてThe Higher Spiritualism直訳すれば『より高度なスピリチュアリズム』と題した訳です。
私は、これは日本人にとってもいい警告になると信じて訳しましたが、これを更に一歩も二歩も先に進めたのが他ならぬシルバーバーチです。
シルバーバーチは徹底して話題の中心を道徳、倫理、哲学に置き、心霊現象に関してはホンのちょっぴりしか述べていません。
私の編纂もその影響を享けて、これまでご覧いただいたように、最初から非常に固いものばかりになっておりますが、シルバーバーチ霊言集全十一冊の内容は二、三、四章の表題の順に比重が置かれていると考えて頂ければいいわけです。
さて本章では少し趣を変えて、霊界とはどんな所なのか、死んだらどんな所へ連れて行かれるのか、と言ったことについてシルバーバーチに聞いてみる事にしましょう。
この問題つまり生命の死後存続の問題を扱うに当たって人間が一番心しなければならないことは、現実の地上生活の常識を一旦棄て去る事です。
全てを白紙の態度で素直に受け止める事です。成人した人間はこの物的地上生活に慣れ親しんでいる為に、こうした生活を当たり前と思い、さらには、こうした常識に合わないものは変だと思い、異常だと決めつけます。
しかしよく考えてみますと、吾々とてこの世に誕生した時は、殆ど無に等しい状態だったのです。乳房を吸うと言う本能以外は何の能力も無い状態だったのです。
それがやがて眼が見えるようになり、寝返りを打つようになり、ハイハイをするようになりながら言語能力や立体感覚を発達させてきたのです。
その道の専門書によりますと、ハイハイの仕方と脳の発育との間に密接かつ重要な関係があることです。更に進歩して歩いたり走ったり、転んだり泣いたり、喧嘩したり意地悪をしたりされたりすることにも、それなりの意味があるらしいのです。
例えば漢字を理解する能力・・・ただ単に暗記する能力とは別の、いわゆる語感・・・は幼児期に転んだり、でんぐり返しをしたり、鉄棒にぶら下がったり、水に頭から飛び込んだりする運動の中で発育しているらしいのです。
私自身の教育体験からもそれを実感することがありますが、最近の教育がそうしたことには無頓着に、実生活からかけ離れた詰め込み教育に終始している事は問題です。
つい話がそれてしまいました。人間生活が三次元の世界の環境で作り上げられていることを述べようとして脱線してしまいましたが、しかし、我々成人はそう言う過程を無意識のうちに体験し、すっかり地上生活に慣れきっている訳でこう見てきますと、
地上生活と言うのは実に特殊な環境の条件の中であり、これを持って常識と考えたり、当たり前と思ったりすることは極めて危険なことだとも言えるわけです。
ここで私が思いだすのは例のオリバー・ロッジの『幻の壁』です。すでに第三章で紹介しましたが、私は煩をいとわず、ここでもう一度引用しますので、ロッジの言わんとするところを良く理解して頂きたいと思います。
私に言わせればロッジの考えは言わば“死後の問題のコペルニクス的転回”であり、こうした転回が出来ないと、レナードの言うHigher Spiritualismは理解できないと思うのです。
「吾々は良く“肉体の死後も生き続けるのだろうか”と言う疑問を抱く。が、一体死後とはどう言う意味であろうか。
勿論肉体と結合している五、七十年の人生の終わった後の事には違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末転倒した思考から出る疑問に過ぎない。と言うのは、こうして物質をまとってこの世に居ること自体が驚異なのである。
これは実に特殊な現象と言うべきである。私は良く“死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である”と言ってきた。確かにそうに違いないのであるが、実は真に冒険と言うべきはこの地上生活の方なのである。地上生活と言うのは実に奇妙で珍しい現象である。
こうして肉体をまとって地上に出てきたこと自体が奇蹟なのだ。失敗する者はいくらでもいるのである」
“真相”と言うものが見た目や常識による判断とはまるで違う、と言うことは科学の世界では珍しいことではありません。コペルニクスの地動説がその最たるものです。
正直言って今の世でも誰がどう見たって太陽の方が地球の周りを回っているようにしか見えませんが、実際は足元の地球の方が太陽の周りをまわっているのです。
それも時速1600キロという猛スピードです。これが又人間の常識では信じられません。が事実であればそう信じるより他はありません。
諸々の霊界通信によりますと、死後の世界は地球に近いところほど環境が地上に似ていると言う事です。死の直後に置かれる環境などは地上そっくりだそうです。地面を踏みしめて歩くし、山もあれば川もある。花も木もあり、
それが上の世界へ行くにつれて美しさを増し、更には神々しさを感じるようになっていき、さらに上の世界へ行くと地上の言語や常識では表現や理解もできなくなると言います。
そう見てきますと、どうやらロッジが言うように、吾々はホンの束の間の冒険をしに地上に降りてきていると言うのが真実のようです。霊界が本来の生活の場で、ホンの束の間だけ、特殊な体験を求めて地上に来ているに過ぎないと言うことです。
もしそうであるとすれば、地上の苦も楽も、富も貧乏も、また違った目で見る事が出来る訳で、古来、幾多の僧侶や行者が難行苦行しながら悟ろうとした人生の謎も、
スピリチュアリズムを正しく理解されれば、例え数学の難問がちょっとしたヒント一つですらすらと解ける如くに、簡単に悟る事が出来るわけです。
私の師である間部詮敦氏は浅野和三郎氏の四魂説、すなわち人間は肉体の他に幽体、霊体、神体又は本体と言いう三種のエーテル体があり、それぞれの生活の場としての物質界、幽界、霊界、神界があると言う説を知った時、
それまで愛読していた古今東西の人生の書や哲学書を全部捨ててしまったと言う話を聞かされました。棄てたと言うのは比喩的に言ったのでしょうが、
確かにその四魂説やマイヤースの類魂説、シルバーバーチの因果律や再生説は、古来の理屈っぽい説教や難解な哲学書を超越した、まさに快刀乱痲を断つが如き、言わば宇宙の謎を解く大方程式であるように思えます。
そこにスピリチュアリズム本来の妙味があり神髄があるわけです。
ではその幽界、霊界、神界とはどんな世界なのかこれを浅野氏とマイヤース、それに今回新しく紹介するトウィーデールと言う人がまとめた霊界通信によって検討し、最後にシルバーバーチで締めくくって見ようと思います。それにはまず、先に述べた浅野氏の四魂説から説きおこすのが一番理解に便であるようです。
これから氏の「心霊研究とその帰趨」の第一章及び第二章から引用しようと思うのですが、その前に一言前置きしておきたい事があります。
この四魂説と四界説は浅野氏が晩年にもっとも力を入れた課題であったようで、氏自身は確固たる自信を持ちながらも、これを支持してくれる説が西洋に見当たらない事に一抹の不安を抱いておられた事を、弟子である間部先生から聞いておりました。
そのうち私は米国のルース・ウェルチ女史のExpanding Your Psychic Consciousness by Ruth Welch「心霊的意識の開発」に四魂説をズバリ図示したイラストが出ているのを発見して早速お見せしたところ、
先生は飛び上がらんばかりに驚かれ、日頃あまり感情を表に出されない方なのに顔面を紅潮させて“よくぞいい本を見つけてくれた”と言って喜ばれた事を思い出します。
その後英国から取り寄せたトウィーデール紙のNews From the Next World by C.T.weedale (他界からの通信)の中に今度は四界説をズバリ図示したイラストを発見しました。
その時はすでに間部先生は霊界の人となっておられましたが、私はこれで浅野氏説がスピリチュアリズムの定説と言うべき確固たる説である事を確信した次第です。
まず四魂説について浅野氏はこう述べています。(意味に変化を来さない範囲で読みやすく書き改めます)
(一) 人間はその肉体の内に超物質的エーテル体を有っている。但しエーテル体とは概称であって、詳しく言えばそれは幽体、霊体、本体の三つに大別し得る。
(二) 肉体、幽体、霊体、本体の四つは浸透的に互いに重なりあっているのであって、各個に層を為して遍在しているのではない。
(三) これらの四つの体はいずれも自我の行使する機関であって、それぞれの分担がある。すなわち肉体は主として欲望、幽体は主として感情、霊体は主として理性、本体は主として叡智の機関で、必要に応じてこもごも使い分けられる。
(四) 概してエーテル体は非常に鋭敏に意念の影響を享け、その形態は決して肉体の如く固定的ではない。又その色彩、なかんずく感情の媒体である幽体の色彩は情緒の動きにつれて千変万化する。
(五) エーテル体は時空を超越している。少なくとも時空の束縛を享ける事が極めて少ない。故にその活動は極めて神速自在である。
(六) エーテル体は人間の地上生活中に置いてもしばしば肉体を離脱するが、そうした場合には必ず白色の紐で肉体と連結されている。死後とは上記の紐が永遠に断絶した現象である。
次に四界説について
すなわち (一) 物質界、(二) 幽界、(三) 霊界、(四) 神界である。上記の中、物質界は吾々が五感を持って日常接する世界であるから、これはここに説く必要が無い。説明を要するのは幽界以上である。
幽界・・・とは、心霊研究の立場からすれば要するに地球の幽体と思えば良い。地球に限らず天地間の万有一切は自然法則の束縛から免れる事は出来ない。従って地球にも無論幽体もあれば、霊体もあり、又その本体もあり、互いに浸透的に重なり合っている。
これらの全ての中でその構成分子が一番粗く、かつその容積が一番小さいのは無論地球の物質体である。地球の幽体ともなればその構成分子は遥かに微細で、内面は物質的地球の中心まで浸透し、又外面は物質的地球のずっと外側まではみ出している。
その延長距離についてはまだ定説はないが、しかし地球の幽体が他の諸天体、少なくとも太陽系所属の諸天体の幽体と何処かの地点で相交錯しているのではないかと思われる節がある。
「私達の住む世界(幽界)は地上の人達が考えるところとは大分違う。幽界の居住者は物質的生活が営まれる諸々の天体からの渡来者である」
-中略-
他にもこの種の通信はまだたくさんある。で、幽界について従来一般人士が抱いている観念には大々的修正を要するものがある。その要点を述べる。
(一) 幽界は肉体を有する人間にとって密接な関係のある境地である。
幽界は勿論肉体を棄てた帰幽者の落ち着く世界には相違ないが、しかし人間は生前においてもその幽体を用いて間断なくこれと交渉を有している。各種の黙示録又はインスピレーション、思想伝達現象、交霊現象、霊夢などは殆ど全部幽界との交渉の結果である。
(二) 幽界を単なる距離で計ろうとするのは誤謬である。
仏者のいわゆる西方浄土、十万億土等はむしろ単なる方便説で、実際には当てはまらない。幽界は要するに内面の世界で、場所から言えば大地の内部にも、又その外部にも亘っている。従って吾々の居住する物質界とて、その内面は立派に幽界である。
(三) 幽界はまだ途中の世界である。
幽界は物質界に比べれば比較にならない程自由であり、思念する事は直ちに具現化すると言った世界であるが、しかし理想を距る事まだ甚だ遠く、取りとめない空想又は熱烈なる感情によって歪曲された千変万化の現象が盛んに飛躍出没する境地らしい。
旧式の宗教家は、信仰次第で死後人間が直ちに光明遍照の理想世界に到達し得るように説くが、あれは事実に反している。
霊界・・・となると、そろそろ地上の人間の思索想像に余るものがある。無論吾々の内にも未発達ながら霊体はある。
故に一切の欲望や感情を一掃し、冷静透明、あたかも氷のような心境に入りて沈思一番すれば、霊界のある一局部との接触が不可能と言うわけではないが、しかし実際問題となれば、なかなか思うようにいかないのが現在の地上の人類の状態である。
神人合一だの、神はうちにあるのだと、口に立派なことを述べる者は多いがいずれも実は浅薄卑劣なる自己陶酔に過ぎぬ。
その何よりの証には、そう公言する人達から殆ど何ら偉大なる思想も生まれず、又何ら破天荒の発明又は発見も現れないのではないか。要するにその説くところは単なる理想であり、空想であり、口頭弾であって、実際の事実ではない。
実際問題とすれば、現在の地上の人類として僅かに期待し得るのは霊界とのすこぶる狭い、局部的の接触である。それも余ほど優れた天分の所有者が刻苦精進の上で出来ることである。首尾よくこれに成功した人がつまり人間界の偉大なる哲学者、科学者、思索家又は発明家達である。
何分にも地上の人間は鈍重なる肉体で包まれ、又気まぐれな幽体で覆われているので、なかなかそれらを突破して、色も香も、歪みも、又錯りもない、明鏡の様な純理の世界には容易に突入し得ないのである。
が、この霊界とてもまだまだ理想の世界ではない。この境地の最大の欠点は、其々の局面に分割されていることである。ある与えられた道筋の見通しはつくが、他の方面とのことは少しも判らないのである。
神界・・・つまり地球の本体となると、いよいよもって筆を尽くすべき余地がない。強いて想像すれば、それはおそらく他の諸天体と合流同化し、霊瑯清浄、自在無礙、何もかも見通しのつく光明遍照の理想境とでも言うより他に路が無いであろう。死んで幽界に入ったステッド等も次にように歎息している。
「私は生前こう考えていた。人間は死んだらすぐ神と直接交通を行い、自己の取るに足らぬ利害損失の念などはきれいに振り棄て、礼排三昧、賛美歌三昧に浸るであろうと。そういった時代も究極に置いてはあるいは到達するのかもしれない。
しかし現在の吾々はまだそれを距ることは甚だ遠い。人間の地上生活は言わば一つの駅場、吾々の進化の最初の駅場に過ぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。吾々はまだまだ不完全である。吾々はまだ個々の願望欲念を脱却し得ない。
吾々は依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたよりもはるかに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚歎に値する・・・」
人間は自己の置かれた環境がいかに広大であるかを知り、なるべく奥へ奥へと内奥へと歩を進むべきであるが、同時に良く自己を省みて、かりそめにも自然の秩序階級を無視し、社会人生に何の貢献も為し得ない誇大妄想の奴隷になることを避けねばならぬ」
浅野氏の説は極めて概略的で抽象的に過ぎ、理屈の上ではなるほどと思っても、これだけでは実感を持って理解することはとても無理です。それを補う為にトウィーデール氏の「霊からの便り」を紹介したいと思います。
これは英国国教会の牧師であるトウィーデール氏が、霊能者である奥さんを通じて起きた各種の心霊現象をまとめたものですが、中でも注目されるのが自動書記通信です。
通信者はコナン・ドイルを始めとして、小説家のエミリー・プロンテ、ピアニストのショパン、バイオリン製作者のストラバリー、天文学者のロバート・ポール等、世界的に著名だった人の他に二、三の知人や縁者から成っていて、それぞれ個別に質問を書き出し、その用紙に書かれた回答をまとめたものです。
霊媒の先入観が入るのを防ぐ意味で質問の内容は前もって奥さんに知らせず、入神してからさっと書いて出したと言いますが、解答はすぐさま書かれ、そのスピードがものすごくて、時には用紙が破れることもあったと言うことです。
ではその中から他界直後の様子や霊界の位置などに関する興味深い部分を訳出してみましょう。
果たして本当にショパンなのかドイルなのかといった問題はトウィーデール氏が徹底的に探りを入れておりますが、ここではあまり名前に拘らずに、その内容に注目して頂きたいと思います。特に天孫降臨をズバリ指摘している箇所は日本人には興味津々です。
第1節 死の過程と意識について
問「死んで霊界へ行くと言う現象は恐ろしいですか、苦痛ですか」
ストラバリー「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖を持った天使が見えました」
問「まだ肉体の意識のある場合の話ですか」
ストラバリー「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い界の人だそうです。多くの人の為に尽くした人に付き添う為に派遣されておると言うことです。当分の間付き添うと言うことでした」
問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」
ストラバリー「全然」(ストラバリーは老衰死)
ショパン「死そのものは少しも苦痛ではないし恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方が辛かった」(ショパンは結核で死亡)
問「そうでしたね。で実際に死ぬ時はどうでした」
ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もかもわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」
ドイル「私の場合は大変な激痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病の事)
問「激痛は何処に感じましたか」
ドイル「全身を走り抜けたようです」
問「忘却と言うのは何の事ですか」
ドイル「深い眠りです。目が覚めたら川岸の土手の上に居ました」
ブロック「(トウィーデール氏の知人)そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ一時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることは出来ませんでした。晩年は辛かったから死ぬのは嬉しかったです」
タピサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬと言う事は私には何の事だかわりません。何も思い出せません。気が付いたら椅子の上の高いところに居たと言うことだけです」
(霊視すると今は十七、八歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれます・・・訳者)
問「だからタピサちゃんにとっては、まだ死んだ記憶が無いと言うことですね」
タピサ「そう、そうなの」
第2節 死後の身体について
問「今あなたが使用している身体は形態、容貌、機能とともに地上時代の肉体とそっくりですか」
ストラバリー「今の身体はあなたの身体と全く同じで実感があります。実に楽です。眼はちゃんと見えます。ただ心の方が地上の時より大きく作用します」
ドイル「地上時代の肉体より遥かに美しいです」。しかもこうして地上に降りて来られます。機能的にも霊体の方が具合がいい。有難い事に痛みと言うものを感じません。地上の人生を終えたその時から今の人生が始まったわけです。
ブロック「この体は地上の肉体と少しも変わりません。但しがっかりさせられることが多い。あれ持って来い、これ持って来いと、うまいものを注文するのだが、食べてみると全くうまくない」
タピサ「私はずっと今のままよ。そちらで私がどんな体をしていたか知りません。ただこれだけは言えます。みんなの目には見なくても、私はおうちの中をスキップして回ったり歌ったりしていると言うこと」
第3節 飲食と睡眠について
問「エーテル体を養う為に必要なものがありますか。食べるとか飲むとか眠るとか…」
ストラバリー「そうしたいと思わない限り飲む事も寝る事もしません。その気になれば何でもできますが・・・」
問「じゃ、あなたは食べる事も寝る事も飲む事もしないわけですか」
ストラバリー「時にはすることがあります。寝ようと思えば寝られます」
ショパン「寝るも飲むも思いのまま。行くも戻るも思いのまま」(ショパンは良く詩文で通信を書いていますが、意味を伝える程度に訳しておきます・・・訳者)
問「では呼吸もしているわけですか」
ショパン「然り」
ドイル「飲食の必要はありませんが、欲しいと思えば摂取できます。成長するにつれて地上的なものを欲しがらなくなり、求めなくなり、もっと高尚なものを求めるようになります」
ブロック「欲しいものは何でも手に入りますが、我慢もできます」
問「エーテル体を維持する上で必要ですか」
ブロック「必要です。ですが、摂取するものもみなエーテル質です。私は今持って幻影に悩まされております。これは、聞くところによると一種の罰だそうです。もっとも私の場合は地上の人の為になる事もしているので、まだお手柔らかに扱って下さっています」
ショパン「本当に欲しくなれば食事をすることもあります。欲しいだけ食べればそれで止めます」
タピサ「私はやりたいことは何でもします。食べるし、飲むし、寝ることもあります。でもそうしなければならないことはありません。必要なものは全部空中(エーテル)から摂取していますから・・・」
第4節 時間の感覚について
問「時間を意識することがありますか。例えば記録したり約束したりする上で時間の経過を計る為の尺度が必要ですか」
ストラバリー「地上の時間とは異なりますが、それに相当するものはあります。私達の時間は太陽時間で、光の変化で判断します」
問「光の変化は何が原因で生じるのですか」
ストラバリー「あなた方が見ている太陽です」
ショパン「時間はあります。さもないと大きな集会に参加する用意が出来ません。幽霊にも時間が分かることはあなた方も良くご存じの筈です。だって必ず真夜中にでるでしょう」
問「来られる時はやはり地上の時計を見て準備されるのですか」
ショパン「地上へ来る時はそうしますが、それ以外の時は地上の時刻は知りません」
問「ストラバリーは霊界では太陽光線の変化で時間を知ると言っていますが・・・」
ショパン「その通りです。太陽の光で動いています。時間がきましたので失礼します」
ドイル「こちらでも太陽の光による時間があります。地上の時間も太陽の働きによっているわけですが、太陽に関する大きな違いがあるのです。あなた方にはちょっと理解できないことがあります。約束の時間はちゃんと決められます」
問「地上の時間も分かりますか」
ドイル「分かります。地上に近いですから」
第5節 霊界の位置について
問「今現在何処に住んでいますか。霊界と言うのは一体どこにあるのですか」
ストラバリー「地球と同じ天体上に居ます。私はあなたのすぐ近くに居ます。私達にはあなたの姿は良く見えますが、そちらからは見えないでしょう。霊能者は別ですが。私達も天体上に居ます。太陽も見えます。あなたがたが見ている太陽と同じです」
問「界は幾つありますか」
ストラバリー「七つです」
問「その七つの世界はミカン皮のように、あるいは大気のように地球を取り巻いているのですか」
ストラバリー「そうです、でも肉体を持ったものはここには住めません。地球は人間が住むようになる以前は高級な霊的存在、あなた方の言う天使がおりました(聖書の)創世記にある通りです」
問「と言う事は当時の地球は高級霊の通う場所だった訳ですか」
ストラバリー「その通りです。物質化した霊魂がそのまま居残ったのが最初の人類です」
問「あなたの居る界は地表からどのくらいの位置にありますか」
ストラバリー「それは私には分かりませんが、かなり近いようです」
問「界と界との境は何かfloorの様なもので仕切られているのですか」
ストラバリー「空間spaceによって仕切られています」
問「それらの界が地表の上空になると、人間の目には透明な訳ですね。それを通して星とか太陽とか惑星を見ている訳だから・・・」
ストラバリー「ご説明しましょう。人間の目はある限られた範囲の光線しか受けとめることは出来ません。霊的なものは人間の目には映らないのです。
死んでこちらへ来ると最初は何処へ行っても違和感があり新しいことばかりですが、感覚が慣れてくると、こちらの土地、海、草木なども地上とまったく同じように実感があることが分かり、しかも遥かに美しいことを知ります」
ショパン「私の住んでいるところは地球から遠く離れています。円周の外にあります」
問「何の円周ですか。地球のことですか」
ショパン「地表から完全に離れています。こうして通信するために降りて来ている間はあまり離れていません」
問「エベレスト(8,848m)が引っ掛かりますか」
ショパン「いいえ」
問「どのくらいの位置がありそうですか」
ショパン「およそ五万mです。ですが、距離とか空間は吾々が移動する際は全く関係ないようです。心に思えばもうそこへ行っています」
ドイル「難しい問題です。同じ国の人間でも、その国について説明をさせれば一人一人違ったことを言うでしょう。霊界についても同じで、霊によって言うことが違ってきます。私に言わせれば、私は今あなたの上空に居ます」
問「距離は地表からどの位ですか」
ドイル「分かりません」
問「地表に近い大気圏辺りが幽界より上の界へ行く為の準備をする所、いわゆるパラダイスですか」
ショパン「始めは地上で過ごします。同じパラダイスでも地上から離れて第一界(幽界)に近い部分もあるわけです」
問「キリストも、それからキリストと一緒に処刑された別の盗人も、そこで目を覚ましたわけですか」
ショパン「そうです。キリストはそこから戻ってきて姿を見せたわけです」
問「そこは地球の表面になるのですか」
ショパン「そうです。中間地帯です。界と界との間には必ずそう言うものがあります。人間はみな地上に居た時と同じ状態で一旦そこに落ち着きます。が、そこで新しい体験をさせられます。
地上でも、九死に一生を得た人がその瞬間にまるでビデオを見るように自分の全生涯を眼前に見たと言う話がありますが、あれと同じで、地上生活の全てを夢でも見るように、見せられます。犯した罪や過ちを反省し改めさせるためです。
それをしないと先に行けないのです。反省しない人間は下降して行きます」
ブロック「私が見たものは、実にきれいな青色でした。どうよべばいいのでしょうか。何か島みたいで、青色をしていて、いかにも健康良さそうな感じでした。私は自分がどこに居るのか心細くなって付き添っていた人(指導霊)に“此処は一体どこですか”と聞いてみました。
すると“此処は二つの界の中間層だ。そのうち慣れるだろう。大体ここに来る人間は仕事仕事で生涯を送った人ばかりだ”と言う返事でした。更にその後出会った人はこんなふうに話してくれました。“心配しないで宜しい。大丈夫ですよ。
あなたはどうも宗教心が足りなかったようだが心掛けはまずまずだった。ここではその心掛けが大切だ。生まれた環境は自分の責任じゃない。
宗教的で無い環境に生を受ければ宗教心は芽生えにくいのは当然だが、そうした逆境の中にあって良い行いをすれば、その価値も一層増すと言うものだ。いつもその時の条件を考慮して評価されるわけだ”と。これでお分かりでしょう。
ドイルも言っていたように、要するに大切なのは教義では無くて行いです。地上の人間がLove(愛、慈しみ、思いやり)の真の意味を理解すれば戦争など起こらないのですが・・・」
さてトウィーデール氏はパラダイスについてドイルに尋ねます。
問「あなたは全ての霊は一旦ここに来るとおっしゃいましたね」
ドイル「言いました」
問「と言うことは善人も悪人もみなここに来ると言うことですか」
ドイル「その通りです。キリストが刑場で隣の盗人にこう言っているでしょう―“今日この日に再び汝とパラダイスにて相見(マミ)えん”と」
問「そうするとパラダイスも善人の行く場所と悪人が行く場所とに分かれているわけですか」
ドイル「地上に善人と悪人がいて悪いことをした人間は刑罰を受けるように、パラダイスでも善人は幸せを味わい、悪人は喜びとか幸福感を奪われると言う形での刑罰を受けます。
更に犯罪を犯した人間はその現場にひきつけられて行きます。故意の殺人者は例外なく自縛霊になります。罪を悔い改める心が芽生えるまでは、何時までもその状態から抜け出られません。それはそれは長い間その状態のままでいる人間が大勢います」
問「そちらで見たり聞いたり触ったりする感覚は地上と同じですか」
ドイル「肉体よりずっと鋭敏です」
問「今この部屋に居ますか、それとも遠く離れた所に居るのですか」
ドイル「あなたのすぐ後ろにいます」
問「私と同じように実体がありますか」
ドイル「ありますとも、立派に実体があります」
問「何百マイルも何千マイルも遠くから通信しているわけではありませんね」
ドイル「(皮肉たっぷりに)火星から通信しているわけではありませんよ」
問「部屋にあるものが全部見えますか」
ドイル「見えます。あなた方よりも良く見えます。視力が肉眼より鋭いですから」
問「霊魂は霊能者の肉眼を通してしか地上のものが見えないのだと言う人がいますが・・・」
ドイル「とんでもない!あなた方と同じように、いやそれ以上に、私達にとって地上のものは極めて自然に見えます」
最後に英国の著名な天文学者だったロバート・ボール卿Sir Robert Ballの学者らしい解答を紹介します。
問「天文学者であられる卿にお伺いしますが、霊の世界は地球の近くにあるのでしょうか」
ボール「地球の外側をぐるりと取り巻いております」
問「地球からの距離はどの位でしょうか」
ボール「これは難しい問題です。三十キロ程度の近いものもあれば百キロ程離れているものもあり、遠いものになれば何千、何万キロも離れています」
問「人間に目には透けて見えるわけですか」
ボール「肉眼は限られたものしか見えません。霊の世界は肉眼にも天体望遠鏡にも映りません」
問「例えばガラスのコップの様なものを考えてもいいでしょうか。実態があり固いけど、透明であると言う・・・」
ボール「なかなかいい譬えです」
問「そうした世界はどの天体にもありますか」
ボール「あります。どの恒星にも惑星がある様に、どの天体にもそれなりの霊の世界があり、同時にそれぞれの守護紳がいます。秘密はエーテルにあります」
問「大気圏を三十キロの高さまで上昇して行ったら霊の世界に触れる事が出来ますか」
ボール「それは不可能です」
問「と言う事は霊の世界は透明であるだけでなく、身体に触れることも出来ないと言うことですか」
ボール「その通りです」
問「本質はエーテル体で出来ているのですか」
ボール「そうです」
問「霊界の秘密はエーテルにあるとおっしゃったのはその意味ですか」
ボール「さよう」
問「そのエーテル界の生活や存在は地上生活と同じく実感がありますか。そして楽しいですか」
ボール「はい、楽しくて実感があります。但し善人にとってのみの話です」(善人the goodの文字に二本の下線が施されている)
問「地球の霊魂が太陽系の他の惑星、例えば火星や金星のエーテル界を訪れる事が可能ですか」
ボール「高級霊になれば可能です」
問「例えばオリオン座のペテルギウス星5,670,000,000,000,000キロ(5,670兆㌔)の様な遠い星でも同じですか」
ボール「同じです」
問「普通の霊魂は行けませんか」
ボール「行けません」
問「ではこう言うことですか。つまり普通の人間は死後そのエーテル界で生活し、高級になると他の天体のエーテル界を訪れることが出来るようになる」
ボール「その通りです」
ボールはこの後「この章は実に重要ですよ」と付け加えた、署名して終わりにしておりますが、高級霊になれば他の天体のエーテル界に行けるようになると言うことは、要するにエーテル界の上層部が他の天体の上層部と合流していると言うことを意味しています。
ブェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」に次の様な箇所があります。
「以上のことからお分かりのように」、吾々が第1界から上層界へと進んで行くと、他の惑星と合流している界、つまりその界の中には地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界にと達する。
更に進むと今度は他の恒星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する。
それにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを具えた高級神霊が存在し下層界から末端の物質界に至る全てに影響を及ぼしている。
かくして吾々はようやく惑星から恒星へ、そして一つの恒星から複数の集団へと進んできたが、その先にもまだまだもっと驚くべき世界が幾つも存在する。が第十界の住民である吾々には、それらの世界の事はホンの僅かしか分からないし、確実な事は何一つ判らない」
レナード氏の「スピリチュアリズムの真髄」はこうした死後の世界の区分の問題を実に詳しく扱っており、是非とも参考にして頂きたいと思います。
私が本章で敢えてトウィーデールの著書から引用したのは、本書が非常にいい内容を持ちながら一般に知られておらず、引用されることも無いので、この機会にと思ったわけです。
特に天孫降臨を髣髴させる言説を霊界側から述べているのは、私の知る限り西洋では他に見当たらないようです。
もっとも人類誕生の問題はまだまだそれを論じるに足るだけの十分な資料を積み重ねていないようです。しかしこれがスピリチュアリズムでないと絶対に説けない謎であることだけは断言できます。
ダーウィンの進化論はいま学会でも集中砲火を浴びています。余りに唯物的過ぎ、あまりに単純すぎるところに原因があるわけですが、と言ってスピリチュアリズ的要素を取り入れた説が受け入れられる時期はまだまだ遠い先のようです。
かつてダーウィンと同時代の自然科学者で心霊学者でもあったA・Rウォーレスが“霊的流入”spirituals influxと言う用語を用いた説を発表したことがありますが、まともに取り合ってもらえないまま眠り続けています。当時としてはあまりにも飛躍的過ぎたのでしょう。
ちなみに霊的流入と言うのは、ダーウィンの言うように人類がアメーバーから進化して動物的段階に至ったその最終段階で、神的属性を持った人間の霊魂が宿ったと言う説で、シルバーバーチも同じ様な事を述べていますが、私のこの説と、
先の天孫降臨の説の双方とも真実であると考えております。つまり一方に動物的進化の過程でウォーレスの言う霊的流入を受けて人間へと跳躍した系統があり、他方に、高級霊の物質化による一方の系統があったと見るのです。
思うにその物質化現象は霊界あげての大事業だったことでしょう。数えきれない程の失敗の繰り返しがあったことでしょう。時間もかかったことでしょう。日本の古典はその辺の事情を抽象的に物語っていて興味があります。
これには異論もありましょう。が真相はどうであれ、今までに得た霊的知識を土台として、そうした問題に想像の翼を広げていくのは実に楽しいことです。
その問題はこの位にして、次にマイヤースの通信から死後の世界に関する箇所を紹介しましょう。例によってThe Road to Immortalityからですが、ここでは第三章を浅野和三郎訳「永遠の大道」を下敷きにしながら紹介します。
『人間がその魂の巡礼において辿るべき工程をまとめればおよそ次のようになる。
(一) 物質界
(二) 冥府、又は中間界
(三) 夢幻界
(四) 色彩界
(五) 光焔界(編者注・・・浅野氏の四界説に当てはめれば (二) (三) (四)が幽界、(六)が霊界 (七)が神界となる)
(六) 光明界
(七) 超越界
各界の中間には冥府又は中間境があり、各霊はここでそれまでの行為と経験を振り返って点検し、上昇すべきか下降すべきかの判断を下す。
(一) の物質界は地上の人間が馴染んでいるような物質的形態に宿って経験を積む世界である。これは必ずしも地上生活のみに限られない。遠い星辰の世界にも似たような物的条件を持った天体が幾らでもある。又その中には人体よりも振動の多いものもあれば少ないものもあり、全く同じと言う訳ではないが、本質的にはこれを“物質的”と表現しても差し支えない性質を具えているのである。
(三) の夢幻界と言うのは物質界で送った生活と関連した仮相の世界である。
(四) の色彩界では最早五感の束縛から脱し、意念による生活が優ってくる。まだ形態が付随しており、従って一種の物的存在には相違ないが、しかしそれは非常に希薄精妙たる物体で「気」と呼んだ方が適当かも知れない。この界はまだ地球又は各天体の圏内に属している。
(五) の光焔界において各自の霊魂は初めて永遠の生命における自己の存在の意義を自覚し始め、一つのスピリット(本霊)によって養われている同系の類魂たちの精神生活に通暁するようになる。
(六) の光明界において各自の霊魂はその類魂たちの知的生活に通暁出来るようになり、仲間の全前世を知的に理解することになる。同時に物的天体上に生活している類魂の精神的生活にも通暁する。
(七) 最後の超越界は本霊ならびに本霊の分霊である類魂の全てが融合一体となって宇宙の大霊である神の意思の中に入り込む。そこには過去、現在、未来の区別が無く、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり実相である』
マイヤースの説明は余りにも抽象的で簡単過ぎますが、これはあくまでも死後の世界の図表の様なものですから已むを得ません。マイヤースもこの後順を追って詳しく説明していきます。
そして遂に「類魂」の章に至る訳ですが、これはすでに第三章で詳しく紹介しましたのでお読み下さった方には上記の箇条書きだけで人間の辿るべき旅路が髣髴として来る事と信じます。
こう観てくると、人間がいかに小さな存在であるかを痛感させられます。言ってみれば地上生活は宇宙学校のホンの幼稚園、いや保育園程度のものかも知れません。その程度の人間のすることであれば、良い事にせよ悪い事にせよ、程度はおのずから知れています。
浅野和三郎氏は良く「人間はいい加減と言う事が一番大事じゃ」と言われたそうですが、これは己の小ささに気付いた、真に悟った人間にして始めて口に出来る言葉でしょう。
浅野氏は又その著『心霊学より日本神道を観る』の中で「人間味のいない人間は畢竟(ヒッキョウ)この世の片輪者で・・・」と述べていますが、無理や禁欲や荒行で五感を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めている訳です。
私自身も精神的に又肉体的にかなり無理な修業を心掛けた時期がありましたが、その挙句に悟った事は、結局神は人間にとって五感でもって生活するのが適切だから五感を与えて下さったのであり、要は節度moderationを守る事の尽きると言うことでした。
無論人それぞれに地上生活の使命と目的があり、禁欲がその人にとって大切な意味を持つことがあり、それがいわゆる業(カルマ)の現れである場合もありましょう。
がシルバーバーチも繰り返し述べていることですが、物事には必ずプラス面とマイナス面とがあり、禁欲生活によって得るものがある一方には、それ故に失わざるを得ないものが必ずあるわけで、それはまた別の機会に補わなければなりません。
こうした禁欲とか行、戒律と言ったものは、その土台となるべき霊的知識が誤っているととんでもない方向へ走ってしまう危険性があり、スピリチュアリズムの真理に照らして見ると滑稽でさえある場合が少なくありません。
またそれ故に何千年何万年と、想像を絶する長い年月に亘って、自分が捉えた殻の中で無意味な、しかし本人は大真面目な暮らしを続けている霊が大勢いるようです。
そう言った既成宗教の誤った教義については第九章で検討する予定でありますので、ここではひとまず措いて、では最後にシルバーバーチに死後の世界と生活ぶり、そしてこの世との関わり合いについて語ってもらいましょう。
『私達が住む霊の世界を良く知って頂けば、私達をして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方の為を思う何ものでもない事が分かって頂ける筈です。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体だれが、ダテや酔狂で降りて参りましょう。
あなた方はまだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみも無い、行きたいと思えば何処へでも行ける、考えたことがすぐに形を持って眼前に現れる、追及した事に幾らでも専念できる、お金の心配が無い、
こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさはあなた方には分かって頂けません。
肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることは出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存じない。そしてなお、死を恐れる。
人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。
なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。ただし、徐々にではあっても成長はしています。
霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。
霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が死んだと言って片付けている者の方が実は生命の実相ついてははるかに多くを知っております。
この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢を悉く実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。
地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人の為に使用されるようになるのです。インスピレーションなどと言う仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。
金銭の心配がありません。生存競争と言うものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差し伸べる力があると言う意味だからです。
失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。
地球へ近づくにつれて霊は思う事が表現できなくなります。正直いって私は地上へ戻るのは嫌なのです。
なのにこうして戻ってくるにはそういう約束からであり、地上の啓蒙の為に少しでも役立ちたいと言う気持ちがあるからです。そしてそれを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。
死ぬと言うことは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲と言う名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。
死ぬと言うことは肉体と言う牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです、苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻る事が、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、原語で説明のしようのない天上の音楽を聴けるようになることが悲劇でしょうか。
痛むと言うことを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのですか。
地上のいかなる天才画家と言えども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵画では表現出来ないでしょう。いかなる音楽の天才と言えども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。
いかなる名文家と言えども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。
今地球はまさに五月。木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は草花の美を見て”なんと素晴らしいこと”と感嘆します。
その美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作程度しかありません。地上の誰一人見たことのない花があり、色彩があります。
その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。
そのうちあなた方もその美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。
実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないでいるだけです。それは死んでこちらへ来た時の準備なのです。その準備なしにいきなりくるとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。
肉体の束縛から解放されると、睡眠時間に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶が蘇ります。」
一問一答
問「死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れた事・・・多分低い界だろう思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか」
「低い界へ引きつけられていくような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。
なぜかと言うと、そう言う人の目覚める界は地上と極めて良く似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」
問「朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか」
「睡眠中あなた方は肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなた方を物質界へ縛り付けている鎖の様なものです。その鎖から解放されたあなた方は、霊格の発達程度に応じた其々の振動の世界で体験を得ます。
その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその肉体は思い出せません。なぜかと言うと脳が余りにも狭いからです。大は小を兼ねる事は出来ません。無理をすると歪みを生じます。それは例えば小さな袋の中に無理やりに物を詰め込むようなものです。袋には自ずと容量と言うものがあります。
無理をして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じ事が脳の中で生じるのです。但し霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。
実を言うとここにおられる皆さんとは、良く睡眠中にお会いしているのです。私は“地上に戻ったらかくかくしかじかの事を思い出すんですよ”しかし思い出されなくてもいいです。決して無駄になりませんから・・・」
問「死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか」
「そうです。何一つ無駄になりません。神の法則は完璧です。永年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただ驚くばかりです。神なんか居るものかと言った地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間程己の愚を曝け出すのです」
問「睡眠中に仕事で霊界へ行く事がありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか」
「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし、たいていは死後の準備の為です。物質界で体験を積んだ後霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこち連れて行かれます。
そう言う準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に永い時間が掛ります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺の理由があるわけです。随分長い期間眠ったままの人がいます。
予め知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光の眩しさに直ぐに慣れるかどうかの問題です。
闇の中に居て光を見ていない人は慣れるには随分時間がかかります。地上の体験も、何一つ無駄なことはありません。そのことを良く胸に刻んでおいて下さい」
問「霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いやりの念が届くのでしょうか」
「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと速くなります。
その意味でも吾々は無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わなければならないのです。
それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物を取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れていく他ありません。長い長い休息が必要となるのです。又、地上に病院がある様に、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。
反対に人の為に尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」
問「死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか」
「死のうにも死ねないのですから、結局はその目覚めてからその事実に直面する他ない訳です。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。霊格が高ければ、死後の存続の知識が無くても、死後の世界に速く順応します」
問「そう言う人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死には苦痛が伴いますか」
「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬと言うことには苦痛は伴いません。大抵無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で認識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」
問「善人が死後の話を聞いても信じなかった場合、死後のそのことで何か咎めを受けますか」
「私にはその善人とか悪人とかの意味が分かりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人の為に尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかに掛っています。大切なのはそれだけです。知識はないよりはあった方がましです。
がその人の神の価値は毎日をどうやって生きてきたかに尽きます」
問「愛する人とは霊界で再会して若返るでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うと言ったことはないと言っておりますが・・・」
「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとっては何より自由な世界への入口の様なものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。
が二人の男女の結婚が魂の結びつきではなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者の霊格の違いがあり差がある時は、死と共に両者は離れてきます。其々の界へ引かれていくからです。
若返るかと言うご質問ですが、霊の世界では若返るとか年をとるといったことではなく、成長、進化、発達と言う形で現れます。つまり形態ではなく魂の問題となるわけです。
イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上の様な肉体上の結婚のことを言ったのです。
男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上っておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」
問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一番多いですか」
「勿論私達も罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただこちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。
従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に表れて、霊格が下がるのが分かります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪と言うより他に良い表現が見当たりません」
問「死後の世界が地上と比べて実感があり立派な支配者、君主又は神の支配する世界であることは分かりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか」
「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないで頂きたいのは、こちらの世界には地上で言うような支配者はおりません。霊の支配者は自然法則そのものなのです。
又地上のように境界線によって何処かで区切られているのではありません。低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇して参ります」
問「地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じ様な生活を送るのですか」
「いえ、いえ、そんなことはありません。そう言う生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来れば又新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります。神の摂理は上手く出来ております」
問「シィークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか」
「特に愛情を感じ、慕っている人物には、大抵の場合合うことが出来るでしょう。共通の絆a natural bond of sympathyが両者を引き寄せるのです」
問「この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか」
「地上より遥かに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実態感は味わっておられません」
問「と言うことは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられると言うことですか」
「だから言っているでしょう。地上よりももっと実感がある。と、こちらの方が実在なのですからあなた方は言わば囚人のようなものです。肉体と言う牢獄に入れられ、物質と言う壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外を覗いているだけです。
地上では本当の自分のほんの一部分しか意識していないのです」
問「霊界では意念で通じ合うのですか。それとも地上の言語の様なものがあるのですか」
「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語もつかわれます」
問「急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるのでしょうか」
「魂の進化の程度によって違います」
問「呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか」
「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのが分かります。そして抜け出ると目が開きます。周りに自分を迎えに来てくれた人達が見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。
魂に意識が無い場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所・・・病院なり休憩所なり・・・に連れていかれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」
問「愛し合いながら宗教的因縁などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか」
「愛をいつまでも妨げることは出来ません」
問「肉親や親戚の者とも会えますか」
「愛が存在すれば会えます。愛が無ければ会えません」
問「死後の生命は永遠ですか」
「生命は全て永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」
問「霊界はたった一つですか」
「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にも、それぞれの霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです。
その無限の霊的世界が二重三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなたが知っているのはそのうちのごく一部です。知らない世界がまだまだ幾らでも存在します」
問「その分布状態は地理的なものですか」
「地理的なものではありません。精神的発達の程度に応じて差が生じているのです。もっともある程度は物的表現形態による影響を受けます」
問「と言う事は私達人間の観念で言うところの界層と言うものもあると言うことですか」
「その通りです。物的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような“地域”とか“層”が存在します」
問「譬えば死刑執行人の様な罪深い仕事に携わっていた人は霊界ではどんな裁きを受けるのでしょうか」
「もしその人がいけないことだ、罪深いことだと知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたら咎めは受けません」
問「動物の肉を食べると言うことについてはどうでしょうか」
「動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何事であれ許されないことですからやはりそれなりの報いを受けます。
その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償が伴います。責任と言う代償です」
以上各種の資料を引用しながら死後の世界を見てきましたが、全体を通じてもっとも注目しなければならないのは、死後の世界と現実の地上生活とが密接不離の関係にあると言う点であろうかと思います。
地上生活中と知識が死後に役立つと言う現実的な意味に留まらず、地上生活中の意識や道徳感覚が時として死後の霊的進化向上に決定的な影響を及ぼすこともあると言う意味においても、多寡が六十年七十年の人生と軽く見くびることが出来ないものがあるようです。
例えば大哲学者と仰がれた人が、その強烈な知性が去って災いして、死後自分の知的想像力で作り上げた小さな宇宙の中で何百年、何千年と暮らしている例があると聞きます。これをマイヤースは“知的牢獄”と呼んでいます。かく宗教の指導者やその熱烈な信者にも当然同じ事が言えます。
この問題は別の章で改めて取り扱う事にして、話を元に戻して、もしも地上生活と死後の生活とに現実的にも道徳的にも何の因果関係が無いとしたら、また仮に関係があるにしても、それが仏教に見るような永遠の地獄極楽説とか、キリスト教に見るような、嫉妬したり報復したりする気まぐれな界の支配する世界だとしたら、
一体吾々は地上生活をどう生きたら良いでしょう。まったく途方に暮れるばかりではないでしょうか。
そうした観点から改めてスピリチュアリズムを見ると、それがいかに合理的で、知性も道義心も宗教心も快く満足させてくれるものである事を再認識するのです。
しかし、同時にもう一つの観点、すなわちオリバー・ロッジの説に見られるコペルニクス的転回によってこれを見ますと地上生活と死後の世界とに関係があるのは至極当たり前と言える訳です。
吾々は肉体と言う鈍重な衣服をまとってホンの束の間を地上で暮らしている訳で、すぐ又元の生活すなわち霊界での生活に戻るわけです。つまり、もともと霊界で暮らしている者が危険を冒して地上にやってくるに過ぎないのです。
とは言え、地上に生を受けると言うことは、ロッジも言っている通り、そう易々と適うものではないようです。その問題になると仏教の方に一日の長があるようです「帰経文」と言う経に次の様な箇所があります。
「人身受け難く、今巳に受く、仏法聞き難く、今巳に聞く。此の身今生に度(サト)らずんば、更に何れの生に度らん、我等もろとも、至心に三宝に帰依し奉る」
死後の世界を知ったからと言って、われわれは、かりそめにも地上生活を軽んじる事があってはならないと思います。その戒めを良く表した俳句があります。決して名句とは言えないまでも、良き教訓を含んだ句として最後に紹介しておきます。
浜では海女も蓑きる時雨かな
高紳覚昇著「般若心経講義」より