戦国土塁討論会発言集(その5)

 これは、潮風さんのホームページ『常陸の国の城と歴史』の足跡板(掲示板)から転載させていただきました。
長いので適当に分割してあります。
その1(No.979〜999)
その2(No.1000〜1034)
その3(No.1038〜1086)
その4(No.1087〜1142)
その5 (No.1144〜)




1144. 土塁についてのレスヘのレス(その1) ひづめ [URL]  2002/01/26 (土) 21:26
●潮風さんのNo1140へのレス: > 確か両側にあったと思ったのですが。  南側は土塁というかんじではなかったと思います。それとも低い土塁が均されちゃってたのか な。近い内に再確認しておきます。 > しかし椎池土塁については南側に堀、美浦境土塁は北側に土塁があったとすると、どう考えれ ば良いのでしょうね(^_^;)   県道美浦栄線(旧名木原正直線)上の二つの土塁について、これって同じ事ではないですか。 >もしかして木原城がもっと昔の時代に江戸崎と対立した時代があったなんて言う想定も可能なの でしょうか?  別勢力が入っていたとか改修したとかの可能性も否定してはいけませんね。それと永厳寺の南 側にある旧館跡(これは『御茶園遺跡』P156にある木原城縄張図の物見砦のことです。)の意義も 考えないといけないかも。 ●潮風さんのNo1141へのレス: >〜ところで今まで木原城を江戸崎の土岐氏との繋がりしか見ていなかったのですが霞ヶ浦を挟ん で対岸にあった戸崎城の戸崎氏及び菅谷氏の関係などはどうなのでしょう?むしろ木原からすれ ば舟で行き来出来た距離ですよね。  そうでしょうね、それも霞ヶ浦沿岸にたくさんいたと思われる海民達にとっては簡単に。海は 今の私たちの感覚よりも遙かに移動の自由な道だったでしょうからね。 >〜以前に出島の遺構が土岐氏に似ているとの話がありましたが、木原周辺と出島方面の城郭(戸 崎城及び宍倉城など)との結びつきも考えてみると面白そうですよね。  街道閉塞用の土塁が出島にもあるという程度の話ですが。城郭の関係とは別に、霞ヶ浦沿岸の 海民については別件で調べてみたいテーマです。  ちょっと長いのでここで一端切ります。 ひづめ@美浦村お散歩団

1145. 土塁についてのレスヘのレス(その2) ひづめ [URL]  2002/01/26 (土) 21:27
●潮風さんのNo1141へのレス(続き): >〜でも郷土史、資料は少なくても僕自身はとっても興味はありますね。有名な武将などいない地 方であるからこそ、また研究が進んでいないからこそいろいろな発想が出来て面白いって言う部 分がありまよね。〜  ここは自分の生まれ育った土地ではないですから先祖がどうだったという繋がりがない代わり にしがらみもなくてそういう点では自由に見られるかもしれません。そして有名どころがいない からこそ、ここに無名の等身大の人々が生きてきて戦ってきて今のこの稲敷の風景があると思う と、それだけで感動なんですよね。 >〜ただ僕が木原の規模云々と言ったのは、この当時の木原城周辺が果たして小田氏の軍勢を背後 から挟撃出来るほど人数を動員出来たのかどうかって言う疑問なのです。この辺は『木原城の謎』 のテーマのほうで徐々に考えていけば自然と答えが出てきそうな雰囲気ですね、、、って本当に 答えが出るのか?>自分(^_^;)  ですね。木原城の成立とか二つの木原城の問題なども含めて考えて行きましょう。 ●潮風さんのNo1142へのレス: >〜最初から『木原は江戸崎と繋がっていた』と言う先入観をはずしてみないとなかなか見えてこ ないものも実はあったりするのかなって、、、どうでしょう?(^_^;)  これも上と同じように木原城の成立過程についてもう少し考えてみたいですね。 > そういえば余談ですが東町の中世資料編、あれもなかなか良いですね。  県史料や龍ヶ崎の史料に載っていないものもありますので私も部分的にコピーしてあります。 ひづめ@美浦村お散歩団