戦国土塁討論会発言集(その2)

 これは、潮風さんのホームページ『常陸の国の城と歴史』の足跡板(掲示板)から転載させていただきました。
長いので適当に分割してあります。
その1(No.979〜999)
その2(No.1000〜1034)
その3(No.1038〜1086)
その4(No.1087〜1142)
その5(No.1144〜)




1000. Re:土岐氏の土塁は… 五郎  2001/12/23 (日) 14:15
潮風さん、ひづめさん、どうもです。 >…かと言って本格的な戦闘の時の防御にしては薄い気がしますよね。 割目土塁は畝を別にしても、たしかに要害堅固という感じはしませんね。でも、ひづめさんもお っしゃるように、土塁群全体でみると要所には厳重な防御線を築いているように思えますが。 雀ノ久保土塁などは相当戦闘力ありませんか。数千人の敵ならそこで対陣するのに十分では…な んて素人考えですがどうでしょう(^_^; 全体に横矢が少ないのがちょっと疑問ですけど。 街道監視の機能は当然あったでしょうが、あれだけたくさん造ったといことは戦闘面重視とは考 えられませんか。どれだけの効果があったかは別にしても。 あれだけたくさん街道閉塞土塁を築くのは全国的にも珍しいと言うことですが、それも不思議な 気がします。今考えるとあの地形なら案外必然的と言う気がしますよね(^_^; あの地形自体が珍 しいのかな。  * 五郎

1001. Re: Re:土岐氏の土塁は… ひづめ [URL]  2001/12/23 (日) 15:46
五郎さん、こんにちは。 >雀ノ久保土塁などは相当戦闘力ありませんか。数千人の敵ならそこで対陣するのに十分では…な んて素人考えですがどうでしょう(^_^;  雀久保土塁は規模最大の土塁です。これより江戸崎側にも小規模な土塁はいくつかありますが、 ほとんど湮滅していまして全容の分かるものはありません。江戸崎本城での決戦の前段としては この雀久保での防衛が山場になることを想定していたのだと思います。ここは西側の割目土塁方 向から来る江戸崎本道と北側の大形東田土塁側から来る古道の合流点でもあります。 > 全体に横矢が少ないのがちょっと疑問ですけど。  横矢のある(あった)土塁は、大形東田土塁、沼里土塁、美浦境土塁などでしょうか。もっと 横矢があっても良いと私も思います。 > 街道監視の機能は当然あったでしょうが、あれだけたくさん造ったといことは戦闘面重視とは 考えられませんか。どれだけの効果があったかは別にしても。  佐竹、多賀谷はおそらく来ていないでしょうが、永正年間(1500年の初期頃)に小田に江戸崎 城を取られた時期があったらしいです(今、調べている最中ですので詳細は不明ですが)。その 後取り戻したわけですが、そのときの教訓から西側に対する防御としてこんな作戦を考え出した のかもしれませんね。 > あれだけたくさん街道閉塞土塁を築くのは全国的にも珍しいと言うことですが、それも不思議 な気がします。今考えるとあの地形なら案外必然的と言う気がしますよね(^_^; あの地形自体が 珍しいのかな。  どうなのでしょうかね、私の育った東京の武蔵野台地ではこういう地形は無いです。今、この 稲敷に住むようになって、舌状台地と谷津田の入り組んだ風景を美しいなあと思って見ています が、これって特異な地形なのでしょうか。  それと、他の地域では大竹先生のように土塁に注目して調べまくった人がいなかった、という ことはないでしょうか。似たような地形があったら土塁や空堀で切っていないかを調べるのも面 白いですね。 ひづめ@美浦村お散歩団

1002. RE: 割目土塁について白熱してますね 管理人・潮風 [URL]  2001/12/23 (日) 19: 55
ひづめさん、どうも。 >この地域に点在する多くの土塁群として考えた方がよいと思います。  いえ、僕は一つ一つの土塁の防御性が低いとは考えていません。ただ街道閉塞用の土塁だとし ても、あのように何重にも設置してしまうと守備兵の人数配置の難しさもあると思いますし、あ のように多少クランクや横矢が入っていたところで果たしてどこまで効果があったかです。つま り街道に沿って進んでくる敵に対して多少の足止め効果があったのかも知れませんが各個所の土 塁にそれぞれ一定の兵士を配置するほど土岐氏に余裕があったとは思えないわけです。  だとしたらあの土塁群は兵士を効率よく配置しないと本来の成果が見えてこないわけですから 実際にはどのような狙いと目的があったのか考えたいわけです。 >土塁の狭まった虎口部分を突破しようとすれば攻める側にも少なか >らず損害が出ますよね。横に拡がった体型での戦い方とは違った展 >開になりそうですね。  これはどうでしょう、攻め寄せる側は必ずしも虎口とは限らないと思いますよ。これは一般の 城攻めと同じで掘に入って曲輪壁をよじ登る兵士だっていたでしょうし、下手をすれば谷津に舟 を出して挟撃しようと図ったかも知れませんし。僕はあの程度の幅(10m前後)の掘ならば薬 研掘であれ横に展開して行くと思いますが。いわゆる野戦と言うものは虎口のように防備が堅い 個所を集中的に攻めるのではなく、むしろ『弱点』と見られる箇所に攻め寄せたと思います。 >攻める方は一カ所に集中せざるをえないので攻撃されやすくなるので >攻めにくい。土岐の主な計画はこんなところかなと思うのですが。  むしろこんな攻め方をしたら自滅しちゃうと思います。多角的に攻めたほうが守り側を分散さ せる事が出来て効果的では? >戦闘用だとすると、簡単に渡って来られてしまってかえって危ない気がします。  同感です、掘の最上部と桟が同じ高さって殆ど無いと思いますね。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1003. RE: 割目土塁の件 管理人・潮風 [URL]  2001/12/23 (日) 19:55
ひづめさん、どうも。 久々の意見交換、楽しいですね('-'*)フフ♪ ●美浦境土塁の横矢に関して >こうした横矢もそれなりの効果があるのではないでしょうか。 >できればもっと沢山あった方がよさそうですが。  確かに横矢や虎口が食い違いになっていたりすれば効果的ですよね。ただだからと言ってなぜ あそこまで何重にもしたかです。足止めになったところでどこまで効果があったのか・・。逆な 考えをすればあのような中途半端な土塁を群にして築くよりも、大きな掘切でもっと大胆な施行 をしても良かったんじゃないかとも考えます。数も良いんですが質を高めれば数を越える効果も あったんじゃないかなと(^_^;) >設計者同志でユニークさを競い合ったのでしょうか?  静岡県三島市の山中城なんてまさに設計者の展示作品のようですよね(^_^;) 設計者同士で力 争いがあって縄張りが決定するなんて政治色の強い面もあったのかも知れないですね(^_^;) >コンクールではこれが特等賞だったでしょうか。  ですねえ('-'*)フフ♪ 我々を悩まさせてくれる遺構はみな賞品をあげたいくらいですね(笑)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1004. RE: Re:土岐氏の土塁は… 管理人・潮風 [URL]  2001/12/23 (日) 19:56
五郎さん、どうも。 >雀ノ久保土塁などは相当戦闘力ありませんか。 >数千人の敵ならそこで対陣するのに十分では…  だったとしたら雀久保土塁を尚も頑丈にするか、そもそも雀久保土塁のような形式ではなく平 城でもいいので堅固な城塞を作ればいいと思うのですが、それをしないで複数もの土塁群を作っ た理由が今一つ見つかりません。数よりも質のほうが防御機能は高いと思うのですが(^_^;) >全体に横矢が少ないのがちょっと疑問ですけど。  そこが城塞ではなかった証拠なのではないでしょうか。あくまで街道閉塞用(閉塞と言うより は一時的な足止め機能)ですからそこまで巧みにするほどの目的が無かった証拠なのではないか って思いますが。もともと横矢を多数設けようとしたのであれば街道上に本格的な城を築いてい るのでは?そこまで至っていない事がその目的をまさに現しているのでは? >あれだけたくさん造ったといことは戦闘面重視とは考えられませんか。 >どれだけの効果があったかは別にしても。  どれだけの効果があったかは別に出来ないと思います。効果が無いものを労力かけて作るのは むしろ土塁が邪魔になるだけで守りづらくする可能性もありますから。あの土塁群が戦闘重視か どうかはどうなのでしょう、、江戸崎から木原に大軍を一気に送り込みたいなんて時に街道上に 何個も土塁と掘が連続しているとそれはそれで結構邪魔だったんじゃなかろうかと考えてもみた りして('-'*)フフ♪ >それも不思議な気がします。 >今考えるとあの地形なら案外必然的と言う気がしますよね(^_^;    阿見町の地図を見ると、谷津が沢山入り込んでいますよね。木原城・舟子城・塙城など周辺の 城郭が『水のネットワーク』で繋がっているように見えたのは偶然ではないと思います。どうし ても土塁とか掘だけの観点だと街道だけに目が言ってしまいますが当時はこの水上防衛も重要だ ったと思うのですね。その両立が果たせて初めてこの地の防衛対策を果たせる事になるのではな いでしょうか。それほど守るにも攻めるにもなかなか難しい土地柄かなと感じています。 あとこの谷津の入り込んでいる地形は珍しくは無いと思います。下妻や関城、水海道に至る県西 地区もまさに谷津ばっかだったわけです。まさに水をどう利用するかでこの地方をどう治められ るかが決まったとも言えるのかなとも思っています。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1007. 美浦の土塁群で気付いた点 管理人・潮風  2001/12/23 (日) 21:21
ひづめさん、五郎さん、どうも。  たまにはこのようにいろいろ意見を出し合うのもとても楽しいですね('-'*)フフ♪  で、美浦の土塁で気になる点をもう一つあげると、実は『掘を挟んで両側に土塁が築かれてい る点』です。これはほぼ全ての土塁群に見られる事なのかはわからないのですが(これはひづめ さんに調査をお願いするとして('-'*)フフ♪)、土塁が両方あると言う事はもしかしたら最初の土 塁を突破されたら敵は攻めやすくなるわけです。多少なり比高二重土塁っぽい箇所もあったかも 知れませんが基本的にあの土塁群が一方向の敵を想定していたとすればその方向側には土塁は築 かないのではないかと言う疑問が残ります。  なぜ掘の両側に土塁が築かれているのか、、これも土塁群の総合的な目的を理解する為の一つ のカギかなとも思っていますが如何思われます? あと美浦境土塁のクランクですが、掘を挟んで両側の土地の高さはあまり変わりませんね。だと したら横矢とかクランクを入れても一体どれだけ効果があったのでしょう。あのクランク箇所が 虎口であったのであればまだ理解は出来るのですが。  つまり下記のように左方向から敵が来ると想定した場合に『*』の部分を敵に侵入させてしま うのはどうかなと。(1)よりは(2)のようなクランクで無いと意味が無いのかなと・・違う かなあ(^_^;) (1) 敵侵入想定 →→→ ***┃/┃ ***┃/┃ ***┃/┃ ***┃/┃ ***┃/┃ ┏━━┛/┃ ┃///////┃ ┃/┏━━┛ ┃/┃ ┃/┃ ┃/┃ (2) ┃///////┃ ┃///////┃ ┃///////┃ ┃///////┃ ┃///////┃ ┃///////┃ ┃///////┃ ┃/┏━━┛ ┃/┃ ┃/┃ ┃/┃   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1009.Re: 美浦の土塁群で気付いた点ひづめ[URL]2001/12/23 (日) 22:19
潮風さん、五郎さん、こんばんは。 >  たまにはこのようにいろいろ意見を出し合うのもとても楽しいですね('-'*)フフ♪  いろいろ出ましたね。これらをまとめて明日にでも大竹先生へ届けておきます。先生のご意見 が戻りましたら、報告しますね。 >  で、美浦の土塁で気になる点をもう一つあげると、実は『掘を挟んで両側に土塁が築かれて いる点』です。これはほぼ全ての土塁群に見られる事なのかはわからないのですが(これはひづ めさんに調査をお願いするとして('-'*)フフ♪)、  これは大竹先生でないとわかりませんね。今ではほとんどが湮滅状態ですから状態が良かった ときのことを知っている先生に聞くのがよさそうですね。 >  なぜ掘の両側に土塁が築かれているのか、、これも土塁群の総合的な目的を理解する為の一 つのカギかなとも思っていますが如何思われます?  これらの土塁群は存在そのものが稀少なので他ではほとんど議論されていないと思います。大 竹先生が私たちへ提起してくれたテーマですから、さらに疑問を解いていきたいですね。 >(1)よりは(2)のようなクランクで無いと意味が無いのかなと・・違うかなあ(^_^;)  (2)だと横矢の効果がないんじゃないですか? ひづめ@美浦村お散歩団

1010. Re: Re:土岐氏の土塁は… 大村  2001/12/23 (日) 23:15
大村です。(^^)/ > 雀ノ久保土塁などは相当戦闘力ありませんか。数千人の敵ならそこで対陣するのに十分では… なんて素人考えですがどうでしょう(^_^; 攻め手側の数よりも守り手側の数が問題なのです。(^_^;) 土岐氏の総動員数がどのくらいなのかわかりませんが、その兵数を本城の江戸崎城だけに集めた のなら問題ないのですが、実際は各支城にも振り分けるわけですよね。 となると、 a=(総動員数÷城の数) 注)本城と支城では重みが違うため本当は”城の数”では割れない。 さらに土塁に兵を配置すると、 z=(a÷(土塁の数+本城または支城)) 注)城を空にできないし、かつ城の方が重要性があるので本当はそのまま割れない。 となるわけです。 仮に、 総動員数を5000人とし、 城の数を4つ(江戸崎、木原、上条、塙)←とりあえず4つとします。(^_^;) この場合、1城あたり1200人となり、さらに土塁に兵を振り分けると、木原城の土塁が8つ なので、ひとつあたり約130人となります。 それで数千人の攻め手を防がないといけないわけです。 それだったら守りの堅固な城に篭城したほうがよくありませんか?(^_^;) それで、後北条軍の援軍をひたすら待つのです。 なお、後北条軍の援軍がすでに到着しているようなら、攻め手側も攻め込んでは来ないでしょう。 (^_^;) どんなもんでしょう。では、

1011. Re^2: Re:土岐氏の土塁は… ひづめ [URL]  2001/12/24 (月) 08:32
大村さん、潮風さん、五郎さん、こんにちは。  土塁に関する大村さんの発言(979)をきっかけにこんなにになっちゃいましたよ。みなさんに土 塁を見てもらってほんとうに良かったと思っています。昭和58年に阿見町史に『戦国土塁』が 書かれてからこんなに議論の対象となったのは初めてなんじゃないかと思います。 > 攻め手側の数よりも守り手側の数が問題なのです。(^_^;) > 土岐氏の総動員数がどのくらいなのかわかりませんが、その兵数を本城の江戸崎城だけに集め たのなら問題ないのですが、実際は各支城にも振り分けるわけですよね。  北条側の史料に寄れば、天正17年頃で江戸崎・龍ヶ崎・木原三ヶ所で千五百騎、と書かれて ます(3城に単純に3等分ではないでしょうから江戸崎八百騎、龍ヶ崎四百騎、木原三百騎とい ったところでしょうか。兵隊の数はこの3から4倍くらいになるでしょうか?)。もし、その他 の支城へもさらに振り分けるとすれば、1支城当たりの兵隊数はそうとう少人数になって兵力的 にも分散してしまうでしょう。 > さらに土塁に兵を配置すると、 > z=(a÷(土塁の数+本城または支城))  土塁の総数で割る必要はないと思います。最前線の土塁の数で割れば良いのではないですか? 土塁の場合、街道に沿っていますから最前線が突破されれば守備兵も一つ後退してそこがまた最 前線になります。 > それで、後北条軍の援軍をひたすら待つのです。  当日お配りしたカラーの地図にあるように江戸崎本道だけが小田の方角から谷津を跨がずに江 戸崎まで来る街道です。この土塁群は江戸崎城が小田氏に乗っ取られた後、城を取り戻した大永 年間以降に造り始めたのではないかと思っています。北条氏との同盟関係に入ったのは永禄年間 で、時代の流れは大規模な戦闘になっているでしょうから、この土塁群が対象とした目標と比べ るとはるかに大きなものになってしまったのだと思います。天正18年の最終局面では時代遅れ だったと思いますが。  それと以前の攻撃側の進軍速度を減速させる効果に関する追加です。歩兵は堀へ降り、土塁を 登り、谷津へ入り進軍できますが馬は虎口しか通れません。 ひづめ@美浦村お散歩団

1012. Re^2: Re:土岐氏の土塁は…  五郎  2001/12/24 (月) 19:49
みなさん、こんばんは。 あまりに沢山の書き込みで、私の頭はショート寸前です(^_^;) あの土塁群が造られた目的と実際にその効果があったかどうかは別でしょうが、ひづめさんの対 小田を念頭において造りはじめたのではというのは説得力があります。 土岐氏が数千人規模で対陣できるかは疑問ですか、やはり。 攻め手の兵力によっては篭城する手もあるでしょうが、木原城の位置を考えると雀ノ久保土塁は 対陣するには、最適地ではありますよね(しつこい(^_^;) 野戦陣地の防塁と考えるとあの程度 で十分でしょうか。 潮風さん. >どれだけの効果があったかは別に出来ないと思います。 いやこれは、結果的に効果がなかったかも、という意味です。 やはりこれだけ多くの土塁を造ったのはその効果を期待してのことでしょうから。軍事的、政治 的どちらに比重があるのでしょうね。 >阿見町の地図を見ると、谷津が沢山入り込んでいますよね。木原城・舟子城・塙城など周辺の城 郭が『水のネットワーク』で繋がっているように見えたのは偶然ではないと思います。 そうですね、『水のネットワーク』はかなり重要だったように感じますね。しかし攻め手側にと っては谷津といのは厄介だったのでしょうね。 >あとこの谷津の入り込んでいる地形は珍しくは無いと思います。下妻や関城、水海道に至る県西 地区もまさに谷津ばっかだったわけです。 関東地方では見慣れた地形ですね。その中で特に稲敷郡は谷津が江戸崎付近で集束するのが珍し いのかなと思うのですが。 防御を台地上に限れば比較的守りやすい地形ではないでしょうか。 ひづめさんが書かれている  >天正18年の最終局面では時代遅れだったと思いますが は、まさにそういうことなのでしょうね。 土岐氏の悲哀を感じさせる遺構ともいえますね。 まとまりのない書き込みになってしまいました。 * 五郎

1013. Re^3: Re:土岐氏の土塁は…  ひづめ [URL]  2001/12/24 (月) 22:13
五郎さん、こんばんは。 >ひづめさんの対小田を念頭において造りはじめたのではというのは説得力があります。  もちろん、時代が降って、対小田問題は解消され、代わって対佐竹、対多賀谷が問題になって 来ますからその時代には目標は変化したでしょうが、方角的には同じですね。 > そうですね、『水のネットワーク』はかなり重要だったように感じますね。しかし攻め手側に とっては谷津といのは厄介だったのでしょうね。  谷津はやっかいだったと思います。水量が多ければ船を利用できますが、木原城と舟子城の間 のように深田だったりするとおいそれとは通行できないでしょう。少なくとも馬は無理でしょう。 カラー地図ではたしか標高10mの等高線以下を水色で塗ったそうですから、青いところは水が豊 かだったわけではないと思います。むしろ、低湿地でぬかるんでいたんんじゃないでしょうか。 天気続きの時と雨が降った後とでは通りやすさがかなり違ったものと思います。その中でいつで も通れたのが馬の背道である江戸崎本道だったわけですね。 >防御を台地上に限れば比較的守りやすい地形ではないでしょうか。  そうだったのだと私も思います。だから、戦国期もかなり押し詰まってくるまで大きな戦もな かったのだと思います。 > >天正18年の最終局面では時代遅れだったと思いますが  小田原攻めの豊臣軍のような大軍が押し寄せて来るような戦を想定したものではなかった、と いう意味です。上にも書いたように稲敷の土岐領はなんだかんだ言っても大きな戦がなかったわ けですから、土塁群の顕示的な効果は十分にあったと言いたいです。 ひづめ@美浦村お散歩団

1014. Re: 美浦の土塁群で気付いた点 管理人・潮風 [URL]  2001/12/24 (月) 22:24
ひづめさん、どうも。  クリスマスイブだと言うのに土塁の話題で白熱していて良いのでしょうか(笑) |これは大竹先生でないとわかりませんね。    機会がありましたらお願いしまーす('-'*)フフ♪  ところで江戸崎の東へ通じる道や南へ通じる街道には土塁群は無かったのでしょうか?? > (2)だと横矢の効果がないんじゃないですか?  掘の中に入ってきた敵に対して効果はあります。(1)のクランク状の掘は掘の中に入ってき た敵の横の動きを抑える意味と横矢での攻撃力を増す効果がありますが(1)のままだと逆に相 手にも同じ効果を与える事にはなりませんか?そこで決めてになるのが土塁だと思うのですが両 側に築かれていたもので、これじゃ(2)のほうがまだ良いかなと思ったわけです。結局『両側 の土塁構築』につまづいてしまいました・・・この謎はどうすれば解けるのでしょうか(^_^;)  (2)の右側を城郭の内部だと想定して貰えると横矢効果が見えてくると思います。いわゆる 近世の城郭は横幅の大きな掘にこのような横矢を入れていますよね。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1015. Re^2: Re:土岐氏の土塁は… 管理人・潮風 [URL]  2001/12/24 (月) 22:24
五郎さん、どうも。   >しかし攻め手側にとっては谷津といのは厄介だったのでしょうね。  攻める側だって水に関係している地域の豪族とかだったわけですから意外とお互いに知り尽く していたのではないでしょうか。あの小田城や海老ケ島城がなぜあんな台地の下の低地に築かれ たのか、その辺が見えてくるかも知れませんよ('-'*)フフ♪ >その中で特に稲敷郡は谷津が江戸崎付近で集束するのが珍しいのか >なと思うのですが。  だからこそ土岐氏は本城を江戸崎にしたのでしょうね。敵方向を見て谷津や沼を前面に持って くる事で自然防御も備えていた事にもなるのでしょう。 >防御を台地上に限れば比較的守りやすい地形ではないでしょうか。  ですね、僕も同感です。ただ水が多い地域ですから城郭間が水のネットワークで結ばれていた 事を考えると水を利用しつつ水に対しての防衛もしなくてはいけなかったと言う厄介な悩みもあ ったかも知れません。水を利用して経済活動を行なっていたとすればやはりその拠点となる場所 は敵の目標にもなるでしょうしね。   >>天正18年の最終局面では時代遅れだったと思いますが >は、まさにそういうことなのでしょうね。  かも知れませんね。ただ一気に落とされた後北条氏の山中城や八王子城、岩槻城など、あれほ どの城でも僅か数日で落ちちゃう勢いだったわけですから、どこを例えてもあの秀吉の勢いと比 較出来るものは無かったとも言えるかも(^_^;) 土岐氏の土塁群も天正18年直前までは意外と 機能していたかも知れませんし。それまでは万単位の軍勢が江戸崎に襲い掛かるなんて事は無か ったようですしね。 >土岐氏の悲哀を感じさせる遺構ともいえますね。  ですね、でも一方ではここまでガチガチに守りを固めていた土岐氏の独特な特色が出ていてと ても興味深い事も確かかなと('-'*)フフ♪   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1016. Re^2: Re:土岐氏の土塁は… 管理人・潮風 [URL]  2001/12/24 (月) 22:28
ひづめさん、どうも。更に白熱に拍車をかけてと('-'*)フフ♪ >1支城当たりの兵隊数はそうとう少人数になって兵力的にも分散してしまうでしょう。  近くの小競り合いならともかくもやはり小田原の戦いにもなると殆どは江戸崎に詰めていたの ではないでしょうか?小田原の後北条氏のように・・。  何はともあれ本城が第一だったのでは? >土塁の場合、街道に沿っていますから最前線が突破されれば守備兵も一つ後退 >してそこがまた最前線になります。  う〜ん、前回もこの辺の軍事的なお考えが聞けなかったので残念なのですが、僕はそう簡単に 退却戦って上手に運ぶものではないと思います。敵に突破された時点で守り側は一気に総崩れに なりますから守備側は混乱すると思います。しかも背後にもまたもう一つ、またもう一つと言う ように土塁群が控えているわけですからそんな簡単に上手くはいかないのでは?(^_^;)。 >江戸崎本道だけが小田の方角から谷津を跨がずに江戸崎まで来る街道です。  これはどういう意味を指していますか? >この土塁群は江戸崎城が小田氏に乗っ取られた後、城を取り戻した大永年間以降 >に造り始めたのではないかと思っています。  可能性は高いと思いますが、実際にいつ頃かが知りたいです(^_^;) もしかしたらもっと時代 が下って小田氏が衰退を始めてからかも知れませんよね。ひづめさんの説を穿って捉えているわ けではなく、あくまで幾つもの可能性を考慮しています。永禄年間に入って大規模な戦闘にはな っているかも知れませんが、この地方は数千単位の戦いがまだ続いていたのではないでしょうか。 この土塁で戦があったと言う記事って無いのですかね?(^_^;) >〜谷津へ入り進軍できますが馬は虎口しか通れません。  馬は戦国期の軍役の割合からすればわずかに全体の1割に過ぎません。ドラマで騎馬隊らしき ものが先頭で突撃していきますが、実際には全体の1割しか戦闘部隊の中に馬はいなかったので す。荷物を運ぶ馬も含めると騎馬武者なんて実際には殆ど少なかったわけですね。戦国期の大名 家でも6割は槍ですから馬は中心的存在ではなかったと解釈しています。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1018. Re^2: 美浦の土塁群で気付いた点 ひづめ [URL]  2001/12/24 (月) 22:42
潮風さん、メリークリスマス! > ところで江戸崎の東へ通じる道や南へ通じる街道には土塁群は無かったのでしょうか??  南側では江戸崎町村田に大堀と呼ばれる土塁があります。現在の江戸崎から成田へ向かう道で す。  大竹先生の話では、「出島と牛久にあるよ」とのことです。牛久の遠山にある土塁は私のペー ジにも紹介してあります。出島のはいつか探しに行ってみます。「土岐の戦法として独特かもし れないが、誰も考えつかないようなものでもなさそうだから、探せば他所にも見つかるのではな いか」、と先生も言われています。こういう視点で探した人がいないから見つかってないだけか もしれませんよ。みなさんも、自分の得意とする地域の地形に注目して探してみると面白いでし ょう。見つかったらすごいことですね。みんなで探しましょう! >掘の中に入ってきた敵に対して効果はあります。  すみません、図の解釈を間違っていました。斜線は堀でしたか。土塁と取ったので変だなぁと 思ったのです。 ひづめ@美浦村お散歩団

1019. Re^3: Re:土岐氏の土塁は… ひづめ [URL]  2001/12/24 (月) 23:11
潮風さん、再びメリークリスマス!  今夜はレスの応酬ですね。 >う〜ん、前回もこの辺の軍事的なお考えが聞けなかったので残念なのですが、僕はそう簡単に退 却戦って上手に運ぶものではないと思います。敵に突破された時点で守り側は一気に総崩れにな りますから守備側は混乱すると思います。しかも背後にもまたもう一つ、またもう一つと言うよ うに土塁群が控えているわけですからそんな簡単に上手くはいかないのでは?(^_^;)。  うまくはいかないでしょうね。大村さんの計算式で守備兵をすべての土塁に配置しておく必要 はなかっただろうということです。 > >江戸崎本道だけが小田の方角から谷津を跨がずに江戸崎まで来る街道です。 > >  これはどういう意味を指していますか?  この道だけが全長に渡って馬の背道だということです。 >〜この土塁で戦があったと言う記事って無いのですかね?(^_^;)  いままでのところでは、目にしていません。 >〜馬は中心的存在ではなかったと解釈しています。  そうだと思います。 ひづめ@美浦村お散歩団

1020. 大竹先生より ひづめ [URL]  2001/12/24 (月) 23:33
戦国土塁ファンのみなさまへ。  今日午前中に大竹先生へ昨日までの討論会をプリントして届けました。そのとき先生は山芋掘 りへ出かけられていて会えませんでしたが、夕方電話で少しだけお話ししました。 (1)割目土塁の畝は埋め残しではなく、調査の時点ではああいう状態で存在していた。 (2)底まで掘ってみたのは道路に近いところだけ。今は防火用水になってしまった。 (3)あそこらは畑を開拓する時点で土をかなり移動させている。土塁の高さはもっと高かった。 土塁と畝の高さが同じだったということはないだろう。 (4)江戸崎側土塁の堀面に逆茂木があった。落とし穴もあった。櫓台と言えるかは別にして、 石碑のあった場所には土塁の一部が一段と高い場所があった。 (5)後世狩りに使ったことも考えられないではないが、ここらあたりにイノシシはいたのかな ぁ。 (6)吉原二重堀は内外ほぼ同じ高さだが、たいがいは内が高く外が低い構造だった。 (7)光仏土塁(今回は行かなかったですが、美浦境土塁のもう一つ木原よりの土塁)にも折れがあ る。外側に堀もあった。山芋を掘っていたときに見つけた。 以上、一部分ですが、大竹先生の回答です。 ひづめ@美浦村お散歩団

1032. RE: 大竹先生より 管理人・潮風 [URL]  2001/12/29 (土) 21:38
ひづめさん、どうも。  大竹先生への確認、ありがとうございます。  で、気になった点だけですが。 |(3)あそこらは畑を開拓する時点で土をかなり移動させている。 |土塁の高さはもっと高かった。土塁と畝の高さが同じだったとい |うことはないだろう。  僕が疑問に感じているのは『土塁と畝の高さ』では無く、『掘の最高地点と畝の高さ』です。 仮に現在の地表面がほぼ掘の最高地点だとすれば、畝はもう少しそれよりも低い地点でないとお かしいのではないかって言う意味です。 |(4)江戸崎側土塁の堀面に逆茂木があった。落とし穴もあった。櫓台と言えるかは別にして、 石碑のあった場所には土塁の一部が一段と高い場所があった。 |(6)吉原二重堀は内外ほぼ同じ高さだが、たいがいは内が高く外が低い構造だった。  一つの場所の掘と二重土塁を見れば確かに比高二重土塁で構造されていると言う事で理解は出 来るのですが、街道上に幾つも戦国土塁が点在していると言う総合的な点で考えてみた場合に高 さは違っても両側に土塁があると言う事実はどうなのでしょうね。  例えば城郭で言えば、どちらか側は必ず城内を指していますから、比高二重土塁(これって城 郭用語なのかもよくわからないのですが)も理解は出来るのですが、木原周辺の土塁は一体木原 に向かってくる敵を想定しているのか江戸崎へ向かっていく敵を想定しているのかその辺が自分 の中でわかっていません(^_^;) |光仏土塁〜にも折れがある。外側に堀もあった。  この外側とはどちら側をおっしゃられていたのですか?木原方面ですか?それとも江戸崎方面 でしょうか?美浦境土塁は大竹先生の見解ではどちらに敵を想定されているのでしょうか?   ではでは(^^)    潮風@常陸国より  

1034. Re^2: 美浦の土塁群で気付いた点 管理人・潮風 [URL]  2001/12/29 (土) 21:38
ひづめさん、どうも。  年末だと言うのにまたまた土塁議論は続きます(大笑) このまま大晦日から元旦も土塁議論が続 いていたりして?(笑) |南側では江戸崎町村田に大堀と呼ばれる土塁があります。  http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/sengoku-dorui.html ひづめさんのこの戦国土塁の図を改めて見ていたのですが意外と感じたのが江戸崎城周辺には戦 国土塁が少ないのですね。阿見町や美浦西部に集中していてむしろ江戸崎周辺にはそれほど無い のは偶然(たまたま見つかっていないだけ)でしょうか。それとも谷津とかの地形的影響でしょ うか? |出島のはいつか探しに行ってみます。  出島とはどこですか?あの美浦の北、霞ヶ浦の向こう側にある出島じゃないですよね・・・っ てそんなわけないか('-'*)フフ♪ |「土岐の戦法として独特かもしれないが、誰も考えつかないようなものでも |なさそうだから、探せば他所にも見つかるのではないか」  そうですね、僕が知っているのでも結城城北側に同じく谷津と谷津を結んだ長塁がありますし、 総和町の小堤城も鎌倉街道を監視するような感じで掘と土塁が数百m規模で残っていますね。確 かに土岐氏独自の特色とは言えないとは思いますが、ここまで執拗に築かれたのは全国でもそう 例が無いのではないでしょうか? |自分の得意とする地域の地形に注目して探してみると面白いでしょう。  大竹先生は文献とかからではなく、あくまで遺構を見つけ始めてから普遍性を見出されたので しょうか? |見つかったらすごいことですね。みんなで探しましょう!  そ、そんな簡単に見つかれば苦労はしないですって(^_^;) と言っても一体どこから着手すれ ば良いのやら、、とにかく可能性を求めてあちこちをウロウロするしかないのかな(^_^;)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より
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