戦国土塁討論会発言集(その3)

 これは、潮風さんのホームページ『常陸の国の城と歴史』の足跡板(掲示板)から転載させていただきました。
長いので適当に分割してあります。
その1(No.979〜999)
その2(No.1000〜1034)
その3(No.1038〜1086)
その4(No.1087〜1142)
その5(No.1144〜)




1038.戦国土塁についてひづめ[URL]2001/12/30 (日) 19:26
潮風さん、こんばんは。No1032についてのレスです。 >僕が疑問に感じているのは『土塁と畝の高さ』では無く、『掘の最高地点と畝の高さ』です。〜  潮風さんのおっしゃる『掘の最高地点』の意味が分かりません。別便で私の考える絵を添付し たメールを送りましたので見てください。参考図 >〜高さは違っても両側に土塁があると言う事実はどうなのでしょうね。 >〜木原周辺の土塁は一体木原に向かってくる敵を想定しているのか江戸崎へ向かっていく敵を想 定しているのか〜 >この外側とはどちら側をおっしゃられていたのですか?〜  これらについても内と外の概念図(というほどのものではないですが)を添付しました。北西 方向(図の左上の矢印)からの敵軍の侵入を想定しています。これはいままでわたしが大竹先生 に何度か伺ったお話の中からもこのように認識しています。  これともうひとつ考慮しなくてはならないと思うのが、小田軍の実際の侵入路です。春に下見 をかねてミニオフをやった際にお渡しした資料の中に小田軍の侵入路の描かれた図を入れてあっ たと思います。これは『阿見町史研究第3号』の大竹房雄「謎の古戦場天神原」のための参考図 です(天神原というのは現在は美浦境土塁南側に拡がる畑地です)。これの本文を近い内にお送 りしますので読んで見てください。  No1016で潮風さんから『この土塁で戦があったと言う記事って無いのですかね?(^_^;)』と 聞かれたときは忘れていたのですが、これがそれについての返事になるかと思います。 ひづめ@美浦村お散歩団

1039.戦国土塁について(つづき)ひづめ[URL]2001/12/30 (日) 19:27
潮風さんの、No1034についてのレスです。 >〜江戸崎周辺にはそれほど無いのは偶然(たまたま見つかっていないだけ)でしょうか。それと も谷津とかの地形的影響でしょうか?  わたしがこのことについて大竹先生に聞いたときには『南側を通る2本の馬の背道は地形その ものが要害になっているだろう』とおっしゃられました。 >出島とはどこですか?あの美浦の北、霞ヶ浦の向こう側にある出島じゃないですよね・・・って そんなわけないか('-'*)フフ♪  あの出島ですって。現在は霞ヶ浦町。 >〜ここまで執拗に築かれたのは全国でもそう例が無いのではないでしょうか?  その点は間違いなくユニークですよね。 >大竹先生は文献とかからではなく、あくまで遺構を見つけ始めてから普遍性を見出されたのでし ょうか?  土塁研究のそもそものきっかけについてはまだ十分伺っていませんが、以前『地面に鯨の背中 みたいなものがあったら、何かの意図があって作られたものかもしれんぞ、と疑ってみるべきだ よな』とは言われたことがありました。  大竹先生の他にも木原城周辺にいくつかの土塁遺構を「空堀」として記録している方はいます。 大竹先生と共に木原城の縄張図を作った方です。春にお会いしたのでいろいろと聞きたいことが あったのですが、ご病気をされた後だそうで残念ながら無理でした。 ひづめ@美浦村お散歩団

1043. Re: RE: 大竹先生より 五郎  2001/12/31 (月) 00:45
こんばんは また土塁で出てきました(^_^;) > |(6)吉原二重堀は内外ほぼ同じ高さだが、たいがいは内が高く外が低い構造だった。 > >  一つの場所の掘と二重土塁を見れば確かに比高二重土塁で構造されていると言う事で理解は 出来るのですが、街道上に幾つも戦国土塁が点在していると言う総合的な点で考えてみた場合に 高さは違っても両側に土塁があると言う事実はどうなのでしょうね。 野戦の防塁と考えると、そこで食い止めればよいわけなので、土塁を越えて堀さらに高い土塁の ほうが乗り越えずらいのでそのほうが効果的。土塁の陰に隠れられても、越えなければ意味ない し、その間に側面あるいは後方から回り込まれる可能性があるので、結局撤退するしかない。... という考えはいかがなもんでしょう?

1045. RE: 戦国土塁について 管理人・潮風 [URL]  2001/12/31 (月) 09:38
ひづめさん、どうも。 |これらについても内と外の概念図を添付しました。  これも見れませんでしたヽ( T_T)ノ ひづめさんのサイトに公開は難しいですか?ぜひここを見 られている皆さんも一緒に参加出来るような形が良いのかなと('-'*)フフ♪    と、言う事で添付ファイルについての2件は拝見してからコメントしたいなと思います。 |小田軍の侵入路の描かれた図を入れてあったと思います。  小田軍の侵入路、確認しました。土浦方面から木原城を通過して(まさに現在の国道125号 線)、江戸崎方面へ南下してますね。この侵入路に対して土岐氏が神経を傾けたと言う理解で宜 しいのでしょうか? 「謎の古戦場天神原」に『謎の』と言う題名が付くと言う事は伝承に近い歴史かも知れないと言 う事なのでしょうか?論文、楽しみにしております。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1046. RE: 戦国土塁について(つづき) 管理人・潮風 [URL]  2001/12/31 (月) 09:38
ひづめさん、どうも。 |『南側を通る2本の馬の背道は地形そのものが要害になっているだろう』  この南側と言うのはどこを基点としての南側ですか?江戸崎城の南側って言う事ですか?  阿見・美浦・江戸崎周辺はそれほど標高に差が無かったと思っていますが要害と認識出来るほ どの高低差があったのでしょうか?質問ばかりで申し訳ないですが・・(^_^;) | あの出島ですって。現在は霞ヶ浦町。  あれっ、土岐氏って対岸まで進出してましたっけ?あそこは菅谷氏(すげのや)の支配だった かと思われるのですが、それ以前は土岐氏も関係があるのですか? |『地面に鯨の背中みたいなものがあったら、何かの意図があって作られた |ものかもしれんぞ、と疑ってみるべきだよな』とは言われたことがありました。  いわゆる、地表面にもっこりとした盛り上がりがあったら疑えって事ですね、、、これは土塁 とかの可能性を指しているのかも知れないと言う事だと思いますが、実際に闇雲の探すのって大 変そうですね(^_^;) |木原城周辺にいくつかの土塁遺構を「空堀」として記録している方はいます。  基本的な部分に戻ってしまうのですが、街道上にある土塁群の多くは空掘だったのでしょうか?  掘の深さにもよりますが、戦略的には谷津の水を取り込んで水掘にしちゃったほうが効果的だ ったような気さえしますが、どうなのでしょう。  一般的な城郭内の掘で言えば、空掘だと掘底道としての利用も出来ると思うのですが、あのよ うに街道を閉塞する掘だったら水掘のほうが有効かなと思ったわけで(^_^;)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1047. Re: RE: 大竹先生より 管理人・潮風 [URL]  2001/12/31 (月) 09:38
五郎さん、どうも。  大晦日に土塁の議論、いいですねえ('-'*)フフ♪   |野戦の防塁と考えると、そこで食い止めればよいわけなので、 |土塁を越えて堀さらに高い土塁のほうが乗り越えずらいので |そのほうが効果的。  ですね、ただ考え方を変えると、敵もその土塁を利用して攻撃を仕掛けられる手段を作らせて しまう事にもなるかなと。敵に裸で侵入させるほうがより効果的だと思うのですが。そういう意 味でそもそもこの土塁群が一体どちらの敵を想定して作られているのかがポイントになるのかな と思っています。 |土塁の陰に隠れられても、越えなければ意味ないし、  ですね。ですが、それならそもそも土塁など作らないほうが敵は裸のままで侵入するしかない のでより効果的かなと思うのですよ。 |その間に側面あるいは後方から回り込まれる可能性があるので、 |結局撤退するしかない。  逆に相手に先に回りこまれたら(敵も街道上にそのような複数の閉塞土塁群があるのは承知し て侵入するでしょうから攻め側もそれなりに適した戦術を持って侵攻してくるのではないでしょ うか)守り側が撤退する事になります。その場合に背後に続く次の土塁が邪魔になるかなと・・ ・そういう意味ではそもそも街道上に複数の掘と土塁を備えての防御というものは兵士の配置を よく考えないと無駄に戦力を失うリスクもあったのかなと愚考しています(^_^;)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1053. 土塁に関する補足説明図について ひづめ [URL]  2001/12/31 (月) 18:12
潮風さん、どうも。  添付写真読めなかったみたいで、すみません。  ご提案のように私のページの中にNo1038に関する補足図を掲載しました。URLは   http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/dorui-dscs.html です。なお、潮風さんの掲示板でのみなさんの討論内容も参考のために転載させていただきまし た。もし、まずければ削除しますのでご連絡下さい。 ひづめ@美浦村お散歩団

1055.明けましておめでとうございます。まずは土塁から。ひづめ[URL]2002/01/01 (火) 00:44
新年おめでとうございます。本年もよろしく。 レスを書いていたら年を越してしまいました。 潮風さんのNo1045へのレス >小田軍の侵入路、確認しました。土浦方面から木原城を通過して(まさに現在の国道125号線)、 江戸崎方面へ南下してますね。この侵入路に対して土岐氏が神経を傾けたと言う理解で宜しいの でしょうか?  実はここが分からないのです。この合戦があったのかどうかも伝承の世界。馬の背道からの攻 撃を想定しすぎて低地側から裏を掛かれたようにも思われます。 >「謎の古戦場天神原」に『謎の』と言う題名が付くと言う事は伝承に近い歴史かも知れないと言 う事なのでしょうか?論文、楽しみにしております。  その通りです。2日にお届けします。 潮風さんのNo1046へのレス >この南側と言うのはどこを基点としての南側ですか?江戸崎城の南側って言う事ですか?  江戸崎城へ向かう3本の馬の背道の南側の2本という意味です。 >阿見・美浦・江戸崎周辺はそれほど標高に差が無かったと思っていますが要害と認識出来るほど の高低差があったのでしょうか?質問ばかりで申し訳ないですが・・(^_^;)  低湿地帯に囲まれているという地形上の利点を要害と考えるかどうかだと思います。南側2本 の街道の江戸崎城へのアプローチは直前で田圃地帯へ降りますが、雀久保土塁から犬塚、小角を 抜けて江戸崎城へ至る街道は台地側から入城できるルートになっています。参考図 >あれっ、土岐氏って対岸まで進出してましたっけ?あそこは菅谷氏(すげのや)の支配だったか と思われるのですが、それ以前は土岐氏も関係があるのですか?  土岐氏以外にも土塁を構築していてもおかしくないという話の中で出てきたことです。 >基本的な部分に戻ってしまうのですが、街道上にある土塁群の多くは空掘だったのでしょうか?  掘の深さにもよりますが、戦略的には谷津の水を取り込んで水掘にしちゃったほうが効果的だ ったような気さえしますが、どうなのでしょう。  主要な街道が湿地を避けて馬の背道を選んで通っていて、その街道を閉塞しようというのだか らそう簡単に水を引き込むことができるとは思えません。  私は戦国時代それも地方小勢力の土岐氏あたりにどのような戦闘ができたかあまりイメージが ありませんが、湿地帯というのは攻めにくかったのではないでしょうか。同じ足場の悪さであれ ば地の利という点から守備側に有利はあると思います。 ひづめ@美浦村お散歩団

1056. 明けましておめでとうございます。まずは土塁から。(続き)ひづめ[URL]2002/ 01/01 (火) 00:45
続きです。 潮風さんのNo1047へのレス >ですね。ですが、それならそもそも土塁など作らないほうが敵は裸のままで侵入するしかないの でより効果的かなと思うのですよ。  土岐氏はやっぱり兵力が少なかったのじゃないかな。原っぱで裸のままでのぶつかり合いはや りたくなかったのじゃないでしょうか。 ひづめ@美浦村お散歩団

1062. RE: 戦国土塁について(畝掘考察) 管理人・潮風 [URL]  2002/01/01 (火) 22:45
ひづめさん、どうも。  今年も元旦から土塁関係です('-'*)フフ♪ でも今日はこの話題だけで勘弁を(^_^;) |潮風さんのおっしゃる『掘の最高地点』の意味が分かりません。  拝見しました。なるほど、ひづめさんのおっしゃる意味を理解出来ました。  確かにひづめさんのおっしゃる通りかと思います、割目土塁の立ち上がり箇所と、もともとの 地表面がどこであったのか確認したいですが可能性が十分にあると思います。  そっか、今まで畝掘とか障子掘を見てきましたが、実際の地表面がどこにあったのかを確認し ないで見た目だけで判断してしまうと錯覚してしまいますね。  また新たな認識を教えて戴きました、感謝です(^_^)    ではでは(^^)    潮風@常陸国より

  1063. RE:まずは土塁から。(続き) 管理人・潮風 [URL]  2002/01/01 (火) 22:45
ひづめさん、どうも。  この話題もちょっとだけ('-'*)フフ♪ |土岐氏はやっぱり兵力が少なかったのじゃないかな。 |原っぱで裸のままでのぶつかり合いはやりたくなかったの |じゃないでしょうか。  ですです、だからこそ敵には裸になって貰おうと言う事なんです。敵も土岐氏が自ら築いた土 塁で守りを固められてしまう可能性もあると思うわけです。少数の兵士しかいない土岐氏だから こそ敵には裸で攻めて貰い、自軍は高い土塁でじっくり待ち受けるのが最適だったのではないか と。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1064. RE: 土塁に関する補足説明図について 管理人・潮風 [URL]  2002/01/01 (火) 22:45
ひづめさん、どうも。 |ご提案のように私のページの中にNo1038に関する補足図を掲載しました。  おおっ、素晴らしいです('-'*)フフフ♪このような議論はなかなか出来ませんから有り難いです。 ありがとうございました。実は僕もある程度議論が出尽くした時点で今回の土塁関係は過去ログ として別に掲載しようかと思っていたところでした。  でもまだまだ議論は続いていますから更新のほうはよろしくね('-'*)フフ♪   |潮風さんの掲示板でのみなさんの討論内容も参考のために転載させていただ |きました。もし、まずければ削除しますのでご連絡下さい。  僕は問題無しです。  他の方で問題がある場合はひづめさんまで御連絡下さいね。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1072. RE: 謎の古戦場天神原を読んで 管理人・潮風 [URL]  2002/01/06 (日) 12:20
ひづめさん、どうも。 |実はここが分からないのです。 |この合戦があったのかどうかも伝承の世界。  で、「謎の古戦場天神原」、拝見させて戴きました。  率直な感想を言うと、まず『伝承』と遺構、地形などを少々無理に押し込みすぎている感が拭 えませんでした。あと時代考証ですが、現在の土塁群が『小田氏対土岐氏の抗争』である裏づけ が全く無い事が気になりますね。地形や遺構を見て大竹先生の判断で書かれた論文なのですが、 どうしても伝承をここに少々無理してあてはめてみたって言う印象が強いです。  だからと言って僕は伝承だから信用していないって言うわけではないのです。ただ、『現行の 遺構や地形、遺物から考えてこの天神原と呼ばれる場所で昔、合戦があったようだ』と言う部分 までは良いとは思うのですがそれを無理にどの時代の合戦であったのではないかとまで踏み込む とちょっと疑問が湧くと言う事です。特に郷土史って特定の史料が無いと伝承や戦記モノが地元 の歴史として伝わってしまう事も多く無いと思うんですね。  そう考えると、ある程度の裏付けが無い以上は無理にあてはめる事はしないほうが、いいので はないかと思うのです。  例えば長篠合戦などは昔からあてはめられたイメージが未だに抜けきっていない例ですね。人 に与えるイメージって言う恐さってあると思うのです。  そういう意味から言っても、天神原で合戦があったと言う部分までは良いとしても、その合戦 が果たしてどの年代で、誰と誰の戦いであったかまで想定してしまうのはちょっとどうかなって 言う感想です。  また美浦境土塁や雀久保土塁の構造について『北条流構築と見られる』と書かれてあるのです が、どういった根拠からそう想定されるのかも書かれてありませんね。この辺はある程度どのよ うな理由から北条流と呼べるのかも定義が欲しいなあって言う事です。伝承ですからある程度予 想の上で書かれたとは思いますので大竹先生のお考えそのものには賛成なのですが、細かい部分 では謎は謎のままで深い突っ込みはしないほうが逆に良いのではないかと思いました。如何でし ょう(^_^;)   他の件はまた追って・・('-'*)フフ♪   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1074. RE: まずは土塁から。 管理人・潮風 [URL]  2002/01/06 (日) 19:51
ひづめさん、どうも。 |馬の背道からの攻撃を想定しすぎて低地側から裏を掛かれたようにも思われます。  確かに、正面から素直に攻撃をしかけても数と数の勝負、それほど数に差が無ければ地理に詳 しい土岐氏に有利ですからね。ただこれは大竹先生の考えられているのは馬の背道ですから違っ た説になりますよね?  ところで昔の江戸崎に向かう古道で谷津を渡る場所ってありますが、なぜ谷津を渡っていると わかったのでしょうか?主要道として人間が利用するのですから、出来れば邪魔な谷津は避けた かったのではないかって言う疑問がわきますが。  例えば美浦境土塁から南西へ下った時に急に古道が南へと向きを変えています。そのまま南西 に進んで君島土塁や掘留土塁を越えてきた街道と合流すれば谷津を通らなくても済むと思うので すがどうしてなんでしょ?敵の攻撃に備えて谷津を通したのかなとも思いますが土岐氏が領内の 移動等で使う場合に使いづらく感じませんか? |雀久保土塁から犬塚、小角を抜けて江戸崎城へ至る街道は台地側から入城できるル |ートになっています。    これも土岐氏が出撃する場合も想定されていませんか?  | 土岐氏以外にも土塁を構築していてもおかしくないという話の中で出てきたこ |とです。  だからと言ってなぜ出島なんでしょ?出島で発見されたと言う事でしょうか?  (続く)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1075. RE: まずは土塁から。(続き) 管理人・潮風 [URL]  2002/01/06 (日) 19:51
ひづめさん、どうも。 |主要な街道が湿地を避けて馬の背道を選んで通っていて、 |その街道を閉塞しようというのだからそう簡単に水を引 |き込むことができるとは思えません。  これは要するに『馬の背道と言うように両端の湿地帯とはかなり高低差がありすぎる』って言 う意味でしょうか?  ところで基本的な事をお聞きしたいのですが、江戸崎へ向かう街道(古道)って言うのは何を 元にされているのですか?江戸崎へ向かう3本の馬の背道が当時の古道(街道)であった事は何 からわかったのか知りたいわけでして。  と言うのもこれは美浦や阿見に限らず、古道と言うものが戦国時代にどこを通過していたのか って、その地の経済・軍事のネットワークを考慮するに重要だったりするんです。でも自分では どう調べればよいのかはっきりわからないのです(^_^;)  あと、戦国土塁群は戦国末期(例えば天正年間)には利用されなくなった可能性があるとの事 (既に時代遅れ)ですが、それでも現代でも街道を塞ぐように遺構が残っていると言う事は土岐 滅亡後もこの遺構は埋め戻されない状態で残っていたって言う事になりますよね?  と言う事は戦国末期まで『土岐氏は戦国土塁を埋めるような事はしなかった』という事になろ うかと思います。とすれば土岐氏はこの街道上の土塁群を戦国末期まで使用していたのではない でしょうか?小田氏との興亡が終焉を迎えた後も(小田氏の衰退)、街道上に備えてあった土塁 や堀を破壊しなかったと言う事は戦国末期も使われていた証拠になろうかなと。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1076. RE: 戦国土塁について 管理人・潮風 [URL]  2002/01/06 (日) 19:51
ひづめさん、どうも。 |これらについても内と外の概念図〜を添付しました。 |北西方向(図の左上の矢印)からの敵軍の侵入を想定しています。 |これはいままでわたしが大竹先生に何度か伺ったお話の中からも |このように認識しています。  今更ながら思うんですが谷津に敵が舟で侵入してくるなんて言うものは想定されていないので しょうか?当時の谷津の水の深さはどのくらいだったのか調べる手段でもあれば・・(^_^;)  実際に小田軍の進撃は木原方面から来たのではないかと言う想定とこの北西方向からの侵入を 想定されていると言うのはどう言った意味なのでしょうか?どちらが本当に想定されたルートな のでしょう?  土岐氏が考えていた敵の侵攻ルートは北西だったが、実際は木原から押し寄せたって言う意味 でしょうか? |No1016で潮風さんから『この土塁で戦があったと言う記事って無 |いのですかね?(^_^;)』と聞かれたときは忘れていたのですが、 |これがそれについての返事になるかと思います。  これはあくまで伝承や遺物・遺構・地形を総合的に考慮した上で、天神原で『合戦があったの ではないか』って言う想定ですよね。小田軍が実際に木原を越えて来たのか、それとも北西から 来たのかは確証は得られないって言う事で宜しいのですか?  小田氏が攻め寄せた当時の木原城ってわざわざ小田軍が先に攻めるほど(背後の警戒をするほ ど)の重要な城だったのでしょうか?僕はむしろ戦国末期頃になって重要な拠点になったと思っ ていたのですが。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1077. 『謎の古戦場天神原』について ひづめ [URL]  2002/01/06 (日) 23:20
潮風さん、こんばんは。  No1072へのレスです。これを書いている間にまたたくさん入れてくれてましたね。寝る時間 が無くなるのでそれらについては改めて。  牛久城の竪堀の画、見させてもらいました。30分で描けるのですか。土塁の馬踏だけならす ぐに描けそうですが、斜面にある竪堀と竪土塁の形状などは難しいそうに思いました。集中力で すね。今回は歩測していないとありましたが、短時間に部分の概略図を描く技術を身につけるこ とは武器ですね。写真だけでは表現できない場所が多いですからね、とくにわれわれ籔派には。 > そういう意味から言っても、天神原で合戦があったと言う部分までは良いとしても、その合戦 が果たしてどの年代で、誰と誰の戦いであったかまで想定してしまうのはちょっとどうかなって 言う感想です。  想像だけでは説得力がないということですね。その通りだと思います。推論と証明があっては はじめて納得できることだと思います。ただ、「天神原で合戦があったと言う部分までは良いと しても、」と言ってしまったら伝承から先へ進めなくなります。「天神原合戦」を直接裏付ける 文書は今のところ見つかっていない以上、別の文書や遺構などを寄せ集めて推論することはむし ろ必要なことではないでしょうか。そしてそれを証明するのは次の段階だと思います。大竹先生 自身「謎解き」と書いているように、これを論文だとは考えてないと思います。先生はこの問題 に限らず、「若い人たちの中で推論をたくさん出して話し合って欲しいんだ」と常々言われてい ます。その中から証明するに値する魅力的な説が出て来て、そして証明されて地方史の謎々が解 けていく、ということだと思います。 > また美浦境土塁や雀久保土塁の構造について『北条流構築と見られる』と書かれてあるのです が、どういった根拠からそう想定されるのかも書かれてありませんね。この辺はある程度どのよ うな理由から北条流と呼べるのかも定義が欲しいなあって言う事です。  そのとおり。これは明らかに手抜きだと思います。今度会ったときにしかっておきます。 ひづめ@美浦村お散歩団

1079. Re: RE: まずは土塁から。返信その1 ひづめ [URL]  2002/01/07 (月) 16:38
潮風さん、こんにちは。  潮風さんのNo.1074、1075、1076に関するレスです。 > ところで昔の江戸崎に向かう古道で谷津を渡る場所ってありますが、なぜ谷津を渡っていると わかったのでしょうか?  渡らないと進めないからではないでしょうか。ちょっと意味が分からないのですが。 >主要道として人間が利用するのですから、出来れば邪魔な谷津は避けたかったのではないかって 言う疑問がわきますが。  雀久保土塁から江戸崎へ入る道は谷津を避けていますよ。時崎を通る道と君山を通る道も馬の 背道ですが江戸崎の直前で沼里川などの小野川水系の川を渡ることになります。これは地形だか らどうしようもないでしょう。 > 例えば美浦境土塁から南西へ下った時に急に古道が南へと向きを変えています。そのまま南西 に進んで君島土塁や掘留土塁を越えてきた街道と合流すれば谷津を通らなくても済むと思うので すがどうしてなんでしょ?  美浦境土塁からの道は堀留土塁から南進してきた道にわりと自然に合流していませんか?   > だからと言ってなぜ出島なんでしょ?出島で発見されたと言う事でしょうか?  なぜと言われても、出島にもいくつかあるよということだと思いますが。 > これは要するに『馬の背道と言うように両端の湿地帯とはかなり高低差がありすぎる』って言 う意味でしょうか?  台地上を通る道ですからね。 > ところで基本的な事をお聞きしたいのですが、江戸崎へ向かう街道(古道)って言うのは何を 元にされているのですか?江戸崎へ向かう3本の馬の背道が当時の古道(街道)であった事は何 からわかったのか知りたいわけでして。  これは今すぐには回答できませんのでまた改めて。 ひづめ@美浦村お散歩団

1080. Re: RE: まずは土塁から。返信その2 ひづめ [URL]  2002/01/07 (月) 16:40
 潮風さんのNo.1074、1075、1076に関するレスの続きです。 > あと、戦国土塁群は戦国末期(例えば天正年間)には利用されなくなった可能性があるとの事 (既に時代遅れ)ですが、  そうは書かなかったとおもいます。私が時代遅れと書いたのは、山中城をも1日で落としてし まうような多勢を持ってしての戦闘の時代には(既に時代遅れ)という意味です。これについて はNo1013に次のように書いておきました:「小田原攻めの豊臣軍のような大軍が押し寄せて来 るような戦を想定したものではなかったという意味です。上にも書いたように稲敷の土岐領はな んだかんだ言っても大きな戦がなかったわけですから、土塁群の顕示的な効果は十分にあったと 言いたいです。」潮風さんがいうように戦国末期少なくとも天正18年初めまでは機能していた からこそ江戸崎城ではそれまで大きな戦がなかったのだと思います。 > 今更ながら思うんですが谷津に敵が舟で侵入してくるなんて言うものは想定されていないので しょうか?当時の谷津の水の深さはどのくらいだったのか調べる手段でもあれば・・(^_^;)  これは考古学の分野でしょうか。どこかにメスを入れて地層の状態を調べれば分かるのでしょ うか。わたしには分かりません。  実際に小田軍の進撃は木原方面から来たのではないかと言う想定とこの北西方向からの侵入を 想定されていると言うのはどう言った意味なのでしょうか?どちらが本当に想定されたルートな のでしょう?  土岐氏が考えていた敵の侵攻ルートは北西だったが、実際は木原から押し寄せたって言う意味 でしょうか?  繰り返しになりますが、わたしはそのように理解しています。 > これはあくまで伝承や遺物・遺構・地形を総合的に考慮した上で、天神原で『合戦があったの ではないか』って言う想定ですよね。小田軍が実際に木原を越えて来たのか、それとも北西から 来たのかは確証は得られないって言う事で宜しいのですか?  はい。文書として知られているものはないと思います。小田氏側の史料に何かないでしょうか。 どなたかそのあたりに詳しい方がいましたら教えてください。 ひづめ@美浦村お散歩団

1082.Re: RE: まずは土塁から。返信その3ひづめ[URL]2002/01/07 (月) 16:51
潮風さんのNo.1074、1075、1076に関するレスの続きです。長くて済みません。文字数制限に 引っかかって分割しました。 > 小田氏が攻め寄せた当時の木原城ってわざわざ小田軍が先に攻めるほど(背後の警戒をするほ ど)の重要な城だったのでしょうか?僕はむしろ戦国末期頃になって重要な拠点になったと思っ ていたのですが。  木原城築城年の謎とも関わってきますね。それにこのときの木原城での戦にしろ伝承ですから あったかどうだか定かではないです。まぁ、木原城があったとすれば先にやっておかないと背後 を襲われると思ったのでしょうね。 ひづめ@美浦村お散歩団

1083. Re: RE: まずは土塁から。返信その2 管理人・潮風 [URL]  2002/01/07 (月) 22:50
ひづめさん、どうも。 |繰り返しになりますが、わたしはそのように理解しています。  この件についてはもともと土塁が掘の両側に作られたのはなぜかと言う話題から進んできたも のでしたよね?オフで見た美浦境土塁も両側に土塁がありましたね。例えばこの美浦境土塁は土 岐氏が想定していたルートではなく実際に小田軍が攻めてきたのではないかとされるルート上で す。  ひづめさんのサイトを拝見しますと主要古道の3本にこの木原から南下してくる古道は入って いないのですが、この古道は主要な古道ではなかったのでしょうか?   この古道上で気になるのは美浦境北土塁、木原台南土塁なのですが、この2つの土塁は両側に 土塁があるのでしょうか?美浦境土塁が両側土塁構造になっていましたのでこの古道がそもそも どのような想定の元で作られたのかまずその辺を考えてみたいわけです。 |小田氏側の史料に何かないでしょうか。  時間を見て小田氏が稲敷へ侵攻した時の資料でも探してみましょう。もしご存知の方あれば教 えて欲しいですね(^_^;)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1084. Re:まずは土塁から。返信その3 管理人・潮風 [URL]  2002/01/07 (月) 22:50
ひづめさん、どうも。 |木原城築城年の謎とも関わってきますね。 |それにこのときの木原城での戦にしろ伝承ですからあったかどうだか |定かではないです。  木原城と街道上の土塁群そして古道の確認、課題は多そうですね(^_^;)  こりゃ大変だー!ε=ε=ε=┏(。>0<)┛ |まぁ、木原城があったとすれば先にやっておかないと背後を襲われる |と思ったのでしょうね。  だったら最初から王道として、土岐氏の想定したとされる北西からの侵入のほうが良かった気 もするのですが、その頃の木原城の規模にもよりますので・・・  やっぱりわからなくなってきた、ひえーっε=ε=ε=┏(。>0<)┛  ・・・以上、変な纏め方でした(笑)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1085. RE:縄張図について 管理人・潮風 [URL]  2002/01/07 (月) 22:50
ひづめさん、どうも。  まず、縄張図から('-'*)フフ♪ |これを書いている間にまたたくさん入れてくれてましたね。 |寝る時間が無くなるのでそれらについては改めて。  ゆっくりいきましょ、ゆっくり('-'*)フフ♪ そんな慌てて議論するものでもありませんしね。 |牛久城の竪堀の画、見させてもらいました。 |30分で描けるのですか。  ですね。実はミニオフの集合前に急いで描いたものだったのです。形状とかだけ確認しておき たくて描きました。なにせ人の記憶ってだんだn忘れてしまうでしょ?紙に書いておけば忘れな いで済みますからね(笑) |斜面にある竪堀と竪土塁の形状などは難しいそうに思いました。  見たまんま、そのままを描けばよいわけです。それだけです。 |今回は歩測していないとありましたが、短時間に部分の概略図を描く |技術を身につけることは武器ですね。写真だけでは表現できない場所 |が多いですからね  ですね。ただ今回はかなり綺麗に藪が刈られていた場所ですから、ここまで短時間で作れたの だと思っています。我々がよく突入する藪だったらこんな短時間では難しいかも知れませんよ(^_ ^;)  あと写真では表現出来ない場所についてはおっしゃる通りです。城跡も久しく訪れていないと その場所がどのようになっていたかつい忘れてしまうものです。紙などで平面図でも描いておけ ば後で見てもチェックできますからそういう意味でも便利ですよね。  厳密には歩測計算もしながらやらないと土塁の幅とか長さとか大雑把になってしまいますから 歩測は基本かと思います。ただ、その遺構の形状とか状態をどこかに留めておきたいって言う気 持ちで描くのであれば今回のように意外と手軽に描ける方法もあるって言う事です。僕は今回が 初めて描いたのと同じですから、殆ど初めてでもここまで出来るんだって言うのを皆さんにわか って戴ければ、更に『自分もやってみようかな』と思って戴ければ幸いかなと思っていますヽ('ー' *)丿   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1086. Re: RE: まずは土塁から。返信その1 管理人・潮風 [URL]  2002/01/07 (月) 22:50
ひづめさん、どうも。 |渡らないと進めないからではないでしょうか。 |ちょっと意味が分からないのですが。  要するに、谷津を通過しないで道を作ったほうが人が移動しやすいと思うのですが、それでも 古道と呼ばれる道は谷津を通過させている箇所があります。多少遠回りしても出来るだけ谷津を 通過しないルートで道を作ったほうが便利だったのではないかって思ったわけです。  |雀久保土塁から江戸崎へ入る道は谷津を避けていますよ。  雀久保の手前、美浦境土塁から東田土塁のちょっと北へ抜ける道がありますよね?ここの部分 はちょっと谷津に引っ掛かっています。例えばこれは美浦境土塁から掘留土塁のちょっと南側あ たりの箇所で道を合流させればいいと思うのですが、なぜか谷津をかすめて東田土塁の北側まで 行ってから合流させてます。この箇所を疑問に感じたわけです。  地形上、どうしようも無い箇所は理解出来るのですが、上記で書いた箇所はちょっとだけ遠回 りすれば谷津をかすめなくて済むわけなのでこの辺にまず古道の作り方そのものに疑問を感じた わけなのです。  そして、考えていくと、もともと古道って誰が作って、更にはこのような地方の古道ってどの ような研究の上で「ここが古道だった」と確認されたのか知りたくなったわけです。 | 美浦境土塁からの道は堀留土塁から南進してきた道にわりと自然に合流していませんか?  ちょっと谷津に触ってますよね?ここが気になったわけです。 | なぜと言われても、出島にもいくつかあるよということだと思いますが。  なるほど、出島にも似たようなものがあるよって言うだけの話なんですね?   ではでは(^^)    潮風@常陸国より
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