戦国土塁討論会発言集(その1)

 これは、潮風さんのホームページ『常陸の国の城と歴史』の足跡板(掲示板)から転載させていただきました。
長いので適当に分割してあります。
その1(No.979〜999)
その2(No.1000〜1034)
その3(No.1038〜1086)
その4(No.1087〜1142)
その5(No.1144〜)




979. Re: 第3回天正18年オフ、良かったです 大村  2001/12/11 (火) 17:45
利之介さんどうも、(^^)/ チャチャですが気にしないで下さい。 > 木原城は大きゅうございました。 大竹先生は何町歩とか > 説明してくださいましたが、町とか反で説明されても・・ > ・・(^_^; 同じく。(^_^ゞ かと言って、東京ドーム○個分というのもナシにしていただきたいっす。(^^;; > とりあえず本丸は1周400mくらいの広さかな、と理解し > ました。 わたしとしましては、長辺と短辺の長さで示したほうが判りやすいかなと思ってます。どうでも いいかもしれませんが...(^^;; > 防塁群のなかではやはり割目遺跡でしょう、やはり。 畝堀 > があんなにはっきり残っているなんて驚異的としかいいよう > がありません。 本当に素晴らしかったです。 さて本題です。 ほ〜ら、皆勘違いするやないけ〜。>潮風さん。 この畝掘は発掘調査後埋め戻しを中途半端にしたためにはっきり残っているように見えたのだと おもいます。でないとこの畝掘だけはっきりしていて不自然です。(^^ゞ > 全体的にみて、戦国時代的遺構の密度がすごく濃く感じまし > た。 ひづめさんは良い所に住んでらっしゃいますね。(^_^) ほんと、美浦トレに近いしうらやましいです。(^_^;) 今度は美浦トレオフを開催してくださいね。(爆)

980. Re^2: 第3回天正18年オフ、良かったです 五郎  2001/12/12 (水) 20:25
大村さん、こんばんは。 先日はお疲れ様でした。また車中トレセンや競馬のこといろいろ教えていただいて有難うござい ました(^_^;) なぜハンロに興味があるのか聞きそびれましたが…なぜ? > この畝掘は発掘調査後埋め戻しを中途半端にしたためにはっきり残っ>ているように見えたのだ とおもいます。でないとこの畝掘だけはっき >りしていて不自然です。(^^ゞ そういわれるとそうですね。私もそういうことは考えてませんでした。そうなんですか?>ひづ めさん、潮風さん それにしても不思議な遺構ですよね。

981. Re:割目遺跡の畝堀 管理人・潮風 [URL]  2001/12/12 (水) 22:34
大村殿、どうも。 >ほ〜ら、皆勘違いするやないけ〜。>潮風さん。 >この畝掘は発掘調査後埋め戻しを中途半端にしたために >はっきり残っているように見えたのだとおもいます。 >でないとこの畝掘だけはっきりしていて不自然です。(^^ゞ  と言うよりはもともとここは5ケ所の落ち込み自体は確認出来ていたそうです。ですので埋め 戻しを中途半端にしたからと言う事も言えなくも無いとは思いますがもともと目で確認出来る落 ち込みはあったと言う事ですから、発掘前の状況で現在のようにあそこまで落ち込んでいたかは わかりませんが、それらしい遺構が地表面に顔を出していたのは発掘調査報告書にも書かれてあ りますね。  個人的にはあそこの埋め戻しが中途半端で現在の地表面があそこまで落ち込んでいるとしたら 土地所有者の方はさぞかし御迷惑なのではないかと言う気が・・(^_^;) あそこはもともとあの ような感じだった(あそこまで落ち込んでいたかは別にして)のではないかと思っています。仮 にまっ平らの場所だったのを掘って、あのような中途半端な埋め方にする理由も見つかりません し、そんな手抜きをしたらそれこそ危険ですし、やっぱ土地所有者の方はお怒りになられるので は?(^_^;)  あと付け加えると、この畝堀だけはっきりしていると言いますか、割目遺跡の石碑があった道 路そのものが実は堀跡だったわけでして、地元の方のお話ではあの堀は昔は300mに渡って (現在の道路の下)土塁と堀が存在したと言う事だそうですので、道路を作る前まではあのよう な畝堀が向こう側の谷津まで続いていたようですよ。 >今度は美浦トレオフを開催してくださいね。(爆)  だから、美浦トレオフって一体何のするオフなの?(爆)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

982. Re^2:そんなに不自然ですか?(^_^;) 管理人・潮風 [URL]  2001/12/12 (水) 22: 34
五郎さん、どうも。 >そういわれるとそうですね。私もそういうことは考えてませんでした。 >そうなんですか?>ひづめさん、潮風さん >それにしても不思議な遺構ですよね。  う〜ん、不思議ですかね(^_^;)  割目遺跡は発掘調査報告書によれば堀の深さは約3m程度のようです。現在残っているのは良 くて深さ1m程度でしょう。だとすれば実際に発掘した再には3m掘ったわけです。それに『発 掘する前から落ち込みが確認出来た』という記述を考えると、やはり発掘前から目で確認出来る 落ち込みですから少なくても30cm程度はあったのではないでしょうか。  そう考えますと確かに現在の遺構はちょっと落ち込みすぎの感じもしないでもないですが、埋 め戻しが中途半端であったとも思えないわけです。もともと平らな場所を掘ったわけじゃないわ けですからね。もともと平らな場所を掘ったのであればちょっとはっきり残りすぎの感じがしま すがもともと落ち込んでいたからその姿に戻しておいたって言うのが正解かなと(^_^;)  で、大竹先生が説明されていた堀底から槍襖が出てきたと言うのは深さ3m以上の場所のよう です。 ただし、但しですが(^_^;)、あの畝堀の桟の部分は発掘調査でそれまでは薬研堀だったのものに 新たに土を加えて畝状にした事がわかっているそうですから、掘り残したわけじゃないんですよ ね。そこがちょっと個人的に気になる点です。イノシシ云々の話もありましたが、あの桟が本当 に戦国末期に作られたものかは確証は無いのではないかとも思っています。あのような幅の広い 桟はちょっとどうかなと言う個人的な疑問が・・(^_^;)  ではでは(^^)          潮風@茨城城郭会

985. Re^2:割目遺跡の畝堀 大村  2001/12/13 (木) 17:27
>>この畝掘は発掘調査後埋め戻しを中途半端にしたために >>はっきり残っているように見えたのだとおもいます。 >>でないとこの畝掘だけはっきりしていて不自然です。(^^ゞ これは「手抜きで埋め戻さなかった」と誤解を招きますね、すみません。m(_ _)m 「この畝掘は発掘調査後、遺構を見てもらうために元の状態に戻さなかった為にはっきり残って いるように見えたのだと思います。」 これなら良いでしょうか。(^-^;) >  だから、美浦トレオフって一体何のするオフなの?(爆) 坂路を一気に駆け上がるのさ〜 ε。。。。\( ^O^)/ わ〜い♪

986. Re^3:チャチャです。(^^ゞ 大村  2001/12/13 (木) 17:47
>  う〜ん、不思議ですかね(^_^;) わてはなにが不思議なのかがわかりませんのでそれが不思議です。(爆) >  割目遺跡は発掘調査報告書によれば堀の深さは約3m程度のようです。現在残っているのは 良くて深さ1m程度でしょう。だとすれば実際に発掘した再には3m掘ったわけです。 ブー、残念でした。 堀の深さが約3m程ということは、その当時の地表面からの深さが3m程ということです。した がってその当時の地表面から現在の表土面まで余計に掘らなければならないのです。 えっ!そんなことまでチャチャを入れるなって。(^^;;; ところで当時の地表面はどのくらいとなってますか? だぶん、隣の道路面と同じくらいのところだとおもいますが。 >それに『発掘する前から落ち込みが確認出来た』という記述を考えると、やはり発掘前から目 で確認出来る落ち込みですから少なくても30cm程度はあったのではないでしょうか。 わたしもそのくらいだとおもってます。ただし、 >イノシシ云々の話もありましたが、 この話があるのでもっと深かったかもしれませんね。 あ〜調査報告書が見たいぞ〜! \(-o-;)/

987. Re^3:そんなに不自然ですか?(^_^;) 五郎  2001/12/13 (木) 23:11
こんばんは。 >  う〜ん、不思議ですかね(^_^;) 畝堀としては、畝が広くてしかも地表面近くまであるのが不思議と感じたわけです。だって知ら ずに突然あれに出会ったらとても堀の跡とは思えませんよね。何かの穴が連続してるとしか(^_^;) > 割目遺跡は発掘調査報告書によれば堀の深さは約3m程度のようです。(中略)やはり発掘前 から目で確認出来る落ち込みですから少なくても30cm程度はあったのではないでしょうか。 発掘調査は道路で壊された部分だけで、あそこはやってないと思ってたんですが、あそこもやっ たんですか。 たったの30cmですか…他の堀はもっとよく残ってたじゃないですか。もう少しはっきりして たんじゃないかな〜 >  で、大竹先生が説明されていた堀底から槍襖が出てきたと言うのは深さ3m以上の場所のよ うです。 3m落ちて槍衾、その絵を想像すると恐ろしいですね。 是非そのまま復元してもらいたい(^_^;) > ただし、但しですが(^_^;)、あの畝堀の桟の部分は発掘調査でそれまでは薬研堀だったのもの に新たに土を加えて畝状にした事がわかっているそうですから、掘り残したわけじゃないんです よね。そこがちょっと個人的に気になる点です。 たしか大竹先生は北条氏の影響を受けてから改造したのではと、おっしゃってたように思いました。 それにしても幅と高さが気になりますよね。もしかして堀の両側に数mの土塁があったとしたら 面白くないですか。畝上もなにか細工がしてあったか。それとも草で覆って連続落とし穴か。 得意の根拠のない想像です(^_^;) では。

988. Re^3:チャチャです。(^^ゞ 管理人・潮風 [URL]  2001/12/15 (土) 08:48
大村殿、どうも。 >わてはなにが不思議なのかがわかりませんのでそれが不思議です。(爆) 自分は何が不思議なのかわからないのが不思議なのが不思議です(謎) >ブー、残念でした。 >堀の深さが約3m程ということは、その当時の地表面からの深さが >3m程ということです。したがってその当時の地表面から現在の表 >土面まで余計に掘らなければならないのです。 いえ、これは調査報告書にあった堀の断面図を見て3mだと言う意味ですよ。記述ではありませ んから地表面ではなく現在の表土面から描かれてあるのではないでしょうか。調査報告書って普 通は余計な堆積面って断面図に描くのでしたっけ? >ところで当時の地表面はどのくらいとなってますか? >だぶん、隣の道路面と同じくらいのところだとおもいますが。 そこまでは書かれてありません。現在残る場所は私有地だそうで、土地所有者がおられるので本 来であれば発掘調査は行なう予定はなかったそうです、但し5つの落ち込みが目で確認できたの で掘ってみたそうです。ただしその発掘も現在の道路側に比べれば本格的なものではなかったと 書かれてあります。 >あ〜調査報告書が見たいぞ〜! \(-o-;)/ 今でも阿見町の役場に売ってますよ。美浦トレセン見学ついでに如何?(笑)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

989. Re^2:割目遺跡の畝堀 管理人・潮風 [URL]  2001/12/15 (土) 08:48
大村殿、どうも。 >「この畝掘は発掘調査後、遺構を見てもらうために元の状態に戻さな >かった為にはっきり残っているように見えたのだと思います。」 あの場所が将来的に遺構を見て貰う為に元の状態に戻さなかったように見えますか?僕にはちょ っとそこまでは見えませんでしたが・・・。もしそうだったら説明板でも設置してあるのではな いでしょうか。雀久保土塁もあんなしっかりした案内があったように。 僕は一旦掘って、元の状態に埋めたのですが、一旦掘り返した為に土が柔らかくなって、発掘前 の当時よりも土が下がった結果なんじゃないかって考えてます。そしてあまりPRをしていない のは今でもあの土地は私有地だからなんじゃないかって考えています。発掘当時も土地所有者に 遠慮して発掘をする予定ではなかったと聞いています。 >坂路を一気に駆け上がるのさ〜 ε。。。。\( ^O^)/ わ〜い♪ ・・・これって楽しい事なの?(爆) お城のファンじゃない人が、我々が土塁に登って楽しんでいる姿を不思議そうな目で見ちゃうの と同じなのだろうか('-'*)フフ♪  ではでは(^^)    潮風@常陸国より

991. Re^3:そんなに不自然ですか?(^_^;) 管理人・潮風 [URL]  2001/12/15 (土) 08: 54
五郎さん、どうも。 >突然あれに出会ったらとても堀の跡とは思えませんよね。 >何かの穴が連続してるとしか(^_^;) 地表面で見える遺構って実際はそんなものなんじゃないですかね?我々がよく『あれは掘の跡だ な』とか言う場所だってそれが城跡なのかわからなかったら掘の跡だとは想像しませんよね。そ こが城跡であると言う認識があるからこそ『あれが掘の跡かも知れない』って想像を膨らませる んじゃないかなと。三島市の山中城だって発掘前はあんな落ち込みだったんじゃないかって思っ ているんですが。 >発掘調査は道路で壊された部分だけで(中略)、あそこもやったんですか。 目で見て落ち込みが5ケ所確認出来たので掘ったそうです。 >たったの30cmですか…他の堀はもっとよく残ってたじゃないですか。 いえ、だから30cmとは書かれていないですって(^_^;) あくまで『目で見て落ち込みが確認出 来たので掘ってみた』と調査報告書に書いてあったので僕が想像した数字ですって。それも僕の 言っているのはあくまで現在畝状に残る場所を指して言ってますから、他の堀についてでは無く、 今話題にしているのはあの畝状に残っている場所ですよね? 一応、調査報告書には発掘前の写真もあるのですが白黒写真なのに加えてどのくらいの落ち込み なのかはよくわかりませんでした(^_^;) >たしか大竹先生は北条氏の影響を受けてから改造したのではと、 これはあくまであの遺構が『畝堀だ』と仮定してのものですよね。最近よく話題になっています が(?)、『畝堀=後北条氏の影響』が成立するのかどうかはわからないと思っています。そも そも畝堀とした理由がはっきりしないといけないですし、もともと薬研堀だったものをわざわざ 畝にした意味って余り無いと思っているんです。もっと幅の広い堀だったらともかくも、横幅が 数m規模の堀であれば無理に畝を作る理由ってよくわかりませんね。 >それとも草で覆って連続落とし穴か。 あそこは谷津と谷津を閉塞する場所ですから、落し穴って言うのはどうかなと・・・(^_^;)  ではでは(^^)    潮風@常陸国より

992. やっぱり不自然ですよね(^_^;) 五郎  2001/12/17 (月) 21:08
こんばんは。 遺構もずっと山林だったらよく残ってるんでしょうね。むかしは落ち葉さらいをまめにしてたで しょうから。 あそこはかなり埋まってたんですね、畑だったのかな。 あれが畝堀なら、畝の幅と高さがやっぱり不自然ですよね〜 あの畝の構築年代はほぼ確定してるんでしたか? 太平の世になってから、なにか他の目的で造ったんじゃないでしょ。 >あそこは谷津と谷津を閉塞する場所ですから、落し穴って言うのはどうかなと・・・(^_^;) でも土塁に取り付こうかと攻め寄ったらドサッ、ブスッ、ギャァーって いうのも効果的かと(^_^;)

994. Re: やっぱり不自然ですよね(^_^;) 大村  2001/12/17 (月) 23:57
> でも土塁に取り付こうかと攻め寄ったらドサッ、ブスッ、ギャァーって > いうのも効果的かと(^_^;) だから街道閉塞用の土塁なんだってば〜 (^_^;) これらの土塁は、主に(特にメチャはしょって)間者防止や敵の進軍速度を遅らせる目的であっ て、戦闘用じゃないはずですよ。 ただし、多少の戦闘はあったでしょうがそれも足止めくらいだとおもいますよ。 もっともわかりやすいイメージで言えば”関所”かな。(^-^;) でないと何千名くらいの守備兵が必要になるか想像もできない...(^^ゞ それともっとも効果的な役目は、打って出た場合敵兵の退路を自然と遮断してくれるということ でしょうか。 #ん〜真田昌幸じゃないからそんなことしないか...(^^;;;;

995. Re^2: やっぱり不自然ですよね(^_^;) 五郎  2001/12/19 (水) 00:04
大村さん. > だから街道閉塞用の土塁なんだってば〜 (^_^;) > > これらの土塁は、主に(特にメチャはしょって)間者防止や敵の進軍速度を遅らせる目的であ って、戦闘用じゃないはずですよ。 ええ〜そうなんですか。 ずっと、城の外郭の堀、土塁と近い感覚でとらえてましたけど。 もちろんまったく同等とは思ってませんが。 土塁上で弓鉄砲で応戦すればけっこう持ちこたえるんじゃないですか。 > もっともわかりやすいイメージで言えば”関所”かな。(^-^;) 関所よりはもっと戦闘用に近いのでは? > でないと何千名くらいの守備兵が必要になるか想像もできない...(^^ゞ でも街道閉塞用と言っても、だだっ広い平原じゃなくて、極端に言えば馬に背状のしかも谷津で 狭まった部分ですから、せぜい数百mの防御線でしょう。ある程度の軍勢はそこで食い止められ るんじゃないかな。 もちろん全部の土塁に配置したのでは何千名と必要でしょうが。 ひづめさん、潮風さんのご意見はいかがですか。 まったく私の見当違いかな(^_^;)

996. Re^2: やっぱり不自然ですよね(^_^;) 管理人・潮風 [URL]  2001/12/20 (木) 22:39
五郎さん、どうも。 >ずっと、城の外郭の堀、土塁と近い感覚でとらえてましたけど。  僕も大村殿と同じ考えです。現在道路になっている場所は一番広くて掘の幅が10m、両側の 土塁の幅は4m前後、深さは3mだと書かれてあります。つまり薬研掘にして掘った土を両側に 土塁として築いたわけです。それも谷津と谷津の間に掘を居れていますから敵は必ずそこを通過 しなければなからなかったわけです。かと言って本格的な戦闘の時の防御にしては薄い気がしま すよね。  ですので僕も敵の進軍を一旦止めるとか、退路を遮断するとかの目的もあったのではないかと 考えます。退路の遮断と言えばやっぱ勝頼が負けたのは滝沢川を渡ってしまったからなのさ>自 論('-'*)フフ♪ >土塁上で弓鉄砲で応戦すればけっこう持ちこたえるんじゃないですか。  所詮は一本の掘と両端に土塁があるだけですから守備する側も守りづらかったのではないでし ょうか。横矢とか設ければまだしも(^_^;) >関所よりはもっと戦闘用に近いのでは?  いえ、街道を監視する目的から言えば関所って言うのもありかなと思いますよ。まあ山中城の ように街道を城内に取り込むって言う感じじゃないですけどね。但しあそこまで何重にも街道閉 塞用に土塁を築けば敵だってそうそう侵入出来なかったのでは? >谷津で狭まった部分ですから、せぜい数百mの防御線でしょう。 >ある程度の軍勢はそこで食い止められるんじゃないかな。  ただ街道上に何重にも閉塞用の掘と土塁を用意していたと言う事は敵に一番近い閉塞個所で守 備している兵士にすれば背中側にも閉塞掘・土塁があるわけで、退路が無いわけです。まさにそ んなところにある程度の兵士を送ったら背水の陣になっちゃうかなと(^_^;) >もちろん全部の土塁に配置したのでは何千名と必要でしょうが。  ですね、そういう意味で数百単位の兵士が守備していたのではないかって言う意味です。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

997. RE: やっぱり不自然ですよね(^_^;) 管理人・潮風 [URL]  2001/12/20 (木) 22:39
五郎さん、どうも。 >あれが畝堀なら、畝の幅と高さがやっぱり不自然ですよね〜  それよりも不自然なのは、現在道路になっている掘跡は発掘ではその殆どが普通の薬研掘、一 部で落とし穴らしきものが掘底に発見されたようですが、畝状のものは現在残る個所だけなんで す。あの場所だけ畝状にする意味って全く無いと思うのです。それらを総合的に考えるとやはり 後世作られたものかなと(イノシシ捕獲用?) >あの畝の構築年代はほぼ確定してるんでしたか? >太平の世になってから、なにか他の目的で造ったんじゃないでしょ。  あそこは城跡じゃないですからね、構築年代はわからないようですよ。ただ僕もあちこちの畝 掘を見てきましたが、やっぱ畝の桟って掘の最上部と同じ高さって言うのは余り目にした事が無 いのですね(埼玉の騎西城の障子はこれに近いのかなあ?)。  ですのであの幅の広い桟と言い、今一つ畝掘とは思えない節も確かに感じます。 >でも土塁に取り付こうかと攻め寄ったらドサッ、ブスッ、ギャァーって >いうのも効果的かと(^_^;)  これは掘底に落ちた時を想定されているんですよね。掘底の逆茂木って一般的に存在したので はないでしょうか。攻め寄せる側だって自分の城を持っていたわけですし、掘底の備えとかも当 然頭に入っていたのでは?ですので掘底に逆茂木を忍ばせておくのは予想出来ていたんじゃない かなと(^_^;)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

998.割目土塁について白熱してますねひづめ[URL]2001/12/21 (金) 08:50
みなさん、こんにちは。  割目土塁に関する討論会が白熱していて楽しいですね。大竹先生にもリアルタイムで参加して いただければ最高なのですが、残念ながらそうはいかないので適当なところでまたコピーを届け ておきますね。私の意見もだいたいどなたかが書かれていますのでちょっと追加だけをしておき ます。 埋め戻しの件  調査時には十分な時間がなかったので、底まで掘ってみたのは一番手前(道路側)の1つだけ だったと、たしか大竹先生は言われていたように思います。その部分は今は防火用水になってコ ンクリートの下になっていますね。埋め戻しを中途半端にやったとかではないでしょう。もとも と掘ってないのですから。  それから、土塁の構造としては、土塁の街道より南側は畝堀、街道より北側(今は道路になっ てしまっている)は薬研堀で街道に接したところに一段と高い物見塚があったようです(お配り した資料に書いてあります)。 土塁の効果  一つ一つの土塁の防御性能はたいしたことがないかもしれませんが、この地域に点在する多く の土塁群として考えた方がよいと思います。  私も敵の侵入ルートの選択肢を限定させる(いくつかの決まったルートしか選択の余地がない ですから)とか進軍を遅らせるとかの目的の方が大きいかなと思っています。土岐のような弱小 勢力としては、なるべく戦力を分散したくないですから。  土塁の狭まった虎口部分を突破しようとすれば攻める側にも少なからず損害が出ますよね。横 に拡がった体型での戦い方とは違った展開になりそうですね。攻める方は一カ所に集中せざるを えないので攻撃されやすくなるので攻めにくい。土岐の主な計画はこんなところかなと思うので すが。 割目土塁の畝  戦国期は薬研堀であったものを、後世に畝を追加して狩りに使ったのかな、と単純に考えてい ました。(土塁部分がかなり削られてしまったという事実が無いのであれば)土塁と畝の高さが ほぼ同じですから一つ一つのくぼみは落とし穴かと。戦闘用だとすると、簡単に渡って来られて しまってかえって危ない気がします。 ひづめ@美浦村お散歩団

999.追加ひづめ[URL]2001/12/21 (金) 22:15
美浦境土塁の横矢に関する追加です  美浦境土塁の横矢の意義に関する疑問が現場でも出ていました。街道の通っていないところに 横矢が設置されているのはおかしいのではないか、というのが主な疑問だったと思います。  私の考えとしては、街道の通っている虎口部分にはもちろんなんらかの仕掛けはあったかと思 いますが、街道から離れた部分でも、土塁に対して攻撃側が拡がって攻めてきてさらに土塁を乗 り越えてくることを想定した場合には、こうした横矢もそれなりの効果があるのではないでしょ うか。できればもっと沢山あった方がよさそうですが。  この地域に沢山ある戦国土塁ですが同じような形式のものではなく、それぞれ特色を出してい ます。設計者同志でユニークさを競い合ったのでしょうか?割目土塁のように400年以上も後 の私たちをも驚かしてくれるとは、コンクールではこれが特等賞だったでしょうか。 ひづめ@美浦村お散歩団
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