戦国土塁討論会発言集(その4)

 これは、潮風さんのホームページ『常陸の国の城と歴史』の足跡板(掲示板)から転載させていただきました。
長いので適当に分割してあります。
その1(No.979〜999)
その2(No.1000〜1034)
その3(No.1038〜1086)
その4(No.1087〜1142)
その5(No.1144〜)




1087. RE: 『謎の古戦場天神原』について 管理人・潮風 [URL]  2002/01/07 (月) 22:50
ひづめさん、どうも。  大竹先生のこの推論については、僕自身、拝見出来てとても参考になっています。ただそれだ けではなく、もっともっと掘り下げてみてもいいのかなって言う気持ちでいわば疑問点を出して みたわけです。 |ただ、「天神原で合戦があったと言う部分までは良いとしても、」と |言ってしまったら伝承から先へ進めなくなります。  そうですねえ、ただそこまで推論を出すにはそれなりの材料が必要ですし、基本的な知識を改 めてみていかないと難しい問題でもありますね。でもやってみたいですね。 |別の文書や遺構などを寄せ集めて推論することはむしろ |必要なことではないでしょうか。  ですです、これをしたいんですが、大竹先生のような方が発見出来なかったと言う事は自分な どに見つかるのかって言う点も・・(^_^;) 自分が発掘できるような立場の人間だったらなあっ て思うこの頃(^_^;)   |先生はこの問題に限らず、「若い人たちの中で推論をたくさん出して |話し合って欲しいんだ」と常々言われています。  この辺がしっかりした文献や史料が少ない郷土史の辛いところですね。でも未だに眠っている 史料類も結構ありそうですけどね。とにかく今までいろいろな方が書かれた文献等を点として、 点と点を繋いで線にしてみましょうか。  我々でもどこまで出来るのか、それに挑戦してもそれはそれで楽しそうですしね('-'*)フフ♪ |そのとおり。これは明らかに手抜きだと思います。 |今度会ったときにしかっておきます。  し、叱るだなんて・・(((^_^;)  もしお時間でもあった時で結構ですから、あの遺構からなぜ北条流と見えたのか、先生に聞い てみて戴けませんか。僕はあの表現がどうこうと言う事ではなく、先生の目でどこに北条流だと 見える点があったのかを知りたいのです。   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1095. Re:2 RE: まずは土塁から。返信その1  五郎  2002/01/09 (水) 22:23
こんばんは。横から失礼します。 >そして、考えていくと、もともと古道って誰が作って、更にはこのような地方の古道ってどのよ うな研究の上で「ここが古道だった」と確認されたのか知りたくなったわけです。 そういわれれば、私も深く考えてませんでした。そこで考えました(^_^; 古道は馬の台地上を割合まっすぐ江戸崎に通じているところを見ると、江戸崎に土岐氏が本拠を 置いて周辺に勢力を広げてからでしょうか。 それ以前からある鎌倉街道や古代の官道も利用しているとは思いますが。集落どうしをつなぐ道 ではないので政治的、軍事的に造られた道なんでしょうね。以上単なる想像でした。ちゃんとし た調査結果があれば知りたいです。 >ちょっと谷津に触ってますよね?ここが気になったわけです。 この部分は、完全に谷津に下っていないで、谷津の最上流部の緩やかな傾斜地くらいではないで しょうか。現地で確認したわけではありませんが。 それから当時の谷津はほとんど田んぼに利用されてたとは思えませんか。

1100.Re^2:2 RE: まずは土塁から。返信その1 ひづめ[URL]2002/01/10 (木) 00:29
こんばんは、五郎さん。  潮風さんからのレスがいっぱいあるのですがそれらは飛ばして五郎さんに先にレスを着けちゃ います。潮風さん、もう少し待っててね。 > こんばんは。横から失礼します。  横からだなんて、どんどん入ってくださいよ。潮風さんの鋭い疑問に私の考えだけでは答えき れません。いくつか問題点がまとまったらまた師匠の所へ持っていきますが、それまでもう少し ここで出し合いましょう。 >>そして、考えていくと、もともと古道って誰が作って、更にはこのような地方の古道ってどの ような研究の上で「ここが古道だった」と確認されたのか知りたくなったわけです。  多くは自然発生的な道でしょうけど、主要な街道はまた発生が異なるのでしょうね。 > 古道は馬の台地上を割合まっすぐ江戸崎に通じているところを見ると、江戸崎に土岐氏が本拠 を置いて周辺に勢力を広げてからでしょうか。  馬の「背」台地ですね。江戸崎土岐領となるかなり前、信太荘は小田領だったと思われること から、筑波の小田から稲敷へ通じる道は小田氏自身が作ったのじゃないかな。 > それ以前からある鎌倉街道や古代の官道も利用しているとは思いますが。集落どうしをつなぐ 道ではないので政治的、軍事的に造られた道なんでしょうね。以上単なる想像でした。ちゃんと した調査結果があれば知りたいです。  その通りです。3本の街道の最南の道には古代官道の一部分が重なっています。  西方から陸路で江戸崎へ入るにはこの3ルートしかないから、なぜ古道なのかとあまり深く考 えませんでした。少なくともこれらの街道沿いには土塁が作られており、これらの土塁を戦国時 代のものと考えるならばこれらの街道もその時代にはあったと考えるのが自然だからではないで しょうか。 > この部分は、完全に谷津に下っていないで、谷津の最上流部の緩やかな傾斜地くらいではない でしょうか。現地で確認したわけではありませんが。  その通りです、五郎さん。現在の地形を見る限り、ここは台地のうねり程度の高低差だと思っ てください、潮風さん。 > それから当時の谷津はほとんど田んぼに利用されてたとは思えませんか。  これについては私も知りたいです。田んぼってそんなに谷津の奥深くまで作られていたのでし ょうか。そんなに人手があったのかなぁ。 ひづめ@美浦村お散歩団

1101. Re^3:2 RE: まずは土塁から。返信その1  五郎  2002/01/11 (金) 20:58
ひづめさん、こんばんは。 >  横からだなんて、どんどん入ってくださいよ。潮風さんの鋭い疑問に私の考えだけでは答え きれません。 時々入らせてもらいます。しかしさすが潮風さん、私なんか気がつかないような疑問点があんな にあるとは。 >馬の「背」台地ですね。江戸崎土岐領となるかなり前、信太荘は小田領だったと思われることか ら、筑波の小田から稲敷へ通じる道は小田氏自身が作ったのじゃないかな。 「背」が抜けました(^_^; なるほど小田氏の時代と考えたほうが自然かもしれませんね。ところ で江戸崎は土岐氏が居を定める以前から信太荘の中心地だったのでしょうか? そうだついでに聞きたいんですが、美浦に受領という地名がありますが、どういういわれなんで しょうか。 >  これについては私も知りたいです。田んぼってそんなに谷津の奥深くまで作られていたので しょうか。そんなに人手があったのかなぁ。 当時は谷津ぐらいしか田んぼにできなかったのではと思ったんですが。 ただ、すべて田んぼにするほどの人口があったかですね。 たぶん当時の信太荘の田んぼの面積とかはわかるのではないでしょうか。それを今の谷津田の面 積と比べてみればおおよそのところは、わかるような気がしますが。ひづめさん、面倒でも計算 していただけませんか(^_^; だめ?

1103. Re^4:2 RE: まずは土塁から。返信その1  ひづめ [URL]  2002/01/12 (土) 08:04
まずは、みなさんへ。  先日、下妻へ行った帰りに、千代川村の村史編さん室へ寄ったときの話を、『茨城城郭会(http: //www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/ibaraki/index.htm)』のメッセージボードへ書いておきました。 興味のある方はご覧下さい。 五郎さん、おはようございます。 >〜ところで江戸崎は土岐氏が居を定める以前から信太荘の中心地だったのでしょうか?  信太庄は上条(阿見町など西部)と下条(江戸崎が含まれる東部)に分かれていたそうで、文書的に は上条の方が多く残っているそうです。もう少し調べて見ますね。 > そうだついでに聞きたいんですが、美浦に受領という地名がありますが、どういういわれなん でしょうか。  「近世初期、慶弔11年、常州知行目録によると、受領村は、村高769.09石で、仙台伊達藩に 家康から賜地された記録があり美浦村では唯一の大名領であった」と『ふるさと美浦の民俗』に 書かれていました。 > 当時は谷津ぐらいしか田んぼにできなかったのではと思ったんですが。  そうでしたね。現在の低地の田んぼはなかったと考えたほうがよいのでしたね。 > たぶん当時の信太荘の田んぼの面積とかはわかるのではないでしょうか。それを今の谷津田の 面積と比べてみればおおよそのところは、わかるような気がしますが。ひづめさん、面倒でも計 算していただけませんか(^_^; だめ?  おぉ、大仕事だぞ。 ひづめ@美浦村お散歩団

1105. Re:2 RE: 古道の謎 管理人・潮風 [URL]  2002/01/12 (土) 10:04
五郎さん、どうも。   |古道は馬の台地上を割合まっすぐ江戸崎に通じているとこ |ろを見ると、江戸崎に土岐氏が本拠を置いて周辺に勢力を |広げてからでしょうか。  小田氏が侵攻する際もしくは土岐原氏が来てから?、、、でもそれ以前も稲敷郡に主要な古道 が無かったとも考えづらいのですが・・・。  それにひづめさんがおっしゃっている江戸崎へ通じる3本の馬の背道は北(木原方面から)か らの道は入っていないんですよね。土岐氏は北西からの侵入を想定していたとして、それに反し て小田氏が木原から軍勢を進めてきたとすると、小田氏の軍勢が通れるような道が木原から江戸 崎本道へ既に通じていたと言う事にもなろうかと思います。  江戸崎への馬の背道3本にプラスして土浦から木原へ、そして木原から江戸崎本道(雀久保土 塁方面)への道もそれ以前から既に整備されていたのではないでしょうか。 |それ以前からある鎌倉街道や古代の官道も利用しているとは思いますが。 |集落どうしをつなぐ道ではないので政治的、軍事的に造られた道なんで |しょうね。  気になるのは古代(香取海が存在していた頃)の東海道が宝亀二年頃(771年)には三浦半島 から木更津に渡り、そこから北上し、現在の千葉市から印旛郡の鳥取、埴生郡の山方、荒海、そ して常陸国に入り榎浦津へと抜けて現在の土浦方面、そして府中へと至っています。まさに江戸 崎の西から土浦へ抜けるルートがあったんですね。  また香取海の時代には江戸崎は突き出た半島の先端部であったのも何か因果関係があるのかも 知れないのかなと思っています、、、どうなのでしょうね(^_^;) |それから当時の谷津はほとんど田んぼに利用されてたとは思えませんか。  深さにもよるのでしょうね。現在、田んぼになっていても多少なり高低差はありますからね。 昔はもっとあった?(^_^;)   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1106. Re^2:2 RE: まずは土塁から。返信その1 管理人・潮風 [URL]  2002/01/12 (土) 10:04
ひづめさん、どうも。 |江戸崎土岐領となるかなり前、信太荘は小田領だったと思わ |れることから、筑波の小田から稲敷へ通じる道は小田氏自身 |が作ったのじゃないかな。  南北朝期も高師冬が北畠親房を追って小田城へ侵攻していった時も信太荘の城を攻め落として いますからこの時代には既にあったと考えられるのでしょうね。小田氏が整備した可能性ってか なり高いのかも知れません。師冬は小田氏が作った道で小田城に攻め寄せたのかも知れませんね (^_^;) |田んぼってそんなに谷津の奥深くまで作られていたのでしょうか。  そもそも水はけが悪いと田んぼって成り立つものなのでしょうか?谷津っていつも水でジメジ メしていたんじゃ?多少の畝(畦道)を作ってもどうなのでしょう?? |そんなに人手があったのかなぁ。  僕もわざわざ谷津に作るくらいならばもっと平地に近いところのほうがやりやすかったとも思 います。大雨でも降ろうものならば谷津って沼化してしまったのでは?   ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1116.土塁についてのレス(その1)ひづめ[URL]2002/01/13 (日) 00:03
潮風さん、五郎さんへのレスです。長いのでいくつかに分割しました。 ●潮風さんのNo.1083へのレス: >〜ひづめさんのサイトを拝見しますと主要古道の3本にこの木原から南下してくる古道は入って いないのですが、この古道は主要な古道ではなかったのでしょうか?  木原城と江戸崎本城を結ぶ重要な道だったと思います。わたしのサイトに掲載した図はもとも と江戸崎城へ向かう3本の街道を描いただけで木原城関係のものは載せていないのです。オフ当 日にお渡しした阿見町全図には載っています。   > この古道上で気になるのは美浦境北土塁、木原台南土塁なのですが、この2つの土塁は両側に 土塁があるのでしょうか?美浦境土塁が両側土塁構造になっていましたのでこの古道がそもそも どのような想定の元で作られたのかまずその辺を考えてみたいわけです。  私がこの図をサイトに掲載した時点では名称を知らなかったので仮称としてありましたが、そ の後、美浦境北土塁は「光仏土塁」、木原台南土塁は「椎池土塁」という名称があることを知り ましたので追加修正しておきます。図の修正をさぼってます。  光仏土塁については現況からではわかりません。大竹先生の畑の場所なので今度聞いておきま す。椎池土塁については南側に堀があったと思います。  美浦境土塁は両側土塁だったですか?南側にはたいした高まりはなかったような気がしますが。 > 時間を見て小田氏が稲敷へ侵攻した時の資料でも探してみましょう。もしご存知の方あれば教 えて欲しいですね(^_^;)  私からもお願いします。小田氏の動きに詳しい方、ぜひ情報をお寄せ下さい。 ひづめ@美浦村お散歩団

1117.Re: 土塁についてのレス(その2)ひづめ[URL]2002/01/13 (日) 00:04
●潮風さんのNo.1084へのレス: > 木原城と街道上の土塁群そして古道の確認、課題は多そうですね(^_^;)  木原城についてだってほとんど分かっていないというのが本当のところ、土塁のことなんて大 竹先生が阿見町史で世に問うて以降もまともに議論されたことなんかあったのでしょうか。 > だったら最初から王道として、土岐氏の想定したとされる北西からの侵入のほうが良かった気 >もするのですが、その頃の木原城の規模にもよりますので・・・  北西からのルートで雀久保を通過して江戸崎へ入ると、まさに背後を木原から襲われるのでは。 それに雀久保まで来て南の江戸崎と北の木原と二方と対峙するのは戦法としては不利では。 ●潮風さんのN0.1086へのレス: > 〜なぜか谷津をかすめて東田土塁の北側まで行ってから合流させてます。この箇所を疑問に感 じたわけです。  これは五郎さんの解釈(No.1095)で良いかと思います。 > そして、考えていくと、もともと古道って誰が作って、更にはこのような地方の古道ってどの ような研究の上で「ここが古道だった」と確認されたのか知りたくなったわけです。  何もないところにどのようにして道ってできるのか、たしかに不思議ですよね。平地なのにな んで曲がっているのか?平地といえども何か障害物があるのではないでしょうか。後の方に古代 直線道路に関連してちょっと追加して書いておきました。 ひづめ@美浦村お散歩団

1118.土塁についてのレス(その3)ひづめ[URL]2002/01/13 (日) 00:05
●潮風さんのN0.1087へのレス: > そうですねえ、ただそこまで推論を出すにはそれなりの材料が必要ですし、基本的な知識を改 めてみていかないと難しい問題でもありますね。でもやってみたいですね。  私もやってみたいです。この前もどこかで書きましたが、整合性の不備を批判する前に基礎的 な史料・資料がもう少し必要ですね。お互い、情報網を拡げて収集に励みましょう。 >〜大竹先生のような方が発見出来なかったと言う事は自分などに見つかるのかって言う点も・・ (^_^;) 〜 >〜でも未だに眠っている史料類も結構ありそうですけどね。とにかく今までいろいろな方が書か れた文献等を点として、点と点を繋いで線にしてみましょうか。 > 我々でもどこまで出来るのか、それに挑戦してもそれはそれで楽しそうですしね('-'*)フフ♪  せっかくネットを通じていつでも議論ができる便利な世の中なんですから、気づいたことがあ る度に気軽に話をしていればその内によいアイディアも出るでしょう。  研究成果を上げなければならないと言う立場ではない私たちですから、ゆっくりと進めて行き ましょうよ。 > もしお時間でもあった時で結構ですから、あの遺構からなぜ北条流と見えたのか、先生に聞い てみて戴けませんか。僕はあの表現がどうこうと言う事ではなく、先生の目でどこに北条流だと 見える点があったのかを知りたいのです。  了解です。 ひづめ@美浦村お散歩団

1119.土塁についてのレス(その4)ひづめ[URL]2002/01/13 (日) 00:06
●五郎さんのNo.1101へのレス: >〜たぶん当時の信太荘の田んぼの面積とかはわかるのではないでしょうか。それを今の谷津田の 面積と比べてみればおおよそのところは、わかるような気がしますが。  弘安2年と嘉元4年の大田文を見ると「信太庄620丁(町)内」とあります。今夜、分かったの はこれだけ。 ●潮風さんのNo.1105へのレス: >〜江戸崎への馬の背道3本にプラスして土浦から木原へ、そして木原から江戸崎本道(雀久保土 塁方面)への道もそれ以前から既に整備されていたのではないでしょうか。  もちろんそうでしょうね。木原と江戸崎本城を結ぶ道がないほうがむしろ変です。  それから、馬の背道以外の低地の道が無かったと言っているのでもありません。これも当然あ ったでしょう。こういう低地の道を馬の背道に対して「根の道」と言うそうです。根の道は水害 の影響を受けやすいので街道としての信頼性が低いわけで主要街道とは成りにくかったと思われ ます。 > 気になるのは古代(香取海が存在していた頃)の東海道が〜(中略)〜常陸国に入り榎浦津へ と抜けて現在の土浦方面、そして府中へと至っています。まさに江戸崎の西から土浦へ抜けるル ートがあったんですね。  古代の直線道路ですね。江戸崎町下君山から阿見町飯倉向坪までは直線道の痕跡が確認されて います。この先は阿見町竹来から土浦へ抜けていたと推測されています。古代の直線道路は律令 国家の中央集権的な国家プロジェクトとして各地に張り巡らされましたが10世紀後半には麻痺 し始めたとのことです。律令制度の衰退と言うこともあるでしょうが、その土地の実情に合わな い公共事業が破綻したという、よく耳にするようなことだったのではないでしょうか。奈良のよ うな山の中であれば丘を切り通して作った直線道路はそれなりに使い勝手がよいのでしょうが、 谷津が複雑に入り込む稲敷台地では谷津を跨ぐ場所はいつも水に悩まされていたと思われます。 そしてその内に馬の背道を通るルートへ分岐して、元の直線道路は使われなくなって行った、と いうことなのではないでしょうか。 ひづめ@美浦村お散歩団

1120.土塁についてのレス(その5)ひづめ[URL]2002/01/13 (日) 00:06
●潮風さんのNo.1106へのレス: > 南北朝期も高師冬が北畠親房を追って小田城へ侵攻していった時も信太荘の城を攻め落として いますからこの時代には既にあったと考えられるのでしょうね。小田氏が整備した可能性ってか なり高いのかも知れません。師冬は小田氏が作った道で小田城に攻め寄せたのかも知れませんね (^_^;)  だとすると、皮肉なものですね。  道ですから、何もないところに小田氏がこれらの街道を開削したというようなことではないと 思います。もっともっと昔からあったこの地域の重要な道だったのでしょう。ただ、軍事などの 意図をもって全長に渡って管理され整備されたのは小田の頃からかなと思うのです。なにせ、あ の街道が向かう先は小田氏の本拠地方向ですから。    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  今回はオフをきっかけにこれだけ集中的に意見を出し合いましたが、「美浦村お散歩団」とし ては主要テーマのひとつとして今後とも継続的に謎解きを続けて行きたいと思っていますので、 みなさま、力を貸してください。特に潮風さんには以前から長塁には興味を持たれていたようで、 これからもいっしょに考えていってください。 ひづめ@美浦村お散歩団

1140. RE: 土塁についてのレス(その1) 管理人・潮風 [URL]  2002/01/25 (金) 22:28
ひづめさん、どうも。  小田氏関係は調べている時間が無いので今度じっくり図書館にでも行きたいと思っています(^_ ^;) |木原城と江戸崎本城を結ぶ重要な道だったと思います。 |美浦境土塁は両側土塁だったですか? |南側にはたいした高まりはなかったような気がしますが。  でしたっけ、、、  あ〜、、時間が経つと遺構の状況が記憶から薄れていきます(^_^;)  確か両側にあったと思ったのですが。  しかし椎池土塁については南側に堀、美浦境土塁は北側に土塁があったとすると、どう考えれ ば良いのでしょうね(^_^;) もしかして木原城がもっと昔の時代に江戸崎と対立した時代があっ たなんて言う想定も可能なのでしょうか?  ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1141. RE: 土塁についてのレス(その3) 管理人・潮風 [URL]  2002/01/25 (金) 22:28
ひづめさん、どうも。 |木原城についてだってほとんど分かっていないというのが本当のところ、  ですね、あの大きな土塁に横矢掛かりに畝状の堀底、二重堀に角馬出し、頑丈な大手に広い主 郭群、少なくても戦国末期の大城郭ですよねー。ところで今まで木原城を江戸崎の土岐氏との繋 がりしか見ていなかったのですが霞ヶ浦を挟んで対岸にあった戸崎城の戸崎氏及び菅谷氏の関係 などはどうなのでしょう?むしろ木原からすれば舟で行き来出来た距離ですよね。以前に出島の 遺構が土岐氏に似ているとの話がありましたが、木原周辺と出島方面の城郭(戸崎城及び宍倉城 など)との結びつきも考えてみると面白そうですよね。 |土塁のことなんて大竹先生が阿見町史で世に問うて以降もまともに議論 |されたことなんかあったのでしょうか。  無かったのでしょうね(^_^;)  特に地方の地域の郷土史的な研究って一般的には置き去りにされている気さえしてきます。茨 城県で言っても佐竹氏や結城氏などは研究が進んでいても、岡見氏や土岐氏、多賀谷氏、菅谷氏 などは一般的にはあまり研究されていない分野かと思っています。岡見氏については岡見文書な どが比較的有名かも知れませんがこれも一地方の郷土史的な枠を出ていない気もしますしね(^_^;)  でも郷土史、資料は少なくても僕自身はとっても興味はありますね。有名な武将などいない地 方であるからこそ、また研究が進んでいないからこそいろいろな発想が出来て面白いって言う部 分がありまよね。何から何まで殆どわかっているような歴史こそ面白くないものも無いような・ ・・←ちょっと言葉が過ぎてましたか?(^_^;) |北西からのルートで雀久保を通過して江戸崎へ入ると、まさに背後を |木原から襲われるのでは。  ですね、ただ僕が木原の規模云々と言ったのは、この当時の木原城周辺が果たして小田氏の軍 勢を背後から挟撃出来るほど人数を動員出来たのかどうかって言う疑問なのです。この辺は『木 原城の謎』のテーマのほうで徐々に考えていけば自然と答えが出てきそうな雰囲気ですね、、、 って本当に答えが出るのか?>自分(^_^;) |ゆっくりと進めて行きましょうよ。  ですです、了解('-'*)フフ♪  ではでは(^^)    潮風@常陸国より

1142. RE: 土塁についてのレス(その4) 管理人・潮風 [URL]  2002/01/25 (金) 22:29
ひづめさん、どうも。 |もちろんそうでしょうね。 |木原と江戸崎本城を結ぶ道がないほうがむしろ変です。  原点に立ち返って見るのですが、この『木原と江戸崎本城を結ぶ道』って言うのは我々が戦国 中期〜末期にかけての江戸崎土岐氏の繁栄していた時期を想定してますよね。木原城の変革がは っきりしない以上は、本当にそう考えてよいものなのかも考え直しても良いとは思いませんか? 例えば別にも書きましたが木原城と対岸の出島との水の繋がりとかです。最初から『木原は江戸 崎と繋がっていた』と言う先入観をはずしてみないとなかなか見えてこないものも実はあったり するのかなって、、、どうでしょう?(^_^;)  あぁ、やっぱり図書館に行きたくなってきました('-'*)フフ♪   −−−−−  そういえば余談ですが東町の中世資料編、あれもなかなか良いですね。  近いうちに入手しようと思っています('-'*)フフ♪  ではでは(^^)    潮風@常陸国より
続きはこちら