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  矢切の里からの風景 
  矢切の2人の旗本 
  外山忠兵衛の子孫について 
  文学碑の花壇 
  矢切の石仏 
  矢切の石塔 
  稲荷神社の鏝絵 
 
  野菊の墓の文学碑 
  伊藤左千夫の略歴 
  小説「野菊の墓」 
  一度も矢切に行かずに書いたのか? 
  小説「野菊の墓」の周辺 
  「野菊の墓」の野菊 
  日下圭介著「野菊の墓」殺人事件 
  水上勉氏と矢切 
 
  
  矢切の地名 
  矢切ねぎ 
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  庚申板碑 
  史跡 国府台の合戦 
  野菊のこみち 
 
  フォトアルバム 
  矢切の里フォトスケッチ 
 
 
   
  
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		   文学碑前の白木蓮も満開です。
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       今日の矢切地区の江戸川ぞいの水田、ねぎ畑地帯が農地等として開発されたのは、江戸時代に入ってからの慶長・元和(1605〜1613)以降のことで、それまでは、見渡す限り、広々とした野河原で、一面に”よし”が生い茂っていました。また、1713年頃までは、江戸川沿いには民家、寺もあり村の中心地であったが、打続く水害で、寺も民家も高台へ移転した。
 この湿地帯を農地等に開拓したのが外山忠兵衛という旗本でございました。その子孫には、幕末から没する明治33年まで、西欧文化移入による啓蒙活動をし、他分野にわたり欧風開花運動し、本邦初の東京帝国大学名誉教授になられた外山正一殿がいらした。
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