「野菊の墓」の草花

小説「野菊の墓」の中では単に「野菊」となっているだけだが、野菊についての記述はこうだ。

『道の真中は乾いているが、両側の田についている所は、露にしとしとに濡(ぬ)れて、いろいろの草が花を開いてる。タウコギは末枯(うらが)れて、水蕎麦蓼(みずそばたで)など一番多く繁っている。都草も黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。
民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。
僕は一寸脇(わき)へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。』

 薄幸のうちに死んだ年上の恋人・民子を追憶したこの小説の中で、次のように主人公政夫は民子を野菊になぞらえている。

真(まこと)に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐(かれん)で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢(あか)ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。』

野菊という花は山野に咲く数種の菊を総称しているだけで"野菊"という名の花はないようだ。小説「野菊の墓」の野菊が具体的にどの花を指すのか興味がそそられる。

 平成13年10月2日の朝日新聞朝刊、「花おりおり」(文/湯浅浩史、写真/矢野勇)欄で「ヨメナ」を採り上げている。
 そのなかで、関東以北で見られるのは、「カントウヨメナ」として区別されているそうだ。湯浅浩史氏は、
『民子がほしがった野菊はカントウヨメナか。と記している
 また、平成13年10月24日の日本経済新聞夕刊、「花行脚」のコラムのなかで、写真家の宮嶋康彦氏もさまざまな辞書を調べた結果、小説のなかの"野菊"は「カントウヨメナ」としている。

小説のなかで、政夫が民子のために野菊の花を一握り採ったあたりには、タウコギや、水蕎麦蓼などが花開くとしているから、山野、路傍の多少湿気があるところに生育するカントウヨメナが当時の矢切の里に花を開かせていたのではないだろうか。最も地元では、ヨメナ、ノコンギク、ユウガギクのいずれであっても大した関心事ではないが、可憐で優しくてそうして品格もあった民子には白っぽい花のユウガギクより淡い紺色のカントウヨメナの方が似合うと思う。
 関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれるものは、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクであり、いずれも白から淡青紫色で古くから親しまれている。

これら三種の「野菊」の区別

○生育場所

カントウヨメナ      

山野、路傍の多少湿気があるところ。

 
ノコンギク

山野に普通に見られ、日当たりのよい道ばたやあぜ。

 

ユウガギク

山野、空き地、荒れ地、あぜなど。

 

○果実の冠毛

冠毛とは、タンポポなどについている綿毛のこと。)

カントウヨメナ      

短く長さ0.5mm

 

ノコンギク

他に比べて多く長い(4〜6mm)

 

ユウガギク

少数で長さ0.3mm

ヨメナ(嫁菜)

キク科シオン属の多年草


 

 

舌状花は淡青紫色で、中心の管状花は黄色。山野、路傍の多少湿気があるところに普通に生育する、従って田のあぜ、畑の周囲の踏みつけの多い場所にも生育し、西日本では雑草でもある。
古名はウハギあるいはオハギで『万葉集』にも見られるように、春に若菜を摘んで食用としている。枝は細く、まばらで鋭角にでる。
冠毛は短く長さ0.5mm。
若菜を摘んだのが嫁であったことからこの和名がつけられたなどの語源説がある。関東以北は葉が薄く、カントウヨメナとして区別される。

   万葉集:うはぎを詠んだ歌

  作者:柿本人麻呂
    妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや

  作者: 不明
    春日野(かすがの)に、煙(けぶり)立つ見ゆ、娘子(をとめ)らし、春野のうはぎ、
    摘みて煮らしも

 
 

ノコンギク(野紺菊)

キク科シオン属の多年草

舌状花は淡青紫色で、中心の管状花は黄色。
山野に普通に見られ、日当たりのよい道ばたやあぜにも生育する野ギクのひとつ。枝は短くて太く、がっちりしている。冠毛は他に比べて多く長い(4〜6mm)。両面に剛毛があり、ざらつく点が、ヨメナと異なる。

 

ユウガギク(柚香菊)

キク科シオン属の多年草

 

舌状花は白色でやや青紫色を帯び、中心の管状花は黄色。
山野、空き地、荒れ地、あぜなどに生育する。
冠毛は少数で長さ0.3mm。

 

タウコギ(田五加木)

 キク科センダングサ属の1年草

田のあぜ道や湿地に生える。かつては水田の害草であったが、アメリカセンダングサに追われ、また農薬の影響で減少した。 

☆ミゾソバ(溝蕎麦

 タデ科イヌタデ属の1年草
 ミズソバ、タソバともいわれる。

川辺、溝、路傍などの湿地に生え、よく群生する。和名は、溝に生え、蕎麦に似た草の意。

☆ミヤコグサ(都草)

 マメ科ミヤコグサ属の多年草

野原や堤防、道ばたなどに生育する。

 小説のなかで、あけび、えびづる、竜胆(りんどう)、春蘭、蕎麦などが登場する。

僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、「あけび」四五十と「野葡萄(えびづる)」一もくさを採り、竜胆(りんどう)の花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭(しゅんらん)の大きいのを見つけた。
「民さん、僕は一寸アックリを掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」
「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰(おっ)しゃるのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸(あかぎれ)の薬に致します。ハハハハ」

半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木の間から影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦(そば)の花が薄絹を曳き渡したように白く見える。

☆エビヅル(海老蔓)

 ブドウ科ブドウ属

 新しい茎は葉とともに淡紅紫色の綿毛を密生し、先端を下に曲げながら伸び、エビのようにみえることから和名がこのようについた。果実は液果で、黒紫色に熟し、ブドウに似て食べられる。

 
☆ノブドウ(野葡萄)

 ブドウ科ノブドウ属

 果実は液果で、緑色から紫色、紺色へと変わるが、ブトウタマバエなどの幼虫が寄生し、虫こぶをつくるため、食べられない。

 版画家で、「コーヒーの歴史」(紀伊国屋書店)その他の著書もあるコーヒー研究家としても有名な奥山儀八郎氏(故人)は、文学碑の建碑に、その維持に献身的に動かれたかたです。奥山儀八郎氏の矢切を舞台として扱った版画及び著作品は、文学碑付属の売店で、展示販売している。その奥山儀八郎氏が書かれた「矢切の左千夫」のなかで、春蘭とアックリについて、興味ある記述がなされている。

 矢切では春蘭のことは「ヂヂババ」とはいうがアックリとはいはない。成東の町役場で調べて貰ったところ、夷隅郡方面では春蘭のことを「ハックリ」と云う返事あり。擬態語であろうという事であった。ここで面白いのは千葉県方言で『アケビ』の事を『アックリ』というのは、樹上にアックリと口をあけた形によるものと思われる。

参考とした文献

牧野新日本植物図鑑 牧野富太郎著  北隆館
日本野生植物館   奥田重俊/編著 小学館

野菊の画像については、「植物園へようこそ(Botanic Garden)」のサイトからの転用です。