史跡、国府台の合戦

 今から約460年前、天文7年(1538)に松戸駅東側台地、相模台を中心として行わた合戦と、永禄7年(1564)に市川城(国府台城ともいう)を中心に繰り広げられた合戦は、それぞれ関東地方における戦国時代の三大合戦の一つといわれるほど有名なものです。そして、この戦いは両期の合戦を併せてこうのだい(高野台、鴻之台、国府台の文字があてられる)の戦いともいわれ、天文の合戦は「相模台の合戦」ともいい、これを前の国府台合戦という。これに対して、永禄の戦いは、後の国府台合戦といい、ここ矢切の台地で戦われたのでした。
  「相模台の合戦」は、小田原の北条氏綱、氏康の7千騎と、折りから安房や上総の土豪を武力で制圧して、 勢力を拡大してきていた里見義尭(よしたか)と彼が盛り立てていた小弓公方足利義明(おゆみ くぼうあしかがよしあきら)の3千騎が松戸から市川へかけての場所で合戦するという戦いでした。
 小金城主高城氏は、これより前に本家筋の原氏とともに小弓城(千葉市内で、市原市に近い処にあった)を守備していて、不意に攻撃してきた里見軍と義明に一族兄達を失い、城をうばわれていましたから一族兄弟、家臣達の弔い合戦とばかりに北条氏に味方をしました。
 相模台の合戦から25年たった永禄7年正月、こんどは矢切の台地で、小田原の北条氏康、氏政の軍と安房の里見義弘(義尭の子)との間で激しい合戦が行われました。
 矢切側には里見義弘を大将として8千騎、これに対して江戸川柴又、小岩側に北条側は、江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。この時、小金大谷口城主高城氏も北条方に加勢したため、下矢切大堀外(三矢小台側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
  (大堀というのは松戸市川県道に平行して西側に南北に走る旧県道があり、この両道路に挟まれた約1キロほどの堀のことです。)遠山、富永等は大将北条氏康、氏政父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し渡り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。
 遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが、勢いにのった遠山軍が大坂の途中まで攻め登った所を一挙に坂上から攻め落とした。この坂上で落馬した富永三郎右衛門尉は、折り重なった里見軍に首打たれた。その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった。遠山丹波守はこの坂下、坂川の手前の「カイカバ曲り目の内野」という所で、里見方の里見山之介という16才の少年にその首を打たれた。この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いた。
 本土寺過去帳に「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿 江戸城主 其外千余人癸亥正月」とぽつんと記されているのも寒々しい。
 さて、緒戦に大勝して気を良くした里見方は、夕刻から小雨と疲れから次の合戦は翌日だと考え、鎧を脱ぎ馬に飼葉を与え油断するその隙に、里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、徹底的に打ちのめされ、大将里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起することはなかった。