元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村18番地屋敷(現在の山武郡成東町殿台)に生まれた。本名は幸次郎。農家の4男で末子であった。17才のとき明治法律学校明治(大学の全身)に学んだが、眼疾のため退学帰郷。 22才のとき再び上京して数年京浜間の牛乳店で働き、25才のとき本所区茅場町3丁目18番地(現在の墨田区江東橋3の5の3、JR総武線錦糸町駅前)に独立して牛乳搾取業を開いた。屋号は「乳牛改良社」と称したが、ほかに「芽の舎」とも「デボン社」ともいった。 
 明治26年、29才のころ同業者の伊藤並根の知己を得、茶の湯を学ぶと共に和歌の手ほどきを受けることとなった。香園または、さちをと号し、次第に和歌に関心を深めたが、明治33年1月はじめて正岡子規を訪ね、その熱心な門人となった

牛飼が歌よむ時に世のなかの
  新しき歌大いに起る

伊藤左千夫が初めて正岡子規を訪問して入門し、その短歌革新の思想と運動に共鳴して詠んだ代表作で、この歌には、牛飼の歌人と自ら称した左千夫の歌に対する気概がこめられている。
  子規の没後、長塚節、蕨真等と発行した根岸派の機関紙「馬酔木」「アララギ」の主導的地位に立ち、島木赤彦、斎藤茂吉、吉泉千樫、中村憲吉、土屋文明その他の歌人たちを育成したが、大正2年(1913)7月30日、脳出血で逝去。亀戸の普門院に埋葬された。享年50才。
 左千夫は、数十篇の小説を書き、特に明治39年1月「ホトトギス」に発表した「野菊の墓」は夏目漱石などの激賞を受け、文壇に広く名作の名をほしいままにした。

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伊藤左千夫の墓がある

亀戸 普門院


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