TOPページへ  

旗本外山様

旗本外山殿(2、3代目)の墓所

西蓮寺は土地の古老の言い伝えによると、永禄7年(1564)の国府台合戦の際に兵火で焼けてしまった。そのとき本尊阿弥陀如来像だけは庭の榎の洞穴にどうにか隠しすことができたという。
 合戦の余燼で、あたら西蓮寺は焼けたまま、ご本尊は穴に埋もれたままで年数がたって取り出せなくなっていた。元和2年(1616)、徳川家康の家臣外山忠兵衛正吉殿は大坂の夏の陣の功績によって、下総小金領下矢切の地で213石を領することになった。(松戸町史p43)寛永17年(1640
外山忠兵衛正吉殿の遺跡を継いだ外山忠兵衛正春殿は、慶安2年(1649)12月、家来の高安長右衛門を従えて領地内を見て回った。
 村人から霊験あらたかな西蓮寺のご本尊の阿弥陀如来さまの話を聴いた外山忠兵衛正春殿は、榎洞の場所を村人とともに探し出した。子宝に恵まれなかった外山忠兵衛正春殿は喜び、小さな庵だけれど、お堂を造り尊像を安置し、丹誠をこらして信心したという。 不思議なことにこの信心が如来に感応する所となり、阿弥陀如来のご霊験あって、忠兵衛正春殿の妻は程なく懐胎なされ、月満ちて慶安3年11月28日男子をめでたく出産なされた。忠兵衛正春殿のご祈誓がみごと叶うことができたので、生まれたお子の御名を当之助(あてのすけ)殿と名付けました。
 阿弥陀如来さまへの報恩のために、慶安3年(1650)年、遍照房が草堂を再興し(注.宥眞僧都が建立した大日如来像の台座に刻石されている。)、古来からの遺緒を聞き、寺屋敷を付置いたということである。御水帳(検地帳)の表に西蓮寺屋敷1反1畝14歩、外に、2畝10歩寺敷に余とありと書かれていたという。 当之助殿は御成長し、家督相続され、外山藤左衛門正重と名を改め、その後小作正重と名乗りました。
 延宝8年(1680)8月、大風雨のためにお堂が破損してしまったので、小作殿はお堂を建立なされました。天和元年(1681)には阿弥陀如来尊像並びに法具、田地を如来のために献上なされた。
 元禄13年(1700)秋、ときの住持である宥真僧都は、百姓が所有していた田畑を売地に出そうとしていたので、それを買取り本尊に寄進された。田畑あわせて、1町3畝余歩と御水帳にありと記載されているという。宝永元年(1704)6月長雨により大洪水となり、地面より8尺余の高さの水高となった。これにより、江戸川沿岸附近に在った当村の民家は、台畑へ移り居住を定めるようになった。  当時、村民はこの地の鎮守として京都東山より稲荷を勧請し奉った。時に、伝燈大阿闍梨法印権大僧都宥真は、稲荷五社大明神と号し、毎年9月19日に祭祀を勤めた。宝永3年(1706)江戸の町中大火となった。このときに新しい寺地がご赦免となり、下総國国分村金光明寺(市川市国分国分寺)の許可を得てその末寺となった。ま た、天神宮は古来より在った場所は湿地が多く、参詣に難渋していたので、正徳3年(1713)11月、高台に社を移し、稲倉魂命・天満神社を合祀した。(この社殿は大正4年に改築され、昭和29年矢切神社に統合し現在の地に移転した。)

逆修供養大日如来像

 高台とは、現在「野菊の墓」の文学碑がある場所およびさ西蓮寺の境内地であるが、外山甚之丞正延殿の領地跡である。西蓮寺は、草堂が永禄7年(1564)正月 国府台の合戦のとき兵火で焼失してしまい、その後外山忠兵衛正吉殿が矢切の地を知行され、外山忠兵衛正春殿の代すなわち慶安3年(1650)年、遍照房が草堂を建てるまでの間約100年はほとんど荒れ果てていたいた状態であろうと思われる。その後外山小作雅国殿が支配された時代に、宥真僧都によって順次寺としての格式が整った。この宥真僧都は享保9年(1724)7月10日に歿したが、大日如来の尊像に自撰の銘を刻し、逆修供養したほどの人であった。
 矢切は、外山甚之丞正延君の代に、享保8年(1723)采地を廩米にあらためらるまで、約百有余年にわたり、矢切と旗本外山様との関係があったことになる。

旗本野間様

旗本野間重成殿の墓塔

矢切村は、のまさまといわれている旗本がいたことは、当地では周知のことです。矢切の渡しの堤防沿いの畑の一画には、寛永4年(1627)に没した旗本野間重成殿の宝篋印塔の墓塔がある。
 野間重成殿は初め金三郎と称し、後に金左衛門と改める。野間忠左衛門重安殿の四男にして、天正18年(1590)小田原の役には家康に供奉して軍に従う。慶長19年(1614)及同20年(1615)、大坂夏冬の両陣に供奉す。元和元年大坂落城ののち、5月21日小林田兵衛元長とおなじく伏見より二条城に出仕する途中、大仏の前において大野道犬(※1)を生捕り、二人は二条城へ差し出したところ、22日酒井雅楽頭忠世、本多佐渡守正信より元長、重成連名の奉書をあたえられ、その賞として道犬が帯せしところの刀を重成に賜い、脇差は元長に賜う。
元和2年(1616)2月、功に依り下総国葛飾郡風早庄谷切村(今の下矢切・上矢切)のうち三百石を与えられる。是より子孫代々此の地を領し、以って維新に至った。十代金蔵氏は維新の際帰農して別に一家を創立したという。重成殿は、「寛永4年(1627)6月23日死す。法名良勝。采地葛飾郡八喰村の聖徳寺に葬られると」寛政重修諸家譜に記述されている聖徳寺(廃寺)は、野間重成殿が江戸川沿いの領地内に開基したもの思われる。

元和2年に家康公より頂いた黒印状

元和3年に秀忠公より頂いた黒印状

和2年に家康公から頂いた知行あたがい状は下総国葛飾郡風早庄谷切村となっている。

聖徳寺廃寺について

下矢切村に矢喰山聖徳寺と云う寺が明治の初年まであった。真言宗豊山派に所属した寺で、市川市国分寺門徒であった。この寺に関しては詳でないが、寛文(1661−1673)頃に貞鑁、元禄(1688−1704)に盛忍、宝永(1704−1711)に舜教、宝暦(1751−1764)に能貞とこの寺で住持している。而も幸いに貞享3年(1686)3月住持以察房宥眞の聖徳寺什物帳(市川国分寺蔵)によって本尊は聖徳太子で他に阿弥陀一本、両界、大師八祖の絵像十幅、打鳴等が存し、畳も十七畳敷であったことが見えている。この内阿弥陀如来は1尺6寸金作りだと云う。而るに宥真の力で、茅葺客殿と庫裏(5間5尺3間半)が作られ、後に三十畳敷に改められて、大六天宮が新たに建立、仏器類も新調せられたという。当時寺の所有地に庚申塚という松山があり、寛文8年(1668)に取立てられた庚申の石仏があったことが見えている。
 ところが、寺は、昔、江戸川沿いの湿地帯にあったようである。湿地帯もこの聖徳寺の境内で村方一同で享保6年(1721)頃芝居を催したことなどあって、村の中心地であったのが打続く水害で村は不凶が続き、寺も悩み、地頭から惣百姓は屋敷替をする事となった。然し、寺は移すべき土地がなく八郎左衛門所有の坂上九畝十八歩を村方檀徒と相談の上、金二両で買い求め、住持栄訣の力で水田地帯から台地へ移転した。
 而し、享保20年(1735)12月には更に寺の境内の狭隘を告げたので大堀の地一反三畝を地主平八郎から二両で買い求め、更に土地を拡張した。これが現在の廃寺跡聖徳寺の地である。この頃の寺は村では豊かで延享2、3年(1745、1746)と小松山等の山林や田畑を檀中より質物として貸金などしたが、寺は檀戸五戸のみで無住時代が多かったようである。安永3年(1774)寺を営繕して住持を入れんとしたが人を得ず安永7年(1778)より天明5年(1785)頃まで無住であった。殊に天明(1781−1789)の凶作は寺有地、田一反二畝二十三歩、畑五反七畝十八歩あっても収入四石五合の半にも達せず、畑も金二石の収入のみの年も多かった。
 そこで拡張した寺の境内地も寛政の頃(1789−1801)の頃に地借の人や家作ができ、無住で寛政7年(1795)寺番に佐渡の廻国行者を置くような始末であった。文化12年(1815)になって始めて匡泉房慈欽を住持に迎えたが、元来龍珠院の弟子で隋身6カ年をした人で無学でやむなく留守居の位置に留まった。この頃の寺の支配地は旧寺屋敷、天神前、萱場、大六天屋敷、庚申塚、山林地で極めて微々たる状態に陥っていた。文政8年(1825)匡眞が住持となって赴いたが、まもなく伊与田宝林寺へ転身して以来住持を欠き明治5年(1872)頃廃寺となって隣寺西蓮寺に合併せられた。今もなお、旧門前には寛文(1661−1673)の如意輪観音(現在は矢切神社近くの矢切庚申塚にある)、墓地には寛永(1624−1644)正保(1644−1648)、天和(1681−1684)の石碑を存した古刹の面影を偲ぶことができる。

※1 大野道犬

豊臣家の武将である。天正17年(1589)豊臣秀吉は、大野道犬の武功と、妻の大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)が淀君の乳母であった労に報い、和泉佐野と出生の地である当大野で壱万石余を与え、当地に太閤蔵入領の代官として赴任させた。 現在の大野神社境内に大野城を築城した。文禄元年の政韓の役に出陣し、活躍した。
 大坂冬の陣に際し、野田城(現大阪市福島区)で籠城戦を行い、九鬼盛隆、向井忠勝らと戦ったが落城する。元和元年(1615)5月8日、大坂夏の陣において、道犬の子、治長、治房らは、豊臣秀頼、淀君母子を守り、徳川家康との大軍と戦かったが、討ち死にする。