本名=片岡鉄兵(かたおか・てっぺい)
明治27年2月2日—昭和19年12月25日
享年50歳(文徳院道明鉄平居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園19区1種3側
小説家。岡山県生。慶応義塾大学中退。大正13年横光利一らと『文芸時代』を創刊。評論や小説を発表し「新感覚派」作家として知られ、『にがい話』『綱の上の少女』を刊行した。昭和3年以降左傾し『生ける人形』『愛情の問題』などを発表したが、8年に転向した。『綾里村快挙録』『菜の花月夜』などがある。

何物か、黒い魔の手が、自分を操つてゆくのだ!
自分は、その魔の手と握手することで、立身出世をはかるのだ。玉屋銀行を破産させたものは何であるか?これも魔の手だ。不良貸だしの金の行方は、あの青原代議士の手を経て、幾人かの政党候補者の選挙費用となつた。青原代議士は、かくて議會内に幾人かの子分を持つ勢力家たる位置を失はなかつた。そしてその結果は?玉屋銀行の蹉鉄となつた。何千人かの 無産預金者の窮乏となるのだ。
何千人かの無産者から剥奪する事で、幾人かの代議士に成る議會内の勢力が結成され得た。
彼らが、國政を議するのだ。いひ換へるなら、彼らによつて國政が議せられる限り、この國に剥奪され、窮乏する者は永久に絶えないであらう。
そして、瀬木は?
「おれは然し、立身出世しなければならないのだ」
瀬木の自己反省の、これが結論だつた。瀬木にとつて、この結論は不可避なものだつたに違ひない。大義名分のまゝに進んで行つて榮達が得られる社會でない事を、彼はよく知つてゐた。
「おれは損をしてはならないのだ。短い一生を、虐められ通しで終つてはならないのだ。おれは虐める者に味方しても、虐められる者になつてはならない」
そして、昔から、正しい路を踏む者は聖人といはれる。聖人とはこの世の中で損をする者を嘲笑して悪漢共が奉る尊稱だつた。
(生ける人形)
横光利一や川端康成らとともに創刊した『文芸時代』に評論 『新感覚派は斯く』などを発表し、「新感覚派」の提唱者としての存在を示したが、次第に左傾化してナップ(全日本無産者芸術連盟 )に参加、プロレタリア作家となった。
昭和6年、第3次関西共産党事件に関連して検挙、投獄され、転向した後は大衆小説を書いたがほとんど見るべきものはない。
——〈近来文壇の二十年史を誰か書かうとして、もしこの時代の典型を文壇人から求めるとしたら、片岡鉄平の生活と人以外には、一人もゐないだらう。〉これは、昭和19年12月25日、旅行先の和歌山県田辺の知人宅で、肝硬変のため急逝した「新感覚派」の創始者片岡鉄平を悼む、横光利一の「典型人の死」と題した追悼記の一節である。
「新感覚派」からプロレタリア文学、プロレタリア作家から大衆小説家へと変転していった処世を、片岡本人は〈文学に通俗性を持つとは、 文学が適者生存の世の中の 「適者」 のものとなることであらう。 先づ最初に作者が 「適者」 の神経と心を持つことに他ならない〉と説明している。
『文芸時代』にあっては横光利一、川端康成、中河與一、今東光らを凌ぐ論客として知られたが、以後左傾し、昭和7年獄中で〈命が惜しくなって転向したのだが、同時に、出獄したら世間から振り向かれもしないだろうといふ覚悟をしなければ出来ない〉という転向をする。
戦争協力という傷痕を残して去った作家の亡骸は、陽射しを避けるように木陰に寄り添って建つ「片岡家之墓」に納まっている。
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