本名=嘉村礒多(かむら・いそた)
明治30年12月15日—昭和8年11月30日
享年35歳
山口県山口市仁保上郷 生家墓地
小説家。山口県生。県立山口中学校(現・県立山口高等学校)中退。中退後、生家で農事に携わりながらキリスト教・漢籍に親しんだ。大正7年結婚、子供も生まれたが妻との不和から逃れるように出奔上京。『不同調』『近代生活』に参加、葛西善蔵らの知遇を得て昭和3年『業苦』を発表、私小説作家として出発した。ほかに『崖の下』『途上』などがある。

酷い夏痩せの千登世は秋風が立つてからもなかなか肉付が元に復らなかつた。顏はさうでもなかつたけれど、といっても、二重顎は一重になり、裸体になつた時など肋骨が蒼白い皮膚の上に層をなして浮んで見えた。腰や腿のあたりは乾草のやうにしなびてゐた。ひとつは栄養不良のせゐもあつたが……。
圭一郎はスウスウ小刻みな鼾をかき出した細っこい彼女を抱いて睡らうとしたが、急に頭の中がわくわくと口でも開いて呼吸でもするかのやうに、そしてそれに伴つた重苦しい鈍痛が襲って来た。彼はチカチカ眼を刺す電燈に紫紺色のメリンスの風呂敷を卷きつけて見たが又起つて行って消してしまった。何も彼も忘れ盡して熟睡に陷ちようと努めれば努める程弥が上にも頭が冴えて、容易に寢つけさうもなかった。
立てつけのひどく悪い雨戸の隙間を洩るゝ月の光を面に浴びて白い括枕の上に髮こそ乱して居れ睫毛一本も動かさない寢像のいゝ千登世の顏は、さながら病む人のやうに蒼白かった。故郷に棄てて来た妻や子に対するよりも、より深重な罪悪感を千登世に感じないわけには行かない。さう思ふと何處からともなく込み上げて来る強い憐愍がひとしきり続く。かと思ふとポカンと放心した気持にもさせられた。
全体これから奈何すればいゝのか? 又奈何なることだらうか? 圭一郎は幾度も幾度も寢返りを打った——
(業苦)
他の人の思いはいざ知らず、嘉村礒多にとっての生涯は業苦そのものであった。深い山間の大地主の家で我が儘いっぱいに育ったものの、生まれつき体躯矮小の上に色黒な肉体的劣等感が長きにわたって続いた。両親への不信・嫌悪や若くして結婚した妻との不仲から妻子を捨て、同じ職場の女性小川ちとせを伴って山口を出奔して以来、生活苦に耐え、病がちの身をおして、凡夫煩悩の悲しみを書き綴ってきた。およそ人間たるものの愚かさや闇、悔恨などを一瞬の光輝として昇華させていった礒多の視角の中には、ただひとつ芸術の神に捧げた文学の灯があったが、昭和8年9月に診断を受けた結核性腹膜炎が急速に悪化、父とちとせに看取られながら、絶望の長い尾を引いて短い生涯を閉じて逝った。
山峡の村を湿った生暖かい風が吹いている。高い石垣を積んだ崖の上に建つ白壁の蔵と茅葺き屋根の生家を見上げながら渓流沿いの道を歩む。薬師如来堂、上ヶ山村社、公会堂の前の小橋を渡って、『神前結婚』に登場してくる大畑妙見社にも通じ、礒多たちが通学路としていた山の端の道を下がって少し歩くと、杉木立の中の細い坂道の上に小さく拓かれた嘉村家の墓地があった。小さな地蔵尊が二つ三つ、「天禀院文賢独秀居士」と刻された礒多の墓。青々とした羊歯がつきだした石垣の傍、枯れ落葉が吹きだまり、陰翳を深めた墓碑は南を向いて、〈私は都会で死にたくない。異郷の土にこの骨を埋めてはならない。〉との衷心の願いどおり、礒多の没後まもなく病死した一人息子の松美、兄や弟妹も眠るこの墓地に閑としてある。
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