その3


第二章

 『ご愛敬』と「なんでも学問」です。





 大学は、「学問の府」だなんて今さら、カッコつけた、時代遅れのことを言うな、「学問」なんてかびが生えたどころか、かびに埋もれているよ、といった「ホンネ」の議論もありましょう。そうした言いぐさも「許す」くらいに、「学問」は自由なのです。そして、それなら「大学」にはなにが残るのでしょうかと、そっとつぶやいてみるのです。

 大学は「学問」の場だというたてまえが一応通っていたころ、悪びれて、それに反抗し、「遊びまくっ」たり、酒を飲んでは高歌放吟して、世のひんしゅくを買ったりするのも、いわば学生の「ご愛敬」とされていた時代がありました(北杜夫氏の『どくとるマンボウ青春記』など)。そういった本人たちも、「大学は学問するところ」という前提をともかくは認めたうえで、あえてそれに逆らう、あるいは別に「勉強」なんかしなくたって、いつでも「学問」はやれるよ、また「別の学問」を実践しているんだよ、といった構えをもっていました。そしてそういった人たちが事実、世に出て「政治家」や「経営者」「評論家」などで名をあげ、果ては「中退の美」を実践した人間たちが、作家やもの書きで活躍するなどというのが珍しくなかったのです。

 それはそれ、しかし当世、大学で「学問する」方が珍しくなってしまったなかでは、「学問」することがむしろご愛敬になりかねません。既存のかびの生えた「学問」を低く見て、もっと意味のあることを大いに実践しているんだ、といった話しも乏しく、多くは残念ながら、「豊かな社会」の誘惑の数々のなかで、「人並みに遊ぶ」学生生活であっと言う間の四年間を過ごし、卒業間近になって、「自分はなんのために大学に来たんだろう」と後悔する状況なのです。だって、高校までとは違い、誰も「勉強しろ」などと強制もしない、尻もたたかない、「勉強」しなくたって、大して困ることもなく毎日は過ごせ、そしてなんとなく卒業できそうだ、それが実感だったから、なのです。でも、そこに一抹の寂しさがあります。


 残念ながら、大学は「ご愛敬」で学問をするのに向いてできてはいません。「ご愛敬」で遊び暮らすことを許す寛容なしくみであっても、そこから先は、自分の意思と力で、「学問する」のを期待するしくみでしかないのです。その「自由」さを、今どき非難し、もっと「たたき込む」しくみにすべきだとするむきも確かにありますし、それも一理あるのでしょうが、「学問の自由」に存在の理由をおいてきた「大学」が、一挙に「教育収容所」に変身するのはどだい困難なのです。


 そうではなく、やはり「学問」の原点は、一人一人の自由な関心と発想からおこるものではないでしょうか。



 私の担当する演習(ゼミナール)の諸君には、「共同研究」をすすめてもらったり、4年卒業時には「卒業論文」を書いてもらっています。「大学生らしい」(ホントの意味で)学生生活のいわば中心となる部分を、何とかつかみ、実践し、いい経験を持っていってもらいたいと願ってのことです。紆余曲折、好不調はあれ、そのねらいはかなり実現されていると思ってはいます。


 私の演習の主題は、「工業経済」と銘打ち、要するに、「産業経済」「産業政策」「企業」「技術」「労働」「企業家」など、いわばなんでもカバーしてしまいます。私は特に卒論については、一人一人の諸君の4年間の締めくくりという意味が大きいから、「自分のやりたいこと、興味あるテーマにとり組んでくれればいい」といつも申してきています。幸いにして、私の「専門」は「雑学」みたいなものなので、実際何であっても構わないという気持ちです(もうちょっと、「経済学的」であってほしいといった思いもないことはないのですが、それはこの道で飯を食っている人間の悪いくせ、「未知の世界」への接点の乏しい学生諸君の関心事がおのずと、「正統的」経済からははずれるのが当然と割り切るべきでしょう)。

 ですから、過去の共同研究テーマ個人論文を見ていくと、「自動車産業」や「POSシステム」、「地場産業の転機」、「日本企業の海外進出」、「インターネット時代」「時短問題」「公害問題」などもありますが、さらには「プロ野球」「Jリーグ」、果ては「プロレス」、「マンガ」、「ダイヤルQ2」等々、それこそ何でもござれです(「AV産業」という共同研究テーマを「アダルトビデオ」と勘違いしたひともいましたが、そこまでは今のところ…………)。まあ、それがまた、その時々の学生諸君の関心のありかを物語っていて、面白いところでもあります。

 しかし、それが誤解を招く向きもあることはわかっています。「プロレスもありですか?」「マンガも?」、そうです、みんな「あり」です。でも、そんなの「卒論」ですか?「大学」でやることですか?ともただされましょう。


 「プロレス」も、「マンガ」も、「フーゾク」も、みんな現代社会の一事象であり、またそれらは「ビジネス」でもあります。人間の経済活動の一つの形なのです。ですから、すべてが「研究対象」であり、「学問」なのです。「経済学部」の看板を背負っている以上、「経済」の営みがどのような形で行われているにせよ、それを調べ、考えることには十分意味があります。しかも、ひとがそうした角度からあまり関心を持たないところ、そこに注目してこそ、より値打ちもあるというものでしょう。



 けれども、こうした「寛容さ」ははじめ、学生諸君を大いに当惑させるようです。それは無理ないことでしょう。小学校以来10数年にわたり、「勉強」というものを強いられてきた人生、そこでは、定められた「教科」と「教科書」があり、それを習うこと、覚えること、その記憶を生かして「問題練習」を重ねること、それすなわち「勉強」であるとたたき込まれてきたのです。そこからのささやかな「逃避」や「抵抗」が、「マンガ」であり、「プロレス」であり、「オタク的世界」であったわけです。それをいきなり、「それもいいんです」じゃあ、これまでの「勉強」は何だったの?そんなのありなの?ということになるわけでしょう。

 こたえはただ一つ、そうした「勉強」が間違いなのです。「教科」が無意味でも、いらないわけでもなく、それは本来、人間の知的活動の基礎、自分と自然と社会とを知り、よりよく生きるための方法になるもののはずでしょう。でも、それを得ることのみが「目的」に転じ、しかもさらに、人間を「選別」する「手段」になってしまっている、したがってその意味を失ってしまっている、そこに間違いがあるのです。その裏返しとして、「遊ぶ」ことが逃避することになり、「勉強」のマイナス二乗、パラレルワールドのような存在となってきたのです。


 このように、「学ぶ」ことが意味を失い、「遊ぶ」ことと切り離され、「働くこと」との関係を奪われている事態への批判は、先に書きました。そうした状況がごく一般的になっていますから、「学問」のリベラルさをいきなり突きつけられても、まずはとまどってしまうのは無理からぬことです。でも、「学問」なんていうのは、まさしく、自然界と人間社会のありとあらゆることに、素朴な疑問をもち、クエスチョンを突きつけ、一所懸命考えていく行為そのものなのです。特別「神聖」でも「崇高」でもなく、生々しく、また現実的でもあり、誰もがそこに関心を持ち、その成果を活用する権利を持っている人間活動の一種でしかないのです。「なんでも学問」こそが、原点です。


 「遊ぶ」ことを復権させ、「働くこと」「暮らすこと」の重さと意義にとり組み、そしてそこから、「学ぶ」ことの意味を一から立て直していくこと、それは一朝一夕にできるものではありませんし、単に学校教育の責任ばかりでなく、「近代社会」の病弊ともいうべき事態なのですが、「大学」が「学問」を看板としている以上、やらねばならないことです。「大学」は、「勉強」を学生諸君に強制はしない、みずからが求めたい知識と方法とその機会を提供する、それを実践していこうということなのです。そのためには、「お仕着せの主題」「課題」ではなく、一人一人の諸君が持っている興味と関心を手がかりにしていくのが、結局早道であり、正しいことなのです。だから言うのです、それがみんな「学問」の対象なんだよ、と。


 ただし(いいか悪いかは別として)、「経済学部」は経済学部であり、「文学部」でも、「芸術学部」でもなく、むろん「理工学部」や「体育学部」ではありません。学問はやはり過去の成果の積み上げです(この点にきわめてルーズなのが、ニッポンの「大学」の特徴の一つでもありますが)。それなりの「領域」と学問の「方法」をもっていることは事実であって、また当方も、いくら「雑学専攻」であっても、何でも知っているわけではありません。ですから、学生諸君が経済学部への入学を選択したときから、その世界なりの分野とアプローチの方法を前提とするとすでに決めたものと、思ってもらわざるを得ないのです。「マンガ」を論じるといっても、「作品論」や「芸風」というわけにはいかず、「プロレス」論だから、猪木や長州力はなぜ強かったのか、という議論ではちょっと困ります。

 「航空事故」を論じようとしたまじめな学生もいましたが、それを「原因」などから探るということになりますと、これは「航空工学」や「安全性工学」の分野で、「経済学」にはなじまなさ過ぎになります。実際にそうした学問を、自分はかたわら十分研究してきた、あんたが知識がないだけだ、というのならぐうの音も出ないのですが、まずそうしたことはなく、これはせいぜいのところ、「安全性」などについての、工学の専門家やジャーナリストの書く「啓蒙書」をなぞるくらいの域を出られません。それでは少々困る、「安全性」確保への課題や「航空輸送業」の現状などを、今の社会と経済のうちでとりあげ、論じるのならいいのだが、と申しました。

 同じように、「POS」のシステム設計を一本まとめる、なんていう学生が出てくるとえらいことになりかねませんが、これもまずありません。そこで、POSのしくみや利用方法についての「解説」を読んで一本、なんていうことでお茶を濁すことになりかねません。そうした場合に私は、そういう知識はいわば入り口、基礎の基礎、それを大いに勉強するのは結構だし、自分のためになるだろうが、経済学部の「卒業論文」としては、それが社会全体、産業のあり方、企業の経営、人間の働き方にどうかかわっているのか、どのような影響を及ぼし、何が変わっていくのかを論じてもらうことが必要なのだ、とすすめます。

 ですから、「プロレス」を論じるのは、「強い選手」の一覧や賛歌や、「観戦記」を書いてもらうためじゃなくて、まさしくそれが「ビジネス」として成り立っていること、あるいはそこに社会現象のなにがしかが見事に表現されていること、そうした点に踏み込んでほしいとも申します。実際、「プロレス」だろうが、「マンガ」だろうが、「Jリーグ」だろうが、そうした視点からの、それぞれなりの「力作」論文になっているはずです。


 もちろん、「学問」の方法は、これまでの積み上げのうえにたってたえず進歩し、また新たな批判を受け、新たな方法を求め続けているものですから、それぞれの学生諸君がまとめたものが「最高水準」という言い切ってしまうにはためらいもあります。でも、それぞれの関心あるテーマにまっこうからとり組んだこと、そこでさまざまな知識や方法を知り得たこと、さらにその結果を自分の文章として表現し、まとめ上げたこと、これは大変に貴重なものであり、誰にも負けないオリジナリティがあります。そして、その本人がなによりも、こうした考え方(や調べ方、まとめ方など)の方法を身につけ、その経験を携え、今後さまざまなことを「学問」していける自信を持てることこそ、何ものにも代えられない財産であると思います。それを得られて、相当のお金を払い、4年間という時間を費やした学生生活が、自分の人生にとって十分に実りあるものであったと、はじめて誇れるのではないでしょうか。




 「入り口」は自由に、望むままに、しかし「道筋」はきちんと、そしてその「実感」と「経験」こそが大切、これが「なんでもあり?」へのこたえです。「マンガ」や「プロレス」が学問なのではなく、「マンガやプロレスを考え、その存在の意味を知ること」が学問なのです。





 私は、ゼミの学生諸君の指導のための「資料」を若干用意し、提供してきています。なにせ、「オールドメディア」時代からのものが多いので、いますぐここにアップロードはできないのですが、おいおいお目にかけていきましょう。別に「秘密のノウハウ」として隠しておくつもりはありません。

1.論文の書き方 (リンク修正)

2.プレゼンテーションのために




 つぎは、続編として、ではその「学問」とは何なのか、どのような意味で「学問」と呼ぶことができるのか、考えていきたいと思います。「扉のこちら側」と「向こう側」について、また、「血液型占い」なるものを90%がた信じ込んでいる(世界にも類を見ない)ニッポン人は、21世紀の「お荷物」になるといったことを含めて。
 それから、「こども文化とおとなの社会」、「自分を知るということ」、「財界人のホンネとたてまえ」、「働くこと、遊ぶこと、暮らすこと、学ぶこと」などをとりあげていきましょう。






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