その2


第一章

大学教育の原点は「読み、書き、話す」ことだ



 「大学ってなにするところなの?」という、あたりまえすぎる問いに誰もきちんとこたえていないのが、ニッポンの現実です。もちろん、「大学は学問の府」「最高学府だ」という、昔ながらの建前を振りかざすことはできますが、それだけでは現在の多くの学生諸君のとまどいにこたえるには寂しすぎます。「学問」なんて、一部の好き者の道楽のようなもの、大学を終えて社会に出るほとんどの学生は、もちろん学者になるわけじゃなし、政治家や官僚などになるのもごく少数、結局大部分「サラリーマン」になるのが現実です。そのための「就職」に、「学問」なんてまず役に立たない、実際大学での「成績」と就職には何にも関係がない、学問には関心なし、授業にもろくに出ず、ひたすらバイトと「サークル」と、人並みの遊びに励んで、それでともかく要領よく単位を揃え、進級卒業できれば、何とか就職はできるもの、つまり大学とは「入ること」と「通過すること」に意義あり、と受けとめているのが、残念ながら多くの諸君のジョーシキです(少なくとも、言うところの「文科系」大学では)。そして、大学は「レジャーランド」化していると揶揄されて久しいのです。

 私が大学教師になりたてのころ、出身校のプロジェクトチームに足をつっこんでいて、後輩院生や同門の方々とともに、学部の諸君の「調査研究」のサポートにもあたっていました。私はそうでもなかったけれど、めっぽう指導に厳しい院生もいて、「泣き出す学生もあった」という噂、ようやく調査研究のまとめが終わり、「報告書」ができあがったので目を通していたら、「ああ、これでやっとふつうの学生生活に戻れる!」と、あとがきにホンネの感想が書かれていたのを発見しました。一つのテーマに取り組み、調査したり、資料を読んだり、発表をし、報告書を書くなどというのは、「ふつう」じゃない、異常な学生生活なのです。学生はもっと学生らしく、遊びまわらなくっちゃ!この話しももう十数年前なのですから、いまは学生諸君の「ジョーシキ」のありようはおして知るべしでしょう。


 この「ジョーシキ」自体、実はかなり怪しく、結局そう信じ込んでいた学生諸君が、土壇場になって後悔するというのもまた現実なのですが、それに気づくのは多くの場合「手遅れ」になってからです。また、実際ニッポンの「企業」の多く、とりわけ大企業ほど、「教育の改革の必要」などを熱心に説きながら、やっていることは、学生を「出身校」の名前で採用する、それさえあれば、学生個々の得てきた「学問」なんていうのは論外、学業成績も二の次三の次、まあ、明るく、元気があって、要領がよくて、丈夫そうならばいい、そういった、相も変わらぬ「新規学卒一括採用」方式なのです(前にも書きましたように、日経連や経団連のお歴々が社長の企業で、どのような高邁な人間観や教育観が、採用活動に反映されているのか、是非とも、「芸能レポーター」の方々につっこんで追及して貰いたいと、私など思います。大学名を正直に言うと、とたんに「ああ、資料送付や日程はあとで連絡をします」の一言で電話を切られるのに、知恵を働かせて別の「ユーメイ大学」を名乗ったとたん、「いついつセミナー、面接も予定しますから、是非おいで下さい」と態度一変であったなどという、笑い話には済まされない「経験」を、毎年学生諸君から聞かされるのです)。


 こういった性懲りない「ユーメイ校主義」とはなになのか、またそこにはどのような「学問観」がホンネで現れているのか、また大いに考えるべきところですものの、それは後回しにして、こうしたあまりに否定的な現実の中で、なおまた大学が「教育」のうえに果たせる可能性はどこにあるのか、考えることが必要でしょう。


 私はこの10年来、大学が最低限、またどこの課程や場においても、果たさねばならないことは、学生諸君の「読み、書き、話す」能力を共通して一定のレベルにまで高めることだと申してきました。もちろん、それは「学問以前」です。多くの大学教師は、こんな言い方には内心「軽蔑」と「屈辱感」を抱くでしょう。そんなことは、小学校か中学校、せいぜい高校くらいまでになされることだ、大学はそうした能力のあることを前提に「学問」をやるのであって、なにを今さら、と。実際、「学問の府」は、元来は「読み、書き、話す」能力の実践の積み重ねのうえに成り立っているのであり、そこのところを外されては、なにも「学問」はできません。
 でも、その「学問以前」こそが、いま必要なのです。大学進学率が40%に近づいている現在、また、「受験テクニック」だけが洗練され、あらゆる手法と対策が普及している現在、高校までの学校教育で、「読み、書き、話す」が十分身についた諸君が大学に来ているとは、残念ながらとうてい言えないのです。大学入試がそうした基礎学力を測るといっても、実態はほど遠いものです。その結果、大学に入ってきた学生諸君に聞いても、自分でものごとを考えた結果を「書く」、「話す」といった経験がまことに乏しく、それどころか「読む」ほうも怪しいのです。学校の「教科書」や学習参考書くらいは読んだが、それはあくまで「テストに備える」ためで、あえてそれ以外の書を読もうとした経験は乏しい、せいぜい赤川次郎くらいか(赤川次郎がいけないわけじゃありませんが)、これが現実です。

 「読む」ことに目的性も意欲ももてない環境にある、それが「教育」なんだろうかという疑問を覚えますが、どうやら現代の「学校」はその程度に軽い場になってしまったようです。ついでに気になることですが、いまもって多くの学生諸君が「教科書」という言葉をしきりに使います。大学の「講義計画」などにもそう記されてるので、やむを得ないことでもありますが、私はそれにはひっかかります。大学の「学問」には、特定の「教科書」なんてない、自分が必要である、役立つと思う書物や資料はすべて「教科書」だ、と言いたくなります。なぜなら、「教科書」というのは、「正しいこと」が書いてあって、それを「憶える」、あるいはそこから「試験に出る」というニュアンスで与えられている呼び名に聞こえるからです(だから、「教科書持ち込み可」と予告された試験の科目は、「楽勝」などというとんでもない「誤解」が、いまもって蔓延しているのです。逆ですよ、そうした材料を短時間で駆使して、適切なこたえを書くなんていうのは、実にむずかしいことなのです)。
 それから、私の「研究室」を訪れた学生諸君は10人が10人とも、必ずこう言います。「ずいぶんたくさんの本ですねェ」「先生はこれを全部読んだんですか?」やたら本やら資料やらをため込み、整理もつかなくなっているサマは、みっともない性ですし、「カッコつけ」の趣も大いに否定できないのが実態ですが、必ずこうこたえねばなりません。「そりゃあとても全部なんて読めないよ。でもね、何でこんなに積んであるかと言えば、これはボクの商売道具であり、ボクの頭脳の一部でもあるからさ。そこに必要な知識が集まっているから、置いておかなくてはならないんだよ」、と。


 こうした事態は、「学ぶ」ことの意義が全く見失われ、人生の階段をのぼるための手段になってしまった、したがって、最小の努力で最大の効用を得るための「限界苦痛」になってしまった、奇妙な社会の現実から生まれていると言わねばなりません。それはまた別に詳しく取り上げるとしても、いまは少なくとも、なぜ「読み、書き、話す」ことが重要なのかを、今一度問わねばなりません。


 「読む」とは、言語をもって表現された知識や考え方、主張を、文字を通じて理解できることです。表現の手段も多様化・高度化されている現代の社会にあっては、「文章」や「書物」だけが表現の手段ではもちろんありません。映像、映画、音声、さまざまな表現と伝達の方法があり、いまの世の中、そうしたさまざまなものを使って、「読める」能力も重要になってきています。コミックなどもその代表格です(私は「マンガがいけない」なんてまったく思っていません。大いに読むべし、でしょう。でも、「マンガしか読まない」大学生って何だろ、と申しているのです)。また、身ぶりや服装などをはじめ、言語以外の表現と伝達手段、それもまた人類の歴史とともに古くからあることも事実です。「学問」もそうした手段をもっと積極的に利用することが、研究方法としても表現手段としても必要です。
 それでもやはり、人間の思考と表現のすべての基礎は、私たちの頭脳の内でも外でも、言語を通じた方法にあるのです。そして少なくとも、これまでの「学問」の蓄積は、言語表現によって記録され、継承されてきたのですから、「読む」能力を欠いては学問の第一歩は記せません。そして、「読む」とは、文章に書いてあることが「読める」だけでなく、その表現するところを自分の頭の中で再現再構成できる、想像力をもてることも意味します。また、「読む」のは日頃やっていないと苦痛になることがあっても、それと裏腹に習慣的なものでもあります。いつもやっていれば苦痛でも何でもなく、新しい発見の楽しみにもなるのです。「読む」ことは、人間のもっている壮大な営みと、思考の積み重ねと、さまざまな文化の表現を味わい、それを縦横に利用するための、必要不可欠な方法なのです。


 「書く」とは、今度は自分の持っている知識や考え方を、言語で表現し、ひとに理解させることです。「読んでいる」だけでは受け身ですが、他人の説明や主張に対しては、自分なりの考え方などを示していきたくなるものです。表現することで、過去の先人たちの数々の蓄積を、自分自身のものにすることができるのです。
 これもまた、いまはさまざまな手段があるのですが、やはり文字言語を通じた表現が、「学問」においては基礎になります。ただしこれは、「受け身」ではない以上、かなり高度な頭脳の作用を必要とすることは間違いありません。自分で表現の方法を工夫し、誤りなくつづっていかなくてはならないからです。文字や文法上の間違いもからんできます。でも、そうした能力は、よく「読む」ことによっておのずと向上してきます。言語表現は模倣と反復から広まるからです。別に美文や名文でなくていい、ともかく自分から能動的に表現しようとする姿勢をもつことが大切です。


 「話す」は、「対話する」でもあり、人間の日常的な営みのなかで交わされている当然のコミュニケーションですが、また、より高度な表現のあり方でもあります。「読む」「書く」はきわめて重要であっても、その間に大きな時間差を含んだ、なかば一方通行的な関係にとどまっています。「話す」ということは、自分がどれだけほんとうに理解してるかを問われることになるのです。「読む」「書く」ことで自分の頭脳が発達し、知的作用が高まりますが、リアルタイムのインタラクティヴな緊張関係の中で、そのときどき、自分の言葉で、また自分の口で、自分の考え方を直接「話す」ことが、知的能力の発達のうえで決定的です。ぶっちゃけて言いますと、「教師」のかくれた特権は、自分で学生諸君に話しをするなかで、自分の理解が数段すすみ、自分の考え方が大きく進歩するのに気づくというところにあります。授業料を頂いて、自分が「勉強」できるんじゃ、申し訳ない限りと、いつも思うくらいです。
 よく「話す」こと、それにはまず、相手の主張を理解できること、それに対する自分なりの意見、対立点をぶつけ、それを説得力をもって相手に主張できることが必要です。「学問」は、そうした「対話」と「論争」あってこそ、進歩をとげることができました。私たちもさまざま「対話」をしてこそ、自分自身の考え方も進歩するものです。いま、世の中で「ディベート」などがもてはやされるのは、今さらであって、あまりにも当然過ぎることなのです。


 こんな「読み、書き、話す」ことの重要性は、いまにはじまったことではありません。あらゆる教育の原点は、「リタラシーとニューメラシー」(literacy & numeracy)だ、ということがよく言われます。日本で言えば、「読み書きそろばん」です。まあ、「そろばん」の今日の意味はちょっと別としても(いまも「計算能力」は必要ですが、加えて、「メディアリタラシー」や「情報リタラシー」も求められていると言えましょうか)、「リタラシー」の形成を欠いた教育なんていうのは、古今東西を問わず、あり得ないことなのですし、社会もそれを必要とし、期待してきたのです。


 ですから、大学生にもなった人たちに今さら、という観がするのももっともなことなのですが、残念ながら、「世界の笑いもの」と化しているニッポンの「大学」では、この辺がきわめて怪しいのが否定できない現実なのです。もちろん、「エイゴ」でそれをやれなんて、無茶なことをいきなり言っているのではありません。「母国語」としての「日本語」で、です。それさえもが相当に怪しいくらい、この国の学校教育は惨状を呈しているのです。
 もちろん、他のどの国に比べてもひけを取らない「リタラシー&ニューメラシー」を全国民に広く行き渡らせてきているという、これまでの学校教育の役割は一面の事実ですが(私の聞いたところでは、英国ではこの「リタラシー&ニューメラシー」が怪しいひとは、一説に全人口の1/3くらいいるのでは、とか)、それは「字が読めない、書けない」や「九九の暗算ができない」といったレベルを十分クリアーしているという話しであって、それ以上のところがかなり危うい、というところが問題なのです。


 まして、「大学卒」という、難関の「入試」を突破し、高等教育の最高点を究めてきたはずのひとが、日常の件は別として、ちょっと小難しいことになると、きちんと本を読めない、文章表現ができない、討論や対話ができない、ということは、ほかのどこの国でもまず考えられません。欧米の多くの国では、ちょっと過剰なくらいに、自己主張、自己表現を重視し、学校教育でも小学校レベルから、文を書くことや、発表、討論をすることを中心にした教育をすすめてきています。
 ニッポンの学校では全く対照的に、おとなしいこと、黙って覚え、テストでマルバツをつけることが「教育」の中心にされてきました。その傾向がますます強まっています。そして、「受験勉強」のおかげで、みんな「勉強」にウンザリしきっています。決められたことを決められたように覚え、答える、その果てしない繰り返しのような「勉強」のどこに、楽しみや発見があるというのでしょうか?大学へは入れたらそれはもうさっさと「卒業」だよ、と。

 昔のように、大学を出たくらいだから、別に学生時代「勉強」はしていなくても、遊んでいても、社会に出ればしゃきっとして、やるべきことをやるだろうなどとも言えなくなってきています。なにせへたをすれば四年間、なにも読まず書かず、そして「お楽しみ」と「誘惑」はいたるところに転がっています。そうして育てられ、過ごしてきた諸君に、大学が、あるいは社会がいきなり、「もっと読め」「文を書け」「討論をしろ」、はたまた「学問に正解はない」「自分の頭で考えろ」などと求めても、面食らうばかりなのはもっともなことでもあります。


 ですが、いわゆる「国際化」のもと、日本の大卒者だけはちょっと違うんですよなどとは言っていられません。「大学を出たというのに、そんなことも知らないのか」、「なにも表現できないのか」、「討論に加われず、ひたすら黙っているのか」と見られ、馬鹿にされるばかりになるのは目に見えています。私たちはそういう教育は受けていないんですとか、日本の社会ではこれでも通って、立派にやってこられたんです(それ自体、大きな議論の焦点になるのですが)といった言い訳だけではすぐに行きづまります。「国際公準化」(global standard)という言葉は、ここでも例外ではありません。「世界にも通用するニッポンの大学」でなくては、大学の今日の使命は果たせません。「マンガとスポ新しか読まない大学生」、「自分の言葉でしゃべれない大学生」、「車とファッションと競馬の話ししかしない大学生」、「討論のあいだじゅう下を向いている大学生」はもう願い下げにしたいものです。


 そのニッポンの社会でも、しょせん就職活動にしたって、「自己PR」とか、「志望理由」とか、「作文」とか、「ディスカッション形式」とかと、ヤッパうるさいことになってきました。頭の中は空っぽでも、ひたすら「頑張ります!」と言えれば可、とはなりません。勉強しなくちゃなりません(「勉強しません、ニッポンのがくせー」と歌ってもいられないのです)。


 そんな現実がわかってきたからこそ、近頃「改革」の一環として、「導入教育」に走る大学が続々現れています。別に私が10年前から言ってきたからではないでしょうが、このままじゃエラいことだ、就職も大変だと、なりふり構わず、「読み」「書き」「討論」といったことを基礎からたたき込む教育をやろうというのです。さんざん言われてきた、「受験勉強の弊害」は、とうとうそこまで及んできたのです。本をどう読むか、文章をどのように書くか、発表はどうやるか、討論にどのように加わるか、こんなことを一年次の必修で全学生に一からやらせる、そんな大学がどんどん増えています。

 こうした「導入教育」の効果については、いくらか疑問もあります。無理やり首に縄つけてやらせるようなやり方を、大学生にもなるひとたちに強いても、どれだけ効果があがるかわからないからです。むしろ大学の本来のしくみと使命からして、回り道のようでも、「学問」そのものへ近づいていくなかで、実践を積み重ねていくしかないようにも思えます。でも、とるべき方法はともかくとしても、事態はそこまで厳しいのだと、大学関係者はもとより、社会全体が考えるべきところに来ていると言うことはできましょう。
 だからこそ、「読み、書き、話す」力を確実に鍛え、「私は大学を出たんですよ」と誇れるような諸君を世に送ることの重要さを、いま、真剣に実感し、そのためにあらゆる努力をしていくことが、「大学教師」の最低限の責務ではないでしょうか。


 「読み」「書き」「話す」ことの重要性を、もう一度見直そう。



  ○私の畏友であり、後輩でもある、麗澤大学のS君、齢は10年も若いので、私なんかからは、学生時代そのままにも見えるのですが、どうして真剣に学問と教育にとり組み、その思いを、webページ上で語っています。学生諸君と真っ正面からぶつかり合っての「ホンネ」と、悩みが素直に語られています。ぜひ、彼のページにも立ち寄ってみて下さい。



  ○次の第二章は、「『ご愛敬』と、なんでも『学問』」です。
それから、「こども文化とおとなの社会」、「自分を知るということ」、「財界人のホンネとたてまえ」、「働くこと、遊ぶこと、暮らすこと、学ぶこと」など、順次取り上げて参ります。

 なお、この「働く」「遊ぶ」「学ぶ」ということの間のつながりについて、経済同友会が「学働遊合」なる言葉を言いはじめたようです。そこに気づくのは当然なのです(なぜか「暮らす」は落ちている)が、「これは一年以上前から私が言っていたんだぞ」と、主張したくなります。





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