July 2000
 
プレゼンテーションのために

(再訂)

 
駒澤大学経済学部三井ゼミナール(共通)
 
 

 
 合宿などでの「発表」は、もちろん「形式」や「アリバイづくり」のためのものではありません。また、「決意表明」(「私はこれから、こうしたことを調べていきたいと思います。以上終わり」)の場でもありません。

 自分なりに調べ、考えてきたことを、自分の口から他の諸君に対して発表し、理解をえるようつとめること、これが大事なのです。だからまた、そこまでの準備の過程がとても重要です。加えて、発表の方法の工夫も見落とせないところです。これは普段のゼミなどの場も同じことですし、社会へ出てさまざまな機会に接するについても、欠かせない重要なスキルの一つです。

 今日、一般の企業や官公庁などでも、会議を開いたり、ひとを招いて発表や説明を行ったりするのはごく当たり前の日常業務です。そうした場では、「ディベートやプレゼンテーションの能力」が当然問われます。だいじなことを、要領よく、わかりやすく示し、自分の主張や説明を納得してもらう、これがなによりも必要です。まして、「国際化」「情報化」の時代にあっては、小さいときから自己主張と討論の訓練をへてきた多くの人々を相手に、さまざまな情報ツールを駆使して対等にわたり合い、納得と理解を得ていってもらわなくてはなりません。世界中でただ一つだけ、自分で考えない、主張しない、与えられたことを憶えるだけという奇怪な学校「教育」を行ってきているニッポンでは、これは容易なことではないのも事実ですが、それに満足していては、これからの時代は生き抜けないのです。

 
 
「発表」のための「準備」は、自分の足で稼いだ「調査」

 大学は、「学問」をするところです。ニッポンの小・中・高校では、決まった「教科書」を憶えたり、与えられた教材を読んだりすること、そしてそれで正解をえることが「勉強」と思われていました。そんなことはもうとっくに卒業です。大学の「学問」には、「検定済み教科書」も「正解」もありません。自分で考え、自分で調ベ、自分でまとめ、述べることがすベてです。その結果が正しいかどうかは、皆で議論をし、主張を交わしあい、筋道を通し、最後には大人たる自分自身が、事実と論理に照らし、どう判断するかにかかっているのであり、そして「現実」がやがてその正しさを立証してくれるかどうかなのです。

 
 ですから、「これを読んだらこたえが書いてある」ものなど、誰もくれません。そんなわかりきったものなど、「学問」として取り上げる値打ちもありません。何を「問題」とするのか、そして何を、どこで、どのように調べたら、自分の課題・問いかけにかんする事実やデータ、見解、主張などが発見・利用できるのか、それを工夫し、自分の手でたどっていくこと自体が「学問」なのです。つまり「自分の足で稼ぐ」ことこそ、一番大切な中身そのものなのであり、誰にもまねのできないものです。もちろん、そうして集めたさまざまなものを、どのように理解し、自分なりの「論理」(筋道)に再構成するかが次の課題ですが、それはある意味では、やりようの問題です。経験の蓄積にもかかっています。

 
 このように、自分の「足で稼ぐ」作業は、広い意味での「調査」(リサーチ)です。その対象や利用方法も当然さまざまあるのですし、実際に人を相手に「アンケート調査」などやってみるのも、生のオリジナルなものとして、大いに意味があるのですが、なかなか大変です。既に行われた調査や研究の成果、報告書などを利用すること、統計数値などにあたり、自分で計算分析してみること、あるいは新聞や雑誌などの「記事」として取りあげられたものを集めてみること、さらに関連する著作や論文にあたって、既に整理され、説明されている点や、さまざまな見解を知ること、これらもみんな立派な「調査」作業です。

 
 「調査」に利用する場は、これまた実にさまざまあります。図書館には、主な統計資料や官庁の『白書』、著名な著作の文献や主な雑誌、専門分野の学術雑誌などが揃えられていますが、残念ながら、この情報化の時代に大学の図書館だけですベての用が足りるというわけにはいきません。大事ななのは、まず、自分の必要としている情報の所在を知ることです。「ニューメディア」に飛躍しなくても、図書館などにある『雑誌記事索引』や、新聞の縮刷版、『産業情報総覧』などの類がすぐ役に立ちます。それから、東京の大学にいるという特権を最大限生かして、都内にほとんど集まっている、主な官公庁、調査研究機関、業界団体、専門資料室、マスコミ・ジャーナリズム関係企業、諸外国駐日機関などを大いに利用しまくることです。遠慮はいりません。こうしたところは皆、積極的に「学問」したい諸君の来訪利用を、大いに期待しています。官公庁は国民の「知る権利」にこたえ、情報を提供するのが仕事です。

 そうしたところの所在や利用法、またどんな情報に強いかなど、経験をしてみて頭に入れれば、一生使える、貴重な自分だけのスキルであり知的財産になります。一カ所を訪れて利用すれば、ほかのところの使い方も見当がついてきます。ただし、それぞれ責任ある仕事をしているのですから、突然「アポなし突撃」したり、いい加減な気持ちで訪れ、邪魔をしたり、勝手ばかり言ったり、こちらが何も勉強をしていなくて、ただ「何か教えてくれ」などと、小学生のようなことを言ったりすることはないよう、社会人としての仁義は守らなければなりません。

 
 集めた資料などは、そのときどきに、出所、タイトル、調査や発行の年次、執筆者名などをきちんと書き込み、整理しておくことが大切です。出所・作者不明の「資料」は、価値はゼロです。それを後回しにしていると、必ずわからなくなってしまいます。これは文献や雑誌、新聞記事などの資料をコピーしたりする際も同じです。「その場で書き込んでおく」、これが原則です。

 
 
「ハウツーもの」の限界

 「情報化の時代」は、いろいろ便利なものです。オリジナルの資料や統計数値などにあたらなくても、いろいろ駆け回ったり深く考えたりしなくても、手っ取り早い「早わかり」「ハウツーもの」が書店には多数並んでいます。派手な表紙、人目を引く題名やキャッチフレーズ、大きな文字や簡単な図式の満載が特徴です。

 こういったものの隆盛は、就職活動に頭を悩ませる学生諸君、めまぐるしく動く社会や最新の情報に振り回されるサラリーマンなどのニーズにこたえるものであることは否定できません。「業界動向」、「新技術新市場」、「新しい経営テクニック」などを簡単に知ることができる、身につけられるという期待あればこそです。

 
 そうしたものは確かに、まじめに研究に取り組もうとする学生諸君にも役に立つことは否定できません。さてこの課題に取り組もうと思ったが、なにも予備知識がない、なにを調べたらいいのかわからない、そうしたときに、手頃な「入門」「手ほどき」として利用可能です。でも、やはりまた「その限り」ものでしかありません。これらのものは、一面的な見方やうわっつらだけの理解、あるいはまたその時々の流行を追っているだけで、ちょっと時間がたつと180度見方がひっくり返ってしまったり、というような傾向が少なからずあります。基本的なデータや資料の使い方や分析のしかたが間違っていることさえ珍しくありません。いわゆる「孫引き」が多いことも通常です。

 
 こうしたものに満足したり、慣れてしまうようでは、ほんものの研究にはほど遠いことになります。それに、誰もがこの手のハウツーもので知っているようなことくらいでは、自分なりの研究や見解にはならないのは当たり前です。時にはこういった出版物などがスポンサー付きで、特定の企業などの自己宣伝用のものであることさえあるのです。そういったものばかりあてにしていては、恥をかくことにさえなりかねません。


 
「インターネット」の使い方

 インターネットという、世界中から無数の情報が日々提供され、これに自由にアクセスができる、大変便利なものが20世紀最後の時代の科学技術のすばらしい成果となりました。現在そこには、主な官公庁、諸団体、研究機関、大学、マスコミ、大企業などがほとんどサイトを開いており、統計データや新聞発表、報告書や白書のサマリー、新製品情報、最新ニュースなどを提供しています。居ながらにして世界中のこうした情報が利用できるのですから、こんなありがたいことはありません。

 もちろん、そこにどんな情報があるのか、自分の求めるものがどこにあるのか、これを探し出すこと自体が、一つのノーハウになってきています。Yahoo、LYCOSなどの「サーチエンジン」によって、キーワードでの検索ができますが、それでも実際にアクセスしてみないと、自分の求めているものであるのかどうかわからないことが多いものです。そういった経験を蓄え、これまた自分なりのスキルと知識を身につけることも大切です。

 
 また、インターネットで入手できる情報は、出所さえはっきりしていればそれなりに信頼度の高い、利用価値のあるものですが、ネット上には垣根も監視の目もないので、かなり危ないガセネタや、意図的な嘘、中傷、単なるうわさ話などが流れていることも気をつけなくてはいけません。

 さらに、あらゆる情報がインターネット上で入手できる、と過信するのも禁物です。ネット上に公開するかどうかは情報発信元の選択でしかありませんから、当然そこには公開されていない情報は多々あります。もちろんまた、みんなが知っている情報はやはり価値が落ちます。今日の情報化はデジタル化技術の発達の成果なので、それに載せやすい、定型化された情報、絞り込まれた情報には強いのですが、そこからはみ出してしまう情報はかえって見えにくいのです。さらに、インターネットは双方向のコミュニケーションを可能にしていますが、それでも、たとえば関係者に直接会って話を聞く、インタビューするというような場合のような緻密なやりとりは困難です。

 
 ですから、インターネットもあくまで、自分の「足で稼ぐ」うちの手段の一つと割り切り、それなりの活用方法を工夫していくべきでしょう。たとえば、ともかく情報の所在源やその特徴、所在地を知り、自分からコンタクトし、足を運ぶための糸口、情報インデックスの一つと考えていくとかです。

 
 
自分の「問い」に自分で「こたえ」を出すこと、自分のアタマでまとめあげること、それが「発表」の「なかみ」

 文章で書いた「論文」であっても、口頭での「発表」であっても、基本は同じことです。「これはどうしてなのか?」「どうなっているのか?」と自問し、それにさまざまな材料・資料や論理を駆使して、「こたえ」を導くことです。「調査」で、いくらいい素材・ネタを集めても、料理の仕方・包丁の切れ味が悪いと、材料が死んでしまいます。要は筋道が通っていること、ちゃんとこたえが出てくることです。むやみやたらに「資料」を並べても、消化不良に陥ってはもったいないことです。また、まるで矛盾する事実や主張が、断りもなく並んでいたのでは、聞き手を混乱させるばかりです。

 
 文章同様、「起・承・転・結」の流れが必要です。その筋道を、自分のアタマで考え、まとめることこそが、「学問」の神髄です。それはひとの「発表」を聞いていると、自分でよくわかってくるものです。

 
 自分の知識と「学問的思考力」をフル動員しても、なかなかうまく結論を出せない、判断がつかない、そうしたことはありがちです。そこでバンザイしてしまうことはありません。先学の人々の見解や主張、理論を利用したってよいのです。ただ、それが「盗作」や、「盗用」では困ります。きちんと「製造元」(出典)を明示し、自分の立場(「こうした点については、〇〇氏の解釈を用いれば、こうした結論になると言える。自分もそれに賛成である」、と)を明らかにすればいいのです。そのためには当然、それだけ「勉強」しておくことが必要です。

 なお、「丸写し」でなくても、他人の調べた事実やデータ、主張、見解などをそしらぬ顔で「下敷き利用」し、自分のオリジナルであるかのように見せるのも、「盗用」です。よく、自分の文のおしまいに「参考文献」としてあげたからいいじゃないか、などと言い張るひともいますが、これもアウト、なににもとづいたのか、そのつどきちんと出所、典拠を示さなくてはなりません。またそうでないと、根拠怪しいしろもの、でっち上げじゃないかというあらぬ疑いをかけられても、自分の証拠をあげることができなくなります。

 
 
「発表」には、説得力をつけるためのテクニックと「近代兵器」を動員のこと

せっかくよい題材に、よい材料を集め、うまくまとめあげ、鋭い結論を出しているとしても、「発表」の仕方が悪いと、すべてがムダになります。ひとにわかるよう、説得力を示すよう、プレゼンテーションの仕方を工夫するのは、今日の時代に不可欠の能力です。しかも、限られた時問内で効率よく、というのも重要です。だいたい、長時間だらだらやれば、聞いている方はいい加減あきてきて、説得力は急低下するものです。

 
 そのためには、もちろん、しゃべり方も大切なテクニックです。ノートの棒読みなど論外、重要なところにはメリハリをつけ、時には聞き手と対話など織り込んで、関心を引きつけ、ジョークなどで気分を和らげたりなどしながら、わかりやすく説明をしていくことが必要です。また、だらだら進んでいくのではなく、できる限り、「箇条書き」方式に整理し、ポイントが見えてくるようにするのが大切です。文を読ませるのと違い、一瞬にして消えてしまうスピーチの言葉を通じて、むずかしいことを説くには、こうした方法を用いなければなりません。さらに、区切りよく「まとめ」を行って、それまでの説明の要点をもう一度おさらいしたりすることもよいでしょう。

 ただしゃべっているだけでは、説明の限界があるのは自明です。数字の類など、口で言ってもまったくわかりません。ですから説明の内容も含めて、「発表資料」や「要旨」を作成し、印刷・配布するのは、一番やりやすいプレゼンテーションツールです。そこに、全体の概要や目次構成、また特には数字やグラフ、ポイント項目、図式など載せておくのが親切でしょう。

 
 それだけでなく、プレゼンテーションの効率化やインパクト強化のため、さまざまな近代兵器が利用されるようになってきています。特に、「目で見てわかる」ビジュアルなツールが有効です。ビデオ、スライド、OHP(オーバーへッドプロジェクタ)などが代表格です。これらを用いて、グラフや図、項目を大きく映し出し、それを指して説明を行ったりするのは、わかりやすいやり方です。また「現場」の状況や実験結果の写真などは、スライドやビデオで映し出すしか示しようがありません。

 昔は、そうしたものを大きな紙に、一つ一つ手で書いていったり、高価な映画フィルムを使ったりなどという苦労もありました。今はビジュアルツールが誰にでも簡単に利用できます。OHPシートはその代表格です。OHPシートはコピー機やレーザページプリンタ、インクジェットプリンタ、さらに手書きでも簡単に作れます(それぞれ違うシートを用いますが)。

 
 さらにちかごろは、PCの利用、とりわけMicrosoft 社の開発したビジュアルデモンストレーション用ソフトのPower Point が頻繁に用いられるようになりました。これですと、OHPで画面に示すキーワードや図式、グラフやイラストなどを簡単に、きわめてきれいに作成できるうえ、写真や図なども交えて、「スライドショー」形式で、連続プレゼンテーションができます。また、これを事前に作成し、データファイルにしておけば、自動展示や他の人の操作での展示もできます。もちろん、会場設備にPC(それはモーバイル型のノートPCなどを持ち込んでもいいのですが)やPCプロジェクタ、スクリーンなどの設備が必要ですが、いまでは、世界の主な会議等の発表では「Power Pointスタンダード」化してきているといっても過言ではありません。

Power Point でなくても、他のWPソフトや表計算ソフトの処理結果をPCから直接画像で写したり、これに適した他のファイル、Adobe社のつくったPDF形式や、インターネットのWEBページをつくるHTML形式などを作成し、写したりする方法も用いることができます。もちろん、音声データなどを添えたりすることも可能です。

 
 
プレゼンテーションを受けたら、今度は大いにディべートを闘わそう

 「発表」に対し、ほかの人たちは単に「お客さん」であってもつまりません。共同研究作業ならとりわけ、個々の発表に対して大いに議論をやらないと、あとでまとめられなくなります。「学問」にはじめから「正解」などないのですから、発表者の主張やまとめ方に対して、それぞれが疑問を持ったり、異なる意見を主張したりすることが当然におこるわけです。そこから「ディべート」(討論・闘論)が始まります。そしてそこから人間の「知恵」が進歩を遂げるのです。

 
 とりあえずは、発表それ自体に対する質疑・応答からおこるのが通常でしょう。ですから、聞き手の方もいつも耳をそばだて、(時にはあら探しをするつもりで)構えていなくてはなりません。発表者もいつでも、「議論」の当事者になる準備が必要です。

 
 「馴れあい」はダメです.自分の番の時に「逆襲」されるとまずいから、なるべく黙っていようなどというけちな根性では、「国際化」時代は生き抜けません。しかも「学問」成果の「発表」はもともと、簡単にこたえを押し売りするための手順ではありません。それを一つの出発点・手がかりとして、皆がさまざまな主張を持ち、大いにそれをぶつけ合ってこそ、初めて皆の見方考え方がそれぞれ進歩するものなのです。発表者はその火付け役、「場の」お膳立て係です。逆に、「沈黙」は「沈滞」「停滞」「衰退」への道です。

 
 もちろん、議論をするにもいろいろテクニックはあります。その第一歩はともかく、相手の言っていることを理解することです。よく理解する人間こそが、よく主張もできるものです。「違いのわかる」人間が、他の人たちに自分をうまく示せるのです。逆に、理解の足りないところでは、「議論」はすれ違って、何の進歩も生まれません。

 
 議論には交通整理をする人間も必要です。通常「司会役」「座長」などという人があらかじめ定められるものですが、そう肩ひじ張ったものでもなくても、そのつど、誰かが整理役をつとめてくれることが望まれます,それは、全体の流れをつかみ、論議の的となっている点を明らかにし、対立点を整理して、論争当事者以外の誰にでもわかるようにしてやり、あるいは論議が本筋から脱線していることを指摘し、当事者たちに本線に戻るよう示してやるといったことです。

 
 こうした手順をふまえ、よき調査・研究とよきプレゼンテーション、充実した討論を経ることができたとき、何かを「学問した」と言える、本当の充実感満足感が味わえるのです。これぞ学問の「王道」「醍醐味」です。





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