翌年訪れたネパールではスバースについてろくな話は聞かなかった。
ストリートにいた仲間に聞くと、スバースはみんなでプラスティックを集めて稼いだお金を持って夜中にどこかへ逃げていったとか、1か月前にタクシーに乗ろうとした外国人を数人で襲い、今は刑務所にいるとか・・・。 ビシュヌも1か月ほど前からスバースの姿を見ていないという。 かつてスバースが洗車をしていた広場は政府の整備事業の対象となり辺りに並んでいた土産物屋も多くが取り壊され、美観を守るため数カ月前には洗車の仕事も禁止されてしまった。 スバースを知る男が僕に言う。 「彼はチャンスを逃した。チャンスはそう来るものじゃない、君は彼に会ってももう助けないだろう」 僕にはよく判らないのだ。ただスバースが最後に漏らした一言が気に掛かっていた。「本当はダランまで一緒に来て戸籍の取得を助けて欲しかった・・・」 長く離れていた故郷の街、久しぶりの父との再会・・・ 彼の心の中はどのようなものだったのか、 僕はもっと配慮すべきではなかったのか・・・ 「僕はまず彼と話がしたい、彼の話を聞いて、それから考えるよ。」 その年、ついにスバースと会うことはなかった。彼はどのような道を歩んでいるのだろうか・・・。 彼と再会したのはそれから2年後、2005年のことだった。 スバースは男のためにマリファナをタバコに詰めているところだった。僕が来たことを誰かに聞き、久しぶりにパシュパティナートにやってきたのだ。 「元気にしていたかい、今はどうしているんだい?」 何であれ、会いに来てくれたことが僕にはうれしい。22歳になった彼の外見からは幼さが消え、一人前の男へと成長していた。彼には聞きたいことがたくさんある。しかしともかく彼の元気な顔を見てまずは安心した。 彼は今、長距離バスの車掌の仕事をしているという。夜は路上で眠り、バスパークで朝早くにその日乗るバスを決めネパール各地へとゆく。しかし月600ルピーにしかならず生活は厳しいらしい。ただ食事は出してもらえるため、その点は心配ないという。 そんな話をしていると男が免許や戸籍の話を持ち出してくる。スバースはすでに男から、僕にお金を出してもらって戸籍や免許を取ればいいという話をたっぷりと吹き込まれていることだろう。しかしこの話はあとでゆっくりと話してみたい。彼が今までどのような道を歩んできたのか、僕にはまず知る必要があった。 男と別れた後、僕たちはパシュパティナートの火葬を見下ろす丘へと行き、ベンチに腰かけた。 スバースは免許を取ってタクシードライバーとして働きたい、そのために昔のようにもう一度戸籍を取りにダランへ行きたいという。僕がお金を出し、一緒にダランまで付いて来て欲しいという。 「僕はいくつかスバースに聞いておきたいことがあるんだ。いいかい?」 スバースは黙って頷くと、じっと次の言葉を待っている。 「何故、前のときはダランに戻らず、マリファナを買ってきたんだい?」 すこし顔をしかめるとスバースは言った。 「それは違う、ちゃんとダランへ行ったんだ。叔父さんに会って戸籍申請の書類を作ってもらうよう頼んだけどお金を出さないとダメだって断られたんだ。それで仕方なくそのまま帰ってきた。そうしたらみんなは戸籍がないからきっとダランへ行かなかったんだって決めつけてそんな話を作ったんだ。」 「じゃあ、外国人を襲って警察に捕まったって聞いたけど、それはどうなんだい?」 「それも違うよ。この辺りでそんな事件があって、僕のような戸籍のない路上で暮らす人間は警察が一番に疑って捕まえるから危険だと思って姿をくらましたんだ。事件も犯人も僕は何も知らないよ。ただひどい目に遭わないように逃げただけだよ。」 「じゃあ、もうひとつ聞くね。友人からお金を取って姿を消したっていうのはどうなんだい?」 「それは僕が悪いわけじゃない、彼には貸しがあるんだ。彼はタクシーの仕事を始めていたけど、彼が免許を取る前、練習のためにドライバーと交渉してタクシーを借りたのは僕なんだ。それだけじゃなく色々世話をしてやったんだ。なのにウォークマンを貸してくれないからこっそり持ち出したんだ。お金じゃない。ただそれを壊してしまったからマズイと思って姿を消したんだ。」 「それなら彼に謝ったらどうだい?」 「ダメだよ。彼は怒っているだろうし危険だよ。本当はこの辺りにもあまり来たくはないんだ、敵が多いから。」 少し迷ったようなためらいの後、彼はこう話した。 「実はあの後もう一度ダランへ行ったんだ。そして叔父さんに500ルピー渡して戸籍を作ってもらうよう頼んだんだけど、すべて叔父さんの酒代に消えておしまいだった。でももう一度、今度は3000ルピーくらい持っていけば叔父さんに戸籍を作ってもらえると思うんだ。それで戸籍ができれば免許を取って仕事もできるんだ。」 彼の話を信じていいのだろうか? 彼とともにダランへ行くのは? 僕は彼の戸籍作りを支援すべきだろうか? 話している間、僕の心はずっと揺れ動き迷っていたけれど、やがてひとつの方向に収束してゆくのを感じた。彼を信じよう。彼の持つ力を信じよう。 「よく分かったよ。でも僕はお金を出さない。君はもう充分成長した大人だ。自分の力で問題を解決できるはずだよ。」 スバースはじっと黙り込んだ。彼の心の中でどのようなことが起こっているのか、僕はスバースの力を信じて彼の言葉を待った。 「分かった。明日、ダランへ行くよ。」スバースは決心したように言う。 「それじゃ駄目だよ。いいかい、スバース。君は2度ダランへ行って失敗している。今、また同じことを繰り返しても失敗するだけだよ。カトマンズにも戸籍を取るための事務所はあるから、そんなところで必要な情報を聞いて書類の書き方なんかも知っておくほうがいい。実際はたいしてお金も必要じゃないはずだよ。それに叔父さんは信用できるのか他の人にも相談したほうがいい。そうしてどうしても必要なら充分なお金も用意しないといけない。君は2度の失敗から学ぶことができるんだ。よく考えて行動しないといけないよ。」 彼は果たしてどれだけ理解しただろう。僕は決して彼を否定したつもりはない。ただ一人前の人間として彼の甘えを突き放した。彼はそれをどう受け止めただろうか。 「でも、お金を出して一緒に来てもらえれば一番いいんだけれど・・・」 ボソリという彼の気持ちも分からなくはない。彼にとって戸籍を取るのは簡単なことではない。しかし今日彼と話して、彼はそれをするだけの力を持っている、そう僕は感じた。 「今日、スバースと会って良かった。あの時、スバースがちゃんとダランへ行ったことが分かって本当に嬉しかったよ。」 彼は笑顔を見せる。何かを汲み取ってくれたようだ。 太陽も低くなり徐々に気温も下がってきた。僕たちはベンチから立ち上がり、ゆっくりと丘を下った。 「今日も路上で眠るのかい、寒いだろう?」 「でも知り合いのタクシーの中で眠るよ。毛布がないから寒いけど外よりはましだからね。」 「風邪を引かないようにね。」 「うん、明日からまた仕事をするよ。」 「そうかい、頑張るんだよ。」 「じゃあ・・・」 彼が今どうしているか、僕には知るすべもない。 ただ別れ際に握った手にはしっかりと力が込められていた。 そしてその笑顔に僕は彼が自ら歩んでゆくことを選んだと感じた。 僕は彼を信じよう・・・、それが僕にできることだ。
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