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 1年ぶりのネパールだった。
スバース 「一昨日、ダランに会ったよ」
「ダランが君に会いたがっていたよ」
「ダランのことはみんな良く知っているよ」
かつて僕がストリートチルドレンに会っていた地域で知り合った友人たちは口々にそう話した。
しかし僕はそんな名前を聞くのは初めてだった。
「ダラン、それはダレ?」
まどろっこしそうにひとりの友人が僕の手を引きながら言う。
「ダランから来たダラン人だよ、だから彼はそう呼ばれている。彼に会いたければ案内してあげるよ」
ダランとはネパール南東部にある大きな街だが、僕は地図上でしかその地を知らない。
友人に引っ張られてやってきた土産物屋の並ぶパシュパティナートの門前、その一角の広場で大声を張り上げてタクシードライバーと楽しそうに話している青年、それが彼だった。
「ハロー、元気かい?スバースじゃないか!」
タクシーのドライバーと話していたスバースは僕に気付くと満面の笑顔で手を振ると、ゆっくりと歩いてくる。身長も伸び、体格も以前よりしっかりしている。それに何より明るく自信に満ちた表情、タクシードライバーと話していた時の堂々とした張りのある声!一体彼に何が起こったのだろう。その活き活きとした姿に僕は素直に嬉しくなった。
「How are you?」「Nice to meet you!」
スバースは彼の知る基本的な英語を使って挨拶する。握手する手にはしっかりと力が込められていた。
陽気な笑顔と張りのある声で、彼は僕を近くの寺院へと誘う。それは以前も子供たちの遊び場だった小さな森のなかのヒンズー教寺院だ。陽気な足取りで僕の前を寺院へと歩いてゆくスバースだが、なぜ会ってすぐその寺院へゆこうとするのか、僕にはその理由が判らなかった。5分ほどで寺院に着くと彼はまっすぐ祭壇の前へ行き、頭を垂れて目を閉じ神に祈りを捧げるのだった。3体の神像の前でそれぞれ祈りを捧げると彼はにっこりして近くの石段に腰かけた。 この辺りで遊ぶストリートチルドレンは何度となく見ていたが、神に祈る姿は一度も見たことがない。
彼に何かの変化が起こったのは間違いなさそうだ。

18歳になった彼にはひとつのチャンスが訪れていた。
パシュパティナートの門前の一角ではタクシーの洗車をする若者たちがいた。そのうちのひとりが半年ほど前に仕事を抜け、友人に誘われたスバースはバケツとブラシを借りてその仕事をすることにしたのだ。
洗車するスバース彼は朝早くから夕暮れまで、観光客を運んできたタクシーに声をかけては車を洗った。洗車の手間賃はドライバーとの交渉で一回ごとに決めるのだが、まだ若いスバースはドライバーにうまく丸め込まれて安い手間賃で車を洗っていた。しかしかれの仕事ぶりと冗談を交えた価格交渉にドライバーたちは少しずつ彼に運転を教えるようになっていった。
それとともにスバースにとって車の魅力は大きく膨らんでいき、洗車の時ほんの少し車を移動させたり車に触れられていること自体が彼にとって大きな喜び、生き甲斐になっていった。
そしていつしか、彼はひとつの夢を持つようになった。
「自分もいつかタクシードライバーになる!」
明るく無邪気な、それでいて充分に手の届く夢だった。少なくともそのときの僕にはそう思えた。 「少し待っていて!」そういうとスバースは寺院を走り出ていった。
友人たちが暖かく見守るように話していた「ダラン」とは活き活きとした夢を持つことのできたスバースのことだったのだ。僕はかつてのスバースとダランと呼ばれる今の彼の姿を重ねあわせて微笑んだ。
石段に腰かけて待っていると、彼はアイスクリームを3本持って戻ってきた。僕と友人に1本ずつ渡すと、満足した顔でアイスクリームを舐める。これも洗車で稼いだお金で買っってくれたものだと思うと「露店のアイスは衛生上非常に問題がある」というガイドブックの記述も余計なお節介のように感じられた。

それからはパシュパティナートへ行くたびに彼の姿を見かけた。彼は実にキビキビと働き、以前とまったく見違えていた。活き活きとしたその姿は自分の居場所を見つけたという感じだった。洗車する車を自在に動かし、僕も横に乗ってみたことがあるが実にうまく運転する。ただスピードを出したいという気持ちが強く、いつか事故に繋がらないか心配だ。僕に聞こえるように「免許が欲しいけどお金がない!」と明るく言うのも笑える。それは物乞いの態度とはまったく違うものだ。彼の働きぶりを見ていると僕は本当に嬉しくなってくるのだった。
洗車は彼にとって大人の社会で認められ、人々に受け入れられていることを実感できる仕事だった。ある時、夕暮れ時に仕事を終えたスバースが体を洗うために水場へ行くのに付き合ったことがある。そのとき、彼はこんな話をした。
洗車の仕事を始めた頃、人々は彼を指差してゴミ集めをしていた汚いやつだと陰で笑い者にしていた。そのことは彼も知っていて悔しい思いをしたけれど何も言い返すことができず、ただ一生懸命働いて仕事の後は必ず体を洗うことにした。そうしていつも体をきれいにして一生懸命働いていると次第に人々の陰口も消えていき、今では彼に後ろ指を指す人は誰もいなくなった。
そんな彼が夕闇の迫る川沿いの水場で体を洗う姿を見ていると、それはまるで自らの身体に染み付いたケガレを水とともに洗い流し、清めるための儀式を行っているように見えるのだった。
手を洗う 彼の暮らしもまた決して楽なものではなかった。洗車で手にするお金はプラスティックを集めていた頃よりも少なく、今は友人の部屋に転がり込んで一緒に暮らしているのだが毎日借りているバケツやブラシの代金を払って2度の食事をすると手もとにはほとんどお金は残らない。そんななかでやり繰りして最低限の服を買い、身なりも整えているのだ。
厳しい生活のなかで夢だけが彼を支え、彼に誇りを与えている。その誇りはあるとき友人の部屋の大家のクレームで部屋を追い出され、路上で眠ることになったときも失われなかった。
「路上で眠ることになっただけで、他は何も変わらないよ」
そうして彼は洗車をしながら運転技術を磨いていった。

ネパールにも当然、運転免許の制度がある。
免許を取得するために教習所もあるが、その料金はかなり高い。試験場で受験するならまだ安くて1000ルピーほどだが、試験はそう簡単なものではない。
運転などしたことのないある知人が地方の運転免許事務所で賄賂を使って5000ルピーで手にしたという免許証を見せてくれたことがある。5000ルピーというのはカトマンズの中流以上の人の月収に当たる金額だ。地方の人にとってはさらに価値のある金額だろう。
そしてスバースにはもうひとつ越えないといけないハードルがあった。ストリートチルドレンの多くがそうであるように、彼には戸籍がなかった。戸籍を取得するためには故郷の街へ帰り父母の証明を持って役所で手続きをする必要があった。そのためには帰郷の費用などで1000ルピー程度のお金が要る。
スバースの様子を見ていた僕は、あるとき彼にひとつの提案をした。もし僕が帰国するまでに彼が500ルピー作ることができれば、残りの500ルピーは僕が出すというものだ。スバースにはかなり高いハードルだが不可能なものではない。
彼は周囲の人間から、僕にお金をだしてもらって取ればいいといいた甘い話を散々吹き込まれていた。それは僕の耳に充分届いていた。僕の提案はそれからするとスバースにはかなり厳しいものに感じられただろう。僕の提案を聞いたスバースはじっと黙って考え込んでいたが、やがて
「分かった。500ルピーできたら会いに来る。それまでは会わない・・・」
そう自分に言い聞かすようにいった。
今の彼には高すぎるハードルかもしれない。でも、ともかくトライしてほしいと思う。その結果、無理であってもそれは構わない。彼の意志の力を出せるだけ出して頑張ってほしい。それが彼の自信へと繋がっていくことを僕は一番望んでいた。

3日後には広場で陽気に洗車をするスバースを見かけた。
「今日は30ルピー貯めたよ!」
「いいじゃないか、頑張るんだよ。」
彼は500ルピー作る気なのだ。僕は飽きずに洗車をするスバースの姿を眺めていた・・・。 僕の提案から1週間後には、もう2〜3日で500ルピーできると明るく話した。今までコツコツ貯めたお金が300ルピーあり、もう少し働けば500ルピーに届くという。彼はよくやっていると思う。その姿を見ていると僕は感心するし尊敬する。自分の力で夢を実現してほしいと強く思った。
さらに1週間が経ち再び彼に会ったとき、彼の顔からはそれまでの活き活きとした表情が消えていた。
「戸籍を取るのは無理だよ・・・」
沈んだ声だった。
一体どうしたのだ。彼の夢はどこかでポキンッと音を立てて折れてしまったようだった。
スバースはぽつりぽつりとその理由を話した。
彼はもう長く両親と会っておらず、両親がどこに住んでいるかも知らない。世話になった叔父夫婦は知っているけれど、それだけでは出自を証明できず戸籍は取れないと友人に言われたのだ。その友人自身が同じような理由で戸籍をあきらめた過去があるのだという。両親の証明が取れないとなると、既に18歳になっている彼が今から戸籍を取得するのは確かにかなり難しいことだろう。しかし僕は何か方法があるという気がしてならなかった。それでも答えの出ないまま、そのときはスバースと別れた。
その日の夕方、再びスバースに会った。彼は色々と考えたのだろう。叔父に電話して戸籍が取れるか相談してみるという。僕たちは近くの店の電話を借りてダランにいる彼の叔父の家に電話を入れた。
しかしその日、叔父は留守で5日後に再び電話することになった。僕の帰国の日も刻々と近付いている。果たして彼が戸籍を取るのを見届けることができるのだろうか。
そして5日後、その日もスバースは洗車に精を出していた。彼の仕事が一段落するのを待っていると、彼は露店のミルクティーを注文して持ってきてくれた。そのミルクティーを飲みながら彼の仕事ぶりを見ていると彼の誇りはしっかり回復しているのがよく分かった。
洗車の仕事が一段落した後、僕たちは再び彼の叔父に電話をかけた。電話に出たのは彼の叔母だった。叔母はその電話でスバースに思いがけないことを話した。彼の父は再婚して近くに住んでいるという。
「あなたはお父さんに会って戸籍を取得できるから、安心して帰って来なさい。」
スバースの目の前が開けた。これで彼の夢への第一歩を踏み出すことができる。
スバースは500ルピーには少し足りないが、それでも充分なお金を用意できていた。
彼はついに故郷の街へ行く時が来たのだ。
僕たちは近くのチケット売り場へ行き、ダランまでのバスのチケットを買った。店の人はスバースを知っており、事情を聞いて350ルピーのチケットを250ルピーに負けてくれた。
その様子を一緒に見ていたひとりのストリートチルドレンが、スバースばかりそんなにしてもらってずるいと甘えた調子でいう。
「じゃあ、タラは何が欲しい?」
その子にたずねると、彼は少し考えたあとで
「ミルクティーがいいな」
すっかり甘えた調子でいう。
「それじゃあ、みんなでミルクティーとサモサを食べようか」
この子は何もモノが欲しくてずるいと言ったわけではないのだ。スバースだけでなく自分たちも大切にされていることを確かめたかっただけなのだ。
その場に居合わせたゴーサラで暮らす7人のストリートチルドレンと一緒にサモサを食べ、僕たちはスバースの旅を祝福した。
子供たちと別れた後、僕はスバースに残りの250ルピーを手渡した。バスは明日の朝5時に出発する。あと数日で帰国する僕が彼と会うのはこれが最後だ。スバースがいう。
「今度ネパールに来た時にはネパール中どこへでもタクシーで案内するよ。もちろんタクシー代なんて要らないしさ。」
「戸籍が取れればあとは免許だね。しっかり働いて免許を取るんだよ。」
いつかそんな日が来ることを僕は心から願っていた。最後にスバースはこうポツリと言った。
「本当はダランまで一緒に来て戸籍の取得を助けて欲しかったんだけど・・・。」
スバースはどこか弱いところがある。僕は彼が最後にこぼしたその言葉だけが気掛かりだった。
スバースが旅立ったあと、僕は通訳のビシュヌに1000ルピー預けた。それは戸籍を取得して戻って来たスバースが3か月働いても免許の費用が出来ないかテストで不合格になったとき、彼に渡してもらうよう頼んだ。
僕は彼の努力を信じていたけれど、その大変さも分かっているつもりだった。
彼の努力が報われること・・・、それを少しでも応援したかった。

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日本に戻って1週間が過ぎ、ビシュヌからメールが届いた。
「スバースが帰ってきた。しかし彼はダランへは行かず途中で行き先を南部のナランガットに変えたようだ。彼はそこで大量のマリファナを買って帰ってきた。もう彼に1000ルピーを渡すことはできなくなった・・・」
スバースは一体どうしたのだ。何故・・・

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