橘為仲 たちばなのためなか 生年未詳〜応徳二(1085)

諸兄の裔。為義の孫。筑前守義通の子。母は信濃守挙直女。弟の資成も後拾遺集に歌を載せる歌人。
蔵人・陸奥守・左衛門権佐・太皇太后宮亮などを歴任し、正四位下に至る。
藤原範永らと共に和歌六人党の成員(『続古事談』)。後冷泉天皇皇后四条宮寛子や藤原頼通、橘俊綱のもとに出入りした。陸奥赴任の際は右大臣源師房から装束を賜わったという(『袋草紙』)。能因相模らに師事し、源経信良暹四条宮下野周防内侍ら多くの歌人と交友をもった。大弐三位との贈答歌もある。家集『橘為仲朝臣集』がある(以下「為仲集」と略)。後拾遺集初出。勅撰入集十二首。

見花日暮といふことを

桜花日ぐらし見つつけふもまた月まつ程になりにけるかな(玉葉162)

【通釈】桜の花を日が暮れるまで眺めて過ごし、今日もまた月の出が待ち遠しい頃になったなあ。

題しらず

あやなくもくもらぬ宵をいとふかな信夫(しのぶ)の里の秋の夜の月(新古385)

【通釈】我ながらおかしなことだ。雲ひとつない宵を厭うなんて。秋の夜、信夫の里の月を眺めながら…。

【語釈】◇あやなくも 「あやなし」は道理に外れた・不合理な。◇信夫の里 旧陸奥国信夫郡。いまの福島市あたり。信夫山がある。「しのぶ(忍ぶ・偲ぶ)」を掛けることが多い。歌枕紀行陸奥国参照。「忍ぶ(人目を避ける)」の意が掛かるゆえ、「曇らぬ宵を厭ふ」と言うのであろう。

【補記】作者は陸奥守に任官したことがあるので、その時の詠か。

みちのくにに侍りけるころ、八月十五夜に京を思ひ出でて、大宮の女房のもとにつかはしける

見し人もとふの浦風音せぬにつれなくすめる秋の夜の月(新古930)

【通釈】昔の恋人も便りをくれず、遥かな異郷で寂しい思いをしているのに、そんな私の気持など関知せぬふうに、澄んだ光を投げかける秋の夜の月だよ。

【語釈】◇見し人 詞書の「大宮の女房」(内裏仕えの女官)を指す。「見し」は、かつて親密な関係にあったことを言う。◇とふの浦風 三句「音せぬ」を導く序。「とふ(十符)の浦」は陸奥国の歌枕。所在不詳だが、後世、宮城県岩切村(現仙台市)の台屋敷の峡に比定された。「問ふ」(消息を尋ねる)を掛ける。◇つれなく澄める 「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。都からの便りがなく寂しい思いをしている作者に対して、煌々と照る月の光は思いやりがないように見える、ということ。また「見し人」のつれなさに対する訴えを暗に含んでいる。

月夜、高陽院殿にて人々夜の菊といふ題をよむに

月かげにみな白妙の心ちしてうつろふ色は明けてこそ見め(為仲集)

【通釈】月の光に照らされて、どの花も真っ白に見える。褪せた色は、夜が明けてから見ればよい。

【語釈】◇高陽院 賀陽院とも書く。二条城の東北にあたる。もと賀陽親王邸だった邸を、藤原頼通が治安元年(1027)に自邸として拡張した。その後、師実に受け継がれる。天皇の里内裏としても利用された。

越後より上りけるに、姨捨山(おばすてやま)のもとに月明(あか)かりければ

これやこの月見るたびに思ひやる姨捨山の麓なりける(後拾遺533)

【通釈】ああ、これがそうだったのか。月を見るたびに思いやっていた、姨捨山の麓に今いるのだ。

【語釈】◇姨捨山 信濃国更級の歌枕。今の冠着(かむりき)山という。月の名所。「我が心なぐさめかねつ更級や姨捨山にてる月をみて」(古今集読人不知)。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日