周防内侍 すおうのないし 生没年未詳(1037頃-1109以後) 本名:平仲子

父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲。母は加賀守従五位下源正軄の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人だという(後拾遺集勘物)。金葉集に歌を残す比叡山僧忠快は兄。
後冷泉天皇代に出仕を始め、治暦四年(1068)四月、天皇の崩御により退官したが、後三条天皇即位後、再出仕を請われた(後拾遺集雑一の詞書)。その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至る。天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく没したらしい。七十余歳か。
寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠。後拾遺集初出。勅撰入集三十六首。家集『周防内侍集』がある。女房三十六歌仙小倉百人一首に歌を採られている。

寛治八年さきのおほきおほいまうち君の高陽院の家の歌合に、桜をよめる

山桜惜しむ心のいくたびか散る()のもとに行きかへるらむ(千載81)

【通釈】散り始めていた花をあとにして、家路についた。山桜を惜しむ私の心は、いったい幾度、花を散らす木の下を行きつ戻りつするのだろうか。

【語釈】◇さきのおほきおほいまうち君 前太政大臣、藤原師実◇高陽院 賀陽院とも書く。藤原頼通から師実に受け継がれた邸。

【補記】寛治八年(1094)八月十九日、師実が自邸高陽院にて主催した晴儀歌合。「高陽院七番歌合」とも。掲出歌は三番左勝。

【校異】千載集の写本には、第五句を「ゆきかからなん」にするのもある(『周防内侍集』も同じく)。その場合、「ゆき」は雪と掛詞になり、「かかる」は雪の縁語になる。

【他出】高陽院七番歌合、周防内侍集、後葉集、袋草紙

寛治八年前太政大臣高陽院歌合に、郭公を

夜をかさね待ちかね山のほととぎす雲ゐのよそに一声ぞ聞く(新古205)

【通釈】何夜もつづけて待ち兼ねた、待兼山のほととぎすの声を、はるか雲の彼方にたった一声だけ聞いた。

【語釈】◇待ちかね山 現大阪府豊中市の小丘。歌枕紀行参照。

後三条院くらゐにつかせ給ひてのころ、五月雨ひまなく曇りくらして、六月一日またかきくらし雨のふり侍りければ、先帝の御事など思ひ出づることや侍りけん、よめる

さみだれにあらぬ今日さへはれせねば空も悲しきことや知るらむ(後拾遺562)

【通釈】もう六月になって五月雨の季節ではない今日でさえ、晴れないなんて。空も先帝の崩御という悲しいことを知っているのだろうか。

二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまた居明かして物語などし侍りけるに、内侍周防、寄り臥して「枕もがな」としのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ(千載964)

【通釈】春の夜の夢みたいな、一時ばかりの手枕のせいで、甲斐もなく立ってしまう浮き名、それが惜しいのですよ。

【語釈】◇二条院 道長から二条関白教通に伝えられた邸。但し周防内侍が仕えていた後冷泉天皇の中宮章子内親王は「二条院」の院号を宣下されているので、その御所とも考えられる。章子内親王が「二条院」の院号を宣下されたのは、延久六年(1074)。◇大納言忠家 藤原氏。1033〜1091。俊成の祖父にあたる。忠家が大納言に任命されたのは承暦四年(1080)。◇手枕(たまくら) 腕を枕にすること。共寝の際は手枕を交わすという慣わしがあったので、情交の象徴となるが、ここでは詞書に忠家が「是(これ)を枕に」と言ったことを受けての表現。◇かひなく 甲斐なく。「かひな」を隠す。

【補記】「枕」「立つ」は「夢」の縁語。
忠家の返しは、
 契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき
(大意:前世からの深い縁があってこの春の深夜に差し出した手枕なのに。それをどうして甲斐のない夢になさるのですか。)

【他出】周防内侍集、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合、女房三十六人歌合

【主な派生歌】
こぞもさぞただうたた寝の手枕にはかなくかへる春の夜の夢(藤原定家)
たがかたによるのまくらの雁のこゑ名残も春の夢ばかりなる(三条西実隆)
見果つるを思へばあやし春の夜の夢ばかりなる夢の枕に(中院通村)
春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状(恂{邦雄)

郁芳門院の根合(ねあはせ)に、恋の心をよめる

恋ひわびてながむる空の浮雲やわが下もえのけぶりなるらむ(金葉435)

【通釈】恋の辛さに耐えかねて空を眺めると、浮雲がひとひら漂ってゆく。あれは、人知れず恋に身を焦がす私から出た煙なのかしら。

【語釈】◇郁芳門院 1076-1096。白河天皇第一皇女。伊勢斎宮退下後、堀河天皇の准母となり、皇后と称された。◇根合 寛治七年(1093)五月、郁芳門院が六条院で主催した根合。「根合」とは、菖蒲の根の長さと、それに添えた歌を競い合った遊戯。◇浮雲 煙は上空にのぼって雲になると考えられた。◇下もえ 心中ひそかに恋の炎を燃やすこと。

【補記】この歌は発表当時から秀歌と評判が高かったが、下句が不吉な表現であったため、歌合の主催者郁芳門院は三年後に亡くなったという(俊頼髄脳・袋草紙)。作者の周防内侍も間もなく亡くなったと伝えるが、大江匡房の『江帥集』によれば、周防内侍は天仁二年(1109)頃まで生きていたはずで、この伝承は疑わしい。

心かはりたる人のもとにつかはしける

契りしにあらぬつらさも逢ふことのなきにはえこそ恨みざりけれ(後拾遺785)

【通釈】あなたとはねんごろに契り合った仲なのに――こんなつらい目をみるとは、約束違いだ。しかし、逢うこともできないのでは、恨み言を言うことさえできないのだった。

家を人に放ちて立つとて、柱にかきつけ侍りける

住みわびて我さへ軒の忍草(しのぶぐさ)しのぶかたがたしげき宿かな(金葉591)

【通釈】古家の軒端には忍草が生えるというけれど、この家にはもう住んでいられず、立ち退くことになってしまった。私も軒の忍ぶ草。しのぶと言えば、色々懐かしいことの多い家であるよ。

【語釈】◇軒 「退き」を掛ける。◇忍草 シノブ科のシダ植物。和歌では古家の軒端に生えるものとして詠まれる。◇しのぶかたがた 偲ぶ(なつかしく思い出す)あれこれ。

【補記】『周防内侍集』の詞書はつぎの通り。「もろともにありし母、はらからなども皆なくなりて、心ぼそくおぼえて、住み憂き旅どころにわたりて、仏など供養するに、草などもしげく見えしかば」。母や姉妹が亡くなって心細くなったため、「旅どころ(仮の宿)」に移ってのち、久しぶりに家に戻って来て、軒端などに忍草が生えていたのを見て詠んだ歌、ということになる。なお、この歌に詠まれた周防内侍の旧宅については『今鏡』『無名抄』『今物語』などに記されている。寂超が『今鏡』を執筆していた頃(西暦1170年前後)この家はまだ残っていて、柱に書き付けた歌もそのままになっていたという。

【他出】今鏡、新時代不同歌合、兼載雑談

【主な派生歌】
これやその昔の跡と思ふにも忍ぶあはれの絶えぬ宿かな([今物語])
古へはついゐし宿もあるものを何をか忍ぶしるしにはせん(西行)
世の中を思ひのきばの忍ぶ草いく代の宿と荒れかはてなむ(藤原定家)

例ならで太秦(うづまさ)にこもり侍りけるに、心細くおぼえければ

かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰かしのばむ(新古1746)

【通釈】こんなふうに係累もなく孤独な境遇で寺に籠ったまま、死んでしまったら…。夕べの雲のように果敢なく消えてしまいでもしたら、ああ、いったい誰が心にかけて偲んでくれるだろうか。

【語釈】◇太秦 京都西郊。ここでは太秦寺(広隆寺)のこと。◇夕(ゆふべ)の雲となり (火葬の)煙となって闇の中に消えてゆく。


更新日:平成16年03月04日
最終更新日:平成21年01月05日