橘諸兄 たちばなのもろえ 天武十三〜天平勝宝九(684-757) 略伝

敏達天皇の裔。美努王(みののおおきみ)の子。初め葛城王と称した。母は県犬養橘宿禰三千代。光明皇后は異父妹にあたる。子に奈良麻呂がいる。
和銅三年(710)、従五位下に叙され、馬寮監・左大弁などを経て、天平三年(731)、参議に就任。翌年、従三位。同八年、母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。同九年、藤原四卿没後、大納言に昇進。翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導する。天平十二年、藤原広嗣の乱が勃発し、聖武天皇の関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。同年十二月、遷都を実現した。同十五年には従一位左大臣となる。その後聖武天皇は紫香楽に遷都するが、災異が続発し、結局天平十七年(745)、平城に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。天平感宝元年(749)、東大寺行幸に際し正一位に昇る。天平勝宝七年(755)十一月、飲酒の席での聖武太上天皇誹謗の言辞を密告され、翌年二月、この責を負って官界を引退した。同九年正月、薨去(74歳)。
万葉集に七首の歌を残す。『栄華物語』を始め、古くから万葉集の撰者に擬せられた。万葉集からは大伴家持と親交があったことが窺える。

左大臣橘宿禰の詔に応ふる歌一首

降る雪の白髪(しろかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか(万17-3922)

【通釈】降り積もった雪のように髪が白くなるまで、陛下にご奉公申し上げることが出来たことを思いますと、神意は畏れ多くも有り難いものにございます。

【補記】天平十八年(746)正月、諸兄はじめ諸臣が元正太上天皇の御在所に参り、雪掃いの奉仕をした。その後、肆宴が行なわれ、雪を題に歌を詠めとの仰せがあった。それに応えた歌。「貴(たふと)し」は、神・人・自然物などの壮んな様を讃美し、畏敬の意を表わす語。長寿を授けてくれた神々への感謝・讃美だけでなく、奉公を許して下さった元正太上天皇に対する感謝・讃美をも籠めた表現であろう。当時諸兄は六十三歳。

【主な派生歌】
霜雪のしろ髪までにつかへきぬ君の八千代を祝ひおくとて(藤原定家[続古今])
色かはる白髪までにながらへてそむくかひなき後のみじかさ(長綱)

左大臣橘卿、右大弁丹比国人真人の宅に宴する歌

あぢさゐの八重咲くごとく()つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(万20-4448)

【通釈】紫陽花の花が八重に咲くように、御代八代も何代も、健勝でいらしてください、そして花を眺めては貴方を思い出しましょう。

【補記】天平勝宝七歳(755)五月、丹比国人(左大臣多治比嶋の孫)邸での宴に招かれ、紫陽花に寄せて詠んだ歌。宴の主人である国人の長寿を言祝(ことほ)ぐ。当時の紫陽花は今言うガクアジサイだったらしいが、国人宅の庭には八重咲きの変種が咲いていたのだろう。因みに紫陽花を詠んだ歌はこの作を含め万葉集に二首のみ。

十一月二十八日、左大臣の、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に集ひて宴する歌

高山の(いはほ)に生ふる(すが)の根のねもころごろに降り置く白雪(万20-4454)

【通釈】高山の大岩に生えている菅の根ではないが、細かに絡み合うがごとく次々に降り積もってゆく白雪よ。

【補記】これも天平勝宝七歳の作。息子の奈良麻呂宅での宴歌。「ねもころごろに」は、「ねもころ、ねもころに」を縮約した形か。モコロは「〜と同じ状態にある」意。ネモコロで、根のようにしっかりと絡みつき、千切れることなく長く続く様を表わす。降り積もる雪に、年々白髪が増え続けてゆく老いた諸兄自身を寓意しつつ、強靭な菅の根に長久の祝意を籠めているのであろう。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日