藤原師実 ふじわらのもろざね 長久三〜康和三(1042-1101) 号:京極殿・後宇治殿

宇治太政大臣頼通の息子(公卿補任によれば三男)。母は因幡守種成女、藤原祇子。後冷泉院后寛子の異母弟。子に関白師通・左大臣家忠・権大納言経実・大納言忠教ほかがいる。また源顕房の娘賢子を養女とし、白河天皇に輿入れした。
天喜元年(1053)四月、元服して正五位下に叙せられる。同三年二月、左権中将。同年十二月、十四歳で従三位。同四年十月、権中納言に就任。康平元年(1058)正月、従二位。同年四月、権大納言。同三年七月、内大臣。同六年正月、正二位。治暦元年(1065)六月、右大臣に転じ、従一位。延久元年(1069)四月、皇太子傅を兼ねる。同年八月、左大臣に転ず。承保二年(1075)九月宣旨を受け、十月、関白となる。永保三年(1083)左大臣を辞す。応徳三年(1086)十一月、摂政。康和三年二月十三日、六十歳で薨ず。
嘉保元年(1094)の前関白師実歌合ほか、しばしば歌合や歌会を催した。家集に『京極関白集』、日記『京極関白記』がある。後拾遺集初出。勅撰入集十六首。

白河院花御覧じにおはしましけるに、召しなかりければ、よみて奉りける

山桜たづぬと聞くにさそはれぬ老の心のあくがるるかな(千載43)

【通釈】山桜をお訪ねになると伺いまして、心を誘われましたが、お誘いを受けることは適いませんでした。老いた私めは、ただ思いを桜に馳せ、うわの空になっておりますよ。

【語釈】◇さそはれぬ 花見と聞いて心を誘われた、しかし自分は誘ってもらえなかった。「ぬ」を、完了の助動詞「ぬ」の終止形、打消の助動詞「ず」の連体形、両義に用いている。

【補記】白河上皇が桜の花見に出掛けた折、師実に声が掛からなかったので、奉ったという歌。白河天皇が譲位した応徳三年(1086)から師実が死去した康和三年(1101)まで、いずれかの年の春の作ということになる。使者を遣って花見の場に届けさせたに違いない。年寄ゆえに誘われなかったと恨みを述べたのはもとより座興である。

内大臣に侍りける時、望山花といへる心をよみ侍りけるに

白雲のたなびく山のやま桜いづれを花と行きて折らまし(新古102)

【通釈】雲がたなびく高い山の山桜――花はどこかと探しながら登って行って、この手で枝を折りたいものだが、どれが花かと迷うことだろうよ。

【語釈】◇白雲のたなびく この雲はいわゆる層雲。霧や霞と見分け難い低層雲。◇いづれを花と 「行き」「折ら(折り)」両方にかかっている。◇行きて折らまし 山へ行って、桜の枝を折りたいものだが。「まし」は反実仮想の助動詞と言われるが、ここでは「できれば…したい」といった、実現性の低い願望をあらわす。

【補記】師実が内大臣であった康平三年(1061)七月から治暦元年(1065)六月までの間に、「望山花(山の花を望む)」という題で詠んだ歌。雲と山桜の花がまぎらわしいという常識を踏まえ、桜狩りに興ずる心を弾むような調べで歌い上げた。

【他出】和歌口伝、題林愚抄

【本歌】紀友則「古今集」
雪ふれば木毎に花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし
  道命法師「新古今集」
白雲のたつたの山の八重桜いづれを花とわきて折りけむ

二条太皇太后、賀茂の斎院(いつき)と申しける時、本院にて、松枝映水といへる心をよみ侍りける

ちはやぶるいつきの宮の有栖川(ありすがは)松とともにぞ影はすむべき(千載619)

【通釈】斎院のわきを流れる有栖川には、めでたい松の枝が水面に影を落としています。その松とともに、いつきの宮も清らかなお姿でいつまでもあられることでしょう。

【語釈】◇ちはやぶる 「いつきの宮」の枕詞◇有栖川 賀茂斎院の傍を流れていた川。

【補記】詞書の「二条太皇太后」は白河天皇第三皇女、令子内親王(1078〜1144)。寛治三年(1089)斎院に卜定され、康和元年(1099)退下。その斎院時代に「本院」すなわち紫野院(今の京都市北区紫野)で歌会を催した時、「松枝映水」の題で師実が奉った歌。斎院のわきを流れる有栖川に寄せて、水面に映る松のように変わらぬ美しさを保つことを祝った。

【他出】月詣集、袖中抄、定家八代抄、歌枕名寄、題林愚抄


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年08月11日