高橋虫麻呂 たかはしのむしまろ 生没年未詳 略伝

天平四年(732)、「藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時、高橋連虫麻呂の作る歌一首」(万葉集巻6-971・972)があり、藤原宇合の部下であったか。また常陸国での作と思われる歌があり、これを宇合が養老三年(719)常陸国守として赴任した時、同行しての作と見る説があるが、異論もある。東国での詠作は他にも多く、富士山を詠んだ歌(3-321)、「詠上総末珠名娘子歌」(9-1738・1739)、「見武蔵小埼沼鴨作歌」(9-1744)、「鹿嶋郡苅野橋別大伴卿歌一首」(9-1780・1781)、「詠勝鹿真間娘子歌」(9-1807・1808)などがある(いずれも「高橋虫麻呂歌集」から万葉集に採られた歌)。また難波での作(9-1742・1751)は、神亀三年(726)知造難波宮事に任ぜられた藤原宇合に同行しての作と見る説がある。かように旅先での歌が多いが、「詠水江浦嶋子」(9-1740・1741)、「見菟原處女墓歌」(9-1809〜1811)といった物語性の濃い長歌を多く残している点にも特色がある。修辞・表現も異色であり、いわゆる宮廷歌人の流れとは一線を画する特異な万葉歌人として注目される。作歌は二首、「歌集中出」で自作と見られる歌は三十三首ある。
 
以下には万葉集より三十三首を抄出した。高橋連虫麻呂歌集出典の万葉歌については、東国に材を取った歌畿内に材を取った歌に大別した。

四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣はさるる時、高橋連虫麻呂の作る歌一首 并せて短歌

白雲の 龍田の山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に 打ち越えて 旅行く君は 五百重(いほへ)山 い()きさくみ (あた)守る 筑紫(つくし)に至り 山の(そき) 野の(そき)見よと (とも)()を (あか)(つか)はし 山彦(やまびこ)の 答へむ(きは)み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る(きは)み 国形(くにかた)を ()したまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道(たつたぢ)の 岡辺(をかへ)の道に 紅躑躅(につつじ)の にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ()ゐ出む 君が来まさば(6-971)

反歌

千万(ちよろづ)(いくさ)なりとも言挙げせず取りて()ぬべき(をとこ)とぞ思ふ(6-0972)

【通釈】[長歌]白雲の立つ、龍田山が、露と霜によって色づく頃に、その山を越えて遠い旅を行くあなたは、幾重も重なる山を踏み分けて進み、国防のかなめ筑紫に至り、山の果て、野の果てまで視察せよと、配下の者達を各地に派遣し、山彦の応じる声が届く限り、蟾蜍(ひきがえる)が這い回る限り、国のありさまを御覧になって、春になったら、空飛ぶ鳥のように早く帰っていらっしゃい。龍田道の岡辺の道に紅の躑躅が映える時、桜の花が咲く時に、お迎えに参りましょう。あなたが帰って来られるならば。
[反歌]たとえ相手が千万の兵であろうとも、あなたはとやかく言わずに討ち取って来るに違いない、そんな勇猛な男子であると思いますよ。

龍田山(奈良県生駒郡 三室山)
龍田の山

【語釈】[題詞]◇西海道節度使 九州地方の軍備を固める特使。当時、新興の渤海国が日本に接近する一方、新羅との対立を高めていたため、新羅への備えとしての特使派遣であったと思われる。天平四年(732)八月、藤原宇合が任命された。
[長歌]◇白雲の 「立つ」から「龍田」に掛かる枕詞。◇龍田の山 奈良県生駒郡三郷町の龍田大社背後の山。大和から河内・摂津方面へ向かうには、生駒越えと共に龍田越えがよく利用された。◇五百重山 い行きさくみ 幾重にも重なる山を踏み越え。◇賊守る 外敵を見張る。「筑紫」の枕詞のように用いられる。◇伴の部 配下の者達。◇蟾蜍のさ渡る極み ひきがえるの這い回る限り。一郡程度の範囲を指すかという。◇冬こもり 「春」の枕詞。掛かり方未詳。◇山たづの 「迎へ」の枕詞。「山たづ」すなわち接骨木(にわとこ)の枝葉は相対して生ずることから。

【補記】天平四年(732)、藤原宇合が西海道節度使に任命された時に作ったという歌。大和から龍田山を越え、陸路筑紫へ至って、節度使としての職掌を果たして後の帰還を、家族または家臣の立場で待望する心情を詠む。なお、万葉集に高橋虫麻呂の「作歌」として載せるのはこの長短歌のみ。他の歌についてはすべて「高橋連蟲麻呂歌集中出」「高橋連蟲麻呂之歌中出」等とあり、虫麻呂の名の付いた歌集を出典とすることが注記されている。

―高橋連虫麻呂歌集出典の万葉歌―

東国に材を取った歌

不尽山(ふじのやま)を詠む歌一首 并せて短歌

なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と 此方此方(こちごち)の 国のみ中ゆ ()で立てる 富士の高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い()きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もち()ち 降る雪を 火もち()ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず (くす)しくも います神かも 石花海(せのうみ)と 名付けてあるも その山の (つつ)める海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水の(たぎ)ちぞ 日の本の 大和の国の (しづ)めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河(するが)なる 富士の高嶺(たかね)は 見れど飽かぬかも(3-319)

反歌

富士の()に降り置く雪は六月(みなつき)十五日(もち)()ぬればその()降りけり(3-320)

 

富士の()を高み(かしこ)天雲(あまくも)もい行きはばかり棚引くものを(3-321)

【通釈】[長歌]甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。
[反歌一]富士の嶺に積もっている雪は、六月十五日に融けて消えると、その夜すぐまた降ったのだった。
[反歌二]富士の嶺があまり高くて畏れ多いので、天雲さえも通り過ぎるのをためらって、たなびいているのだよ。

【語釈】[長歌]◇なまよみの 甲斐の国 「なまよみの」は枕詞。掛かり方未詳(「黄泉(よみ)」と関係あるとする説などがある)。甲斐の国は今の山梨県に相当する。◇うち寄する 駿河の国 「うち寄する」は「駿河」の枕詞。南方の常世の国から波が打ち寄せる、の意であろうという。また「する」が同音から「駿河」を起こすことにもなる。◇富士の高嶺 富士山。「ふじ」の用字、万葉集原文は「不尽」(正字では不盡)。また反歌第二首では「布士」の字が用いられている。◇石花海 西湖と精進湖。一つの湖であったのが、貞観六年(864)の富士山噴火により二つに別れたという。◇富士川 原文は「不尽川」。山梨・長野県境の鋸岳に発し、甲府盆地を南流し、静岡県富士市で駿河湾に注ぐ。
[反歌]◇六月の十五日に消ぬれば… 駿河国風土記逸文によれば、富士山では陰暦六月十五日(夏の真ん中)に雪が消え、子の刻(十六日午前零時頃)にまた降り出すとの言い伝えがあった。そうした伝説を踏まえている。

【補記】左注に「右一首高橋連虫麻呂之歌中出焉以類載此」とあり、虫麻呂の作と見られる(以下同じく)。「以類載此」とあるのは、山部赤人の富士を詠んだ歌の後に、同じ山を詠んだ歌として載せたことを示す注記である。万葉集巻三を増補する際に挿入された歌なのであろう。簡潔に調べ高く富士を謳いあげる赤人の作と比べると、より具体的で、羅列的・叙述的(悪く言えば説明的)で、また地誌的あるいは博物誌的な関心が強く出ているところなどに虫麻呂の歌の特色がある。先後関係は明らかでないが、「白雲も い行きはばかり」(赤人)、「天雲も い行きはばかり」(虫麻呂)と類似した表現が見える。

上総(かみつふさ)周淮(すゑ)珠名娘子(たまなをとめ)を詠む歌一首 并せて短歌

しなが(とり) 安房(あは)に継ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 周淮(すゑ)珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の 広き我妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)の 花の(ごと) ()みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道()く人は おのが行く 道は行かずて ()ばなくに (かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は (あらかじ)め 己妻(おのづま)()れて ()はなくに 鍵さへ(まつ)る 人皆(ひとみな)の かく(まと)へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける(9-1738)

反歌

金門(かなと)にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける(9-1739)

【通釈】[長歌]安房の国に続いている、周淮の珠名娘子は、豊かな乳房の可愛いひと。すがる蜂のように腰の細い娘が、その美しい顔で、花のように頬笑んで立っていると、道を行く人は自分の行先を棄て、呼びもしないのに娘の家の門まで来てしまう。隣の家のご主人は、前以て自分の妻と離縁して、頼みもしないのに鍵まで渡す。皆が皆これほど血迷うものだから、娘の方も品(しな)を作って靡き、男遊びに耽っているのだったよ。
[反歌]家の門口に男が来て立つと、娘子は夜中でも我が身をよくわきまえず、出て行って逢うのだったよ。

【語釈】[題詞]◇上総の周淮 上総国周淮郡。今の千葉県富津市・君津市あたり。「周淮」は原文「末」。◇珠名 娘子の名。
[長歌]◇しなが鳥 鳰鳥の類で、「息の長い鳥」の意。ここでは「安房」の枕詞だが、掛かり方未詳。◇安房 国名。房総半島南部、今の安房郡・鴨川市・館山市など。「安房に継ぎたる」は、京から常陸方面へ向かう道筋として安房の次に来るということ。◇梓弓 弓の末と言うことから地名「周淮(すゑ)」に掛かる枕詞。◇胸別の広き 豊かな乳房が両脇の方へ張り出していて、乳房の間が広く見える様を言う。◇腰細のすがる娘子 すがる(ジガバチ類)のように腰がくびれて細い娘。◇その顔の きらきらしきに 「顔」にあたる原文は「姿」で、「なり」と訓む注釈書もある。「きらきらし」は原文「端正」、整った美しさを言う。◇うちしなひ 原文「容艶」。これを「うちしなひ」と訓むのは『万葉集略解』に見える本居宣長説。「かほよきに」などと訓む説もある。
[反歌]◇金門 不詳。原文も「金門」。金属製の門とする説や、道に対し曲がり角をなす戸口とする説などがある。◇たな知らず 十分にわきまえず。「たな」は「たしかに」「すっかり」といった意。

【補記】上総の評判の美女、珠名娘子を詠んだ歌。養老三年(719)、常陸守藤原宇合は按察使を兼ねて上総国の行政の監察を委ねられているので、部下の虫麻呂も上総を視察する機会があり、その際に珠名娘子について見聞したものか。東国の妖婦の魅力を伝え、万葉集中、異彩を放つ女性像を造型している。珠名に熱を上げる男たちの滑稽な姿の描写も冴えている。因みに千葉県最大の前方後円墳である富津市二間塚の内裏塚古墳は、かつて「珠名塚」と呼ばれ、珠名の墓と見なされていたらしい。

武蔵(むざし)小埼(をさき)の沼の鴨を見て作る歌一首

埼玉(さきたま)の小埼の沼に鴨ぞ羽霧(はねき)る おのが尾に降り置ける霜を掃ふとならし(9-1744)

【通釈】埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばす。自分の尾に降り置いた霜を掃いのけようとするのらしい。

【語釈】◇埼玉 武蔵国の郡。◇小埼の沼 埼玉県行田市埼玉(さきたま)にあった池(参考サイト)。

【補記】武蔵国を旅した時、沼の鴨を見て作ったという歌。五七七五七七の旋頭歌である。鴨の生態をこまかく観察しており、やはり虫麻呂の博物誌的な関心の強さが窺われる一首である。なお、この歌以下三首はすべて郡名または郷名を詠み込んでいる。意識的にしたことに違いない。

【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

【主な派生歌】
霜氷る夜風をさむみ埼玉の尾崎の沼に鴨ぞ鳴くなる(宗尊親王)

那賀(なか)郡の曝井(さらしゐ)の歌一首

三栗(みつぐり)の那賀に向かへる曝井の絶えず通はむそこに妻もが(9-1745)

【通釈】那賀の郷の向かいにある曝井の水が絶え間なく湧くように、絶えず通おう。ここに集う女たちの中に私の妻がいてくれたらよいのに。

【語釈】[題詞]◇那賀郡 常陸国那賀郡。歌の「那賀」は郡名でなく郷の名。今の那珂町。◇曝井 茨城県水戸市愛宕町の滝坂の泉であろうという。『常陸国風土記』にも記事があり、村落の婦女たちが洗濯した布を曝すためこの名が付いたという。
[歌]◇三栗の 「那賀」の枕詞。「三栗」は、一つのいがに三つの実ができる栗。その真ん中の栗の実の意から「なか」に掛かる。

【補記】常陸を旅した時、土地の女たちが集まって洗濯などしている泉の水汲み場を詠んだ歌であろう。泉の水が絶えず湧き出すこと、また女たちが毎日井に通うことに寄せて、妻がその中にいたなら自分は絶えず通おうと興じている。望郷の思いからよりも、地誌的な興味から作った歌のように思われる。その点は次の歌も同じ。

【他出】五代集歌枕、和歌初学抄、歌枕名寄、夫木和歌抄
(初句を「みくるすの」とする本が多い。)

手綱(たづな)の浜の歌一首

遠妻(とほづま)多珂(たか)にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし(9-1746)

【通釈】遠い都に残してきた妻がここ多珂の地にいたとしたら、手綱の浜の名のように、道を知らずとも私は訪ねて行こうに。

【語釈】◇多珂 原文は「高」。常陸国多珂郡。◇手綱の浜 茨城県高萩市の海岸。関根川河口あたりという。「たづ」が同音であることから、「手綱の浜の」は動詞「たづね」を起こす序。

【補記】やはり常陸国内を旅した時、地名に関心を惹起されての作であろう。前歌同様妻のことを話題にしているのは、これらの歌が同行の男性官人たちを読者に想定して作られたものだからであろう。地誌的な関心を、望郷の念に巧みに結び付けているのである。

【他出】五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄

検税使大伴卿、筑波山に登る時の歌一首 并せて短歌

衣手(ころもで) 常陸(ひたち)の国の (ふた)並ぶ 筑波(つくは)の山を 見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かきなげ ()の根取り (うそぶ)き登り ()の上を 君に見すれば 男神(をのかみ)も (ゆる)したまひ 女神(めのかみ)も ()はひたまひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば 嬉しみと 紐の緒解きて 家の(ごと) ()けてぞ遊ぶ 打ち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日の楽しさ(9-1753)

反歌

今日の日にいかで()かめや筑波嶺に昔の人の来けむその日も(9-1754)

【通釈】[長歌]常陸の国の、二峰が並ぶ筑波の山を見たいと思って、あなたが来られたというので、暑いさなか、汗をかきやり木の根をつかみ、ふうふう言いながら登って、山頂をあなたにお見せすると、山の男神もお許しになり、女神も加護して下さって、いつもは始終雲が居座り雨が降る筑波山を、この時ばかりはくっきりと照らして、卿が特に見たがっておられた国の絶景を、つぶさにお示しになったので、嬉しいことだと、衣の紐を解いて、家にいるかのように、くつろいで遊び暮らす。春に見る時よりも、夏草が茂っているけれども、今日の日の楽しいことよ。
[反歌]今日の日の楽しさにどうして及ぼうか。筑波嶺に昔の人が遊びに来たというその日も。

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筑波山遠望

【語釈】[題詞]◇検税使大伴卿 虫麻呂が常陸にいた頃、卿(普通、三位以上または参議以上の官人を指す)と呼ばれ得る大伴氏の人物は旅人以外にない。
[長歌]◇衣手 「常陸」の枕詞。濡れる意の動詞「ひつ」と「ひたち」の音が通うことから。◇筑波の山 茨城県南西部に聳える山。男神・女神の二峰を有す。『常陸国風土記』によれば、男神は険峻で人を寄せ付けないが、女神の峰には遊楽の人々が盛んに登ったという。◇汗かきなげ 原文「汗可伎奈氣」。「伎」を補って「汗かき嘆き」と解する説などもある。◇打ち靡く 「春」の枕詞。萌え出た草木がなよやかに靡く様。

【補記】これも養老三年(719)から神亀元年(724)頃まで、国守藤原宇合に従って常陸にいた間の作であろう。検税使として派遣された大伴卿(旅人と見て間違いない)に同行して筑波山に登った時のことを詠んだ。夏の登山の辛さ、頂に辿り着いた喜びなどを生き生きと描くだけでなく、都から訪れた貴人を迎える筑波山の神の加護を言祝いで、土地讃めの歌としても優れている。

霍公鳥(ほととぎす)を詠む歌一首 并せて短歌

(うぐひす)の (かひご)の中に ほととぎす 独り生れて ()が父に 似ては鳴かず ()が母に 似ては鳴かず ()の花の 咲きたる野辺(のへ)ゆ 飛び(かけ)り 来鳴き(とよ)もし 橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし (まひ)はせむ 遠くな()きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたれ鳥(9-1755)

反歌

かき()らし雨の降る夜をほととぎす鳴きてゆくなりあはれその鳥(9-1756)

【通釈】[長歌]鶯の巣の卵の中に、ほととぎすが独り生まれて、自分の父に似た声では鳴かない。自分の母に似た声では鳴かない。卯の花が咲いている野辺から、空へ飛び翔って、やって来ては鳴き声を響かせ、橘の枝に止まって花を散らし、一日中鳴くけれども、良い声だよ。捧げ物をしよう。遠くへ行かないでおくれ。我が家の庭の橘の花に、ずっと住み着いておれ、鳥よ。
[反歌]あたりをかき曇らせて雨が降る夜を、ほととぎすが鳴いてゆくのが聞える。ああ、胸を切なくさせる鳥よ。

【語釈】[長歌]◇ほととぎす カッコウ科の鳥。インド・中国南部から初夏に渡来する。昼夜、晴雨を問わず鳴く。万葉集で「霍公鳥」と書かれたのは、前漢の将軍霍去病(かくきょへい)に因む。生涯安らぐ家を持たず、匈奴征伐に明け暮れた霍将軍に、巣を持たない漂白の鳥ホトトギスをなぞらえたものらしい。

【補記】ほととぎすを主題に、鶯などに托卵する珍しい習性と、空を飛びながら鳴くその声の美しさに着目した歌で、虫麻呂の博物誌的な物の見方がよく表れた作と言えよう。同時に、作者がこの鳥の孤独な生い立ちに強い共感を寄せていることが感じられ、印象に残る。伊藤博『萬葉集釋注』は、巻八に「高橋連虫麻呂之歌中出」として載る「筑波嶺に我が行けりせば霍公鳥やまびこ響め鳴かましやそれ」(8-1497)との関連から、常陸滞在中の作かと推測している。

【主な派生歌】
しでの山こえつる宵に里なれて今もなかなむあはれその鳥(藤原隆季)
さみだれは夜中に晴れて月に鳴くあはれその鳥あはれその鳥(*上田秋成)
しが父がこぞ鳴きつらむ時鳥ことしの声も違はざりけり(大国隆正)

筑波山に登る歌一首 并せて短歌

草枕(くさまくら) 旅の(うれ)へを 慰もる こともあれやと 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺(つくはね)の ()けくを見れば 長き()に 思ひ積み()し 憂へはやみぬ(9-1757)

反歌

筑波嶺の裾廻(すそみ)の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉(もみち)手折らな(9-1758)

【通釈】[長歌]旅の憂いを、まぎらわすこともあるかと、筑波の峰に登ってみると、薄の穂が散る師付の田んぼには、雁がやって来て寒そうに鳴いている。新治郡の鳥羽の淡水湖も見えて、秋風が吹き白波が立っている。――こうして筑波山からの素晴らしい景色を見ていると、何日も積もり積もっていた、憂いは消えてしまった。
[反歌]筑波山の山裾の田んぼで秋の刈入れをしている娘――あの娘のもとに贈る黄葉の枝を折ろう。

【他出】[長歌]夫木和歌抄、八雲御抄
[反歌]和歌童蒙抄、五代集歌枕

【語釈】[長歌]◇師付 筑波山東麓、石岡市西郊。◇田居 田んぼのある所。◇新治 郡名。筑波山の西北。現在の新治郡とは異なる。◇鳥羽の淡海 筑波山西麓の湖沼。茨城県真壁郡から下妻市あたりにかけて大沼沢地が広がっていたという。

【補記】「検税使大伴卿、筑波山に登る時の歌」が夏の筑波登山を詠んでいたのに対し、当詠は晩秋の頃の山登りを歌う。しかもこのたびは旅の憂いを慰めようとの単独行である。季節の趣深い風物に解きほぐされた旅愁は、田を刈る土地の乙女に対するほのかな憧れに転じて、長反歌はほのぼのとした暖かさのうちに閉じられる。叙事的な作が多い虫麻呂の歌の中ではひときわ抒情性のまさった歌で、この歌人の資質の豊かさ・深さを思い知らされる。

筑波嶺に登りて嬥歌会(かがひ)をする日に作る歌一首 并せて短歌

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の(うへ)に (あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の 行き(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻(ひとづま)に ()(まじ)はらむ ()が妻に 人も言問(ことと)へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな(9-1759)

反歌

男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るとも(われ)帰らめや(9-1760)

【通釈】[長歌]鷲が住む筑波山の、裳羽服津の津のほとりに、誘い合って、若い男女が集まり、歌い踊るこの嬥歌で、人妻たちの中に俺も混じり込もう。俺の妻に、人も言い寄るがよい。この山を支配する神が、昔からお許し下さっている行事であるぞ。今日だけは、見苦しいとは見るな、咎め立てするな。
[反歌]男神の峰に雲が立ちのぼり、時雨が降り、着物が濡れ通っても、俺は途中で帰ったりするものか。

【他出】[反歌]古今和歌六帖、歌枕名寄

【語釈】[長歌]◇裳羽服津 不詳。地名か。「女の筑波山にまうづるに、ここにして衣裳をあらためて、裳を著ると云心にや」(『萬葉集古義』)。◇嬥歌 「かけあひ」の意か。歌を掛け合いながら踊る行事。本来は宗教的な行事(儀礼)であろうが、男女の出会いの場としても機能した。◇めぐしもな見そ 「めぐし」(原文「目串」)は不詳。山上憶良の歌に「妻子見れば めぐしうつくし」とある「めぐし」と同語か。「目苦し」の意とする説(岩波古語辞典)に従って、「見苦しい」の意と取った。

【補記】嬥歌のことは『常陸国風土記』香島郡の条の寒田郎子安是嬢子の伝説にも見え、男女が歌をやりとりすることで、求婚相手を見つける集いの場であったと判る。長歌は、この嬥歌を客観的に眺める如く始まるが、途中から話手も参加者の立場に身を投じ、開放的な性の祝祭の興奮を伝えている。

鹿島郡の苅野橋(かるののはし)にて、大伴卿に別るる歌一首 并せて短歌

牡牛(ことひうし)の 三宅(みやけ)(かた)に さし向ふ 鹿島の崎に さ()塗りの 小船(をぶね)()け 玉纏(たままき)の 小楫(をかぢ)(しじ)()き 夕潮(ゆふしほ)の 満ちの(とど)みに 御船子(みふなこ)を (あども)ひ立てて ()び立てて 御船(みふね)出でなば 浜も()に (おく)()み居て こいまろび 恋ひかもをらむ 足()りし ()のみや泣かむ 海上(うなかみ)の その津を()して 君が漕ぎゆかば(9-1780)

反歌

海つ()の凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(9-1781)

【通釈】[長歌]三宅の浦に向かい合う鹿島の崎に、赤く塗った船を用意して、珠を巻いて飾った櫂をたくさん貫き並べ、夕潮が満ちきった時に、漕ぎ手たちを駆り集め、掛け声を立てて御船が出航して行ったなら、残された私どもは浜も狭くなるほどひしめき合って、ころげ回って、あとを恋い慕うでしょう。足ずりして泣き叫ぶことでしょう。海上郡の、その港を目指して、あなたが漕いで行ったなら。
[反歌]海路が凪ぐ時にお渡りになればよかったのに。このようにひどく立つ波の中を船出するべきでしょうか。

【語釈】[題詞]◇鹿島郡の苅野橋 茨城県神栖市の神之池(ごうのいけ)から流れ出た川が利根川に注ぐあたりに架かっていた橋かという。◇大伴卿 大伴旅人であろう。9-1753参照。
[長歌]◇牡牛の 「三宅」の枕詞。雄牛が屯倉に貢物を運ぶことから。◇三宅の潟 千葉県銚子市三宅町あたりの干潟。◇鹿島の崎 茨城県神栖市の波崎かという。◇海上 下総国海上郡。◇君が漕ぎゆかば 原文は「君之己藝歸者」で、「君が漕ぎいなば」と訓む本もある。

【補記】鹿島郡の苅野橋で大伴卿と別れる時に作った歌。大伴卿とは、「検税使大伴卿、筑波山に登る時の歌」で筑波山に登った「大伴卿」と同一人物で、大伴旅人と見られる。検税使の務めを終え、都へ帰ることになったその人に贈った、餞別の歌である。

勝鹿(かつしか)真間娘子(ままをとめ)を詠む歌一首 并せて短歌

(とり)が鳴く (あづま)の国に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿(かつしか)の 真間の手児名(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿(あをくび)着け (ひた)()を ()には織り着て 髪だにも 掻きは(けづ)らず (くつ)をだに 穿()かず行けども 錦綾(にしきあや)の 中に(つつ)める (いは)ひ子も (いも)にしかめや 望月(もちづき)の 足れる(おも)わに 花の(ごと) ()みて立てれば 夏虫の 火に入るが(ごと) 水門(みなと)入りに 船()ぐ如く 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の(おと)の (さわ)(みなと)の 奥つ()に 妹が()やせる 遠き代に ありけることを 昨日(きのふ)しも 見けむが(ごと)も 思ほゆるかも(9-1807)

反歌

勝鹿の真間の井見れば立ちならし水汲ましけむ手児名し思ほゆ(9-1808)

【通釈】[長歌]東国に昔あったこととして、今まで絶えることなく言い伝えてきた、葛飾の真間の手児名が、麻の服に青い襟を付け、麻糸を裳に織って着て、髪さえ梳(くしけず)らず、靴をさえ穿かずに歩いて行くけれども、錦や綾の中に包んで育てたお嬢様だって、この子にはかなうまい。満月のように満ち足りた顔で、花のように笑みを浮かべて立っていると、夏の虫が火に飛び込むと言うように、港に入ろうと舟が漕ぎ入って来るように寄り集まり、男たちが求婚する時、人はどうせ大して生きられはしないのに、どういうわけか、我が身の上を知って、波の音が騒々しく寄せる港の奥津城に、娘子は臥せっておいでなのか。遠い昔にあったことなのに、昨日見たかのようにありありと思われることよ。
[反歌]葛飾の真間の井を見ると、ここに何度も通っては水を汲んだであろう手児名のことが偲ばれるよ。

【語釈】[長歌]◇鶏が鳴く 「東」の枕詞。東国の方言を鳥の鳴き声に喩えたとも言い、鶏が鳴くと東の空が明るくなるので「東(あづま)」に掛けたともいう。◇勝鹿 下総国葛飾郡。江戸川下流沿岸。◇真間 千葉県市川市真間。◇手児名 女に対する一般的な愛称。◇直さ麻 まじりけのない麻。◇望月の 「足れる面わ」の枕詞◇行きかぐれ 「かぐれ」は未詳。「寄り集まる」「求婚する」「焦がれる」など諸説ある。◇身をたな知りて 自身の境遇をよくわきまえて。「たな知る」は珠名娘子の歌に既出。

【補記】万葉集巻九挽歌に部類されている。雑歌に分類された珠名娘子を詠んだ歌と同じく伝説上の美女を主題にした歌であるが、墓を実際見ての作と見られ、こちらは挽歌としたものであろう。万葉集巻三には山部赤人の同じ勝鹿の真間娘子の墓を取り上げた挽歌があり、比較するとやはり虫麻呂歌の叙事詩的性格が際立つ。

畿内に材を取った歌

水江(みづのえ)の浦の島子(しまこ)を詠む歌一首 并せて短歌

春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に()で居て 釣舟の とをらふ見れば いにしへの ことぞ思ほゆる 水江(みづのえ)の 浦の島子(しまこ)が 堅魚(かつを)釣り (たひ)釣りほこり 七日(なぬか)まで 家にも()ずて 海界(うなさか)を 過ぎて()ぎゆくに わたつみの 神のをとめに たまさかに い榜ぎ向ひ (あひ)かたらひ (こと)成りしかば かき結び 常世に至り わたつみの 神の宮の 内の()の (たへ)なる殿(との)に たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世の中の 愚か人の 我妹子(わぎもこ)に ()りて語らく しましくは 家に帰りて 父母(ちちはは)に 事も()らひ 明日の(ごと) (われ)()なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今の(ごと) 逢はむとならば この(くしげ) (ひら)くなゆめと 許多(そこらく)に 堅めし(こと)を 住吉(すみのえ)に 帰り()たりて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ()でて 三年(みとせ)の間に 垣もなく 家失せめやと この(はこ)を (ひら)きて見てば もとの(ごと) 家はあらむと 玉篋(たまくしげ) 少し(ひら)くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ (たちま)ちに 心()失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ (くろ)かりし 髪も(しら)けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて のち遂に 命死にける 水江の 浦の島子が 家ところ見ゆ(9-1740)

反歌

常世辺に住むべきものを剣大刀(つるぎたち)()が心から(おそ)やこの君(9-1741)

【通釈】[長歌]春の日の霞んでいる時に、住吉の岸に出て佇み、釣舟が波に揺れているのを見ると、遠い昔のことが偲ばれる。水江の浦の島子が、鰹を釣り上げ、鯛を釣り上げして得意になり、七日間も家に帰らず、海の境を越えて漕いで行くと、海神の乙女に偶然行き遭って、親しく語り合い、事が決まったので、契りを結び、常世に至り、海神の宮殿の、奥深くの立派な御殿に、手を取り合って二人で入って暮して――老いもせず、死にもせずに、いつまでも生きていられたというのに、人間界の愚か者が、妻に告げて言うことには、「暫くだけ家に帰って、両親に説明し、明日にでも帰って来よう」と言うと、妻が答えて言うことには、「この常世の国の方にまた帰って来て、今のように夫婦で暮そうと言うのなら、この櫛笥を絶対あけてはなりません」と、そんなにも堅く約束したことだったのに――。島子は住吉に帰って来て、家はどこかと見るけれども見つからず、里はどこかと見るけれども見当たらず、不思議がって、そこで思案することには、「家を出て三年の間に、垣根も無く家が消え失せてしまうなんて。この箱を開けてみれば、昔のように家は存在するだろう」と、玉櫛笥を少し開けると、白い雲が箱から出て来て、常世の国の方までたなびいて行ったので、びっくりして飛び上がり、叫び、袖を振り、転げ回り、地団駄を踏んでいるうち、突然気を失ってしまった。若かった肌も皺が寄ってしまっていた。黒かった髪も白くなってしまっていた。後々は息さえ絶え絶えになり、挙句の果て死んでしまったという――その水江の浦の島子の、家のあったところが見える。
[反歌]常世の国に住んでいたらよかったのに。自分の心からそんなことになったのだ。愚かなことよ、この旦那。

【語釈】[題詞]◇水江の浦 日本書紀や丹後国風土記(釈日本紀所引)によれば丹後国となるが、掲出歌では摂津国住吉のあたりの入江ということになる。◇島子 人の名。従来「水江浦嶋子」は「水江の浦島子(うらしまこ)」と訓むのが普通だったが、丹後国風土記逸文に「嶼子(しまこ)」と略称していることなどから、近年は「水江の浦の島子」と訓むテキストが多い。
[長歌]◇住吉 今の大阪市住吉区あたり。原文は墨吉。◇とをらふ 大きく撓む。◇海界 人の世と海彼の常世の境。◇ゆなゆなは 他に用例を見ない孤語。「のちのちは」の意であろうという。
[反歌]◇剣大刀 「汝(な)」の枕詞。刀を古くは「な」と称したことから。

【補記】いわゆる浦島伝説を詠んだ歌。浦島子が常世の国に行ったという伝説を記す現存最古の文献は日本書紀で、雄略紀二十二年(478)、丹後国余社(よざ)郡管川(つつがわ)(今の京都府与謝郡伊根町筒川)の「瑞江(みづのえ)の浦の嶋子」が釣をしていて大亀を得たが、その亀が女と化して、共に海に入り、蓬莱山(常世の国)に到ったという。虫麻呂の歌は舞台を摂津国住吉とし、亀が話に出て来ない点に特色がある。長歌は九十三句に及ぶ虫麻呂最大の長篇で、彼の叙事的詩才が遺憾なく発揮された、物語性豊かな傑作である。なお、神亀三年(726)、知造難波宮事に任ぜられた藤原宇合に同行して虫麻呂は数年間難波に過ごしたらしく、この間に摂津地方に話題を取る歌を成したかと見られる(伊藤博『萬葉集釋注』)。

河内(かふち)の大橋を独りゆく娘子(をとめ)を見る歌一首 并せて短歌

しなでる 片足羽川(かたあしはがは)の さ()塗りの 大橋の()ゆ (くれなゐ)の 赤裳裾(あかもすそ)引き 山藍(やまあゐ)もち ()れる(きぬ)着て ただ独り い渡らす子は 若草の (つま)かあるらむ 橿(かし)の実の 独りか()らむ ()はまくの 欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく(9-1742)

反歌

大橋の(つめ)に家あらばま悲しく独りゆく子に宿貸さましを(9-1743) 

【通釈】[長歌]片足羽川の赤く塗った大橋の上を、引き紅の裳裾を長く引いて、山藍で摺り染めた衣を着て、たった一人、渡って行かれる子は、若々しい夫があるのだろうか。寝る時は独りなのだろうか。問いかけてみたい愛しい子だけれど、住む家を知らないことよ。
[反歌]大橋のたもとに家があったとしたら、悲しそうに独り渡って行くあの子に宿を貸そうものを。

【語釈】[題詞]◇河内の大橋 河内国府付近、すなわち大阪府柏原市・藤井寺市あたりの大和川に架かる橋であろうという。
[長歌]◇しなでる 「片」に掛かる枕詞。「しなてる」とも。「しな」は階(しな)で、坂や階段状の斜面のこと。「てる(でる)」は照るか。◇片足羽川 大和川を河内国府付近ではこう呼んでいたか。◇山藍 トウダイグサ科の草。青色の染料に用いた。◇若草の 「夫(つま)」の枕詞。若々しい、新鮮な、といった讃美の意が籠る。◇樫の実の 「ひとり」の枕詞。樫は一つの殻に一つの実しか入っていないことから。

【補記】河内の大橋を独りで渡る美しい娘を、よそ者の立場で眺めている歌。渡来氏族の多く住んだ河内という土地柄、異界との通路であった橋という舞台、そして「さ丹塗りの大橋」「紅の裳裾」「山藍もち摺れる衣」という色彩豊かな描写が、いやましに浪曼的な憧憬を掻き立てる。異郷の美女に対する憧れは、虫麻呂の歌にしばしば現れる主題であった。

春三月、諸卿大夫等、難波に下れる時の歌二首 并せて短歌

白雲の 龍田の山の 滝上(たぎのへ)の 小椋(をぐら)の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎて降れれば ()()は 散り過ぎにけり 下枝(しづえ)に 残れる花は しまらくは 散りな乱りそ 草枕 旅ゆく君が 帰り来むまで(9-1747)

反歌

()が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし(9-1748)

【通釈】[長歌]白雲の立つ、龍田の山々の急流のほとりに聳える小椋の峰に、枝が撓むほど咲き満ちている桜の花は、山が高いので、風がやまず、春雨が次から次へ降るので、上の方の枝は花が散ってしまった。下の方の枝に残る花は、もう暫くは散り乱れないでくれ。旅をしているあの方が帰って来るまで。
[反歌]私たちの旅行は七日以上はかからないでしょう。風の神の龍田彦よ、その間、この花を風に散らさないで下さい。

【語釈】[題詞]◇春三月 藤原宇合が知造難波宮事に任ぜられた神亀三年(726)から、難波宮が完成した天平四年(732)三月までの間の、いずれかの年の三月であろう。
[長歌]◇龍田の山 既出◇小椋の嶺 未詳。龍田越えの途中にある山。「椋」は原文「木偏に安」の字。◇ほつ枝(え) 秀(ほ)つ枝の意で、上のほうに突き出た枝。◇しづ枝(え) 下の枝。◇草枕 「旅」の枕詞。草を枕に野宿したことから。
[反歌]◇龍田彦 龍田姫と共に風をつかさどる神。奈良県生駒郡斑鳩町の龍田神社に祭られている。

【補記】藤原宇合が知造難波宮事に任ぜられていた間、「諸卿大夫等」が難波に下った時に作った歌であろう。平城京から龍田山を越える際、「小椋の嶺」に咲いている桜を見て、帰路においても散らずにいてくれと願った。主君にもこの美しい花を見せたいとの、部下としての忠厚の情で締めくくっているが、主題はむしろ桜が散ることを惜しむ心であろう。

難波に宿りて、明くる日還り来る時の歌一首 并せて短歌

島山(しまやま)を い行き(めぐ)れる 川沿(かはそ)ひの 岡辺(をかへ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ 我が越え()しか ひと夜のみ 寝たりしからに ()の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと 打ち越えて 名に()へる(もり)に 風祭(かざまつり)せな(9-1751)

反歌

()き逢ひの坂の麓に咲きををる桜の花を見せむ子もがも(9-1752)

【通釈】[長歌]島山を行き廻って流れる、川に沿った岡辺の道を通って、私が越えて来たのは昨日のことだが、たった一晩寝ただけで、峰の上の桜の花は、急流の瀬を散って流れている。あなたが見るその日まで、山おろしの風よ吹くなと、峠を越えて、風の神の名を負う龍田の社で、風鎮めの祭をしよう。
[反歌]国境の行き合いの坂の麓に、枝も撓うほど咲いている桜の花――この美しい花を見せてやれる子があったらなあ。

【語釈】[長歌]◇島山 水に囲まれた山。ここでは川が周囲を巡って流れているために島のように眺められる山を言う。「河内側の大和川南岸、今日、芝山と呼ぶ山がこの地形をなす」(萬葉集釋注)。◇風祭 古来龍田社で行われてきた風の神をまつる祭。

【補記】前掲の往路の歌に続き、今度は大和への帰路の作。一夜難波に宿っただけで再び山の桜を眺めると、すでに散り始めている。なお難波に留まっている主君が帰る日までは散らずにいてくれと、風の神に祈願する心を詠む。反歌では、花盛りを一緒に見る娘がいてほしいと詠み、色香を添えた。

【主な派生歌】
我が宿の撫子の花さかりなり手折りて一目見せむ児もがも(大伴家持[万葉])

菟原処女(うなひをとめ)の墓を見る歌一首 并せて短歌

葦屋(あしのや)の 菟原処女(うなひをとめ)の 八年子(やとせこ)の 片生(かたお)ひの時ゆ 小放(をはな)りに 髪()くまでに 並びをる 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の (こも)りてをれば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人のとふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 伏屋(ふせや)焚き すすし(きほ)ひ 相よばひ しける時は 焼大刀(やきたち)の ()かみ押しねり 白真弓(しらまゆみ) (ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち(むか)ひ (きほ)へる時に 我妹子(わぎもこ)が 母に(かた)らく 倭文手纏(しづたまき) (いや)しき我が(ゆゑ) 大夫(ますらを)の (あらそ)ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや ししくしろ 黄泉(よみ)に待たむと 隠沼(こもりぬ)の 下延(したは)へ置きて 打ち(なげ)き (いも)()ぬればひどく嘆いて娘子が死んでしまうと、茅渟壮士(ちぬをとこ) その夜(いめ)に見 取り(つつ)き 追ひ()きければ (おく)れたる 菟原壮士(うなひをとこ)い 天仰(あめあふ)ぎ 叫び(おら)び (つち)を踏み ()噛み(たけ)びて もころ()に 負けてはあらじ 懸佩(かきはき)の 小大刀(をだち)取り()き肩掛けの剣を佩き、野老葛(ところづら) ()め行きければ 親族(うがら)どち い行き(つど)ひ (なが)()に (しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓(をとめはか) 中に造り置き 壮士墓(をとこはか) 此方彼方(このもかのも)に 造り置ける 故縁(ゆゑよし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)(ごと)も ()泣きつるかも(9-1809)

反歌

葦屋の菟原処女の奥つ()を行き()と見れば哭のみし泣かゆ(9-1810)

 

墓の上の()()靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも(9-1811)

【通釈】[長歌]葦屋の菟原処女が、八つばかりの幼い時から、振り分け髪に髪を束ねる年頃に成長するまで、隣の家の人にも姿を見せず、自分の家に籠ってばかりいたので、一目見たいものだと、やきもきして、垣のように取り囲んで男たちが妻問いした時、茅渟壮士と菟原壮士の二人が、最後まで競い合い、共に求婚したが、その時には、焼き鍛えた大刀の柄を握り締め、白木の弓や靫を背負って、娘子の為なら火にも水にも入ろうと、相対し争ったものだ――その時、娘子が母に言うことには「つまらない私のために、勇士たちが争うのを見ていますと、生きていたところで、一緒になることなど出来ましょうか。黄泉でお待ちしておりましょう」と、どちらの男を選ぶかについては本心を隠しておいたまま、ひどく嘆いて娘子が死んでしまうと、茅渟壮士はその夜娘子を夢に見、後を追ってしまったので、残された菟原壮士は、天を仰ぎ、叫びわめき、地団駄踏んで歯ぎしりし、相手の男に負けてなるものかと、肩掛けの剣を佩き、あの世まで娘子の後を追って行ってしまった。そうして男の親族たちが寄り集まって、とこしえの未来にまで記念にしようと、遠い将来まで語り継ごうと、娘子の墓を真ん中に造り、壮士の墓をその左右に造り置いたという――その謂れを聞いて見知った人ではないけれども、亡くなったばかりの身内の喪のように、声あげて泣いてしまったことよ。
[反歌一]葦屋の菟原処女の墓を、往き来のたびに見れば、声を上げて泣かれてならない。
[反歌二]墓の上の木の枝が片方に靡いている。噂に聞いたように、娘子は茅渟壮士に心が寄っていたらしいよ。

【語釈】[長歌]◇菟原処女 摂津国菟原郡の娘子。「菟原」は「うばら」とも訓むが、万葉集の原文は「菟名負處女」「宇奈比壮士」とあり、「うなひ」と訓むらしい。◇葦屋 六甲山南麓一帯の称。◇片生ひの時 未成熟・未発達の年頃。◇小放り 童女期の垂れ髪(うなゐ)から、成人して振り分け髪に結い上げた髪型。◇虚木綿の 「こもり」の枕詞。語義未詳。◇茅渟壮士 和泉国の茅渟の地の男。◇菟原壮士 菟原処女と同じく摂津国菟原郡の男。◇伏屋焚き 「すすし」(語義未詳)の枕詞。「伏屋」は粗末な屋根の低い小屋のこと。◇倭文手纏 「いやし」の枕詞。粗末な腕飾りの意。◇宍串ろ 「黄泉」の枕詞。「ししくしろ」とは肉を串刺しにしたものを言い、味が良いことから「よみ」に掛かるとする説がある。◇隠沼の 「下延へ」の枕詞◇茅渟壮士 その夜夢に見… 死んだ晩、娘子が茅渟壮士の夢枕に立ったのは、彼女が茅渟壮士の方に思いを掛けていた証である。それを知った故に茅渟壮士は娘子の後を追い、菟原壮士は二人の思いを知って歯噛みし悔しがったのである。◇牙(き)噛み 歯噛みをして。悔しがるさま。「き」は「きば」の古語。◇もころ男 自分と同じような男。競争相手。◇野老葛(ところづら) 「尋め行き」の枕詞。「ところづら」は野老(ところ)の蔓。◇新喪 人が亡くなって服する喪(謹慎期間)の初め。

【補記】菟原処女の墓を見て作ったという歌。浦島子の歌と共に、伝説歌人虫麻呂の本領を発揮した代表作。処女の墓というのは、神戸市東灘区の前方後方墳、通称「処女塚(おとめづか)古墳」のこと。この墓を挟むようにして東西に前方後方墳がある(それぞれ東求女塚(ひがしもとめづか)古墳・西求女塚古墳と呼ばれる)ことから、菟原処女の悲恋伝説が生まれたものか。あるいは、そもそも古墳とは無関係であった処女の伝説に古墳の起源譚を附会したものか。いずれにせよ、これらの古墳は実際には地方豪族の墓であろうという。


更新日:平成15年12月04日
最終更新日:平成21年04月05日