有間皇子 ありまのみこ 舒明十二〜斉明四(640-658) 略伝

孝徳天皇の唯一の皇子。母は阿倍倉梯麻呂の女、小足媛。
大化元年(645)、六歳のとき父が即位したが、同五年、外祖父である左大臣阿倍倉梯麻呂が薨じ、有力な後ろ盾を失う。父帝は白雉五年(654)十月、難波宮で崩じ、故天皇の同母姉宝皇女が飛鳥板蓋宮に再祚した(斉明天皇)。斉明三年(657)九月、病気を装って牟婁の湯に療養に行き、帰ってその土地を讃め病の完治を天皇に奏上した。天皇は喜び、翌年十月、皇太子中大兄を伴って紀国行幸に発った。留守官蘇我赤兄と共に飛鳥に留まった有間皇子は、赤兄に唆されて謀反を語り合うが、結局裏切られ捉えられ、紀の湯に連行された。十一月十一日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられる。薨年十九。
万葉集巻二には、護送の途次、岩代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌二首が載る。

有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首

磐代(いはしろ)の浜松が()を引き結びま(さき)くあらばまた還り見む(万2-141)

【通釈】磐代の浜松の枝を引っ張って結び、道中の息災を祈る――願いかなって無事であったなら、また帰って来てこの松を見よう。

【語釈】◇磐代 岩代とも。和歌山県日高郡南部町。熊野古道が通っていた。

【補記】万葉集巻二、「挽歌」の部立の頭に置かれている二首。「松が枝を引き結び」とは、松の枝と枝を紐などで結びつけることで、旅の安全や命の無事を祈るまじないである。

【他出】古今和歌六帖、俊頼髄脳、奥義抄、袖中抄、和歌色葉、色葉和難集、夫木和歌抄、歌枕名寄、歌林良材

【主な派生歌】
磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも(長意吉麻呂)
磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ(〃)
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(山上憶良)

 

家にあれば()に盛る(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(万2-142)

【通釈】家にあったたならば食器に盛る飯を、草を枕に寝る旅にあるので、椎の葉に盛るのだ。

【補記】「飯を…椎の葉に盛る」とは、神へのお供えをして息災を祈ったものであろう。その点、一首目の「浜松が枝を引き結び」と同様。この直後に訪れる運命を知ればこそ、神の前に跪き、ささやかにして重大な旅の所作をなす皇子の姿は悲痛を誘う。この「結び松」は後世に伝わり、長意吉麻呂・山上憶良たちによって歌い継がれた。

【他出】古今和歌六帖、俊頼髄脳、和歌童蒙抄、古来風体抄、八雲御抄、色葉和難集、六華集

【主な派生歌】
月も見よ旅にしあれば椎の葉にもるいひしらぬ宿にかりねて(上冷泉為広)
椎の葉にかれ飯もるとやすらへば山風そへて雨こぼれ来ぬ(加納諸平)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成23年03月05日