三宅雪嶺 みやけ・せつれい(1860—1945)


 

本名=三宅雄二郎(みやけ・ゆうじろう)
万延元年5月19日(新暦7月7日)—昭和20年11月26日 
享年85歳(智海院釈雪嶺居士)
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ8号17側 



思想家・評論家。加賀国(石川県)生。東京帝国大学卒。明治21年志賀重昂らと政教社を結成し、国粋主義に立つ雑誌『日本人』を創刊。在野の論客として終始し、『我観』等を創刊する。また『中央公論』などにも多彩な論説を発表した。昭和18年文化勲章受章。『真善美日本人』『宇宙』『同時代人』などがある。






  

 一生の覺醒、其の前と後とは意識あることなし、有るなきの境、實に一生の間にして、以て足ることを得ざる所、足ることを此に求めんとする所なり。方さに今覺醒に在り、方さに生の前に在らず、焉ぞ能く生の前を知らん、又方さに生の後に在らず、焉んそ能く生の後を知らん。然りと雖も夢幻の時にして、猶ほ或は別に覺醒なる者あるを得んことを思ふ、而して果して之れ有り。乃ち孰れか其の観念や、夢幻よりも大に正確なりとして疑はざる覺醒の一生に處して、生の前と生の後とあるを得んことを思ふ、而して其の果して之あるや、更に大に信ずべき者ありと謂ふことを敢てせざる者ぞ。孰れかかの生の前と生の後と、其の境や更に覺醒の生よりも明確にして、徒だ其の營々として生に縻がれて懸解するを得ざるを以て、此の光明世界を観るを得ざること、猶ほかの夢幻の中、夢幻よりも明確なる境を想ふを得ざるが如き者ありと謂ふことを敢てせる者ぞ。
                                                             
(我観小景)

            


 

 三宅雪嶺は明治21年、雑誌『日本人』(のち「日本及日本人」と改題)を創刊。国粋主義を主張し、生涯、在野精神にあふれた哲学的見識の言論人としてめざましい活躍をしたのだった。
 文化勲章を受けた昭和18年7月18日、妻龍子(花圃)は腎臓病のため74歳で逝った。娘婿の中野正剛は東條内閣打倒運動首謀者として検挙され、10月27日、割腹自決して果てた。雑誌『東大陸』も発行禁止となった。20年、空襲が激しくなると都下南沢に疎開。5月には書庫のみを残して東京・初台の自宅は全焼してしまった。
 11月に南沢から移転した北多摩郡狛江村(現・狛江市)の孫中野達彦方で、25日夜、様態が急変、意識不明に陥り、26日午前6時30分、85年の生涯を閉じた。



 

 広々とした墓原に人の気配も途絶えて、木枯らしが吹きさらす冬の日の午後、角地にあるにもかかわらず、それと気づかずに通り過ぎてしまったほど何気ない塋域であった。落ち葉焚きの煙が昇っていそうな田舎然とした垣根を回り込むと、朽ちかけた丸木門柱の奥に二基の碑が建っていた。不慮の事故によって33歳で亡くなった長男勤の墓、その右に雪嶺と龍子の書が刻された石板、裏面に雪嶺三宅雄二郎と花圃三宅龍子の名がある。
 龍子にとって樋口一葉と共に学んだ萩の舎の時代を経て、雪嶺と結ばれた明治25年は、遥か遠くに去ってしまったが、入り込んだこの塋域に漂う気のなかには、確かな時代が留まっているように感じることができた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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