三木露風 みき・ろふう(1889—1964)


 

本名=三木 操(みき・みさお)
明治22年6月23日—昭和39年12月29日 
没年75歳(穐雲院赤蛉露風居士)
東京都三鷹市牟礼2–14–16 大盛寺別院(天台宗) 牟礼墓地 



詩人。兵庫県生。早稲田大学及び慶應義塾大学中退。明治38年16歳で処女詩歌集『夏姫』を刊行し、上京。42年詩集『廃園』を刊行、叙情詩人として知られる。大正2年『白き手の猟人』、四年『幻の田園』などを発表。『寂しき曙』『青き樹かげ』などがある。







  

香へる國の日沒は 遠きはてよりよびさます
衰へし身のくれがたの 金紗の夢に落つるこゑ。

のぞみ溺るゝ空あひに 秘密の光かゞやけり
焔はいつか蒼ざめて 花の香ひを焦がす時。

 幽に 幽に薄暮の 我が風景は泣きよばん
よろめく森の悩ましく 死の恍惚のきたるまへ。

 心の内にいと惨き 優しき力我は知る 夜中となれど日は落ちず
空は皺だむ練絹に 金と黒との死の願ひ 燦めきながら 揺れながら。

                                         

(白き手の猟人・死のねがひ)



 

 昭和39年の暮、高校生であった私は突然の校内放送によって、校歌の作詞者であった三木露風の交通事故を知った。東京三鷹・下連雀での事故であった。郵便局から出てきたところに運悪くタクシーが追突、頭蓋骨を骨折して人事不省の日が数日続いた。それから8日後の12月29日午後3時35分、詩人は脳内出血により75年の生涯を閉じた。
 弱冠20歳にして北原白秋と肩をならべて、詩壇に白露時代を築き上げた象徴詩人三木露風の最期であった。6歳の時に生き別れになっていた母で女性解放運動の先駆け、碧川かたの葬儀に参列してからわずか2年後のことであった。年明けにカトリック吉祥寺教会で行われた告別式は、西條八十が葬儀委員長を務めた。 



 

 ひっきりなしに車が行き交う人見街道を左に入った大盛寺別院の小さな墓地に〈赤とんぼの詩人〉の墓はあった。
 キリスト教徒で告別式もカトリック教会で行われたと聞いていたのだが、なぜ天台宗の寺の墓地に露風の墓があるのか判然としないまま「三木露風之墓」と刻されたその碑の前に佇んだ。墓碑の廻りを赤とんぼの群舞するさまを思い浮かべてみたのだったが、しゃーしゃーと車の疾走する音だけが耳に響いて、露ほどもその気配は起こらなかった。忘れ去られた遠い日々は響き合い、季節はゆるやかに立って、ただ自然のまま何ともなく風が流れていた。
 〈はびこれる悪草のあひだより 美なるものはほろび去れり 青白き光の中より 健げなるものは逝けり
〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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