宮地嘉六 みやち・かろく(1884—1958)


 

本名=宮地嘉六(みやち・かろく)
明治17年6月11日—昭和33年4月10日 
享年73歳(釈嘉祥信士)
東京都港区元麻布1丁目2–12 賢宗寺(曹洞宗)



小説家。佐賀県生。小学校中退。少年期から佐世保や呉の海軍工廠で働く。大正2年上京、「奇蹟」同人となって、堺利彦、宮嶋資夫らと交わった。『煤煙の臭ひ』『或る職工の手記』『放浪者富蔵』などを発表し、大正期労働文学を代表する一人となった。ほかに自叙伝『職工物語』小説集『老残』などがある。








  一杯のウィスキーには一杯だけのイリュージョンが展開する。長い間、孤独でくらしてゐると、自然にひとりごとをいふ癖がつくものである。酔と共にいろいろの追懐や幻想が頭の中で展開をはじめた。
 過去を聯想するには、その時代、その時分にはやつた流行歌をうたつて見るに限る――日清談判破裂して……この歌を低吟すると霜やけの痒かった幼年時の冬が思ひ出される。赤い夕陽に照らされて……友は野末の石の下……と口ずさむと日露戦争中の哀愁が、そして野戦病院生活がまざまざと思ひ出される……勝つてくるぞと勇ましく……あゝいやだ……見よ東海の空あけて……いやだ……いやだ……もう御免だ……春が来た春が来た、どこに来た……これを低吟すると四歳と三歳の二児を育てるに苦労した時分の当時の姿が思ひ出されて油然たる悲哀が胸にこみあげて来る――お手々つないで野道をゆけば……山のお寺の鐘が鳴る、鴉と一しよに帰りませう……この歌をうたふと冬の寒夜に二児を抱いて寝た夜ごとの男やもめの自分の過去の姿が咽びたくなるほど哀れに思ひ浮ぶ……子らの唄、思ひ出深し四度の冬……。
 ウィスキーの酔ひで幻想と追憶がますます奔放に展開し出した。机代用のリンゴ箱の上の蝋燭の灯が静かに上下に揺いでゐる。それを眺めてゐると、遠からず来るであらう自分のお通夜のさまが聯想された。不吉な聯想であるが、どうせ来るべく決定的なものなら予習的に今からさうした場面に馴れ親しんで置くのもよからうと思つた。『死』よ、いつでもおいでなされて下さい……脳溢血でも心臓麻痺でもおいでなされませ……といふ気持になつた。さて、それでは告別式の弔詞を一つ……模擬告別式……。
 「――君は天才ではなかつたが、よく六十五歳の長きを生きた。君は貧乏といふものにどこまで堪へ得られるかを身を以て実験した。また孤立と孤独でどこまで生きてゆけるかを実験した人でもあつた。若し君が二十代で死んでゐたら一個の労働者で終つたことになつたらう。若しまた三十歳前後で死んでゐたら傷ましい一個の文学青年として終つたであらう。更にまた四十歳前後で死んでゐたら惜しむべき新進作家といはれたかも知れない。若しまた五十歳前後で死んでゐたら、女房に逃げられて二児を抱へながら悶死したといはれたであらう。更にまた、終戦前後に死んでゐたら栄養失調で倒れたといふことになつたであらう。然るに君はよく粗食欠食に耐へて今日まで生きながらへた。君の一生はまことに恵まれざる一生ではあつたが、今や二児は成人せり。君の使命は果たされたりといふべきか。以て瞑すべし。弔詞終り――」
 ゴーン……と遙かに除夜の鐘が聞えて来た――ゴーン……またゴーン……。
 おう私はまだ生きてゐた……と、ひとりでひやうたくれながらこの大晦日の夜を、ぐびりぐびりと独酌でのみ明かしたが、実をいふと悔恨の生涯に慟哭したい気持をまぎらすためであつた……。

 

(老残)



 

 2歳の時、母ヨシがチブスに罹って20歳で亡くなった。父林三郎は自暴自棄になり放埒な生活を繰り返したあげく出奔したため、母方の祖母サカと母の妹ヒサの手で育てられるも祖母の死にともって父の元に引き取られるなど悲惨な幼少期を送った嘉六は、小学校を中退したのち仕立屋、下駄屋の小僧、造船所見習工、佐世保や呉の海軍工廠職工などを経験する中で文学に深い興味を持つようになった。「奇蹟」同人となって堺利彦、宮嶋資夫らと交わるうちに出世作『煤煙の臭ひ』を発表。労働者の生活を写実的に描いて大正期労働文学を代表する一人となったが、昭和33年3月10日、腎臓疾患で東京池袋の矢野病院に入院、同月末に肝臓がんの宣告を受けていたが、入院して一ヶ月後の4月10日午後7時40分、永眠。




 

 二・二六事件の受刑者二十二士の墓や佐賀出身の詩人蒲原有明、動物文学の戸川幸夫の墓などがある元麻布の賢宗寺は佐賀鍋島藩歴代藩主の菩提寺で、宮地嘉六の死の翌日に東中野の高徳寺で営まれた通夜、14日の告別式のあと、先祖代々の墓所がある佐賀市敬島妙念寺に生母ヨシとともに嘉六は葬られたが、平成9年4月10日、嘉六三十九回目の忌に、長女の青木彌生子によって佐賀の妙念寺より郷土と縁深いこの寺に墓が移された。幸薄い家族であった父母と嘉六、長女彌生子の納まる「宮地嘉六累代之墓」、真っ直ぐに延びる石畳の両側に立ち並ぶ新旧の石碑は、墓の背後で色づき始めた樹木の葉間からこぼれおちる穏やかな晩秋の陽にチラチラと照らされ静まっている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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