川路柳虹 かわじ・りゅうこう(1888—1959)


 

本名=川路 誠(かわじ・まこと)
明治21年7月9日—昭和34年四月17日 
享年70歳(温容院滅与知徳柳虹大居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園10区1種14側12番


 
詩人・美術評論家。東京府生。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。明治40年『詩人』に『新詩四章』を発表、『塵溜』は口語体自由詩の先駆けとして評価された。43年処女詩集『路傍の花』を刊行。大正7年曙光詩社を創立。詩集『勝利』『曙の声』などがある。






 

隣の家の穀倉の裏手に 
臭い塵溜が蒸されたにほひ、
塵塚のうちにはこもる
いろいろの芥の臭み、
梅雨晴れの夕をながれ漂って
空はかつかと爛れてる。

塵溜の中には動く稲の蟲、浮蛾の卵、
また土を食む蚯蚓らが頭を擡げ、
徳利壜の虧片や紙の切れはしが腐れ蒸されて
小さい蚊は喚きながらに飛んでゆく。

そこにも絶えぬ苦しみの世界があって
呻くもの死するもの、秒刻に
かぎりも知れぬ生命の苦悶を現し、
闘ってゆく悲哀がさもあるらしく、
をりをりは悪臭にまじる蟲螻が
種々のをたけび、泣聲もきかれる。

その泣聲はどこまでも強い力で
重い空気を顫はして、また軈て、
暗くなる夕の底に消え沈む。
惨しい「運命」はただ悲しく
いく日いく夜もここにきて手辛く襲ふ。
塵溜の重い悲みを訴へて
蚊は群ってまた喚く。

(塵溜)

 


 

 わずか20歳の若き才能は旧態依然の詩壇に激震を走らせた。未だ七五調が大勢を占めていた時代に口語自由詩運動の先を走り、その一大革新をもって詩人としての強烈な印象を詩壇に与えた。その反動も凄まじいものがあった。破裂弾の如く絶え間なく飛んでくる非難の飛礫に、柳虹は帰宅するなり卒倒してしまったという逸話が残っているほどであった。
 川路柳虹は、以後もたゆみなく詩作、評論やフランス詩壇の紹介、美術批評に精力を注いでいった。少年期の三島由紀夫が詩作で師事、後進の指導にも惜しみない援助をさしのべて村野四郎や深尾須磨子らを育てたが、昭和34年4月17日、脳出血により70年の生涯をとじた。



 

 徳川幕府末期の有能な官吏、外国奉行も勤め武士道に殉じて自死した川路聖謨の曾孫にあたり、詩壇においては当然のこと、美術評論家としても名を遂げた川路柳虹。
 美術批評家であっただけに、自身の墓碑にもデザインセンスが行き届いているようだ。すっきりとツートンカラーに仕分けされた洋風墓に「川路家」の刻みがある。幾たびとなく過ぎ去っていった年月の、風は舞いのぼり、風は舞い降り、整然と清掃された聖域にも秋の気配は、しとしと雨と共に忍び寄っている。
 〈濁色の空 涙の色…… 林 落葉の音 土に蟲が鳴く、しきりに……〉と詩作した遠い日のように、光のない曇天の風音が此処にいる私の胸にも響いてきた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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