開高 健 かいこう・たけし(1930—1989)


 

本名=開高 健(かいこう・たけし)
昭和5年12月30日—平成元年12月9日 
享年五八歳 
神奈川県鎌倉市山ノ内453 円覚寺松嶺院(臨済宗)



小説家。大阪府生。大阪市立大学卒。寿屋(現サントリー)のPR誌『洋酒天国』の編集などを手がけていたが、『裸の王様』で昭和32年度芥川賞受賞。39年朝日新聞社の臨時特派員として戦時下のベトナムへ。『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』の三部作はこの戦争体験をもとに書かれている。『玉、砕ける』『耳の物語』などがある。






 

 どれほど変形した死者も眼さえひらいていなければ私をおびやかさない。砂にまみれたようなあの乾いた薄膜のしたからが瞳が私を凝視する。私の顔と肩をこえて背後を凝視している。露に濡れしとった畦道の草むらから貧しい父や母が私を眺め、空を眺め、網膜のうえを蝿がむずむずいま這いまわってもまばたかない。生きているものはうごく。かならずうごく。生者の眼と顔は一瞬に組まれては崩れ、崩れては組まれる陽炎である。眼は陽炎のなかの透期な部分にすぎない。それすら陽炎とともに一瞬ごとに輝いては翳る。生者に私は眼を見ることがない。限は二つの皮の裂けめにできたうつろいやすく、ゆれやすい空である。私が凝視すればきっとそれはうごく。私も凝視されればうごく。倦むか選ぶかで私はうごく。ときたま私はお面の穴のなかの瞳を見て凄惨さにたじろぐことがあるが、それすら輝いては翳り、射してはしりぞく。笑い、また、閉じる。たった一枚の紙をかぷせるかかぶせないかで一瞬に全貌が変ってしまうとしても、やっぱり面はうごきやまない生の流れのなかの一塊の石にすぎない。

(輝ける闇)

 


 

 〈人間には味のわからない二つの水がある。一つは生まれたとき、はじめてガーゼに含ませられて唇を濡らしてもらう水の味、もう一つは末期の水である。〉——開高健の言葉だ。
 朝日新聞社の臨時特派員・従軍記者としてベトナム戦争に関わったこともあった。釣りに熱中して世界中を旅し、アマゾン川まで足をのばしたこともあった。あたたかくて、ナイーブな神経と激しく渦巻く血潮、あの頑丈な体躯に包まれたそれらの人間性を私は非常に好んだ。
 平成元年12月9日、食道腫瘍に肺炎を併発、東京・三田済生会中央病院で太綱のような光輝をのこして慌ただしく逝ってしまった開高健を、当時拠り所を見失っていた私は、ただ暗然と見送るしかなかった。



 

 時の執権北条時宗公が、二度にわたる蒙古軍との戦役に殉じた彼此両軍の死者の菩提を弔うために建立したという、円覚寺塔頭松嶺院の墓地に開高健の墓はある。
 あたかも天空の城跡のような崖上にあった墓地のなかに、あの風貌に似た大きく揺るぎのない墓碑を、鮮やかな供花とワイン樽、ワイングラスにボトルがとりまき、なんとも賑やかな墓前であった。開高健の死の5年後に茅ヶ崎の踏切で鉄道自殺をした娘の道子(エッセイスト)、平成12年1月19日、夫と娘に先立たれ一人淋しく病死した妻で詩人の牧洋子もともにいまは眠っている。
 埋められぬ夫婦間の溝や娘の苦悩、深い夢は想い起こすことさえ哀しい。北鎌倉駅に近い天に開けたこの丘の空はもう梅雨に入っていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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