加能作次郎 かのう・さくじろう(1885—1941)


 

本名=加能作次郎(かのう・さくじろう)
明治18年1月10日—昭和16年8月5日 
享年56歳(釈慈忍)
石川県羽咋市志賀町西海風無チ14甲 萬福寺(浄土真宗)



小説家。石川県生。早稲田大学卒。『博文館』に入社、『文章世界』の主筆として翻訳・文芸時評を発表する傍ら、大正7年自伝小説『世の中へ』で文壇に認められる。長編『若き日』『幸福へ』などを発表。昭和16年『乳の匂ひ』を発表。『厄年』『これから』などがある。






 

 舟は岸を離れ、入江を出て、だんだん村から遠ざかった。海は穏かで、正午頃の残暑の陽光がじりじりと背に熱かった。顧みると、海岸からすぐ高い崖の様になつた急な傾斜面の凹みに、周圍を木立に包まれた百戸足らずの家が、まるで小石を掴んで置いた様にかたまって居た。其の上へ日光が直射して、所々の白壁などがきらきら光って居た。小じんまりとした美しい晝の様だった。
 私の眼には先づ自分の家が指點された。私は誰も居ない窒っぽの家の中を思った。どの部屋もの光景が隅々までありありと見えた。廣間の、夏は塞いである爐の蓋の上に小猫が眠って居るのまで見えた。此の閑かな空っぽの家を、奥の間の佛壇が留守して居る様に思はれた。私の眼には佛檀の扉の開かれて居る様も見えた。中扉の青い紗を透して一番奥の掛軸の阿弥陀如來の像や、その前に供へた御飯や、花瓶や、亀の上に鶴の乗って居る蝋燭立てや、輪燈やが眼に入った。それらの真鍮製の佛具は、つい二三目前お盆だといふので私が磨いたので、ぴかぴか光って居る----。
私は此の佛檀の中に、幾つも生きた霊が住って居る様に思った。そして、今誰も居ないのを幸にお伽噺の中などに出て來る小鬼の様な恰好をして、廣間や網戸や勝手などへ出て來て、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら遊んで居る様に思はれた。そして其の様子がありありと眼に映った。

(世の中へ)

 


 

 加能作次郎は昭和16年8月5日、『乳の匂い』を校正中にクルップ性急性肺炎のため死去した。発病してからわずか数日後のことであった。
 〈大正時代の作家達は、その芸で、その把握力で、又その人生観で、それぞれ華やかな仕事をし、人々の眼をそばだたしめたが、その片隅で加能君は若し気がつく人でなければその前を通り過ぎて行ってしまひそうな、地味な、小さな、ケレンのない仕事をした。(略)併しひと度気がついて、それをぢっと味はって見る人があったら、その人はこの地味な作家の素裸かで何の飾りもない姿に、しみじみとした美を感ずるであらう。舌にとろりとするやうな滋味を感ずるであらう〉と広津和郎が評した作家の死は、不運で儚いものだった。



 

 13歳で高等小学校を中途退学し、京都に出奔して以来、故郷はつねに作家の原稿用紙の上に甦った。
 石川県羽咋郡西海村風戸(現・羽咋市)、能登半島のうらぶれた一漁村。ある初冬の日、わずか二、三人の乗客を乗せたバスは海岸沿いを黙々と走る。松本清張の『ゼロの焦点』で一躍有名になった能登金剛に沿って、厳門も見える。朝日を浴びた穏やかな海は波頭を光らせ、緩いカーブを描いて小さな漁港に入り込んだ。
 菩提寺の裏に肩を寄せ合う新旧様々な墓碑、新宅の墓として新しく建てられた「加能家之墓」の隣に、一際小さく、一際古ずんだ斑模様の「南無阿弥陀佛」碑。紛れもなく故郷とつながった「美しき作家」、加能作次郎のすべてがここに凝縮していた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   海音寺潮五郎

   開高 健

   葛西善蔵

   梶井基次郎

   柏原兵三

   片岡鉄兵

   片山広子

   加藤周一

   加藤楸邨

   角川源義

   金子薫園

   金子兜太

   金子みすゞ

   金子光晴

   金子洋文

   加能作次郎

   上司小剣

   嘉村磯多

   亀井勝一郎

   香山 滋

   唐木順三

   河井酔茗

   川上三太郎

   河上徹太郎

   河上 肇

   川上眉山

   河口慧海

   川口松太郎

   川崎長太郎

   川路柳虹

   川田 順

   河野裕子

   川端康成

   河東碧梧桐

   管野須賀子

   上林 暁

   蒲原有明