蒲原有明 かんばら・ありあけ(1875—1952)


 

本名=蒲原隼雄(かんばら・はやお)
明治8年3月15日(戸籍上は明治9年3月15日)—昭和27年2月3日 
享年76歳(龍徳院宏文有明居士)
東京都港区元麻布1丁目2–12 賢宗寺(曹洞宗)



詩人。東京府生。国民英学会卒。明治31年小説『大慈悲』が読売新聞の懸賞に入選、のち詩人を志す。35年処女詩集『草わかば』、翌年『独絃哀歌』を刊行、注目された。41年『有明集』を刊行、象徴詩人として才能を示した。『春鳥集』などがある。






 

日の落穂、月のしたたり、
残りたる、誰か味ひ、
こぼれたる、誰かひろひし、
かくて世は過ぎてもゆくか。
あなあはれ、日の階段を、
月の宮---にほひの奥を、
かくて将た蹈めりといふか、
たはやすく誰か答へむ。
過ぎ去りて、われ人知らぬ
束の間や、そのひまびまは、
光をば闇に刻みて
音もなく滅えてはゆけど、
やしなひのこれやその露、美稻のたねにこそあれ、---
そを棄てて運命の啓示、
星領らす鑰を得むとか。
えしれざる刹那のゆくヘ
いづこぞと誰か定めむ、
犠牲の身を淵にしづめて
いかばかりたづねわぶとも、
底ふかく黒暗とざし、
ひとつ火の影にも遇はじ。
痛きかな、これをおもへば
古夢の痍こそ消えね、
永劫よ、脊に負ふつばさ、
彩羽もてしばしは掩へ、
新しきいのちのほとり、
あふれちる雫むすばむ。

(日のおちぼ)

 


 

 東京府麹町区隼町(現・千代田区麹町)に生まれたので隼雄と名付けられた。八歳の時に母が離婚。継母に育てられ、孤独癖のある淋しい子供時代をおくった。
 初めは小説家として出発したのであったが、のち詩作に移り、才能を遺憾なく発揮し、日本近代象徴詩人として薄田泣菫と並び称され、一時代の先頭に立った。
 後に続く北原白秋や木下杢太郎らに大きな影響を与えた蒲原有明は、昭和27年2月3日午前5時5分、急性肺炎のため鎌倉二階堂の自宅で死去した。若き日から崇拝し、傾倒した英詩人D.G.ロセッティの詩は完訳する事は叶わなかったが、没後『ロセッティ詩抄』として刊行された。


 

 佐賀・鍋島藩初代藩主鍋島勝茂が幼くして亡くなった息子を弔うために創建した賢宗寺は、麻布十番の繁華な町筋から外れ、裏道の坂をのぼりきった高台にある。
 鍋島家の五輪塔や二・二六事件受刑者、七里ヶ浜沖でボート遭難事故死した逗子開成中学校生徒の墓もある。当然のことながら佐賀県につながる関係者の墓も多くあり、宮地嘉六や戸川幸夫なども眠っている。
 ——この寺の鐘撞堂奥路地、時代を経て煤けた墓石の並びを見やりながら歩むと、銅板に「蒲原家累代之墓」の文字を刻み、白御影の石面に嵌め込んだ瀟洒な碑。三周忌に墓石の右側面に刻まれた野田宇太郎撰文があった。
 ——〈象徴詩人として日本文学の発展に寄與すること偉大なり〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   海音寺潮五郎

   開高 健

   葛西善蔵

   梶井基次郎

   柏原兵三

   片岡鉄兵

   片山広子

   加藤周一

   加藤楸邨

   角川源義

   金子薫園

   金子兜太

   金子みすゞ

   金子光晴

   金子洋文

   加能作次郎

   上司小剣

   嘉村磯多

   亀井勝一郎

   香山 滋

   唐木順三

   河井酔茗

   川上三太郎

   河上徹太郎

   河上 肇

   川上眉山

   河口慧海

   川口松太郎

   川崎長太郎

   川路柳虹

   川田 順

   河野裕子

   川端康成

   河東碧梧桐

   管野須賀子

   上林 暁

   蒲原有明