柏原兵三 かしわばら・ひょうぞう(1933—1972)


 

本名=柏原兵三(かしわばら・ひょうぞう)
昭和8年11月10日—昭和47年2月13日 
享年38歳(文昌院釈兵道)
東京都台東区上野桜木1丁目16–15 寛永寺(天台宗)第一霊園


 
小説家・独文学者。千葉県生。東京大学卒。ドイツ文学者として明治学院大学、東京藝術大学でドイツ語を教えた。昭和38年〜40年ベルリンに留学。『徳山道助の帰郷』で42年度芥川賞を受賞。短篇として『クラクフまで』『贈り物』、長篇に『長い道』『仮りの栖』『ベルリン漂泊』などがある。








 

 ある日の夕食の席で、徳山道助はまたもや愚痴をこぼした。ぜひ帰郷なさるようにと娘が勧めてくれたのに対して、「落ちぶれて帰りたくないのう」といったのである。そしてひとくさり愚痴を並べたのである。彼がまだ世に時めいていた時、どんなに故郷はあげて彼の帰郷を歓迎してくれたものであったか。たとえば彼が陸軍省の砲兵課長で帰郷した時はどんなであったか。(中略)当時は有難迷惑に思ったものだったが、しかし内心正直なところやはり悪い気持はしなかったものだ。ところが人間老いぼれ、もはや官位なく、力なく、金もないとなったならは、これ程哀れなものはない、人は現金なもので見向きもしないものなのだ……
 道助はこれらのことを、愚痴としてだけではなくて、世間とはそんなものなのだという戒めの一つとして、孫たちにいったつもりであった。ところが孫たちはまた例の祖父の愚痴が始まったとばかり、耳を傾けて聞こうとしないだけでなく、満などは祖父に聞こえないように、独り言のように、しかし憤然と、
 「僕はそんな風に錦を飾って帰る人だけを歓迎するような郷里なら、錦を飾れる時でも帰らないな」と呟いた。
 道助は砲兵であったため、若い時から耳をやられ、耳がひどく遠かった。しかし悪口とか批評などは奇妙によく聞えることがあったのである。しかしそんな時でも彼は聞えなかったようなふりをした。今も道助には孫の満の口にした言葉が意外によく聞えた。そして彼はその言葉を己れの心の深い部分が嚥み込んだのを意識した。

(徳山道助の帰郷)

 


 

 昭和19年4月、柏原兵三は父兵太郎の故郷、富山県下新川郡上原村(現・下新川郡入善町)に疎開、上原小学校に転入した。終戦後の9月に帰京するまで過ごした少年の日の辛い体験が、『長い道』として描かれることとなった。のちに藤子不二雄Aが漫画化、篠田正浩監督によって映画にもなった。主題歌『少年時代』は井上陽水が歌った。
 ——戦災に焼け残った本郷西片町の柏原家からは、白山通りの向こうに小石川の植物園や家並みが望んで見えた。狭い庭を抱き込むように建つ木造二階屋の古びたその屋敷で、38歳3か月の彼は死んだ。昭和47年2月13日未明、死因脳溢血。30歳過ぎからの本能性高血圧の結末であった。



 

 柏原兵三は平易な文体と現実に調和した人間観をもって家族や友人を描いてきた私小説の系譜を踏む作家であった。
 上野公園の北端、上野博物館裏に広がるこの霊園の「柏原家之墓」には、父兵太郎、長兄兵一、母美代子がともに眠っている。四代将軍徳川家綱の厳有院霊廟のかなり高い石垣を背後にした墓碑に充分すぎる冬陽はそそがれ、善意に満ちた作風のように温和な風が流れ出てきた。あと数日で27回目の命日が来る——。
 富山県入善町の廃校になった上原小学校跡地の上原公園には『長い道』の一節が刻まれた文学碑が建てられ、兵三が上原小学校に通学した長い道は舗装されて、今も公園前から海岸に向かって真っ直ぐに伸びている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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