江藤 淳 えとう・じゅん(1932—1999)


 

本名=江頭淳夫(えがしら・あつお)
昭和7年12月25日—平成11年7月21日 
享年66歳 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ21号15側14番 





評論家。東京府生。慶應義塾大学卒。小林秀雄に続く文芸批評の第一人者とされた。大学在学中に『夏目漱石』を著し注目され、大江健三郎などとともに戦後世代の旗手とされた。『成熟と喪失』『小林秀雄』『漱石とその時代』『妻と私』などがある。




 
 


 

 一人の作家が生き、そして死んだという事実が、重苦しくてこでも動かぬもので、その事実のあたえる戦慄が、なまはんかな知的操作を拒絶するものだということは、一つの教訓をぼくらにあたえる。つまり、ぼくらにとって重要なことは頭の切れ味を磨くことでもなければ、整理統合の術に熟達することでもなく、ぼくらが現に生き、やがて死ぬ、というつまらぬ事実以外にはないというのがそれであって、美の感覚などは大方ここにつながっている。美しいと思われる絵を観、音楽を聴き、詩を口ずさむ時、人の感じるあの哀しみのような感情は、いわば、一瞬のうちに自分の生と死とを啓示されるような驚きから生れるといってよい。そして、やがてその生涯を閉じる作家の晩年に立って、彼の半生を展望する時にぼくらの精神に生ずるある種の緊張——仮りにそれを悲哀と呼ぶならばその悲哀の性質もこの驚きに似ている。ぼくらの生と死が、作家の生涯の重々しい時間に触れてはね返って来る。この人間はこのように生きて来た。だとすれば、自分はどうするのか?  
                          

(夏目漱石)作家と批評)

 


 

 小林秀雄亡き後をつぎ、文芸評論の旗手として歩んできた。前年の秋、最愛の慶子夫人をがんで失い、妻との闘病生活を綴った『妻と私』を発表する。自身も脳梗塞の後遺症で不自由を強いられていた。平成11年7月21日この日の夕刻、鎌倉を激しい雷雨がおそった。ただ一人歩くことの虚しさ、断念、出会い育んだ運命はもう還らない。すべてのものを洗い流す雨音とともに、誘い落とされるように自宅の浴室でカミソリによって手首を切り、江藤淳は自裁した。
 〈心身の不自由が進み、病苦堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒ととせられよ。〉



 

 〈ぼくらの生と死が、作家の生涯の重々しい時間に触れてはね返ってくる。この人間はこのように生きて来た。だとすれば、自分はどうするのか?〉。
 三島由紀夫や川端康成の自殺に対して一種冷淡とも思えるほどの批評を下した江藤淳も、遂には自らの命を絶つことになった。その行為に対して、前後左右から様々な言質が放たれたが。祥月命日を過ぎたばかりの霊園の南寄り、緩やかな斜面に作られた「江頭家之墓」にあるその哀しさ。
 永遠を追いかける旅人のように果てしなく歩きつづけることはもうやめよう。ここは始めも終わりもないところだ。激暑の合間、時おりの涼風が通る細道に、墨色の碑に映りこんだ一盛りの白い蘭。ささやかな匂い。墓のうしろに隠れるように小さな墓誌。江頭淳夫と室慶子の没年月日、享年が並び記されてある。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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